2009年6月12日金曜日

小国城(おぐにじょう)跡・(島根県奥出雲町大呂小国)


小国城跡 (おぐにじょうあと)

●登城日 2009年2月28日、3月15日
●所在地 仁多郡 奥出雲町 大呂 小国
●時代 中世 時代不明 
●遺跡種別 城館跡  ●指定 未指定
●備考 「小国殿塚」の石碑あり。
●遺構種別 溝 その他 
●遺構概要 曲輪 土塁 堀切

◆解説
 鬼神神社上へ砦跡の西側にある丘陵状の小山が小国城となっているが、鬼神神社の縁起に記された「大呂城」という名前のものがこの小国城の別名ではないかと思われる。この関係部分を再び下に示す。

 “正安4年(1303)三沢氏地頭として雨川へ入部、三沢郷を経て横田郷藤ケ瀬城(本城)を移すも、永正16年(1519)三沢為国のとき、尼子経久に攻略され、大呂城、竹崎城、船通寺、観音寺いずれも兵火に罹(かか)り「上宮伊我多気神社」も消失した。”
【写真左】小国城を北東部から見たもの
 右に見える寺院は妙巌寺という寺で、現在はこの場所にあるが、戦国期ごろは東側にある鬼神神社の山麓にあったという。

 このため、現在でも登院の墓地は、東部の鬼神神社側の傾斜地にある。


 この時の大呂城(小国城)の城主が誰であったかは不明であるが、三沢氏の一族であることは間違いないだろう。

 また、藤ケ瀬城(ふじがせじょう)跡・その1で取り上げた、天正11年(1542)の大内氏による月山富田城攻めの大敗後、尼子方が横田荘の各7か所に以下の諸将を配置している。

  1. 中村の代官には、森脇山城守家貞
  2. その統率の下、竹崎村には河本
  3. 大呂村には河制
  4. 下横田村には大石
  5. 蔵屋村には羽島
  6. 原口村には本田家吉
  7. 尾園村には多賀山氏
 この中の3.の大呂村に配置された「河制」という名は、おそらく「河副(かわぞえ)」の誤字ではないかと思われる。ただ、その後この武将がその後どうなったかは不明である。
【写真左】小国城の南西部から見たもの 当城の西南部は畑地で牧草のようなものが栽培されている。写真はその南西部で、雑木が繁茂しているため、この付近からは踏み込みがたい。








【写真左】妙巌寺境内にある宝篋印塔
 たまたまこの境内に入ったところ、ご覧のような立派な宝篋印塔があり、御住職にこのことについて質問したが、「私の父でもこの宝篋印塔については知らされておらず、いつからこれがここにあるのか分からない」とのこと。







【写真左】宝篋印塔の上部拡大写真
 御住職の父親さえ分からないということから考えると、明治時代、もしくは江戸時代にはこれがあったということだろうか。


 写真の上部まではしっかりしているが、その下部あたりは、移設したような痕跡がある。

 当寺はもともと東にある鬼神神社側の山麓にあったものを、いつの時代かこの小国城側に移設しているという。となると、この宝篋印塔は、鬼神神社側にあったときのものなのか、それとも移設してからこの地に建立されたものなのか、という疑問点も出てくる。

 それにしてもこれまで、山陰地方で見てきた宝篋印塔の中でも際立って保存がよく、しかも規模も大きく、石造美術の世界からみてもおそらくAクラスのものではないだろうか。

【写真左】宝篋印塔の脇にあった3基の欠損した宝篋印塔型
 このことから、最初は3基あったもののうち、1基だけのちに新しくして建て、残りをこのように脇においていたものかも知れない。






小池氏

 藤ケ瀬城や鬼神神社上へ砦、そしてこの小国城もふくめた横田の地は、出雲国内でも特殊なところで、鎌倉期には石清水八番宮領であった。

 この流れの中で三沢氏と非常に深い関係があったのが、小池・杠(ゆずりは)である。
 横田町誌の中で、曾根研三という人が、同氏について調査している。

 杠氏(31代までは小池氏と称す)

(大催代数記と同古文書・岩屋寺古文書・馬場八幡宮等棟札より作成)「遷年号」は馬場八幡宮の遷宮の年、()内は願主あるいは地頭名、「年号文書」は杠所蔵文書有のこと(途中一部省略)


1、久朝(刑部(けいぶ)) 建久7年 妻田村氏
7、久仍(ひさのり)(中務(なかむ)正(しょう)) 遷弘安4年(比丘尼妙音)これまでは妻は京都より
8、源太ェ門(久康)
14、宗左エ門(久豊) 遷至徳2年(山名時義)
18、久左エ門(久春) 遷永享2年(三沢信濃守為忠)

20、三良左エ門(久平) 長禄元年の文書2通
21、二良右ェ門(久長) 遷文明8年(三沢遠江守為忠)
22、二良右ェ門(久宗 宗左エ門)
23、七良左エ門(久近) 遷永正17年(三沢為国)
24、長右エ門(久澄)
25、治良右エ門(久元) 享禄4年、天文元年の文書岩屋寺本堂作事奉行の一人 (大催次良右エ門)

26、治良右エ門(久家) 遷天文11年(三沢為清)天文9、10年の文書、
天文8年岩屋寺阿弥陀堂建立、
本尊十一面観音修復す伊賀多気神社本願
27、六良右エ門(重久) 遷永禄3年(尼子晴久)天文13年、天正2年の文書
28、太良兵衛(久景)
29、二良右エ門(久国、七良兵衛)
遷天正14年(三沢為虎)天正15,19年の文書、
天正17年三沢氏芸州へ久国慶長記の筆者
30、甚十郎(吉久) 慶長4、10、14年の文書

31、又右エ門(久如) 遷元和6(堀尾吉晴)天和6年の文書大馬木村杠より養 子、これより小池姓を杠姓とし、法華宗となる南枝寺 の開基伊賀多気神社本願(寛文7年)代々庄屋を務める。
32、又右エ門(久弼、長次郎)遷正保3年(松平直政)免地10石余あり
33、市右エ門(久次)
34、助三郎(久勝)
35、久左エ門(久慶) 持高のうち免地25石

36、市右エ門(久成)
37、市右エ門(久只)
38、六良右エ門(久富)
39、市右エ門(久安)
40、宗左エ門(富明、助三郎) これまで代々大催を名乗る(幕末)

 詳細は同誌を読んでもらえればよいが、どちらにしてもこの地区については、特殊な歴史的流れがあるようだ。

【写真左】妙巌寺から南に移動した位置から見た小国城
 小国城はこの写真の左側になる。
この写真の手前の屏の左に下に示す、「小国殿塚」が建立されている。
【写真左】小国城の東端部の平坦地に設置されている「小国殿塚」の石碑
 当日この石碑をじっくりと眺めていたら、この東向いの民家の奥さんが出てこられ、この石碑について質問した。

 奥さんの話では先ごろ亡くなった父が随分とこの殿塚のことについて、自分たちに説明していたのだが、全く自分たちは興味がなく、亡くなってからこうして質問されると、ほとんど何も記憶しておらず、なんとも申し訳ない、とのこと。
 ということで、何のキーワードになるものも入手できなかった。
【写真左】小国殿塚その2
 この殿塚が設置されている場所は、現在空き地のようなスペースになっているが、周辺の痕跡を見ると、館跡らしき雰囲気がある。

【写真左】殿塚の裏側
 刻印された文字が大分欠けているため、判読が困難だが、上の方は
「坪倉七○○」とも読める。

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