2014年4月3日木曜日

美作・日上山城(岡山県苫田郡鏡野町寺和田)

美作・日上山城(みまさか・ひかみやまじょう)

●所在地 岡山県苫田郡鏡野町寺和田
●築城期 文明15年(1483)
●築城者 小瀬弾正
●城主 小瀬氏
●高さ 280m(比高90m)
●指定 鏡野町指定史跡
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2013年11月8日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 西美作から山陰の伯耆(鳥取県)を超える主街道は、現在の国道179号線だが、鏡野町の西方にある吉井川支流の香々美川中流域から向かうためには、一旦鏡野町役場付近まで南下して改めて179号線に合流しなければ向かうことができない。
【写真左】日上山城遠望
 南側から見たもの。











 もっとも、香々美川をさかのぼっていくと、次第に道は西に折れ、津山市の加茂町に至り、そのまま現在のJR因美線沿いに進むと、因幡国に繋がるルートでもある。
 日上山城は、そうした西美作を拠点として、北は伯耆・因幡国両国へ繋がる要衝に築かれた山城である。
【写真左】小瀬甫庵翁碑
 東麓に設置されているもので、謹書は「文部大臣 与謝野馨」とある。与謝野氏と当城・甫庵と何らかの縁があるのだろうか。


現地の説明板より

“太閤記著者 小瀬甫庵翁略歴
   永禄7年(1567)日上山城主

 小瀬勘兵衛政秀の長子として生まれた。幼少より向学心に燃え、儒学者藤原惺窩に師事、併せて医学、軍学、史学、易学にも長じた。

 若年より宇喜多氏に従い多くの武功があった。一時豊臣秀次に医術を以て仕えたといわれる。

 又、堀尾吉晴に仕えたときは、松江城構築に功があった。吉晴亡後は浪人して政治、道徳の正道を求め、学問の研究著述に専念し、多くの著書を刊行した。
 晩年、加賀の前田利常に仕え、名著書太閤記を公にした。寛永17年(1640)77歳で没した。
     日上山城史跡保存整備委員会”
【写真左】日上山城跡要図
 上記の石碑付近には駐車場やこの説明板などが設置されている。
 当城は凡そ200m×幅20mの東西を長軸とする尾根を利用して築城された城砦で、南側の谷を挟んで隣にも遺構が残る。
 また、麓を流れる香々美川は、北から東、更に南にかけて当城を囲むように蛇行しており、事実上の壕の役目があったものと思われる。




小瀬甫庵

 本名、秀正、後に道喜、通称又次郎、長太夫、甫庵は号である。

 現地の説明板では、永禄7年(1567)に当城の城主とされている。ただ、永禄7年は1567年ではなく、1564年である。また、彼の生誕年は、永禄7年(1564)であるので、生まれた時に城主になっていたということになるが、これはあり得ないだろう。
【写真左】登城入口
 一瞬こ、の扉を見て、進入禁止かと思ったが、入る際は自分でこの門を開け、帰る際に再び自分で閉めておくようになっている。
 これほど頑丈な門扉は他の山城ではあまり見かけない。

 
 誕生地は尾張国といわれ、信長家臣の池田恒興に医者として仕え、その後豊臣秀次、そして宇喜多秀家に仕えたといわれる。宇喜多秀家は、戦国の梟雄・直家(備前・亀山城参照)を父とし、母は美作・高田城(岡山県真庭市勝山)主・三浦貞勝正室で、後に直家と再婚したお福(円融院)である。

 このお福が後に豊臣秀吉の寵愛を受けていたとされ、息子八郎は、秀吉から偏諱を受け、「秀家」と名乗り後に、五大老の一人に任じられることになる。
【写真左】登城道
 登城道は近年整備されたようで、南側の谷筋をほぼ真っ直ぐ登っていくと、この位置から右側の城域に向かって九十九折の道が整備されている。

 なお、写真の左側にも高櫓・腰郭・竪堀といった遺構が残るが、道は余り整備されていない。



 甫庵が日上山城主となった時期は、おそらく秀家らが慶長の役(1597~)から帰国してからだろう。甫庵が秀家から堀尾吉晴に主君を変えているのは、慶長4年(1599)に起こった「宇喜多騒動」が原因と考えられる。
 宇喜多騒動の詳細は省くが、騒動後宇喜多家に仕えていた主だった家臣・一門衆は退去している。この中に甫庵もいたものと思われる。
 
 その後甫庵が堀尾吉晴と接点を持ったきっかけは分からないが、関ヶ原の戦いで吉晴は東軍方についている。甫庵もそのとき既に東軍方に与していたのだろう。
【写真左】竪堀
 九十九折の途中から見えるもので、東西に伸びる郭段の南麓中央部に設置されている。








松江城の普請

 関ヶ原の戦いが終わった慶長5年(1600)の9月、堀尾吉晴はそれでの知行地・遠州浜松より、出雲・隠岐24万石で出雲に移封された。実際に吉晴が出雲に入ったのは、それから2か月後の11月とされ、当初尼子氏の居城であった広瀬の月山富田城に入城した。
【写真左】松江城地形測量図
 出典:松江市教育委員会


 しかし、富田城は近世城郭としては不向きであったため、慶長12年(1607)、吉晴の跡を継いだ忠晴が小瀬甫庵の縄張を基に、松江市亀田山に築城工事を開始した。
 竣工したのは、4年後の慶長16年(1611)であるが、吉晴は松江城の完成を見ずに6月17日急逝している。
【写真左】腰郭
 主郭の南側に残るもので、長さ約25m前後×幅5mの規模のもの。

 この写真の左側には主郭に連なる尾根が東西に延びている。



 吉晴が亡くなったあと、甫庵は著述に精を出すことになるが、さすがに浪人の身分では、生活も成り立たなくなったのだろう、甫庵の息子・素庵が加賀藩の前田利常に仕えたことから、知行を受け、ここから本格的な著述作品を世に送り出した。
【写真左】西側の堀切
 主郭を挟んで東西にはそれぞれ二条の堀切がある。

 この写真はそのうち西側のもので、深さは約2m、幅は4m程度のもの。

 



相坂城(逢坂城)

 ところで、麓を流れる香々美川を2キロ程登っていくと、日上山城の出城とされる相坂城がある。現在主郭付近には神社が祀られているようだが、北の守りとして築城されたものだろう。いずれ機会があれば登城したい。
【写真左】主郭・その1
 西側から見たもので、左側は断崖絶壁となっており、「日上山城」の看板が一文字づつ取り付けられている。
【写真左】主郭・その2
 主郭中央部付近で、北方を俯瞰したもの。
【写真左】主郭・その3
 さらに東に進む。
【写真左】物見台
 主郭から東に進んだ箇所で、少しこの位置は高くなっている。

 ただ、ご覧のように樹木があるため、南方は物見ができるほど眺望はよくない。
【写真左】東側の堀切
 東端部にも二条の堀切がある。この写真はそのうち最初の位置のもの。









円通寺

 ところで、日上山城の東麓には古刹・円通寺が建立されている。

現地の説明板より

“鏡野八景
  円通寺

 宝寿山円通寺は、惣持院と号し、弘仁7年弘法大師の開創された作州密宗最古の寺で、古くから美作の高野又は、二の宮高野神社の奥の院とも称されました。
 永正年間、福田玄蕃守枡形に城を築き、寺を外衛としていたが、永禄年間落城とともに寺も灰燼に帰した。
【写真左】枡形山城遠望
 日上山城から見たもので、標高640m余り。
町指定史跡


 時の院主成瑜上人は焦跡(やけあと)に小庵を結び、法孫覚清和尚がこれを再建し、現在に至っています。
 本尊は弘法大師一刀三禮の作の千手千眼観世音菩薩です。境内の春は桜、つつじ、夏は蓮、秋は紅葉で知られ、特に参道の大桜(周囲5m)、寺庭の「寿の松」は有名です。寺域の町立郷土館は、円通寺寺宝、名僧竺道契大僧正の遺品、或いは町内の文化、民族資料を展示しています。
 参道には、石仏あり滝あり、句碑、歌碑も並び文人等杖を引く者多く、「文化寺」とさえも称されています。

  石佛も橋も紅葉に照りつく
     浄土踏みゆく心にたのしく

鏡野町ふるさと運動推進会議”


 この中で、福田玄蕃守が築いたとされる枡形の城とは、日上山城の東方の峰に聳える枡形山に築かれた城砦で、永正年間の築城という。永正年間は1504~20年の期間となるので、おそらく山名氏の支配下にあったものだろう。
【写真左】円通寺

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