2014年6月13日金曜日

篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)

篠ノ丸城(ささのまるじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市山崎町横須
●築城期 南北朝期
●築城者 赤松顕則
●城主 宇野満景・黒田官兵衛か
●高さ 標高324m
●遺構 畝状竪堀群・三重堀切・土塁・郭その他
●登城日 2014年5月5日

◆解説(参考資料 「パンフレット 官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」等)
 出雲から関西方面に向かう際、管理人はよく中国自動車道を利用する。兵庫県に入って佐用ICを過ぎると、次第に上り坂となり、宍粟市山崎町の切窓峠でピークになり、そこから一気に山崎ICに向かってほぼ直線の下り坂となる。
 そして、次の山崎IC手前辺りで道は殆ど平坦面となり、このICを降りると、但馬・播磨国境に聳える藤無山(1,139m)を源流とする揖保川が車窓から見え、因幡国(鳥取)から南下してきた因幡街道(国道29号線)が合流している。
【写真左】篠ノ丸城遠望
 揖保川を挟んで東方の聖山城から見る。
※聖山城は次稿で紹介する予定。





 篠ノ丸城はこの揖保川と、中国自動車道と並行して流れる菅野川(揖保川支流)の間に挟まれた最上山に築かれている。


現地の説明板より

“篠ノ丸城址
   【所在地】宍粟市山崎町横須(しそうしやまさきちょうよこす

 赤松一族の西播磨守護代宇野氏は、宍粟郡広瀬(山崎町中心部)に居館を置いた。その背後の山上に築かれた城が篠ノ丸城である。『赤松家播備作城記(あかまつけばんびさくじょうのき)』は、南北朝期に赤松貞範の長男顕則が初めて当城を築いたとする。
【写真左】篠ノ丸城配置図
 文字が小さいため分かりずらいが、左図の中で朱文字で書かれた史跡は、江戸期に築かれた近世城郭・山崎城の城郭内にあるもので、篠ノ丸城は左上の最上山に築かれている。


 城は、北西から延びる山塊の東端(篠山・標高324m)に長方形の主郭(東西40m、南北50m)を置く。主郭は南西側に土塁と堀を備え、現状では南側の土塁中央が開口し「出入口」となっている。

 主郭西側の尾根上には、南北両側を通路に取り囲まれた方形郭が連なり、尾根西端を三重の堀切で遮断している。主郭から北側へも尾根上に二列の方形郭を段々に連ね、その東西両側に通路を設けている。
【写真左】登山口
 登城コースとしては色々あるが、この日は最上山公園の西にある駐車場に車を停め、そこから歩いて向かった。

 短距離で向かうには、上図にもあるように最上山公園の北方を走る道路を使って、遊歩道出入口附近の駐車場に停め、そこから歩くと距離は700m余りと短い。


 
 当城の最大の特徴は、北端の出入り口から西端三重堀切の間の緩やかな北側斜面が、畝状竪堀群で覆い尽くされていることである。竪堀群の上には横堀、土塁、通路が対応して城の北西面の守りを固めており、他に類例を見ない仕様となっている。このような竪堀群は本城の長水城には見られない一方で、篠ノ丸城では長水城のような石垣の使用は確認されていない。

 戦国期には宇野政頼の嫡男満景が城主となったが、天正2年(1574)、父子の不和から政頼は満景を廃嫡し殺害したと伝わる。その後、家臣の内海左兵衛が城代となったが、天正8年(1580)羽柴秀吉の攻撃により長水城と共に落城した。
【写真左】もみじ山の脇道
 途中でもみじ山公園の脇道を通るが、公園内に「千畳敷」及び「百畳敷」といった平坦地がある。
 おそらく戦国期にはこの公園内も出城の役割を担った遺構があったのかもしれない。

 黒田家の正史『黒田家譜』は、宇野氏滅亡後に黒田官兵衛が「山崎の城」に居城したと記しており、これを篠ノ丸城にあてる説がある。確実な史料から官兵衛が宍粟を領有するのは、天正12年(1584)7月のことで、同15年(1587)7月に豊前へ移封となるまでこの地を治めた。

 なお、江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』には、「役人・奉行、当地に居住といへり」とあり、平素は多忙な官兵衛に代わり代官が在城していたと考えられる。

  参考文献
    兵庫県教育委員会編集”
【写真左】登山道階段
 車で直接登った箇所から少し歩いた位置の写真だが、この位置から凡そ700m程で本丸にたどり着く。

 この日は終日雨が降り、決していいコンディションではなかったが、道が整備されていたおかげで登城は苦にならない。

 左側には「官兵衛飛躍の地 宍粟」と書かれた幟が建つ。


官兵衛 飛躍の地

 地元宍粟市(山崎町)では、当地を「黒田官兵衛の飛躍の地」として紹介している。登城したのは5月5日だが、今回の登城の目的はその前日訪れた赤穂郡の「白旗城」が主で、当城を下山した後、下半身を含め久しぶりに体力を消耗したため、この日は日帰りする体力もなく、急きょ山崎の街まで足を伸ばし、地元の旅館に泊まった。
 そして、その旅館に置いてあったのが、パンフレット 「官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」である。
【写真左】パンフレット「官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」
 このパンフには、城跡として篠ノ丸城をはじめ、聖山城、長水城、塩田城などが紹介されている。今回長水城は登城していないが、他の2城を次稿で紹介したい。


 上掲した説明板にもあるように、天正8年(1580)5月、毛利方として最期まで抵抗を続けたのがこの宍粟郡を治め、居城・長水城にあった宇野祐清(すけきよ)である。そして宇野氏攻略に活躍した一人が黒田官兵衛である。

 合戦後の天正12年(1584)、秀吉から「宍粟郡一職」を与えられ1万石を授かることになる。文字通り戦国大名としてのスタート地点でもあったわけである。そして、この地では後に非業の死を遂げる次男・熊之助が生まれた場所ともいわれている。
【写真左】篠ノ丸城要図
 現地に設置された地図だが、全体にぼやけていたため、管理人によって修正を加えている。

当城の特徴である「畝状竪堀群」は、左側(北西部)、「三重堀切」は三の郭の西(左)に図示されている。






 ただ、残念ながら官兵衛の事績を伝えるものは当地にはほとんどない。もっとも当地にあった期間が僅か3年であり、しかもこのころは鳥取城攻め(天正9年)をはじめとし、本能寺の変・山崎の戦い(天正10年)、賤ヶ岳の戦い(天正11年)、小牧・長久手の戦い(天正12年)、四国征伐(天正13年)など、もっとも秀吉・官兵衛らにとって転戦の連続で多忙を極め、宍粟に在城する暇などなかっただろう。
【写真左】伐採された展望箇所
 上の要図の右下に「展望箇所・幟設置」と記した箇所で、最近伐採されたらしく、この位置から東麓の山崎の街並みが俯瞰できる。ただ、この日は雨が降っていた為全体に靄がかかり明瞭ではなかった。

 二の郭側の最下段に当たる郭だったと思われ、この位置からは南北に流れる揖保川沿いの街道筋が見えることから、物見櫓などがあったものと思われる。

 なお、この写真には写っていないが、四つ目結の家紋が入った幟が建ち、これには「佐々木大明神」と記されていた。秀吉らに攻略された宇野氏は村上源氏赤松氏庶流で、家紋は三つ巴であるため、この幟の由来は分からない。
【写真左】聖山城遠望
 愛宕山という山に築かれた城砦で、秀吉が宇野氏を攻め落とした際、向城(陣城)として本陣を置いたといわれている。
【写真左】大手道からの出入り口付近
 先ほどの箇所から少し登っていくと、主郭(本丸)の出入り口(虎口)が現れる。
 右側には二の郭をはじめ、下方に向かって4,5段の郭が連続している。

 ご覧のように、左右には土塁が構築されており、この左(西方)に向かうと、三の郭に繋がる。

 先ずは主郭に向かって北に進む。
【写真左】本丸(主郭)
 東西40m×南北50mの規模を持つもので、ほとんどフラットになっており、奥には以前(江戸期か)社が祀られていた。

 おそらく戦国期には館(屋形)があったかもしれない。
【写真左】本丸北の段
 本丸北側すなわち、搦手道から本丸に至る間には中小の郭段が連続しているが、この写真は本丸直下の段。

 本丸からの比高差は2~3m程度。一段目はそのまま西側に回り込み、更に南に下がって西の三の郭(丸)まで繋がっている。帯郭と犬走りの役目を兼ねた段になる。
【写真左】畝状竪堀群
 篠ノ丸城は南側の険峻さに比べ、北西側の傾斜は比較的緩い。このため、夥しい畝状竪堀群が残されている。

 ただ、現地は遺構部分である法面は余り伐採・整備されていないため、明瞭には確認しがたい。
【写真左】三の丸(郭)付近
 西に伸びる三ノ丸先端部には現在ご覧のような展望施設が建っている。
 ここからさらに西に進み、尾根を寸断した三重の堀切に向かう。
【写真左】堀切・その1
 堀切は三の丸西端部から急激に降るようになっているため、ロープが設置してあり、これに捕まりながら降りる。
【写真左】堀切・その2
 一条目の堀切
 ここが最も深い。
【写真左】堀切・その3
 二条目の堀切
現在は土橋のようなもので繋がれている。
【写真左】堀切・その4
 三条目の堀切
 この堀切は大分埋まっている。
【写真左】三ノ丸から中国自動車道を見る。
 靄がかかっているため明瞭でないが、三の丸跡の展望台側には南側の樹木を伐採し、南麓を望む箇所が確保されている。

2014年6月6日金曜日

馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)

馬ヶ岳城(うまがたけじょう)

●所在地 福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳
●高さ 標高216m(比高190m)
●築城期 天慶5年(942)
●築城者 源経基
●指定 国指定史跡
●城主 新田氏、橘昌頼、草野氏、長野三郎左衛門、黒田官兵衛
●遺構 郭・堀切・横堀・土塁その他
●登城日 2014年4月7日

◆解説(参考文献『馬ヶ岳城主黒田官兵衛の軌跡』行橋市編等)
  豊前の馬ヶ岳城は、秀吉が九州平定した天正15年(1587)7月、黒田官兵衛がその功績により最初に居城とした城砦である。
【写真左】馬ヶ岳城遠望
 北側から見たもので、右に本丸、左に二の丸が控える。








 現地の説明板・その1

“黒田官兵衛の居城 馬ヶ岳城

 京都平野を眼下に一望する豊前の要衝・馬ヶ岳(216m)に初めて城を築いたのは、天慶5年(942)源経基と伝えられています。神馬の姿に似ていることから馬ヶ岳と呼ばれています。
 城の遺構は東西二つの山を中心に曲輪が造られていますが、西山の平坦面が本丸で、東山が二ノ丸です。また東山から北に下る尾根には約500mにわたる土塁や畝状竪堀群も確認されています。
 江戸時代の軍記物語などには、14世紀半ばから15世紀前半にかけて義基、義氏、義高の新田氏三代が在城したと記されています。
【写真左】案内図
 北麓にある「リレーセンターみやこ処理場」の奥に当城専用の駐車場(「西谷駐車場」)があるが、その脇にこの案内板が設置されている。

 ここから歩いてご覧の赤い線を辿りながら向かう。



 南北朝から室町時代を経て、豊臣秀吉による九州平定までの動乱の時代、豊前地域をめぐって少弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏などの群雄が覇を競いました。

 この時代、馬ヶ岳城は香春町の香春岳城、苅田町の松山城、添田町の岩石城などとともに、戦略上の重要拠点として攻防の舞台となりました。

 天正14年(1586)関白太政大臣となった豊臣秀吉は、島津氏征討を決め、翌天正15年(1587)遠征軍を率いて自ら九州に上陸します。秀吉は小倉城を経て3月29日に馬ヶ岳城に着き、滞在しています。
 九州平定後、馬ヶ岳城は豊前六郡を与えられた黒田官兵衛(孝高・如水)がその拠点を中津に移すまでの居城でした。”
【写真左】居館推定地・その1
 駐車場から暫く東に向かって麓を歩くが、途中で官兵衛が居館としたとされる杉の木という谷が見える。
 左図では円で囲んだ箇所になる。
【写真左】居館推定地・その2
 この写真に見える奥の白い建物がある場所で、現在数軒の家が並んでいる。
 なお、向背の山が馬ヶ岳城。

 ここから直接向かうこともできるようだが、地元では「馬ヶ岳ウォーク順路」という道が設定されているので、これに従う。



宇都宮氏の領地と黒田氏の所領

 官兵衛が秀吉から与えられた領地は次の通りである。
  1. 京都郡
  2. 仲津郡
  3. 築城郡
  4. 上毛郡
  5. 下毛郡
  6. 宇佐郡(西部地域)
 これらは豊前国の大半を占めるものだが、官兵衛が当地に入る前にこの地を治めていたのが、宇都宮(城井氏)鎮房である。宇都宮氏については、以前伊予の大洲城(愛媛県大洲市大洲)でも紹介しているが、鎌倉期から豊前を治め、築城郡の城井谷を本拠(城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)参照)としていた名族である。

 秀吉の九州攻めの直前まで島津氏に属していたが、急遽秀吉に従う態度を示した。ただ、このときは実際に鎮房自らは参陣せず息子(朝房)に任せている。九州平定後、秀吉は宇都宮氏に対し、国替えを命じられ、これを拒否、このため黒田氏と対立することになる。
【写真左】土塁と畝状竪堀群の配置図
 登城コースの途中にはご覧の遺構が示されている。

 土塁は、高さ2~3m、全長500m以上のもので、畝状竪堀群は50条も敷設されている。
 以下、下段の写真で示す。
【写真左】土塁と虎口
 土塁の途中に開口された虎口で、この箇所は居館跡に繋がるルートでもある。
【写真左】横堀
 土塁とほぼ並行して続くもので、この辺りには併せて畝状竪堀群も併設されている。
【写真左】畝状竪堀群
 主に横堀の右側に設置されているので、東側からの攻めを意識したものだろう。







宇都宮氏と黒田氏の戦い

 官兵衛の息子・長政は馬ヶ岳城を本拠とし、宇都宮氏の居城である城井谷に攻め込んだ。しかし、城井谷独特の地形と宇都宮氏の巧みな戦術によって、黒田氏は敗退。

 このため官兵衛は、城井谷の入り口付近に陣城を構え、谷を封鎖、その間に宇都宮氏に与同する周辺の国人領主を次々と制圧した。これにより宇都宮氏は孤立し、ついに黒田氏と和睦することになる。
【写真左】官兵衛岩と又兵衛岩
 登城途中にある展望台には、両将の名を冠した岩がある。この写真にはないが、左側には「太閤岩」と命名された岩がある。

 正面には二ノ丸と本丸が見えだす位置で、おそらくこの場所は物見櫓などがあった場所だろう。

なお、この箇所の標高は144.6mである。


馬ヶ岳城から中津城へ移る

 宇都宮氏と和睦したことにより、豊前領内平定に一定の目途がたったため、官兵衛は居城を馬が岳から東方の中津へ移し、城を築いた。これが中津城(大分県中津市二ノ丁)である。
 なお、中津城を築き始めたのが天正16年(1588)1月頃といわれているので、官兵衛らが馬ヶ岳城に在城したのは約半年程度となる。
【写真左】二ノ丸
上掲の三岩から次第に急坂となり、最初のピークとなるのが二ノ丸である。

 標高208m、およそ10m四方の規模で、ここから京都(みやこ)平野が眺望できる。


宇都宮氏一族の誅滅

 さて、中津城に入った黒田氏であったが、和睦した宇都宮氏との関係は好転しなかった。黒田氏が中津城に入ったこの年(天正16年)の4月、ついに長政は中津城において鎮房を謀殺した。この事件に絡んで、のちに黒田家臣団二十四騎の1人であった後藤又兵衛(又兵衛桜(奈良県宇陀市大宇陀本郷)益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)は長政の下を離れることになる。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう中間点
 二ノ丸から本丸に向かうコースは、思った以上に急坂な下り勾配となっている。

 その後平坦な道となって次第に本丸に向かって再び登り坂となっている。
【写真左】井戸跡か
 本丸に向かう途中で右側に伸びる小郭があるが、その北側隅には窪みが見える。

 先端部は堰堤のようなものがあるため、溜池跡のようにも見えるが、当城の水の手については他に見当たらないので、おそらくこの箇所に井戸があったかもしれない。
【写真左】北端部小郭の祠
 先ほどの位置から北に延びる郭の先端部で、郭は長さ約70m×幅5m前後の規模。
 この祠からさらに北に進むと、切崖となっている。
 この位置は二ノ丸と本丸の間にあるが、おそらく本丸側のエリアと一体のものだろう。そしてこの郭は北側の状況を確認できる場所だったのだろう。

 このあと再び元のコースに戻り、本丸に向かう。
【写真左】横堀
 本丸直下にある遺構で、本丸に向かうコースの左側から約20mの位置にある。
 南側の斜面に設けられているもので、左側土塁天端から約3m前後の深さを持つ。奥行は先端部まで踏査していないが、50mはあろうか。
【写真左】本丸・その1
 標高216mの高さ持つもので、中央には南北朝期から室町初期にかけて当城を本拠とした新田氏の石碑が建立されている。
【写真左】本丸・その2
 本丸から北東方面を俯瞰する。
前方には行橋市の街並みと周防灘が見える。
【写真左】本丸から北東に豊前・松山城を遠望する。
 豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)参照
【写真左】本丸・その3
 西側から見たもので、本丸は石碑がある個所からさらに西に約30m近く削平地が伸びる。
 この先には尾根に筋に下った約100mの位置に堀切があるということだったが、この日はここまでしか踏査していない。
【写真左】当城保存会の看板
 昨年(平成25年12月31日)地元・花熊区の方々による整備作業が行われたようで、南側斜面が伐採されていた。




◎関連投稿
 陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)

2014年6月1日日曜日

宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)

宇留津城(うるつじょう)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字宇留津
●別名 塩田城
●築城期 元暦年間(1184~85)
●築城者 緒方三郎惟栄
●城主 賀来次郎等
●形態 海城(館跡)
●比高 4.8m
●遺構 ほとんど消滅
●備考 須佐神社
●登城日 2014年4月8日

◆解説
 宇留津城は福岡県の北東部周防灘に面した築上町に築かれた海城である。
 当城については、以前石見の七尾城・その3(島根県益田市七尾)、及び宇留津城の西方にある障子ヶ岳城(福岡県田川郡香春町・京都郡みやこ町)でも少し紹介している。
【写真左】宇留津城
 宇留津城跡の一角にある須佐神社前に宇留津城の石碑が建立されている。

 この石碑の横には、「天正14年11月7日落城…」と記されている。



現地の説明板より

“宇留津城址

 天正14年(1586)、豊臣秀吉は九州統一のため薩摩の島津氏攻めを開始。先遣隊の軍艦黒田官兵衛孝高(よしたか)は、毛利、吉川、小早川の中国勢とともに小倉城の高橋氏を攻略、さらに軍勢28,000人で、2,000人が立て籠もる加来与次郎(かくよじろう)の宇留津城を攻めた。

 黒田勢は母里太兵衛が先陣を務めたが、大きな濠に阻まれた。しかし、一匹の白い犬が濠の浅瀬を渡っているのを見て、そこから一気に攻めて落城。そして妻子とも400人余りを浜で磔にしたと伝えられる。
 須佐神社から宝積寺(ほうしゃくじ)一帯が城跡で、周辺の堀跡の塩田(えんた)沼も埋め立てられてしまった。

   築上町・築城町教育委員会”
【写真左】塩田沼の地図
 付近にはご覧の説明板があり、須佐神社の南の湿田地帯を塩田沼と呼んで、昔から宇留津城の濠跡として伝えられているという。

 昭和50年頃より埋め立てが始まり、現在は濠などの痕跡はほとんど消滅している。






九州征伐と官兵衛の役割

 秀吉が九州征伐を開始するきっかけとなったのは、かつて九州六か国を手中に収めていた大友氏からの度重なる救援の依頼があったことも一因である。
 大友氏とは宗麟(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)のことであるが、宗麟が中央に援助を求めた相手は、実は秀吉が初めてではない。
【写真左】須佐神社参道
 宇留津城跡は現在の須佐神社・宝積寺を中心とした区域に当たる。
 写真は須佐神社の西側から伸びる参道入り口から見たもので、奥に鳥居が見える。

 なお、この位置で海抜は4.8mである。


 天正6年(1578)、宗麟は豊後の南隣・日向の伊東義祐が薩摩の島津氏から圧迫を受けていたとき、宗麟は義祐の依頼を受けて日向に陣を進めた。
 ところが、同年11月、高城(たかじょう・宮崎県児湯郡木城町)の戦いにおいて、島津氏と戦ったが、2万ともいわれる戦死者を出す大敗を喫し、大友氏の権威は失墜、ここから大友氏の衰退が始まった。

 さらには、南方の島津氏とは別に、築後から筑前に勢威を伸ばしてきた龍造氏などが台頭、武力による抗戦はもはや無理と判断した宗麟は、このとき初めて織田信長に援助を求めている。
【写真左】宝積寺の鐘門
 宝積寺は須佐神社参道の北側にある。









 このころ信長は、長引いた石山本願寺との抗争が終結し、西国の方へ眼を向けていた時期である。

 そして、石山本願寺を背後で後援していた毛利氏を落とすべく、九州の主だった諸将をまとめ、板挟みにする計画を立てていた。
 つまり、信長はその中の最大の勢力である大友氏と島津氏を和解させることに重点を置いていた。しかし、本能寺の変によってこの計画は頓挫してしまう。
【写真左】須佐神社
 宇留津城跡に須佐神社という出雲から来た管理人にとって縁浅からぬ社が建立されている。

 周防灘に面したこの豊前の地にスサノウノミコトが祀られた社があるとは驚きでもあった。

 宇留津の須佐神社の縁起については、現地に紹介するするものはなかった。
【写真左】出雲・須佐神社
 所在地 島根県出雲市佐田町須座730

 







 おそらく創建されたのは天正年間の落城後と思われるが、創建者は不明だ。ただ、攻め落としたのが毛利勢であることから、この中にあった熊谷氏が建立(高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)参照)した可能性もあるかもしれない。


 信長亡き後、大友宗麟は改めて秀吉に対し支援を求め、秀吉は島津・大友両氏に対し、停戦命令を出した。当然ながら大友氏はこれを受諾、島津氏も何度も家中で激論が交わされ、基本的には受諾する意思を示した。

 しかし、秀吉が停戦命令と併せて出した条件の中に、島津氏にとって納得しがたい九州全土の国分け案があり、この命令に対する回答を期限直前まで引き延ばしながら、一方で島津氏は肥後八代に出陣を開始した。天正14年(1586)6月13日のことである。
【写真左】須佐神社・本殿













 そして、7月筑後の諸城を攻略、さらに筑前に入った。島津氏が筑前において最も戦果を挙げたのが、大宰府の岩屋城(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)や宝満城である。そしてその勢威は留まるところを知らず、ついに立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)を包囲した。

 こうした情況下にあったにもかかわらず、毛利氏の動きが当初鈍かったのは、その直前まで大友氏と交戦していたため、毛利氏は薩摩の島津氏との盟約を結んでいたからである。しかし、秀吉の命を受けた毛利氏は、後段でも述べるように、ついに島津氏の動きを傍観するわけにはいかなくなった。
【写真左】刻像一石宝篋印塔
 一般的な宝篋印塔の形とは少し違うが、こうした様式のものはこの地方によく見られる一石五輪塔と類似しており、宝篋印塔とされている。

 もともと、宇留津城跡にあったものではなく、近くの旧松原街道に面した字屋敷にあったものを昭和になってから移されたという。
 天正年間の宇留津城の戦いに関係したものだろうか。


 7月10日に島津氏の動きを知った秀吉は、一方で島津氏の回答(受諾)を待ちながらも、ついに島津氏を逆賊として決断し、九州征伐の命を発した。

 このころ、九州は秀吉にとって、確かに島津氏が最大の抵抗勢力ではあったが、当地には島津・大友・龍造寺といった主だった一族とは別に、各地に中小の国人勢力が蟠踞しており、彼らもまた、中央(秀吉側)からの命などを無視する態度を固持し続けていた(和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)参照)。

 こうした九州の情勢を見定める役割を果たしたのが黒田官兵衛孝高である。官兵衛は秀吉から検使の任を受けつつも、併せて軍師として毛利勢を督促する役目も担った。
【写真左】境内を取り囲む林
 本殿を囲んで北・東・南に鬱蒼とした林が拡がる。
 この辺りが宇留津城の周防灘沿岸部にかけての防衛施設があったところと思われる。


 官兵衛としては、おそらく、九州の情勢を把握した上で、島津氏と少なからぬ与同の関係を持っていた毛利氏に対し、秀吉の意向と毛利氏の面目を保つことを最優先にして出兵するよう督促したものと思われる。
【写真左】周防灘側から見る・その1
 林を通りぬけて、周防灘海岸側から振り返ったもので、須佐神社はこの写真の中央奥に鎮座する。
【写真左】周防灘側から見る・その2
 同じく東側の海岸部のもので、こちらは海から参拝する道が設けられていたようで、鳥居が設置されている。
【写真左】周防灘
 堤防からみたもので、撮影時は干潮時だったようだ。

 官兵衛や毛利勢らは宇留津城の濠の効果が弱まる干潮時を見計らって攻めてきたのかもしれない。
【写真左】宇都宮鎮房の幟
 地元築上町では、官兵衛の活躍よりむしろ、地元の名族で悲運の武将・宇都宮鎮房を讃える幟が目立つ。




◎関連投稿
城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)