温湯城(ぬくゆじょう)・その3
◆解説(参考文献『石見町誌』等)
今稿では温湯城陥落と、その後の動きについて触れておきたい。
【写真左】温湯城遠望
手前が江川で、温湯城の麓から流れてきた会下川が合流する。
写真右が下流方向で、この川を下ると、後述する日和(邑南町)の「日和城(金比羅山城)」に繋がる。
温湯城の陥落と毛利氏の伸張
弘治3年(1557)、吉川元春は小笠原討伐のため、上出羽の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)に入城し、翌年になると元就自らも当地に赴き、本陣を置いた。このとき付き随った主な部将は、次の通りである。
- 安芸 熊谷信直・天野元定
- 備後 杉原盛重
- 石見 出羽元実・福屋隆兼・益田藤兼・佐波秀連
これに対し、小笠原氏を支援していた尼子方は、出雲佐田町の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)は、尼子晴久の部将宇山久信・湯惟宗・牛尾幸清とともに、下出羽の別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)を前線基地として、小笠原氏の領内である高見・八色石・布施・村之郷付近に布陣した。
2月27日、毛利方は阿須那方面から布施の攻撃によって、小笠原陣営を分断、同氏の食糧基地でもあった村之郷などは元春によって占拠された。この勢いをかって、小笠原氏の本城・温湯城攻撃を攻撃しようとしたが、元就がそれを一旦制止させた。
それは、当時小笠原方で武勇に優れた日和の城(邑智郡邑南町日和大釜谷)主・寺本伊賀守が、温湯城攻めをしている間に、毛利方の食糧補給地である上出羽を陥れる可能性があると踏んだからである。
このため、毛利方は先ずは日和城の寺本を落とし、その後温湯城攻めとすることとなった。
“日和落去こそ肝要に候へ、先々是非ともに芸備の衆融けられ候て然るべく候、このまま河本へ取り懸り、はたと然るべからず候(毛利家文書、及川「毛利元就」所収)”
【写真左】日和城遠望
邑南町日和大釜谷にあって、別名「金刀比羅山城」ともいわれている。
未登城だが、ときどき参考にさせていただいているリンク・サイト「島根県邑南町(旧・石見町)の城」の「ひさびさ氏」が詳細な写真を紹介されているので、ご覧いただきたい。
築城期:鎌倉期、築城者:大庭氏(三宅氏)
H496m(比高176m)、本丸(25m×40m)
邑南町日和大釜谷にあって、別名「金刀比羅山城」ともいわれている。
未登城だが、ときどき参考にさせていただいているリンク・サイト「島根県邑南町(旧・石見町)の城」の「ひさびさ氏」が詳細な写真を紹介されているので、ご覧いただきたい。
築城期:鎌倉期、築城者:大庭氏(三宅氏)
H496m(比高176m)、本丸(25m×40m)
こうして、日和城攻めは、元春の家臣・杉原盛重が主力となって攻入り、寺本を降した。このとき、小笠原長雄も、温湯城から一旦寺本支援のため日和に向かっている。「石見町誌」では日和城が陥落したのは、3月25日とされている。
その後、小笠原氏は同年(弘治3年)5月2日、日和で戦っている記録が残る。これは、陥落した日和城を奪還するため小笠原長智・市川三郎丞を出撃させたものだったが、城主寺本伊賀守が、降伏後毛利氏に属し、逆に小笠原氏の攻撃を阻止した。このため、小笠原氏は次第に劣勢を強いられることになっていく。
5月上旬、日和城を落とした後、元就は石西から益田貴兼・周布元兼を催促し、隆元・隆景らが石見に入り、上出羽において元春軍と合流、同月20日、ついに温湯城をめがけて全軍が攻撃態勢を敷くことになった。
同月、元春は先ず向城として温湯城の南方奥山と、小栖山に城塞を築いた。隆元は、これと並行して二ツ山から布施の笠取山に陣を移動、向城が完成すると、元春は奥山に、隆景は小栖山へ着陣した。そして、当時小笠原氏の支城となっていた旧本拠城の「赤城」を元春らが攻めた。24日、赤城猛攻の元春軍の前に城兵はなす術もなく、夜陰に乗じて温湯城に逃げ込んだ。25日、ついに御大・元就が笠取山に着陣、目標は温湯城のみとなった。
【写真左】江川(江の川)
川本と久座仁を跨ぐ橋付近から見たもので、写真奥の山は尼子方が陣した「仙岩寺山城」
この付近も大きく蛇行した箇所で、流れが速い。
石見・安芸・備後地方の山城探訪をするたびに、大小の溪谷を流れる多くの小川が、江の川へ注いでいることを知る。西国地方で旧三国を跨いで流れる川は、ひょっとしてこの江の川だけかもしれない。あらためて大河であることを痛感させられる。
もっとも、流域面積の割に川岸部に平地(平野)部が少なく、山間部に居住するものにとって恩典が少ない川ではあるが、山陽から山陰を往来する際の重要な河川交通として往古から利用されてきた。
このため、広島県の三次市から日本海に注ぐ江津までの間にある町は、河湊として栄えた。
毛利元就が石見征服を成し遂げたのも、この江の川による水運が大きな要素を占めていたことは間違いないだろう。まさに、水を制するものが勝利するという典型である。
川本と久座仁を跨ぐ橋付近から見たもので、写真奥の山は尼子方が陣した「仙岩寺山城」
この付近も大きく蛇行した箇所で、流れが速い。
石見・安芸・備後地方の山城探訪をするたびに、大小の溪谷を流れる多くの小川が、江の川へ注いでいることを知る。西国地方で旧三国を跨いで流れる川は、ひょっとしてこの江の川だけかもしれない。あらためて大河であることを痛感させられる。
もっとも、流域面積の割に川岸部に平地(平野)部が少なく、山間部に居住するものにとって恩典が少ない川ではあるが、山陽から山陰を往来する際の重要な河川交通として往古から利用されてきた。
このため、広島県の三次市から日本海に注ぐ江津までの間にある町は、河湊として栄えた。
毛利元就が石見征服を成し遂げたのも、この江の川による水運が大きな要素を占めていたことは間違いないだろう。まさに、水を制するものが勝利するという典型である。
長雄の拠る温湯城は完全に孤立無援となった。石見に救援に駆けつけた尼子氏の時期は7月5日とされている。入国後所々で毛利方と戦っていたが、折悪くこのころ江川は大雨のため川が増水し、温湯城の対岸側からの渡河を諦め、一旦下流部の福屋隆兼の松山城をせめた後、その周辺からの渡河地点を確保しようとしたが、毛利方にここでも阻止され、結局包囲を解いて温泉津から大田へと撤退した。
これによって、温湯城の陥落は時間の問題となった。8月に入ると、小笠原氏の糧道の一つである飲料水の取水口が、南麓の矢谷で毛利方によって占拠され断たれてしまった。そして同月16日、全周囲から毛利方の猛攻撃を受け、25日、長雄は小早川隆景を介して、毛利元就に降服を願い出た。
長雄に対する処分
石見国にあって、もっとも執拗に毛利方に抗戦を続けた長雄である。当然ながら、元春・隆景は誅滅すべしといったが、元就はどういうわけか、二人の意見を退け、長雄には温湯城から少し下ったところにある、江川北岸の甘南備寺に隠居させた。そして旧領(江川以南)は没収したものの、福屋氏の領地であった井田・波積を与え、福屋には替地を与えた。
【写真左】甘南備寺
石見霊場第11番札所
真言宗室生山 甘南備寺
天平18年(749)創建
縁起より
“(前略)当山は戦国時代以前は渡りの山(甘南備寺山)の山頂台地に諸伽藍を配置していたが、元亀年間の大火災により大手は焼失、また明治維新後の浜田地震により現在の位置に移築した経緯がある。
また当山は300有余年にわたり温湯城及び丸山城主小笠原氏の戦勝祈願寺であったことから、奉納された佐々木高綱の大鎧(国指定重要文化財)備前長船兼光の太刀、鎌倉二代将軍源頼家の写経、その他武具や古代仏具などの宝物が現存し展示している。(後略)”
真言宗室生山 甘南備寺
天平18年(749)創建
縁起より
“(前略)当山は戦国時代以前は渡りの山(甘南備寺山)の山頂台地に諸伽藍を配置していたが、元亀年間の大火災により大手は焼失、また明治維新後の浜田地震により現在の位置に移築した経緯がある。
また当山は300有余年にわたり温湯城及び丸山城主小笠原氏の戦勝祈願寺であったことから、奉納された佐々木高綱の大鎧(国指定重要文化財)備前長船兼光の太刀、鎌倉二代将軍源頼家の写経、その他武具や古代仏具などの宝物が現存し展示している。(後略)”
こうした元就の処置が後に、福屋隆兼の憤怒を惹起させ、毛利氏に対する反逆へと繋がっていく。
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