2015年11月29日日曜日

安芸・亀居城(広島県大竹市小方)

安芸・亀居城(あき・かめいじょう)

●所在地 広島県大竹市小方
●別名 小方城
●形態 平山城
●築城期 慶長8年(1603)
●築城者 福島正則
●遺構 郭・堀切・石垣・井戸
●指定 大竹市指定史跡
●登城日 2008年4月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 亀居城を訪れたのは2008年で、7年も前になる。当城は本ブログのテーマとしているいわゆる「山城」ではないため、おそらくアップするのを控えていたものと思う。
【写真左】亀居城
 当城は下段に示すように、城主福島正則にとって不運な歴史を持つ城址だが、遺構として残った石垣には見るべきものがある。

 ただ、後年(近代か)相当な修復がなされているようだが、具体的にどの部分なのか管理人は把握してない。


 もっとも、写した写真を見てみると、桜見物が目的のような絵柄が大半となっている。そんなわけで、遺構の方はあまり期待しないでいただきたい。

 なお、写真の日付には2007年1月1日と表示されているが、これは管理人の設定上の不手際で、実際に登城したのは2008年の4月11日である。
【写真左】亀居公園案内図
 現地に設置してある案内図に、管理人が追記したもので、今では市民の憩いの場として公園となっている。

 左図の赤字で示したところは現在消滅しているが、当時「妙見丸」と「鐘の丸」という郭があった。


現地の説明板
“市指定史跡 亀居城跡
  慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国8ヶ国の内、防長2ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備2ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。

 広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。
 このとき小方の城将には、甥の福島伯耆(1万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
【写真左】亀居城・その1
 7年も前のことなので、写真の箇所がどこなのか全く思い出せない。







 5年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島正則は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。

 海に面したこの城の規模は、面積10町歩(992アール)、周囲18町(1,960メートル)におよび、山頂に本丸・これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸・妙見丸があって、合計11台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が巡らされていたといわれています。
 なお、この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。

 かくして亀居城は、広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16年(1611)、この城は取り壊される運命となりました。

 大竹市教育委員会”
【写真左】亀居城・その2
 本丸付近か











福島正則

 築城者福島正則は、賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)でも紹介したように、賤ヶ岳の戦で勇名をはせ、加藤清正らとのちに「賤ヶ岳の七本槍」の1人とも称された武将である。文字通り秀吉を支えた人物で、秀吉亡き後、次第に石田三成との不仲が決定的となり、関ヶ原では東軍(家康方)についた。
【写真左】亀居城・その3













 新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)や、千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)でも述べたように、秀吉に対する熱い忠義が家臣にも伝わったらしく、有能な家臣も多く仕えた。
【写真左】亀居城・その4













 徳川幕府が彼に対し執拗なまでの圧力をかけていたのは豊臣恩顧の家臣で、しかも彼の母が秀吉の叔母という間柄という濃い親族であったことも理由だろうが、やはり百戦錬磨の実績を誇った武将であり、家康が亡くなったあと、幕府としては清正と同じく、もっとも脅威を感じた人物であったことが大きな理由であろう。
【写真左】石垣の刻印
 亀居城の特徴の一つとされるのがこの刻印である。

現地説明板より

“亀居城の石垣の刻印(その1)

 城は「建てる」とはいわずに「築く」といいます。城の威力は建物よりも、石垣の要害に負うところが大きいからです。
 その石垣の石に、刻印を付けたものが慶長~寛永(1603~1642)の頃の築城に、著しく見受けられます。

 刻印の目的は、種々考えられますが、亀居城の場合は、石の出荷を厳しく督励するために仕事を請けたグループごとに、目印のマークを彫りつけさしたものと思われます。

 石垣は、花崗岩で築かれていますが、山そのものは、堆積岩(水成岩=玖珂層群)で出来ています。
 この石垣のすべての石が、島や海岸からばくだいな労力で運び上げられたものです。
 亀居城の刻印は、42種類-264個が発見されており、このうち広島城の刻印と同型のものが、21種類もあります。
 このことは、両城とも福島正則が普請したという、一つのあかしとなります。

 「三の丸」の刻印は左記のように16種類・54個あります。
 ※印は広島城と同じ型です。

    大竹市教育員会”
【写真左】亀居城・その5
【写真左】亀居城・その6
【写真左】亀居城・その7
 奥に見えるのは、広島湾(安芸灘)に突出した大竹市の街並みと工場地帯。
【写真左】亀居城・その8
 左に見えるのは厳島と思われる。
【写真左】亀居城・その9
【写真左】亀居城・その10

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