2016年12月7日水曜日

三開山城(兵庫県豊岡市大篠岡)

三開山城(みひらきやまじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市大篠岡・香住
●指定 豊岡市指定史跡
●高さ H202m(比高196m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明(新田四郎義直か)
●城主 新田義直、山名時氏
●遺構 郭、竪堀、堀切、石垣
●登城日 2015年3月27日

◆解説
 三開山城は、前稿の此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内) から北に5キロほど向かった三開山に築かれた城砦である。
【写真左】三開山城遠望
 西側から見たもので、本丸に当たる最高所は202m、南北1.2キロ、東西1.7キロの規模を持つ独立峰である。




現地説明板より

“豊岡市指定文化財
 史跡 三開山城址
(城史)
 三開山城の築城は定かでないが、康永3年(1344)1月丹波守護となった山名時氏は、前の丹波守護代荻野朝忠を追って但馬に入り、三開山城を攻略したあと、この城に拠り、自ら但馬守護を称したという。
 伊達朝綱軍忠状によると、延文3年(1358)11月には朝綱らが山麓に展開した篠岡(大篠岡)合戦により、山名時氏軍は敗退したと伝えられ、中腹には「千畳敷」等に見られる石垣や、18本の竪堀など戦国末期における城の遺構が残る。
【写真左】案内図
 「みひらきの森」と名付けられた案内図で、この図では下方が北を示す。
 登城コースは4ヵ所あるが、この日は下方にある「現在地」と書かれた石仏の小径(全勝寺ルート)を使った。


(縄張)
 山頂部には楕円形に530㎡の曲輪があり、その4m下を半円状に北側に第2の曲輪があって、その広さ250㎡。西側尾根には梯郭式に4つの曲輪、南側にもいくつかの曲輪が残る。東側尾根には大・小2つの堀切がみられる。北側に80m下がった台地には千畳敷と呼ばれる屋敷跡があって、一分に野づら積みの布石垣が見られるほか、少なくとも5つの曲輪があって、その面積およそ3,500㎡に及ぶ。

   平成12年8月  豊岡市教育委員会”
【写真左】三開山ハイキングコース全勝寺側登山口
 北側にある登山口で、この近くには専用の駐車場が設置されている。
 道路脇では地元の方々が綺麗な花を植えておられた。



六分の一殿

 説明板にあるように康永3年(1344)1月、山名時氏が三開山城を攻略し、但馬守護を自ら称したとある。時氏に限らないが、このころ南北朝期の動きは非常にめまぐるしく、北朝方にあったものが南朝方に変わり、逆に南朝方であったものが北朝方に変わるなど常ならぬ世であった。

 三開山城攻略に先立つ3年前の暦応4年(1341)、時氏は高師直の命を受け、京都から脱出した塩冶高貞(塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)参照)の追討を行い、高貞は自害し、この功によって伯耆・出雲・隠岐の守護職となっている。
 しかし、このうち出雲守護職については、佐々木道誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)との確執があり、興国4年(1343)には、尊氏が出雲守護職を道誉に補任するなど幕府内における権力闘争が既に始まっていた。
【写真左】防護柵のドアを開けて登城開始
 この位置まで地蔵さんが所々祀られているコースを進んだのが、この段階でコースから外れていたことがあとで分かった。


 ところで、山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)で紹介したように、時氏は丹波国で応安4年(1371)2月28日に亡くなり、荼毘に付されたあと、遺骨は伯耆国光孝寺で埋葬された。
 「六分の一殿」といわれた時期は、時氏が亡くなったあとのことで、時氏の子孫らが各国の守護職を得ていた。資料によって諸説あるが、内訳を挙げると次のようになる。

      名前                 守護国
  •  満幸(時氏長男・師義の子)   伯耆・播磨・丹後
  •  時義(時氏五男)         備後・美作・伯耆
  •  氏冬(時氏三男)         但馬
  •  氏清(時氏四男)         丹波・山科・和泉
  •  義理(時氏次男)         紀伊

 守護国を11か国も有することは当然幕府からの警戒と反発を招くことになる。明徳3年(1391)、室町幕府三代将軍足利義満は、大族となった山名氏の内紛に巧みに乗じて、叛乱を起こさせ、京都に進出してきた氏清を討ち、更には満幸を敗走させた(「明徳の乱」)。
 こののち、山名氏は但馬(時煕)、伯耆(氏幸)、因幡(氏家)の三国を管領することになった。
【写真左】この辺りで完全に迷走
 上に登れば何とかなると思いつつ、登るのだが、手がかりになるものが見えない。
【写真左】この尾根を直登
 仕方がないので、勘を頼りにこの急坂を直登。
 その結果、千畳敷といわれた箇所に出た(下の写真)。
【写真左】北側付近の縄張図
 本丸から80m下がったところには居館跡(千畳敷)を中心とした郭群が配置されている。


【写真左】千畳敷附近・その1
 千畳敷の下の段当たりになる。
【写真左】千畳敷附近・その2
 縄張図にあるような明確な方形遺構としては残っていないが、かなり大きな規模である。
 このあと、そのまま西に向かう。
【写真左】分岐点
 結局、この日登城した全勝寺コースとは別の西側の谷から登る瑞峰寺コースとの分岐点まで来てしまった。
 ここから、左側に向かうコースをとり、反時計方向に回り込みながら主郭を目指す。
【写真左】縄張図
 本来は左図の上方に配置された№10の郭段から向かうつもりでいたのだが、いつまでも下の斜面をぐるぐる回っているような感じがしたので、遺構がない尾根を直登することにした(下の写真)。
【写真左】ここから再び直登
 平滑な面だが、傾斜がありロープなども設置されていないので、意外と息が切れる。
【写真左】最初の郭
 結局大分大回りしていたような気がしていたが、西側の郭群がある尾根に到達していたようだ。
【写真左】上を見上げる
 この尾根上に郭段が連続しているようだ。
 間違っていなかったことに安心し、上に向かう。
【写真左】竪堀
 当城には多くの竪堀が残るが、この写真は北側に残るもの。ただ大分埋まっている。
【写真左】次の郭段
 縄張図でいえば、主郭西の№6、№7の郭に当たると思われるが、6と7の段差は明瞭でなくなっている。
【写真左】南側の階段
 このあと、上を目指すには、一旦右側(南)に回り込むと、この階段が設置されているので、これを利用する。

 この日登城したコースでは初めての階段だ。
【写真左】やっと本丸が見えてきた。
【写真左】本丸下の段
【写真左】本丸
 西側から見たもので、東西40m×南北20mの楕円型。
【写真左】本丸に建立された石碑
 現地には石仏や燈籠など数点の石造物が祀られているが、中央の石碑には次のように筆耕されている。

“新田君諸臣碑
 當山萬施供養塔”

 おそらくこれは、後段でも紹介するように、山名時氏が当城を攻略する前の、建武4年(1337)南朝方の新田義貞が子息・義宗(又は義直)を当城に置いて、当地(但馬)を南朝方の拠点としていたことを示したものだろう。この他にも、墓碑として「新田君墓碑」と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】本丸から東の段に移動する。
 東には東西30m前後の台形状の郭(№2)が控え、その元にはご覧の鳥居が見える。これは本丸に「妙見社」という石碑が残っていたことから、以前には社が祀られていたのだろう。
【写真左】竪堀(北側)
 鳥居の手前に設置されたもので、この写真はそのうち北側のもの。
【写真左】竪堀(南側)
 北側に比べると、長さは短い。
【写真左】堀切(B)
 先ほどの鳥居のある郭(№2)を過ぎると、今度は尾根を南北に横断する堀切(B)が出てくる。堀切としては当城最大のものだろう。
【写真左】堀切(A)
 更に下に向かうと、小郭が3段続き、再び堀切(A)が配置されている。
【写真左】東端部の郭
 東に延びる郭段最後のもので、この先から下山しようとしたが、道が見えないため、再び本丸に戻り、南側斜面から東に向かった。
【写真左】分岐点
 左側が本丸で、そのまま右に向かうと神美小学校へ、向こう側に向かうと瑞宝寺跡地・全勝寺方面。

 登城口と余り離れたところに出ると大変なため、瑞宝寺跡へ向かう。
【写真左】瑞宝寺跡地上段
 驚くほど広い。
【写真左】瑞宝寺跡
 現地説明板より

“瑞宝寺跡地

 この辺りは、瑞宝寺があった場所と伝えられています。

 瑞宝寺は南北朝時代の城主・新田四郎義直公が開基で、この土地の田園の守り本尊として弁財天を祭ったと伝えられています。

 三開山の麓にある瑞峰寺は、この瑞宝寺が移転したものと言われています。”

【写真左】庭園跡か
 この辺りは一段下がり、少し水を湛えている。
【写真左】瑞宝寺跡を振り返る。
 広大な寺院跡を踏査したあと、虎口のような箇所を通って降りていく。

 この箇所(瑞宝寺跡)だけでも独立した寺院城郭の雰囲気がある。
【写真左】出口
 ここが正しい出入り口だった。

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