吉見氏居館跡(よしみしきょかんあと)
●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見頼行(頼忠)
●標高 260m
●指定 町指定
●登城日 2010年7月21日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「島根県遺跡データベース」等)
石見吉見氏関係では津和野町にある津和野城がもっとも知られているが、吉見氏が最初に石見に住んだ場所としては、今稿で取り上げる「吉見氏居館跡」がある。
【写真左】吉見氏居館跡に建つ碑
下段の写真にもあるように、不揃いな棚田の奥にある畑地跡に建っているが、木製であるためか、文字も大分かすれている。
所在地は、津和野城のある津和野の町から北西に伸びる「津和野田万川線(17号線)」を北上し、田尻四本松というところから分岐した津和野須佐線(124号線)にいったん入り、すぐに左(南西)に向かった木曽野(木薗)という山間部にある。
ちなみにこの谷をさらに登って嘉年坂峠をこえると、長州(山口県)阿武郡に出る。
【写真左】居館跡
当時の屋敷があったところの規模は約30aだったというから、現在の中規模な田圃一筆程度だったと思われる。
写真にもあるように、背後は山に囲まれ、進入口である道路は、現在でも狭小な山道である。周辺には2軒程度の民家が建っているのみで、谷そのものも小さい規模だ。
吉見氏が戦略的に考えて、あえてこうした辺境の地を選んだ理由がわかるような気もする。
現地の説明板より
“木薗(木曽野)遺跡案内
木園(木曽野)は、津和野町大字木部の南隅に位置し、中世津和野の歴史発祥の地である。南に鬼瘤山を控え自然の要害をなし、また、鶯の鳴く四季の風情豊かな里でもある。
今から凡そ700年前、弘安5年(1282)源範頼の後裔吉見三河守頼行は、時の鎌倉幕府から沿海防備の命を受け、石見の守護として300町の地を給わり、一族13人、郎党36人と共に木部郷に入部し、ここ木園に居館をかまえた。
頼行直ちに家士を地付け、兵士1千余人と共に開拓に着手する一方、鶴岡八幡宮や壷井権現、又処々に祖霊河内社と共に開発の祖を祀り、人心を安んじ、一方御嶽・茶臼・徳永に築城、猪の丸砦を構え、北の防備とした。
永仁3年(1295)、津和野城築城縄張り、正中元年(1324)、2代直頼これを成就し居を津和野へと移した。その後も木園は祖霊を祀る地として大切にされた。
主な遺跡は次の通りである。
1、御所屋敷跡
吉見頼行の邸跡で、今は水田となっている。
2、吉見の池
吉見家の飲料水に利用したといわれ、池森家では後長く毎年元旦の若水として津和野の城へ献上したという。
3、鞭柳の碑
10代城主隆頼公、山口へ参向の際、祖廟頼義社に詣で、その時柳の鞭の枝を土手に差し置き、生き継いだので鞭柳と名づけられた。数首の和歌が刻まれている。
4、頼義社(木園神社)
源氏吉見家の祖霊社で、河内壷井権現を勧請、現在八幡宮に合祀され小社が建てられている。
5、源流寺跡と御塔
吉見頼行の菩提寺源流寺跡と吉見家の墓、後、源流寺は津和野に移され、興源寺と改められた。
平成元年2月 津和野町教育委員会 木部の歴史を守る会”
【写真左】居館跡に向かう途中の案内板
上掲の説明板が、この写真にみえる足の部分だが、この場所で道が分岐していて 、どちらに向かうのかわからなかった。
おそらく、この倒れた木製の案内板に矢印があったのだろうが、朽ち果ててしまっている。
おかげで、この付近で相当時間を食ってしまった。
上記の5に示した吉見家の墓とは、近くに頼行の奥方の墓と伝えられる宝篋印塔のことと思われるが、当日周辺を徘徊したものの、探すことはできなかった。
ところで、以前取り上げた「津和野城」(2010年1月10日投稿)や、件の現地の説明板、また度々参考にしている「日本城郭大系14巻」などにもあるように、頼行が弘安5年、西石見の沿岸警備や、木園に来住したものと記されているが、「石見町誌・上巻」では、このことに疑問を投げかけている。
これによると、弘安5年の西石見の沿岸警備(弘安の役)についたのは、頼行の父・頼忠で、さらに、恩賞としていきりなり300町(一説には500町)を宛がわれる状況ではなかったという。
というのも、当時幕府は一町歩の田地もままならない状態で、戦後処理として先ず検地から始めなければならなかった。従って、恩賞の実施ができたのは弘安9年(1286)以降だという。
また、説明板では津和野城の縄張を永仁3年(1295)としているように、築城竣工はそれよりさらに下った正中元年(1325)であろうとしている。
【写真左】冨永八幡宮の入口
この階段付近に木製の碑があり、以下のことが記されている。
“郷中氏神の総社として祀る。弘安5年(1282)、吉見氏鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して祀る”
このことから、説明板にあった頼義社(木園神社)だと思われる。
頼行の最期は、建武3年(1336)討死することになるが、逆算していくと、伝承とされている最初に功を挙げた弘安4年(1281)から50余年まで活躍していることになる。
これは余りにも無理があり、確かに前半の活躍は父・頼忠のものと考えた方が妥当と思われる。
ところで、この吉見氏居館跡は、拙稿「津和野城」でものべたように、津和野城が使用されてからも同地との往来は長く続いた。
●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見頼行(頼忠)
●標高 260m
●指定 町指定
●登城日 2010年7月21日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「島根県遺跡データベース」等)
石見吉見氏関係では津和野町にある津和野城がもっとも知られているが、吉見氏が最初に石見に住んだ場所としては、今稿で取り上げる「吉見氏居館跡」がある。
【写真左】吉見氏居館跡に建つ碑
下段の写真にもあるように、不揃いな棚田の奥にある畑地跡に建っているが、木製であるためか、文字も大分かすれている。
所在地は、津和野城のある津和野の町から北西に伸びる「津和野田万川線(17号線)」を北上し、田尻四本松というところから分岐した津和野須佐線(124号線)にいったん入り、すぐに左(南西)に向かった木曽野(木薗)という山間部にある。
ちなみにこの谷をさらに登って嘉年坂峠をこえると、長州(山口県)阿武郡に出る。
【写真左】居館跡
当時の屋敷があったところの規模は約30aだったというから、現在の中規模な田圃一筆程度だったと思われる。
写真にもあるように、背後は山に囲まれ、進入口である道路は、現在でも狭小な山道である。周辺には2軒程度の民家が建っているのみで、谷そのものも小さい規模だ。
吉見氏が戦略的に考えて、あえてこうした辺境の地を選んだ理由がわかるような気もする。
現地の説明板より
“木薗(木曽野)遺跡案内
木園(木曽野)は、津和野町大字木部の南隅に位置し、中世津和野の歴史発祥の地である。南に鬼瘤山を控え自然の要害をなし、また、鶯の鳴く四季の風情豊かな里でもある。
今から凡そ700年前、弘安5年(1282)源範頼の後裔吉見三河守頼行は、時の鎌倉幕府から沿海防備の命を受け、石見の守護として300町の地を給わり、一族13人、郎党36人と共に木部郷に入部し、ここ木園に居館をかまえた。
頼行直ちに家士を地付け、兵士1千余人と共に開拓に着手する一方、鶴岡八幡宮や壷井権現、又処々に祖霊河内社と共に開発の祖を祀り、人心を安んじ、一方御嶽・茶臼・徳永に築城、猪の丸砦を構え、北の防備とした。
永仁3年(1295)、津和野城築城縄張り、正中元年(1324)、2代直頼これを成就し居を津和野へと移した。その後も木園は祖霊を祀る地として大切にされた。
主な遺跡は次の通りである。
1、御所屋敷跡
吉見頼行の邸跡で、今は水田となっている。
2、吉見の池
吉見家の飲料水に利用したといわれ、池森家では後長く毎年元旦の若水として津和野の城へ献上したという。
3、鞭柳の碑
10代城主隆頼公、山口へ参向の際、祖廟頼義社に詣で、その時柳の鞭の枝を土手に差し置き、生き継いだので鞭柳と名づけられた。数首の和歌が刻まれている。
4、頼義社(木園神社)
源氏吉見家の祖霊社で、河内壷井権現を勧請、現在八幡宮に合祀され小社が建てられている。
5、源流寺跡と御塔
吉見頼行の菩提寺源流寺跡と吉見家の墓、後、源流寺は津和野に移され、興源寺と改められた。
平成元年2月 津和野町教育委員会 木部の歴史を守る会”
【写真左】居館跡に向かう途中の案内板
上掲の説明板が、この写真にみえる足の部分だが、この場所で道が分岐していて 、どちらに向かうのかわからなかった。
おそらく、この倒れた木製の案内板に矢印があったのだろうが、朽ち果ててしまっている。
おかげで、この付近で相当時間を食ってしまった。
上記の5に示した吉見家の墓とは、近くに頼行の奥方の墓と伝えられる宝篋印塔のことと思われるが、当日周辺を徘徊したものの、探すことはできなかった。
ところで、以前取り上げた「津和野城」(2010年1月10日投稿)や、件の現地の説明板、また度々参考にしている「日本城郭大系14巻」などにもあるように、頼行が弘安5年、西石見の沿岸警備や、木園に来住したものと記されているが、「石見町誌・上巻」では、このことに疑問を投げかけている。
これによると、弘安5年の西石見の沿岸警備(弘安の役)についたのは、頼行の父・頼忠で、さらに、恩賞としていきりなり300町(一説には500町)を宛がわれる状況ではなかったという。
というのも、当時幕府は一町歩の田地もままならない状態で、戦後処理として先ず検地から始めなければならなかった。従って、恩賞の実施ができたのは弘安9年(1286)以降だという。
また、説明板では津和野城の縄張を永仁3年(1295)としているように、築城竣工はそれよりさらに下った正中元年(1325)であろうとしている。
【写真左】冨永八幡宮の入口
この階段付近に木製の碑があり、以下のことが記されている。
“郷中氏神の総社として祀る。弘安5年(1282)、吉見氏鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して祀る”
このことから、説明板にあった頼義社(木園神社)だと思われる。
頼行の最期は、建武3年(1336)討死することになるが、逆算していくと、伝承とされている最初に功を挙げた弘安4年(1281)から50余年まで活躍していることになる。
これは余りにも無理があり、確かに前半の活躍は父・頼忠のものと考えた方が妥当と思われる。
ところで、この吉見氏居館跡は、拙稿「津和野城」でものべたように、津和野城が使用されてからも同地との往来は長く続いた。
【写真左】冨永八幡宮鳥居
道路下の参道から本殿まではかなりの距離があるがあるが、その途中の広場などを含めると、かなりの規模になる。
往時は相当参詣者があったのだろうとおもわせる雰囲気がある。
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