安芸・藤山城(あき・ふじやまじょう)
●所在地 広島県三原市和木
●別名 さつき藤城・藤城
●高さ 291m(比高15m)
●形態 丘城
●指定 三原市指定史跡
●築城期 鎌倉期
●築城者 和木氏
●規模 200m×50m
●遺構 郭・土塁・井戸・空堀等
●登城日 2015年9月30日
◆解説(参考文献『日本城郭体系 第13巻』等)
安芸・藤山城(以下『藤山城』とする)は、広島県の旧賀茂郡大和町和木にあった城館で、比高15m前後の丘城である。築城期は明確ではないが、鎌倉期とされ、築城者は和木氏といわれている。
【写真左】藤山城遠望
西方にある道の駅『よがんす白竜』から見たもの。
和木氏
和木氏については、以前紹介した同市大和町椋梨の椋梨城の稿で既に述べているように、小早川氏の庶流の一つ椋梨氏の系譜に繋がる。
椋梨氏二代国平の子定平の実弟・為平が和木氏の祖といわれている。
従って、国平が寛元4年(1246)からこの地に居住し、小早川から椋梨氏を名乗っているので、和木氏はそれより2,30年後の文永年間(1264~74)頃に和木氏を称したと推察される。
【写真左】藤山城の配置図
道の駅「よがんす白竜」に設置されている「椋梨ダム周辺MAP」を元に管理人が加筆修正したもので、実際のものは、下方が北を示していたため、それを上方に変えて描いた。
藤山城の概要
藤山城は椋梨氏居城の所在する椋梨地区の東隣に位置する和木にあって、椋梨川と徳良川が合流したあと、椋梨ダム湖となった白竜湖に注ぎ込むが、その手前でもう一つの支流が東から合流する。この支流が大草川で、この川の南岸に築かれた丘陵地に築かれている。
丘城であることもあって、比高は10m余程だが、本丸と思われる箇所(東西60m×南北50m)の中に郭を3段構成し、北側には土塁が残り、西側には30m×30mの規模の二ノ丸があり、さらには以前には三の丸もあったとされるが、現在宅地や水田などに改変されている。
なお、和木氏の居城としてはこのほかに、藤山城から東北方向約1キロの位置に船山城がある。『日本城郭体系』では藤山城より後に築かれたとされ、よく整っていると記されているが、現在はご覧のような状態なので、踏査していない。
【写真左】道路側から向かう。
南西麓に農道が走り、そこからなだらかな傾斜となっている。
手前の田圃などは当時の三の丸だったと考えられる。
【写真左】二の丸付近か
現在西側には墓地があり、改変された部分もあるが、段の高さは当時と変わらないだろう。
【写真左】二の丸付近の郭
この付近は綺麗に整備され、平滑な面が残る。おそらく屋敷などがあったものだろう。
【写真左】空堀・その1
奥に進んで行くと、途中で右側に浅くなった空堀が見える。
当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】空堀・その2
これは上記のものとは反対側の北側にあるもので、左側が郭で、右側は土塁が残る。
なお、土塁の外側は切崖になっている。
さらに先に向かう。
【写真左】本丸の土塁
なだらかな坂道を登っていくと、直ぐに本丸にたどり着く。
この写真は西側に見えていた土塁で、大分劣化しているが、周囲を囲繞していたことが分かる。
【写真左】本丸・その1
冒頭で紹介したように、北側を最高所として南に向かって3段の郭が構成されている。
幸運なことに、この日探訪したとき本丸の箇所だけはこのように伐採されていて、分かりやすい。
【写真左】本丸・その2
最下段の郭付近で、最高所のとの比高は3m前後。
このあと、北東方面に向かう。
【写真左】竪堀?
周辺の状況や丘城であることから防御性には限界があるが、当城の東側は湿地帯のような個所があり、比高は10m程度である。
おそらく、当時はこの北東麓は北側を流れる大草川から水を引込み、濠を設けていたと推察される。
【写真左】和木氏八幡神社
上記した配置図にも記したように、藤山城の西に隣接して当社が祀られている。
縁起などは不明だが、和木氏を祀る神社と推察される。
【写真左】拝殿
境内には樹齢不明だが、県内で58番目に大きな杉(三原市天然記念物・和木八幡のスギ)がある。
【写真左】境内西側の崖
この付近は切崖状の景観をなし、その下には狭い道路を挟んで大草川が流れている。
藤山城から和木氏八幡神社に繋がる高低差はほとんどないが、神社境内の北西端はほどんどこのような切崖状となっている。
当時はこの神社も北方を扼する出丸もしくは物見櫓的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】船山城遠望
藤山城から北東方向へ約1キロほど向かった位置にあり、北側を大草川が流れている。
【写真左】船山城
独立した小丘で、現在はあまり整備されていないようだ。
●所在地 広島県三原市和木
●別名 さつき藤城・藤城
●高さ 291m(比高15m)
●形態 丘城
●指定 三原市指定史跡
●築城期 鎌倉期
●築城者 和木氏
●規模 200m×50m
●遺構 郭・土塁・井戸・空堀等
●登城日 2015年9月30日
◆解説(参考文献『日本城郭体系 第13巻』等)
安芸・藤山城(以下『藤山城』とする)は、広島県の旧賀茂郡大和町和木にあった城館で、比高15m前後の丘城である。築城期は明確ではないが、鎌倉期とされ、築城者は和木氏といわれている。
【写真左】藤山城遠望
西方にある道の駅『よがんす白竜』から見たもの。
和木氏
和木氏については、以前紹介した同市大和町椋梨の椋梨城の稿で既に述べているように、小早川氏の庶流の一つ椋梨氏の系譜に繋がる。
椋梨氏二代国平の子定平の実弟・為平が和木氏の祖といわれている。
従って、国平が寛元4年(1246)からこの地に居住し、小早川から椋梨氏を名乗っているので、和木氏はそれより2,30年後の文永年間(1264~74)頃に和木氏を称したと推察される。
道の駅「よがんす白竜」に設置されている「椋梨ダム周辺MAP」を元に管理人が加筆修正したもので、実際のものは、下方が北を示していたため、それを上方に変えて描いた。
藤山城の概要
藤山城は椋梨氏居城の所在する椋梨地区の東隣に位置する和木にあって、椋梨川と徳良川が合流したあと、椋梨ダム湖となった白竜湖に注ぎ込むが、その手前でもう一つの支流が東から合流する。この支流が大草川で、この川の南岸に築かれた丘陵地に築かれている。
丘城であることもあって、比高は10m余程だが、本丸と思われる箇所(東西60m×南北50m)の中に郭を3段構成し、北側には土塁が残り、西側には30m×30mの規模の二ノ丸があり、さらには以前には三の丸もあったとされるが、現在宅地や水田などに改変されている。
なお、和木氏の居城としてはこのほかに、藤山城から東北方向約1キロの位置に船山城がある。『日本城郭体系』では藤山城より後に築かれたとされ、よく整っていると記されているが、現在はご覧のような状態なので、踏査していない。
【写真左】道路側から向かう。
南西麓に農道が走り、そこからなだらかな傾斜となっている。
手前の田圃などは当時の三の丸だったと考えられる。
【写真左】二の丸付近か
現在西側には墓地があり、改変された部分もあるが、段の高さは当時と変わらないだろう。
【写真左】二の丸付近の郭
この付近は綺麗に整備され、平滑な面が残る。おそらく屋敷などがあったものだろう。
【写真左】空堀・その1
奥に進んで行くと、途中で右側に浅くなった空堀が見える。
当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】空堀・その2
これは上記のものとは反対側の北側にあるもので、左側が郭で、右側は土塁が残る。
なお、土塁の外側は切崖になっている。
さらに先に向かう。
【写真左】本丸の土塁
なだらかな坂道を登っていくと、直ぐに本丸にたどり着く。
この写真は西側に見えていた土塁で、大分劣化しているが、周囲を囲繞していたことが分かる。
【写真左】本丸・その1
冒頭で紹介したように、北側を最高所として南に向かって3段の郭が構成されている。
幸運なことに、この日探訪したとき本丸の箇所だけはこのように伐採されていて、分かりやすい。
【写真左】本丸・その2
最下段の郭付近で、最高所のとの比高は3m前後。
このあと、北東方面に向かう。
【写真左】竪堀?
周辺の状況や丘城であることから防御性には限界があるが、当城の東側は湿地帯のような個所があり、比高は10m程度である。
おそらく、当時はこの北東麓は北側を流れる大草川から水を引込み、濠を設けていたと推察される。
【写真左】和木氏八幡神社
上記した配置図にも記したように、藤山城の西に隣接して当社が祀られている。
縁起などは不明だが、和木氏を祀る神社と推察される。
【写真左】拝殿
境内には樹齢不明だが、県内で58番目に大きな杉(三原市天然記念物・和木八幡のスギ)がある。
【写真左】境内西側の崖
この付近は切崖状の景観をなし、その下には狭い道路を挟んで大草川が流れている。
藤山城から和木氏八幡神社に繋がる高低差はほとんどないが、神社境内の北西端はほどんどこのような切崖状となっている。
当時はこの神社も北方を扼する出丸もしくは物見櫓的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】船山城遠望
藤山城から北東方向へ約1キロほど向かった位置にあり、北側を大草川が流れている。
【写真左】船山城
独立した小丘で、現在はあまり整備されていないようだ。
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