安芸・高塚城(あき・たかつかじょう)
●所在地 広島県東広島市福富町上戸野
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 鷹司大膳か
●高さ 350m(比高30m)
●遺構 郭・堀切等
●史跡 福富町史跡
●登城日 2010年10月10月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
安芸・高塚城(以下「高塚城」とする)は4年も前に登城した城砦である。
ところで、当ブログに投稿する城館の選定や順番などは決まったものはない。強いて言えば、できるだけ登城後直近の時期にアップするようにしているが、登城後の印象が薄いと、知らぬ間に忘れてしまうことがある。
【写真左】高塚城遠望
南側から見たもの。
中央部(主郭)に展望台が見える。
高塚城の記憶もそんな印象があったようで、今回登城記録データを確認しているとき、思い出したものである。
現地の説明板より
“高塚城跡
賀茂郡福富町上戸野(別名 菊ヶ城 標高350m)
河内町から福富町にかけての沼田川上流の戸野郷は、14世紀代に園城寺や東寺に寄進され、室町期には小早川則平、煕平の所領となっていたが、次第に南から大内・平賀氏の支配力がのびた所だった。城主は「芸藩通誌」によると鷹司大膳としているものの、史料的裏付けがなく、築城年代も明らかでない。
【写真左】配置図
ご覧のように現在は公園として整備されている。
現地には当時の遺構などを示す標識などはほとんどない。
この図では上段にある「山頂 展望台」付近が本丸跡になる。
ただ、城の所在するここ上神一帯は、戸野郷のうちでも南端に位置する狭い谷間なので、支配範囲はあまり広くなく、南接する造賀保(東広島市高屋町)の方面を強く意識した選地になっている。
【写真左】入口付近
しっかりした標識が設置されている。
近くには、石材店のような資材置き場がある。
城の西側麓は沼田川が半周するようにとりまいて、天然の堀の役目を果たし、東側は谷が入り込んで屋根を切断して、独立丘陵状になった部分に郭が配置されている。太尾根頂部には東西55m、南北40mの長円形郭と、その中心部分に一段高い18m×15mのほぼ円形郭があり、二重になった広い郭は城の中核となっている。
長円形郭の6m下がった所は、通路状の堀切が一周し、その外側に竪堀で区切られたほぼ10m×10mぐらいの小郭が「菊ヶ城」の別名のごとく、あたかも菊の花弁のように17ほど取り巻いている。”
【写真左】城域(公園)入口
左側に「高塚城跡入口」と書かれた看板が見える。
平賀氏と小早川氏
説明板にもあるように、高塚城の築城期・築城者及び城主名など詳細な記録は残っていない。
さて、上掲した説明板では、高塚城の西麓には沼田川が流れ、天然の堀の役目をしていた、と記されている。詳しく言えば、この川は沼田川の支流・造賀川で、南方の高屋町(東広島市)稲木と造賀の境に聳える鷹巣山付近を源流として一旦北進し、高塚城の北方1キロに所在する堀城(下段の写真参照)の北麓で本流沼田川と合流し、そこからやや南に向きを変えながら東進し、平賀氏の居城・頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)の北麓を流れていく。
【写真左】航空写真
昭和58年頃撮影されたもので、この写真に管理人がトレース追記した。
なお、この上部には現在の福富ダムがあるが、このときは未だ出来ていない。
【写真左】石碑
入口右側に設置されている。
堀城も造賀川と並行している国道375号線と県道33号線の分岐点にある城砦で、おそらく高塚城の支城的役割を担った城砦だったと考えられる。
さて、当城が所在する福富町上戸野や東隣の河内町が、南北朝期には、園城寺・東寺といった寺領地であったことが分かっている。その後室町期に至るとは小早川氏の所領になったとある。
小早川氏とは安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1で紹介した沼田小早川氏である。
小早川氏が上戸野地域まで扶植していくことができたのは、やはり沼田川があったからであろう。小早川氏の居城・高山城から沼田川を遡っていくと、高塚城までは18キロ余りであるが、当時は河川交通が主流だったこともあり、この川を使って往来されていたものと思われる。
【写真左】歩道
公園となっているので、道は整備されている。しかし、この景色を見た途端、城跡としての遺構の確認は期待できないと感じた。
その後、当城のある上戸野地区は、平賀氏の支配が及んでいく。南北朝期から室町期に至る時期、沼田小早川氏は庶流・竹原小早川氏との確執が増大し、特に応仁の乱の頃、同氏一族内の争いはもっとも激しくなっていた。おそらくそうしたこともあって、代わって南方に本拠を持つ平賀氏が進出してきたのだろう。
【写真左】主郭跡の展望台
立派な石碑は建立されているものの、現地は公園として整備することが目的だったようで、遺構の保存などは殆ど眼中になかったようだ。
公園の出来栄えとしては満足するものだが、城跡としての保存意識がほとんど感じられない。
造賀の戦い
頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)でも少し紹介しているが、天文4年(1535)、平賀一族の間で、大内氏と尼子氏のいずれに属するかを巡って、父子による対立が生じ、尼子派の息子・平賀興貞は、頭崎城に拠って、大内派の父・弘保と交戦した。この戦いは、当然ながら、それぞれの背後に尼子・大内両軍が援軍として参陣した。
この戦いで、戦場の一つとなったのが、高塚城の南方にある造賀地域である。戦いの結果、頭崎城は父・弘保側の軍門に降り、敗れた興貞は出家し、興貞の嫡男隆宗が相続することなった。
おそらく、この戦いにおいて高塚城付近も戦火を交えたものと思われる。
【写真左】主郭下の郭
『日本城郭体系』によれば、当城の要図にも示されているように、楕円形の形をなして、ほぼ同心円状に帯郭が巻き付いていたという。
近在の山城形態
ところで、こうした形態(円形もしくは楕円形)の城砦がこの近辺(福富町久方)では多くみられると記されている。
参考までに、それら類似した城砦を下段に紹介しておく(ただし所在場所は不明)。
●所在地 広島県東広島市福富町上戸野
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 鷹司大膳か
●高さ 350m(比高30m)
●遺構 郭・堀切等
●史跡 福富町史跡
●登城日 2010年10月10月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
安芸・高塚城(以下「高塚城」とする)は4年も前に登城した城砦である。
ところで、当ブログに投稿する城館の選定や順番などは決まったものはない。強いて言えば、できるだけ登城後直近の時期にアップするようにしているが、登城後の印象が薄いと、知らぬ間に忘れてしまうことがある。
【写真左】高塚城遠望
南側から見たもの。
中央部(主郭)に展望台が見える。
高塚城の記憶もそんな印象があったようで、今回登城記録データを確認しているとき、思い出したものである。
現地の説明板より
“高塚城跡
賀茂郡福富町上戸野(別名 菊ヶ城 標高350m)
河内町から福富町にかけての沼田川上流の戸野郷は、14世紀代に園城寺や東寺に寄進され、室町期には小早川則平、煕平の所領となっていたが、次第に南から大内・平賀氏の支配力がのびた所だった。城主は「芸藩通誌」によると鷹司大膳としているものの、史料的裏付けがなく、築城年代も明らかでない。
【写真左】配置図
ご覧のように現在は公園として整備されている。
現地には当時の遺構などを示す標識などはほとんどない。
この図では上段にある「山頂 展望台」付近が本丸跡になる。
ただ、城の所在するここ上神一帯は、戸野郷のうちでも南端に位置する狭い谷間なので、支配範囲はあまり広くなく、南接する造賀保(東広島市高屋町)の方面を強く意識した選地になっている。
【写真左】入口付近
しっかりした標識が設置されている。
近くには、石材店のような資材置き場がある。
城の西側麓は沼田川が半周するようにとりまいて、天然の堀の役目を果たし、東側は谷が入り込んで屋根を切断して、独立丘陵状になった部分に郭が配置されている。太尾根頂部には東西55m、南北40mの長円形郭と、その中心部分に一段高い18m×15mのほぼ円形郭があり、二重になった広い郭は城の中核となっている。
長円形郭の6m下がった所は、通路状の堀切が一周し、その外側に竪堀で区切られたほぼ10m×10mぐらいの小郭が「菊ヶ城」の別名のごとく、あたかも菊の花弁のように17ほど取り巻いている。”
【写真左】城域(公園)入口
左側に「高塚城跡入口」と書かれた看板が見える。
平賀氏と小早川氏
説明板にもあるように、高塚城の築城期・築城者及び城主名など詳細な記録は残っていない。
さて、上掲した説明板では、高塚城の西麓には沼田川が流れ、天然の堀の役目をしていた、と記されている。詳しく言えば、この川は沼田川の支流・造賀川で、南方の高屋町(東広島市)稲木と造賀の境に聳える鷹巣山付近を源流として一旦北進し、高塚城の北方1キロに所在する堀城(下段の写真参照)の北麓で本流沼田川と合流し、そこからやや南に向きを変えながら東進し、平賀氏の居城・頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)の北麓を流れていく。
【写真左】航空写真
昭和58年頃撮影されたもので、この写真に管理人がトレース追記した。
なお、この上部には現在の福富ダムがあるが、このときは未だ出来ていない。
【写真左】石碑
入口右側に設置されている。
堀城も造賀川と並行している国道375号線と県道33号線の分岐点にある城砦で、おそらく高塚城の支城的役割を担った城砦だったと考えられる。
さて、当城が所在する福富町上戸野や東隣の河内町が、南北朝期には、園城寺・東寺といった寺領地であったことが分かっている。その後室町期に至るとは小早川氏の所領になったとある。
小早川氏とは安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1で紹介した沼田小早川氏である。
小早川氏が上戸野地域まで扶植していくことができたのは、やはり沼田川があったからであろう。小早川氏の居城・高山城から沼田川を遡っていくと、高塚城までは18キロ余りであるが、当時は河川交通が主流だったこともあり、この川を使って往来されていたものと思われる。
【写真左】歩道
公園となっているので、道は整備されている。しかし、この景色を見た途端、城跡としての遺構の確認は期待できないと感じた。
その後、当城のある上戸野地区は、平賀氏の支配が及んでいく。南北朝期から室町期に至る時期、沼田小早川氏は庶流・竹原小早川氏との確執が増大し、特に応仁の乱の頃、同氏一族内の争いはもっとも激しくなっていた。おそらくそうしたこともあって、代わって南方に本拠を持つ平賀氏が進出してきたのだろう。
【写真左】主郭跡の展望台
立派な石碑は建立されているものの、現地は公園として整備することが目的だったようで、遺構の保存などは殆ど眼中になかったようだ。
公園の出来栄えとしては満足するものだが、城跡としての保存意識がほとんど感じられない。
造賀の戦い
頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)でも少し紹介しているが、天文4年(1535)、平賀一族の間で、大内氏と尼子氏のいずれに属するかを巡って、父子による対立が生じ、尼子派の息子・平賀興貞は、頭崎城に拠って、大内派の父・弘保と交戦した。この戦いは、当然ながら、それぞれの背後に尼子・大内両軍が援軍として参陣した。
この戦いで、戦場の一つとなったのが、高塚城の南方にある造賀地域である。戦いの結果、頭崎城は父・弘保側の軍門に降り、敗れた興貞は出家し、興貞の嫡男隆宗が相続することなった。
おそらく、この戦いにおいて高塚城付近も戦火を交えたものと思われる。
【写真左】主郭下の郭
『日本城郭体系』によれば、当城の要図にも示されているように、楕円形の形をなして、ほぼ同心円状に帯郭が巻き付いていたという。
近在の山城形態
ところで、こうした形態(円形もしくは楕円形)の城砦がこの近辺(福富町久方)では多くみられると記されている。
参考までに、それら類似した城砦を下段に紹介しておく(ただし所在場所は不明)。
- 仏が丸城
- 狐が城(犬丸山城)
- 松田城(次郎丸城)
- 戌(いぬ)丸城
これらについては管理人は登城・確認していないが、ひょっとして元々古墳の種類の一つである「円墳」であったものを城砦として再利用した可能性も考えられる。
【写真左】展望台から南方を見る。
造賀方面をみたもので、奥の山をこえると、西条町(東広島市)に至る。
0 件のコメント:
コメントを投稿