2009年3月21日土曜日

斐川町新指定文化財「米原氏関連寄進状、棟札」講演その2

◆前稿で取り上げた「米原氏関連寄進状、棟札」の中で、藤岡氏が特に注目したのは、諏訪神社の3号棟札の内容から、これまで不明だった綱寛の生誕年を想定できるものがあったということである。

 この3号棟札を見ると、上棟したのは永禄12年(1569)とあって、この年はちょうど山中鹿助(鹿之助ではなく、鹿助が正しいとのこと:藤岡氏)が、尼子勝久を擁して尼子再興を図りはじめた年である。



【写真】米原綱寛が祀られている学頭(がくとう)諏訪神社



 前にも記したように、米原氏はそれまで毛利方に与していたが、九州のキリシタン大名・大友宗麟方立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)との交戦中、秘密裏に米原綱寛は、大友宗麟からの手紙(現存する)を受取り、尼子再興により、毛利方を挟みうちにするという計画を双方で練っている。


【写真】立花山城(福岡県)本丸跡から、多々良浜:福岡市方面を見る







 経緯として考えられるのは、最初に鹿助から密使を用いて、宗麟に話が持ちかけられ、その後、宗麟から道雪あたりが仲介人となって、綱寛に宗麟の手紙を託した、という流れではなかったか。もちろん綱寛は、立花城や多々良浜で毛利方として交戦中であるから、宗麟の手紙は絶対に毛利方に悟られないよう、細心の注意を払って極秘に綱寛の手に渡ったと思われる。

 そうした折、毛利方(吉川元春と思われる)より、綱寛に対して、出雲で鹿助が尼子再興の旗を挙げたため、先発隊として出雲に帰り、鎮圧するよう命が下る。よほど綱寛は毛利方に信頼されていたと思われる。綱寛のその時の心境としては、余りのタイミングのよさに「ほくそ笑んだ」のではないだろうか。

 もっとも綱寛は、帰途中、石見の浜田(船で帰ってきているようだ)でしばらく足を止めている。一説には、出雲における尼子再興軍と毛利方(富田城の城番・天野氏など)の戦況を眺め、再興軍がこの段階で敗北した際は、毛利方にそのまま残るつもりだった、という見方もされている。結果としては、再興軍(尼子方)に復帰するが…
 以上のような経過を経て、上棟された棟札である。

 さて、その棟札に戻るが、この3号棟札は永禄12年(1569)のものである。それ以前の1号は天文8年(1539)で、大檀那が本来は綱寛の父・綱広であるべきだが、どういうわけか、「米原新五兵衛尉」という名になっている。この名前は米原氏の系図にも載っていない(藤岡氏も疑問を呈している)。

 2号棟札は、天文22年(1553)で、これにはあえて「大檀那」でなく「檀那」として、「米原平内兵衛尉(綱寛)」となっている。つまり綱寛の父・綱広が生存中ということだと思われるが、家督を譲っている形からこうした記名になったのではないかと思われる。

 3号棟札は、2号から16年後の永禄12年になる。こうしてみると、1号から2号までの期間が、14年であるので、遷宮の期間もこのころは定まっていない、むしろ戦国の世であるから、定めようがない。
 この3号に、綱寛、妻子、伯父(?)などの名が記され、それぞれの氏名下に「乙未」「己亥」など干支が付記されている。藤岡氏はこの点を着目し、永禄12年(1569)段階で、計算すると、各人の生誕年が割り出され、年齢が以下のような結果になるとのこと。

 綱寛は乙未 天文4年(1535)生まれで、35歳
 同婦人己亥 天文8年(1539)       31歳
 以下、こどもは、9歳、8歳、2歳、で伯父らしき人物も永正12年(1515)生まれの55歳、その息子らしき人物、天文17年(1548)生まれで22歳。


 もっとも藤岡氏によれば、あくまでも推測で確定したものではないが、綱寛に関する史料を総合的に照合すると、年齢はほぼこのあたりになるだろうとのこと。

【写真】高瀬城本丸から、多久(和)氏居城・桧ヶ仙城方面を見る








 ところで、今回の講演会で藤岡氏は特に指摘していなかったが、私はこの棟札の中に見える「大工多久和某」という人物にも興味をもった。

 棟札1,2,3号、及び綱寛が既に出雲から去っているはずの文禄元年(1592)の第4号棟札にいたるまで、常に大工は「多久和」という名が入っている。多久和という姓は、この高瀬城から北の平田・桧ヶ仙城主だった「多久(和)」氏と同じである。

 しかもこの多久和氏も、元々、今の滋賀県長浜市坂田郷からやってきた一族がその祖である。斐川の高瀬城主・米原氏の実家が、その隣・米原市であることを考えると、この二つの一族は相当前から関係を持っていたのではないかと思われる。

 米原氏が、近江佐々木・京極(六角)系で、尼子氏の被官として出雲にやってきたという説はそれなりの論拠があるが、むしろ出雲にやってきた状況は、この多久和氏との絡みが大きかったのではないか、と思えるがどうだろう。

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