篠向城(ささぶきじょう)
●所在地 岡山県真庭市三崎
●別名 篠葺城・篠吹城
●築城年 14世紀中頃以前
●築城者 飯田氏
●城主 飯田氏、赤松氏、山名氏、毛利氏、江原氏など
●形態 山城
●遺構 郭・石垣・竪堀・根小屋跡・井戸
●高さ 401m(比高250m)
●登城日 2011年8月5日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『新訂「倭文往来」(現代語訳版)』等)
以前紹介した美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)と同じく、管理人がよく利用する米子自動車道が落合JCTに合流する手前で毎回目にしてきている山城である。
【写真左】篠向城遠望
北麓側からみたもので、雨上がりのため蒸発した雲がかかっている。
そういう訳で、篠向城の位置はずいぶん前から分かっていたのだが、登城口がどのあたりなのかわからず、いずれ分かった段階で登城しようと考えていた。昨年の8月になって、やっと登城口の位置が分かったのだが、山城探訪としてはもっとも条件の悪い夏であった。
現地の説明板より
“篠向城跡(ささぶきじょうせき)
中世の山城、篠向城は西に旭川と目木川の合流地点を、また眼下には出雲往来と備前往来を望む標高419mの篠向山頂に所在し、古くからこの大庭の地は水陸の交通の要衝であった。
築城者、築城年は明らかでないが『太平記』によると、康安元年(1361)篠向城に籠っていた飯田一族は、山名氏の美作侵攻に降参し、その後、赤松氏の手に移ったが、嘉吉の乱(1441)にあたり、赤松性貞(しょうてい)の兵が立て籠もるも、山名教之の兵により落城した。
【写真左】篠向城縄張図
昭和55年に発行された『日本城郭体系第13巻』の付図では本丸と二の丸しか表示されていないが、現地に設置されたこの図では主だった遺構はすべて配置表記されている。
この図では、左(西側)から、三の丸・二の丸・一の丸(本丸)とあり、その南方に「普門寺跡」も明記されている。
さらに文亀年中(1501~04)には、高田城主・三浦貞連が城に拠っていた山名右近亮を討ち取り、家臣の福島・金田氏に城を守らせた。
天正7年(1579)宇喜多氏と、毛利氏の対立の際、江原兵庫助親次は、寺畑城(現真庭市久世)に籠城したが、翌8年(1580)毛利勢の攻勢に城を明け渡し篠向城に落ち延びた。
さらに、親次は翌年には毛利氏に降参、篠向城から退いた。
その後、天正12年(1584)美作の国は、宇喜多氏の領国となり、篠向城は再び江原氏の居城として、江原兵庫助親次が城主となった。
しかし、慶長3年(1598)朝鮮の役に参戦した親次は、釜山で病死、その後に廃城となり篠向城は約240年にわたる山城としての役目を終えた。
【写真左】二の丸へ向かう。
登城道は整備されているとはいえ、幅員は大分狭く、軽自動車の四駆ならいいが、普通車では結構注意を要する。
終点が駐車場となっていて、本丸と二の丸の間の鞍部(帯郭か)を活用している。
手前が駐車場側で、二の丸へは徒歩で向かう。
この城の最大の特徴は竪堀の多さであり、約50本の竪堀を有し、長いものは70mを超えるものもある。
近辺に存在する中世の城跡でこれほど規模の大きいものは珍しく、重要な城であったことがうかがえる貴重な城跡である。
平成23年3月
大庭地域自主組織”
【写真左】二の丸跡
久世テレビ放送所とあり、NHKを始め地元テレビ局が共用している施設のようだ。
二の丸跡をほとんどこの施設が占用していることや、周囲の伐採もしていないため、遺構の確認はしていない。
篠向城は説明板にもあるように、出雲往来と備前往来が行き交う場所である。麓を流れる旭川を挟んで、出雲街道を西進すると、勝山の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)が控え、逆に進めば先ほどの岩屋城が北方に聳える。
【写真左】普門寺跡方面
本丸から南に下がると「普門寺跡」が記されているが、この写真は二の丸から本丸に向かう途中に見たもので、普門寺跡は左の方へ降っていくと繋がる。
尼子氏の美作侵攻
説明板にもあるように、文亀年中(1501~04)には、高田城主・三浦貞連が城に拠っていた山名右近亮を討ち取り、家臣に城を守らせたとある。この後、貞連の子貞国に至ると、真庭郡のほぼ全域を支配することになる。
しかし、永正17年(1520)ごろになると、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも触れたように、尼子経久は西方から、赤松・浦上村宗らが東方から美作へ侵攻してくるようになる。
【写真左】本丸(一の丸)へ向かう
二の丸を見た後、再び駐車場側に戻り、本丸に向かう。南側に登城道が設置されているが、これとは別に北にも直接登る道が確認できた。
この写真は南側に設置されているもので、この先に行くと鋭角に曲がって本丸西側の道を進む。
享禄5年・天文元年(1532)、尼子晴久は三浦氏の居城・高田城を落とし、貞国は討死、貞久が高田城の10代城主となったが、天文9年(1540)には尼子氏の新宮党頭領・尼子国久(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)が5千余騎で攻め、高田城とこの篠向城も落城した。
【写真左】本丸北側の下段にある腰郭
上記の道を進むと、途中でまた別の中継所の施設が出てくる。
この写真の右上に本丸が控えているので、本丸に付随する郭跡と思われる。
江原親次
天正4年(1576)に三浦氏が毛利輝元によって完全に滅ぼされたあと、篠向城を始め大寺畑城・小寺畑城は宇喜多直家の支配下となった。しかし、3年後の天正7年、以前にも述べたように直家は突然毛利氏に背き、織田信長についた。
このため、毛利方の吉川元春らは、篠向城及び上記二つの支城も攻め落としている。
しかし、再び宇喜多氏は毛利氏と和議を結び、高梁川以東は宇喜多氏の支配下となっている。この処置の結果、篠向城は江原親次が当城の城主となった。
【写真左】本丸・その1
先ほどの道を九十九折し、南進していくと、本丸の西側の中間点にある入口に到達する。
この写真はそこから南側を見たもので、長さはかなりありそうだ。
「日本城郭体系第13巻」によれば、親次は宇喜多直家の女婿とある。元々久米郡倭文郷の豪族として、中山手村常山城主で、油木村高山城主も兼ねていたとしている。また「倭文往来」という史料によると、親次は、江原兵庫助景親とある。
篠向城主となった親次であるが、実際の管理体制は、親次は常山城を居城として、父の和泉守と弟又四郎が篠向城と高山城を交代で守備していたとされる。
【写真左】本丸・その2
本丸の規模はおよそ長径50m×短径30m余ほどで、北西側半分のところがご覧の通り約1mほど高くなっている。
史料によれば、北端部に井戸跡があるとされているが、現地を見た限りそれらしき遺構は確認できなかった。
参考までに油木(北)村の高山城は、永正年間(1500~20)土居兵庫頭が築き、700貫の領地を有し、倭文庄史(管理役人)となった。その後、赤松飛騨守範景が入部し、その子高山権之介は浦上宗景によって滅亡し、宇喜多直家の支配下(江原氏)となった。
また、中山手村常山城については、おそらく高山城と同じく国道429号線沿いの北方に聳える江原城のことと思われるが、断定はできない。
【写真左】本丸から北方を見る。
篠向城からの眺望はあまりよくない。
この写真は本丸北端部からかすかに見えた景色で、山陰から伸びる米子自動車道が少し見える。
【写真左】一の丸(本丸)南の郭
一の丸の南から東にかけて帯郭が取り巻く。この写真では、左側の斜面が本丸側となる。
奥に向かうと、ぐるっと東側に回り込んで東に延びる郭に繋がる。
【写真左】南の郭から本丸を見上げる。
この位置からは高さ5m程度だが、北に向かっていくとさらに高低差が出てくる。
【写真左】竪堀群
当城の特徴の一つとされる竪堀群がある個所だが、現地は杉の植林と、伐採の残物や雑草であまりよく見えない。
【写真左】本丸東下付近
先ほどの箇所から東側の細い帯郭(犬走りか)を北に進むと、この位置から南東方向に向かって細長い郭段が続くが、この写真はその始点箇所。
なお、史料によればこの写真の右側に本丸に向かって登り口のような痕跡があると記されているが、現地は整備されていないため判然としない。
ここにも小型のアンテナ設備が設置されている。
【写真左】南東方向に延びる郭群・その1
次第に下っていく感じとなっており、北側(左側)が険峻な切崖で、右側には部分的に段差を設けた小郭が混在している。
【写真左】南東方向に延びる郭群・その2
幅は5~10m程度と細いが、この郭群の総延長は250~300mと長大なもので、踏査するとその規模に驚く。
この写真は前半部分のものだが、左側はかなり規模の大きい土塁が50m程度連続し、右側には細長い郭が並行して続く。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その3
物見の岩塊
150m程度下ったところにあるもので、土塁の延長上に極端に突起した高まりが設けられている。おそらく物見としての役目をもったものだろう。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その4
土塁と郭
篠向城の特徴は竪堀とされているが、管理人からすれば、この南東方向に延びる郭群のほうがより特徴的と思える。
この箇所も左側から手前にかけてL字状の土塁を設け、その下の平坦地中央部を少し高くした遺構が残っている。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その5
土塁と郭(続き)
用途がはっきりしないが、中央部の高くなった場所には建物があったのではないかと想像さえできる。
というのも、下の写真でも示すように、この付近には礎石らしきものがかなり点在してるからである。
この写真は土塁側から見下ろしたもの。
【写真左】礎石か
建物もしくは、なんらかの構造物があった可能性が高い。
【写真左】五輪塔
篠向城の西麓にある集落の一角に祀られているもので、となりには下記のような説明板が掲げられている。
“仏道と歴史の里山を巡る
鎌倉・室町そして安土・桃山時代と、長く続く戦乱を経て江戸の足音が聞こえるまでの、ながれゆく年月の間に亡くなった人たちの供養として、中世の山城「篠向」の麓・大庭の里には、五輪の塔が百数十基、また、大日如来の石仏が四十数体点在しています。
お釈迦様が大日如来として教えを説かれている石仏群にお参りしながら、大師と共に里山の歴史の古道を風に吹かれて巡ってみませんか。
合掌
平成21年2月吉日
篠向山 普門寺 住職
神谷 慈晃”
●所在地 岡山県真庭市三崎
●別名 篠葺城・篠吹城
●築城年 14世紀中頃以前
●築城者 飯田氏
●城主 飯田氏、赤松氏、山名氏、毛利氏、江原氏など
●形態 山城
●遺構 郭・石垣・竪堀・根小屋跡・井戸
●高さ 401m(比高250m)
●登城日 2011年8月5日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『新訂「倭文往来」(現代語訳版)』等)
以前紹介した美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)と同じく、管理人がよく利用する米子自動車道が落合JCTに合流する手前で毎回目にしてきている山城である。
【写真左】篠向城遠望
北麓側からみたもので、雨上がりのため蒸発した雲がかかっている。
そういう訳で、篠向城の位置はずいぶん前から分かっていたのだが、登城口がどのあたりなのかわからず、いずれ分かった段階で登城しようと考えていた。昨年の8月になって、やっと登城口の位置が分かったのだが、山城探訪としてはもっとも条件の悪い夏であった。
現地の説明板より
“篠向城跡(ささぶきじょうせき)
中世の山城、篠向城は西に旭川と目木川の合流地点を、また眼下には出雲往来と備前往来を望む標高419mの篠向山頂に所在し、古くからこの大庭の地は水陸の交通の要衝であった。
築城者、築城年は明らかでないが『太平記』によると、康安元年(1361)篠向城に籠っていた飯田一族は、山名氏の美作侵攻に降参し、その後、赤松氏の手に移ったが、嘉吉の乱(1441)にあたり、赤松性貞(しょうてい)の兵が立て籠もるも、山名教之の兵により落城した。
【写真左】篠向城縄張図
昭和55年に発行された『日本城郭体系第13巻』の付図では本丸と二の丸しか表示されていないが、現地に設置されたこの図では主だった遺構はすべて配置表記されている。
この図では、左(西側)から、三の丸・二の丸・一の丸(本丸)とあり、その南方に「普門寺跡」も明記されている。
さらに文亀年中(1501~04)には、高田城主・三浦貞連が城に拠っていた山名右近亮を討ち取り、家臣の福島・金田氏に城を守らせた。
天正7年(1579)宇喜多氏と、毛利氏の対立の際、江原兵庫助親次は、寺畑城(現真庭市久世)に籠城したが、翌8年(1580)毛利勢の攻勢に城を明け渡し篠向城に落ち延びた。
さらに、親次は翌年には毛利氏に降参、篠向城から退いた。
その後、天正12年(1584)美作の国は、宇喜多氏の領国となり、篠向城は再び江原氏の居城として、江原兵庫助親次が城主となった。
しかし、慶長3年(1598)朝鮮の役に参戦した親次は、釜山で病死、その後に廃城となり篠向城は約240年にわたる山城としての役目を終えた。
【写真左】二の丸へ向かう。
登城道は整備されているとはいえ、幅員は大分狭く、軽自動車の四駆ならいいが、普通車では結構注意を要する。
終点が駐車場となっていて、本丸と二の丸の間の鞍部(帯郭か)を活用している。
手前が駐車場側で、二の丸へは徒歩で向かう。
この城の最大の特徴は竪堀の多さであり、約50本の竪堀を有し、長いものは70mを超えるものもある。
近辺に存在する中世の城跡でこれほど規模の大きいものは珍しく、重要な城であったことがうかがえる貴重な城跡である。
平成23年3月
大庭地域自主組織”
【写真左】二の丸跡
久世テレビ放送所とあり、NHKを始め地元テレビ局が共用している施設のようだ。
二の丸跡をほとんどこの施設が占用していることや、周囲の伐採もしていないため、遺構の確認はしていない。
篠向城は説明板にもあるように、出雲往来と備前往来が行き交う場所である。麓を流れる旭川を挟んで、出雲街道を西進すると、勝山の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)が控え、逆に進めば先ほどの岩屋城が北方に聳える。
【写真左】普門寺跡方面
本丸から南に下がると「普門寺跡」が記されているが、この写真は二の丸から本丸に向かう途中に見たもので、普門寺跡は左の方へ降っていくと繋がる。
尼子氏の美作侵攻
説明板にもあるように、文亀年中(1501~04)には、高田城主・三浦貞連が城に拠っていた山名右近亮を討ち取り、家臣に城を守らせたとある。この後、貞連の子貞国に至ると、真庭郡のほぼ全域を支配することになる。
しかし、永正17年(1520)ごろになると、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも触れたように、尼子経久は西方から、赤松・浦上村宗らが東方から美作へ侵攻してくるようになる。
【写真左】本丸(一の丸)へ向かう
二の丸を見た後、再び駐車場側に戻り、本丸に向かう。南側に登城道が設置されているが、これとは別に北にも直接登る道が確認できた。
この写真は南側に設置されているもので、この先に行くと鋭角に曲がって本丸西側の道を進む。
享禄5年・天文元年(1532)、尼子晴久は三浦氏の居城・高田城を落とし、貞国は討死、貞久が高田城の10代城主となったが、天文9年(1540)には尼子氏の新宮党頭領・尼子国久(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)が5千余騎で攻め、高田城とこの篠向城も落城した。
【写真左】本丸北側の下段にある腰郭
上記の道を進むと、途中でまた別の中継所の施設が出てくる。
この写真の右上に本丸が控えているので、本丸に付随する郭跡と思われる。
江原親次
天正4年(1576)に三浦氏が毛利輝元によって完全に滅ぼされたあと、篠向城を始め大寺畑城・小寺畑城は宇喜多直家の支配下となった。しかし、3年後の天正7年、以前にも述べたように直家は突然毛利氏に背き、織田信長についた。
このため、毛利方の吉川元春らは、篠向城及び上記二つの支城も攻め落としている。
しかし、再び宇喜多氏は毛利氏と和議を結び、高梁川以東は宇喜多氏の支配下となっている。この処置の結果、篠向城は江原親次が当城の城主となった。
【写真左】本丸・その1
先ほどの道を九十九折し、南進していくと、本丸の西側の中間点にある入口に到達する。
この写真はそこから南側を見たもので、長さはかなりありそうだ。
「日本城郭体系第13巻」によれば、親次は宇喜多直家の女婿とある。元々久米郡倭文郷の豪族として、中山手村常山城主で、油木村高山城主も兼ねていたとしている。また「倭文往来」という史料によると、親次は、江原兵庫助景親とある。
篠向城主となった親次であるが、実際の管理体制は、親次は常山城を居城として、父の和泉守と弟又四郎が篠向城と高山城を交代で守備していたとされる。
【写真左】本丸・その2
本丸の規模はおよそ長径50m×短径30m余ほどで、北西側半分のところがご覧の通り約1mほど高くなっている。
史料によれば、北端部に井戸跡があるとされているが、現地を見た限りそれらしき遺構は確認できなかった。
参考までに油木(北)村の高山城は、永正年間(1500~20)土居兵庫頭が築き、700貫の領地を有し、倭文庄史(管理役人)となった。その後、赤松飛騨守範景が入部し、その子高山権之介は浦上宗景によって滅亡し、宇喜多直家の支配下(江原氏)となった。
また、中山手村常山城については、おそらく高山城と同じく国道429号線沿いの北方に聳える江原城のことと思われるが、断定はできない。
【写真左】本丸から北方を見る。
篠向城からの眺望はあまりよくない。
この写真は本丸北端部からかすかに見えた景色で、山陰から伸びる米子自動車道が少し見える。
【写真左】一の丸(本丸)南の郭
一の丸の南から東にかけて帯郭が取り巻く。この写真では、左側の斜面が本丸側となる。
奥に向かうと、ぐるっと東側に回り込んで東に延びる郭に繋がる。
【写真左】南の郭から本丸を見上げる。
この位置からは高さ5m程度だが、北に向かっていくとさらに高低差が出てくる。
【写真左】竪堀群
当城の特徴の一つとされる竪堀群がある個所だが、現地は杉の植林と、伐採の残物や雑草であまりよく見えない。
【写真左】本丸東下付近
先ほどの箇所から東側の細い帯郭(犬走りか)を北に進むと、この位置から南東方向に向かって細長い郭段が続くが、この写真はその始点箇所。
なお、史料によればこの写真の右側に本丸に向かって登り口のような痕跡があると記されているが、現地は整備されていないため判然としない。
ここにも小型のアンテナ設備が設置されている。
【写真左】南東方向に延びる郭群・その1
次第に下っていく感じとなっており、北側(左側)が険峻な切崖で、右側には部分的に段差を設けた小郭が混在している。
【写真左】南東方向に延びる郭群・その2
幅は5~10m程度と細いが、この郭群の総延長は250~300mと長大なもので、踏査するとその規模に驚く。
この写真は前半部分のものだが、左側はかなり規模の大きい土塁が50m程度連続し、右側には細長い郭が並行して続く。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その3
物見の岩塊
150m程度下ったところにあるもので、土塁の延長上に極端に突起した高まりが設けられている。おそらく物見としての役目をもったものだろう。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その4
土塁と郭
篠向城の特徴は竪堀とされているが、管理人からすれば、この南東方向に延びる郭群のほうがより特徴的と思える。
この箇所も左側から手前にかけてL字状の土塁を設け、その下の平坦地中央部を少し高くした遺構が残っている。
【写真左】【写真左】南東方向に延びる郭群・その5
土塁と郭(続き)
用途がはっきりしないが、中央部の高くなった場所には建物があったのではないかと想像さえできる。
というのも、下の写真でも示すように、この付近には礎石らしきものがかなり点在してるからである。
この写真は土塁側から見下ろしたもの。
【写真左】礎石か
建物もしくは、なんらかの構造物があった可能性が高い。
【写真左】五輪塔
篠向城の西麓にある集落の一角に祀られているもので、となりには下記のような説明板が掲げられている。
“仏道と歴史の里山を巡る
鎌倉・室町そして安土・桃山時代と、長く続く戦乱を経て江戸の足音が聞こえるまでの、ながれゆく年月の間に亡くなった人たちの供養として、中世の山城「篠向」の麓・大庭の里には、五輪の塔が百数十基、また、大日如来の石仏が四十数体点在しています。
お釈迦様が大日如来として教えを説かれている石仏群にお参りしながら、大師と共に里山の歴史の古道を風に吹かれて巡ってみませんか。
合掌
平成21年2月吉日
篠向山 普門寺 住職
神谷 慈晃”
0 件のコメント:
コメントを投稿