大平城(おおひらじょう)
●所在地 福岡県築上郡築上町大字寒田
●高さ 480m(比高250m)
●築城期 不明
●築城者 宇都宮氏(城井氏)
●城主 宇都宮氏
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2014年10月19日
◆解説(参考サイト『築上町歴史散歩HP』、『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
大平城は前稿城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)からおよそ4キロほど北東に向かった位置に所在する。
【写真左】大平城遠望
登城口付近に設置された説明板に添付された写真で、北側から見たもの。
写真の右側に向かうと城井ノ上城に繋がる。
なお、大平城の東方には「求菩提(くぼて)山(標高782m)」が聳えているが、この山も英彦山と同じく、往古修験道の山として知られ、福岡・大分の県境に位置する。
現地の説明板より
“大平城址(おひらじょうし)
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州国分けで豊前六郡は黒田孝高に与えられ、城井重房は伊予国転封を命ぜられた。しかし鎮房はこれに従わず、一時は赤郷柿原(あかごうかきばる)に身を寄せたが、大村助右衛門からここ大平城を奪還し、黒田氏に反乱をおこした。
ここは越崎平(えっさきべら)といい、本丸、二ノ丸、馬場を備えた宇都宮後期の山城で、城台、石蔵、水の手などの地名が残る。
築城町・築城町教育委員会”
【写真左】大平城縄張図
大平城は全周囲が切り立つ形の山に構築されている。
小規模な山城だが、主郭付近とは別に南側にも頂部が控えているが、この箇所も櫓的な機能を有していたのかもしれない。
秀吉の島津征伐と宇都宮氏の動き
秀吉が九州征伐を行った際、宇都宮氏は秀吉に対し積極的な態度を示していない。それまで宇都宮氏は大友氏に属していたが、大友氏の衰退によって同氏を離れ、敵対していた島津氏に秋月氏らとともについていた。
その後、秀吉の圧倒的な大軍を率いて九州に入ってくると、秋月氏は直ちに秀吉に恭順を示した。宇都宮氏も一応与同の態度を示したが、鎮房自身は病気を理由に息子朝房を代理に立てて、わずかな兵を出したにすぎなかった。
【写真左】登城口
大平城を囲むように県道「犀川豊前線」が走っているが、この道は急坂急カーブが多く、この日東側の豊前市から来たため、登城口を見過ごしてしまい、途中でUターンしてたどり着いた。
ここから登り始めるが、しょっぱなから急傾斜の直登となる。
天正15年(1587)5月8日、島津義久は剃髪して秀吉に降伏した。1ヶ月後の6月7日、秀吉は筑前筥崎(福岡市)で、諸将を集め、九州諸大名の封域を定めた。これがいわゆる九州国分けである。
【写真左】眼下に犀川豊前線を見る
登城途中、眼下に犀川豊前線が見える。
この九州国分けによって豊前六郡は黒田官兵衛に与えられ、鎮房はそれによって押し出された形となった。
その結果、鎮房に対して発給された朱印状には伊予に転封という断が記された。その内容は、驚くことに今治で12万石と伝えられている。転封とはいえ破格の加増石高である。
このため、別の説では伊予でなく、同じ九州の上筑後に200町というものがあるが、常識的にみればこちら(後者)の方が事実だろう。しかし、どちらにしても鎮房はこれを拒んだ。
【写真左】東側の郭段
尾根筋を直登していくと、やがて傾斜は緩くなり、東側尾根に配置された郭段が見えだす。
ここから主郭までおよそ100mほどの距離になるが、尾根幅はさほど変化はなく、このまま主郭に向かう。
宇都宮氏にとって、豊前は鎌倉時代から400年もの長い間営々と築き上げた土地である。名族としての誇りもあったのだろう。
秀吉から嫡男朝房宛てに発給されたこの朱印状を鎮房は突き返した。このため、秀吉の逆鱗に触れることなり、宇都宮氏一族の処遇は宙に浮いたままになった。
【写真左】切崖
これも東側郭段の途中から見たもので、尾根の北側は険阻な傾斜となっている。
佐々成政の検地と肥後国衆
ところで、宇都宮氏に発給された秀吉による朱印状は、同氏だけでなく、他の在地国人領主たちに対しても行われている。その内容は、九州征伐の際、秀吉に途中から協力した者も含め、概ねその石高は減じられたものの、旧来の領地の安堵を保証したものだったといわれている。
特に、肥後国については、この朱印状は島津氏討伐を急ぐあまり、その通過点である当地の国衆(国人領主等)に対しては、無用な混乱を避けるため発給されたものだった。
【写真左】東尾根郭群の一段下がった箇所
東尾根の郭群は尾根軸線とは別に、南側の方にも細長い郭が付属している。
因みに、この尾根と西側の尾根に囲まれた谷はやや緩やかな傾斜となっている。
肥後国は秀吉が九州討伐に入る直前に、島津氏が占領下に置いていたが、もともとこの地域は一人の戦国大名による統治ではなく、50から60前後の中小の地侍的な国人が地域ごとに独自に治めていた。
そのため、彼らは島津氏が秀吉に降服した段階でも、件の朱印状によって所領安堵されたものと理解していた。
【写真左】主郭
三方の尾根が交差する位置に構築されているが、全体に西方向の尾根にシフトして延びている。
長径50m×短径20mの規模
ここから先ず西の尾根に延びる郭群に向かう。
天正15年(1587)秀吉の国分けが終わった6月末、秀吉の命を受けた佐々成政が隈本城に入った。
肥後国に佐々成政が赴いたのは、前述したように中小の国衆が治めている状況を整理し、最終的には地主的役割をもった彼ら国衆を廃止する目的があった。さらには肥後国衆たちは、成政の家臣として仕えなければならないという計画があったとされている。
そして、肥後国衆の廃止の先には、「本百姓体制」という制度が描かれ、これらを具体的にならしめるために行われたのが「代官」佐々成政による検地だった。いわずもがな、この検地は秀吉の「太閤検地」のいわば九州版ともいえるものである。
【写真左】西尾根の郭群
主郭から西に降っていくと、次第に尾根幅が狭くなるが、長さ約50mほどの郭が連なる。
写真は、西端部から主郭を見上げたもの。
肥後国衆の反乱と宇都宮氏
秀吉によるこうした検地の内容が次第に分かるにつれ、肥後国の国衆たちに不安と動揺が広がった。
そして、先祖代々受け継いできた国衆たちにとって、土地を手放さざるを得ない状況が分かりかけると、一気にその不満は成政に向けられた。この年の8月に既に一部地域で武装蜂起があったとされるから、成政入国からわずか2か月の間に起きたことになる。
【写真左】土塁
西尾根郭群には北側に高さ約2mほどの土塁が残る。
北側(道路側)は大分崩落しているが、主郭西端部を始点として約30mほどの長さの規模を持つ。
さて、この年(天正15年)こうした肥後国による反乱が勃発してから約2か月後の10月、豊前宇都宮鎮房らは前稿でも述べたように、転封による不服を動機として蜂起している。
宇都宮氏らのこうした反乱も、上述したような肥後国衆らの蜂起がきっかけの一つとも言われている。
【写真左】南側の郭段
東西尾根の郭群に比べて、南側の方は3,4段の小さな郭があるのみで、長さは30m弱と短い。
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●遺構 郭・土塁等
●登城日 2014年10月19日
◆解説(参考サイト『築上町歴史散歩HP』、『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
大平城は前稿城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)からおよそ4キロほど北東に向かった位置に所在する。
【写真左】大平城遠望
登城口付近に設置された説明板に添付された写真で、北側から見たもの。
写真の右側に向かうと城井ノ上城に繋がる。
なお、大平城の東方には「求菩提(くぼて)山(標高782m)」が聳えているが、この山も英彦山と同じく、往古修験道の山として知られ、福岡・大分の県境に位置する。
現地の説明板より
“大平城址(おひらじょうし)
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州国分けで豊前六郡は黒田孝高に与えられ、城井重房は伊予国転封を命ぜられた。しかし鎮房はこれに従わず、一時は赤郷柿原(あかごうかきばる)に身を寄せたが、大村助右衛門からここ大平城を奪還し、黒田氏に反乱をおこした。
ここは越崎平(えっさきべら)といい、本丸、二ノ丸、馬場を備えた宇都宮後期の山城で、城台、石蔵、水の手などの地名が残る。
築城町・築城町教育委員会”
【写真左】大平城縄張図
大平城は全周囲が切り立つ形の山に構築されている。
小規模な山城だが、主郭付近とは別に南側にも頂部が控えているが、この箇所も櫓的な機能を有していたのかもしれない。
秀吉の島津征伐と宇都宮氏の動き
秀吉が九州征伐を行った際、宇都宮氏は秀吉に対し積極的な態度を示していない。それまで宇都宮氏は大友氏に属していたが、大友氏の衰退によって同氏を離れ、敵対していた島津氏に秋月氏らとともについていた。
その後、秀吉の圧倒的な大軍を率いて九州に入ってくると、秋月氏は直ちに秀吉に恭順を示した。宇都宮氏も一応与同の態度を示したが、鎮房自身は病気を理由に息子朝房を代理に立てて、わずかな兵を出したにすぎなかった。
【写真左】登城口
大平城を囲むように県道「犀川豊前線」が走っているが、この道は急坂急カーブが多く、この日東側の豊前市から来たため、登城口を見過ごしてしまい、途中でUターンしてたどり着いた。
ここから登り始めるが、しょっぱなから急傾斜の直登となる。
天正15年(1587)5月8日、島津義久は剃髪して秀吉に降伏した。1ヶ月後の6月7日、秀吉は筑前筥崎(福岡市)で、諸将を集め、九州諸大名の封域を定めた。これがいわゆる九州国分けである。
【写真左】眼下に犀川豊前線を見る
登城途中、眼下に犀川豊前線が見える。
この九州国分けによって豊前六郡は黒田官兵衛に与えられ、鎮房はそれによって押し出された形となった。
その結果、鎮房に対して発給された朱印状には伊予に転封という断が記された。その内容は、驚くことに今治で12万石と伝えられている。転封とはいえ破格の加増石高である。
このため、別の説では伊予でなく、同じ九州の上筑後に200町というものがあるが、常識的にみればこちら(後者)の方が事実だろう。しかし、どちらにしても鎮房はこれを拒んだ。
【写真左】東側の郭段
尾根筋を直登していくと、やがて傾斜は緩くなり、東側尾根に配置された郭段が見えだす。
ここから主郭までおよそ100mほどの距離になるが、尾根幅はさほど変化はなく、このまま主郭に向かう。
宇都宮氏にとって、豊前は鎌倉時代から400年もの長い間営々と築き上げた土地である。名族としての誇りもあったのだろう。
秀吉から嫡男朝房宛てに発給されたこの朱印状を鎮房は突き返した。このため、秀吉の逆鱗に触れることなり、宇都宮氏一族の処遇は宙に浮いたままになった。
【写真左】切崖
これも東側郭段の途中から見たもので、尾根の北側は険阻な傾斜となっている。
佐々成政の検地と肥後国衆
ところで、宇都宮氏に発給された秀吉による朱印状は、同氏だけでなく、他の在地国人領主たちに対しても行われている。その内容は、九州征伐の際、秀吉に途中から協力した者も含め、概ねその石高は減じられたものの、旧来の領地の安堵を保証したものだったといわれている。
特に、肥後国については、この朱印状は島津氏討伐を急ぐあまり、その通過点である当地の国衆(国人領主等)に対しては、無用な混乱を避けるため発給されたものだった。
【写真左】東尾根郭群の一段下がった箇所
東尾根の郭群は尾根軸線とは別に、南側の方にも細長い郭が付属している。
因みに、この尾根と西側の尾根に囲まれた谷はやや緩やかな傾斜となっている。
肥後国は秀吉が九州討伐に入る直前に、島津氏が占領下に置いていたが、もともとこの地域は一人の戦国大名による統治ではなく、50から60前後の中小の地侍的な国人が地域ごとに独自に治めていた。
そのため、彼らは島津氏が秀吉に降服した段階でも、件の朱印状によって所領安堵されたものと理解していた。
【写真左】主郭
三方の尾根が交差する位置に構築されているが、全体に西方向の尾根にシフトして延びている。
長径50m×短径20mの規模
ここから先ず西の尾根に延びる郭群に向かう。
天正15年(1587)秀吉の国分けが終わった6月末、秀吉の命を受けた佐々成政が隈本城に入った。
肥後国に佐々成政が赴いたのは、前述したように中小の国衆が治めている状況を整理し、最終的には地主的役割をもった彼ら国衆を廃止する目的があった。さらには肥後国衆たちは、成政の家臣として仕えなければならないという計画があったとされている。
そして、肥後国衆の廃止の先には、「本百姓体制」という制度が描かれ、これらを具体的にならしめるために行われたのが「代官」佐々成政による検地だった。いわずもがな、この検地は秀吉の「太閤検地」のいわば九州版ともいえるものである。
【写真左】西尾根の郭群
主郭から西に降っていくと、次第に尾根幅が狭くなるが、長さ約50mほどの郭が連なる。
写真は、西端部から主郭を見上げたもの。
肥後国衆の反乱と宇都宮氏
秀吉によるこうした検地の内容が次第に分かるにつれ、肥後国の国衆たちに不安と動揺が広がった。
そして、先祖代々受け継いできた国衆たちにとって、土地を手放さざるを得ない状況が分かりかけると、一気にその不満は成政に向けられた。この年の8月に既に一部地域で武装蜂起があったとされるから、成政入国からわずか2か月の間に起きたことになる。
【写真左】土塁
西尾根郭群には北側に高さ約2mほどの土塁が残る。
北側(道路側)は大分崩落しているが、主郭西端部を始点として約30mほどの長さの規模を持つ。
さて、この年(天正15年)こうした肥後国による反乱が勃発してから約2か月後の10月、豊前宇都宮鎮房らは前稿でも述べたように、転封による不服を動機として蜂起している。
宇都宮氏らのこうした反乱も、上述したような肥後国衆らの蜂起がきっかけの一つとも言われている。
【写真左】南側の郭段
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