藤ケ瀬城(ふじがせじょう)跡・その2
◆その1を脱稿した後、「城ノ助」氏より、当城の縄張図を作成したものが送られてきたので、同氏のコメントと併せ紹介したい。
◆「城ノ助」氏のコメント
“三沢氏 藤ヵ瀬城の縄張図を添付致します。登城口は二の丸側に続く簸上酒造の横からの道があります。もう一つは登られた綺麗な道とは別に本丸へ続く道の延長になるのか公園の東側を下へと郭沿いに降る道がありました。
こちらは去年の二回目の探訪で見たもので、酒造側はそれより数年前になります。付近に三沢氏の五輪塔か何かがあったようですが、発見に至っておりません…”
【写真上】城ノ助」氏の作成した藤ケ瀬城の縄張図
図の下側に斐伊川が流れている。標高は438mで城下から見ると小ぶりな低い山に見えるが、登るにつれて予想以上の高低差を感じる山である。
図で見ると、本丸側の尾根には南北に5段の郭を配しているようだ。
それにしても、城ノ助氏はあの藪こぎの登城道を登って本丸に行ったわけで、私にはとてもできない芸当である。
【写真左】登城口付近にあった古墓
登城口付近の道の左側(西)高台に、墓地があり、その一角に写真の古墓が見えた。
この墓が、三沢氏関係のものかどうかは不明だが、一般の墓地エリアから離れたところに安置してあったことや、形は崩れているものの、五輪塔らしき雰囲気が残っている。
【写真左】二の丸南先端部から直下を見る
この付近はご覧のとおり、ほぼ直角に近い切崖で、左上に見えるのが斐伊川である。当川は実質上の堀の役目になったと思われる。
毛利氏に降った三沢氏
前稿で簡単に三沢氏の後半部を記したが、もう少しその内容について、「横田町誌」を参考にしながら記したい。
●永禄12年(1569)、山中鹿助が尼子勝久を擁して松江の真山城に拠り、広瀬月山冨田城の毛利方城代・天野隆重を囲んだころ、三沢氏は毛利氏に忠誠を誓うため人質を差し出している。しかし、毛利氏は三沢氏をあまり信用していなかったようで、三刀屋氏同様冷淡な扱いをたびたびしている。
特に、横田荘・岩屋寺に対しても寺領としての保持は無視し、毛利氏側の諸将に各所を分かち与えた。この年、三沢為清は作州高田城攻略に従軍し、帰国後すぐに今度は九州福岡立花城攻略にも従った。当然、出雲部は毛利方にとって手薄になるので、残った三沢氏側の兵は、鹿助対策に追われる。このころの藤ケ瀬城を守ったのは、源太左衛門が行ったとされている。
●普叟寺(当時藤ケ瀬城東山麓にあった寺院)文書によると、元亀元年(1570)2月、前記した富田城の城番天野を救うべく、毛利軍は九州より輝元を大将として富田に向かった。
このとき、29歳だった源太左衛門は、大呂村(横田の町からさらに東に斐伊川を登ったところ)の河上宗治右衛門とともに参軍したが、右衛門は鉄砲に当たり討死した。
【写真左】JR出雲横田駅方面から見た藤ケ瀬城遠望
中央部の上が二の丸付近
●元亀2年(1571)6月に元就が亡くなり、9月には尼子勝久も破れて京都に逃れた。この段階で再び出雲は毛利氏の手中に帰した。
三沢為清は、本拠を仁多・三沢城を基本とし、藤ケ瀬城にもたびたび来ているが、天正2年(1574)ごろには隠居し、自分は藤ケ瀬城の北方にある亀嵩に城を築き(亀嵩城)、天正5年よりここに移り住んだ。そして為清の子・為虎は亀嵩城と藤ケ瀬城の両方を往来したようである。
越えて天正15年、豊臣秀吉の九州征伐に為虎は毛利軍の先鋒として参加し、豊前岩石城では鉄砲隊を指揮して攻めたという。
翌16年、為清は亀嵩城において53歳で卒去。為虎は、毛利氏より備中国柳国冑城普請の材木奉行を命ぜられ、出かけた。その留守の間、毛利方の検使が亀嵩城に入り、城が壊された。なんとも陰湿な毛利の所業である。
天正17年3月27日、為虎は藤ケ瀬城の兵も集めて三沢氏の主だったものが安芸に移ることになる。禄高はわずか300石という所領である。為虎の記録で最後に残るものは、天正18年、秀吉の小田原攻めに毛利氏に従って参加しているというものである。
●藤ケ瀬城も含め、三沢氏の拠った城は、このころから無住となり、次第にさびれていったようである。
◆その1を脱稿した後、「城ノ助」氏より、当城の縄張図を作成したものが送られてきたので、同氏のコメントと併せ紹介したい。
◆「城ノ助」氏のコメント
“三沢氏 藤ヵ瀬城の縄張図を添付致します。登城口は二の丸側に続く簸上酒造の横からの道があります。もう一つは登られた綺麗な道とは別に本丸へ続く道の延長になるのか公園の東側を下へと郭沿いに降る道がありました。
こちらは去年の二回目の探訪で見たもので、酒造側はそれより数年前になります。付近に三沢氏の五輪塔か何かがあったようですが、発見に至っておりません…”
【写真上】城ノ助」氏の作成した藤ケ瀬城の縄張図
図の下側に斐伊川が流れている。標高は438mで城下から見ると小ぶりな低い山に見えるが、登るにつれて予想以上の高低差を感じる山である。
図で見ると、本丸側の尾根には南北に5段の郭を配しているようだ。
それにしても、城ノ助氏はあの藪こぎの登城道を登って本丸に行ったわけで、私にはとてもできない芸当である。
【写真左】登城口付近にあった古墓
登城口付近の道の左側(西)高台に、墓地があり、その一角に写真の古墓が見えた。
この墓が、三沢氏関係のものかどうかは不明だが、一般の墓地エリアから離れたところに安置してあったことや、形は崩れているものの、五輪塔らしき雰囲気が残っている。
【写真左】二の丸南先端部から直下を見る
この付近はご覧のとおり、ほぼ直角に近い切崖で、左上に見えるのが斐伊川である。当川は実質上の堀の役目になったと思われる。
毛利氏に降った三沢氏
前稿で簡単に三沢氏の後半部を記したが、もう少しその内容について、「横田町誌」を参考にしながら記したい。
●永禄12年(1569)、山中鹿助が尼子勝久を擁して松江の真山城に拠り、広瀬月山冨田城の毛利方城代・天野隆重を囲んだころ、三沢氏は毛利氏に忠誠を誓うため人質を差し出している。しかし、毛利氏は三沢氏をあまり信用していなかったようで、三刀屋氏同様冷淡な扱いをたびたびしている。
特に、横田荘・岩屋寺に対しても寺領としての保持は無視し、毛利氏側の諸将に各所を分かち与えた。この年、三沢為清は作州高田城攻略に従軍し、帰国後すぐに今度は九州福岡立花城攻略にも従った。当然、出雲部は毛利方にとって手薄になるので、残った三沢氏側の兵は、鹿助対策に追われる。このころの藤ケ瀬城を守ったのは、源太左衛門が行ったとされている。
●普叟寺(当時藤ケ瀬城東山麓にあった寺院)文書によると、元亀元年(1570)2月、前記した富田城の城番天野を救うべく、毛利軍は九州より輝元を大将として富田に向かった。
このとき、29歳だった源太左衛門は、大呂村(横田の町からさらに東に斐伊川を登ったところ)の河上宗治右衛門とともに参軍したが、右衛門は鉄砲に当たり討死した。
【写真左】JR出雲横田駅方面から見た藤ケ瀬城遠望
中央部の上が二の丸付近
●元亀2年(1571)6月に元就が亡くなり、9月には尼子勝久も破れて京都に逃れた。この段階で再び出雲は毛利氏の手中に帰した。
三沢為清は、本拠を仁多・三沢城を基本とし、藤ケ瀬城にもたびたび来ているが、天正2年(1574)ごろには隠居し、自分は藤ケ瀬城の北方にある亀嵩に城を築き(亀嵩城)、天正5年よりここに移り住んだ。そして為清の子・為虎は亀嵩城と藤ケ瀬城の両方を往来したようである。
越えて天正15年、豊臣秀吉の九州征伐に為虎は毛利軍の先鋒として参加し、豊前岩石城では鉄砲隊を指揮して攻めたという。
翌16年、為清は亀嵩城において53歳で卒去。為虎は、毛利氏より備中国柳国冑城普請の材木奉行を命ぜられ、出かけた。その留守の間、毛利方の検使が亀嵩城に入り、城が壊された。なんとも陰湿な毛利の所業である。
天正17年3月27日、為虎は藤ケ瀬城の兵も集めて三沢氏の主だったものが安芸に移ることになる。禄高はわずか300石という所領である。為虎の記録で最後に残るものは、天正18年、秀吉の小田原攻めに毛利氏に従って参加しているというものである。
●藤ケ瀬城も含め、三沢氏の拠った城は、このころから無住となり、次第にさびれていったようである。
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