2015年2月11日水曜日

吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)

吉崎御坊(よしざきごぼう)

●所在地 福井県あわら市吉崎
●指定 国指定史跡
●築城期(創建) 文明3年(1471)
●築城者(開山) 蓮如
●形態 寺院城郭
●高さ 40m(比高40m)
●参拝・登城日 2014年6月17日

◆解説
 吉崎御坊については、越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)で少し触れているが、本願寺開立の祖・蓮如が文明3年(1471)4月、近江大津の南別所から越前吉崎に下向し、同年7月に当地に建立した寺院城郭である。
【写真左】吉崎御坊遠望
 北西麓側から見たもの。

 吉崎御坊の北麓には現在蓮如上人記念館が建ち、御坊直下には吉崎別院、吉崎御坊願慶寺、吉崎東別院などがある。


説明板より・その1

“吉崎御坊のご案内
 皆さんようこそお参りくださいました。
当、吉崎別院は通称吉崎御坊と呼ばれ、文明3年(1471)本願寺第8代、蓮如上人によって吉崎の山上(通称お山)に坊舎が建てられたことを起源とするものであります。
 現在のお山には、本堂跡を中心に当時を偲ぶいくつかの遺跡があり、室町中世の寺城の様子を今に残しています。
【写真左】東側の入口付近
 比高凡そ40mほどの小丘にあり、狭い道だが車で直接上がることができる。
 写真は東側から西方向を見たもの。


 このお山全域は昭和50年2月、国の史跡に指定されました。
 別院境内には本堂をはじめ、蓮如上人オカタミの御影を安置する中宗堂、また、鐘楼堂、資料館などが建てられています。

 なお、資料館には「嫁威しの面」の物語本光坊火中の殉死の出来事など蓮如上人に関する宝物などが展示してありますので、拝観いただき上人の御遺徳を賛仰していただければ幸いであります。
 どうぞ念力門の階段を登ってお参り下さい。

   本願寺 吉崎別院
   吉崎御坊史跡保存会”
【写真左】祐念坊霊空の墓
 吉崎御坊建立に当たっては多くの協力者がいたが、そのうち自らの屋敷を道場兼番所として提供し、北大門口参道を守ったのが祐念坊霊空である。

 俗名、日山(ひやま)の豪族縣(あがた)重兵衛、吉崎に移住して和田重兵衛と改姓。吉崎惣道場、吉崎御坊願慶寺開祖。

 
蓮如と北陸一向一揆

 蓮如が北陸の地に足を踏み入れたのは、前述したように文明3年(1471)で、彼はすでにこのとき57歳と晩年を迎えていた。

 長禄元年(1457)、43歳で本願寺8世として法燈を継ぎ、しばらく畿内を中心に教線を広めていった。当時本願寺は天台宗青蓮院の末寺の位置づけで、しかも経済的には困窮の極みで、決して恵まれたものではなかった。しかし、蓮如は布教の拡大のためには青蓮院からの独立、すなわち叡山延暦寺からの支配を抜け出す必要があった。

 蓮如は、精力的に近江の湖東・湖南に布教を広めていった。当然ながら、これに対し延暦寺からの反発を招いていくことになる。
 寛正6年(1465)に比叡山延暦寺衆徒らによる本願寺破却が勃発、以後、蓮如は追われるように場所を転々とした。越前・吉崎に蓮如が下向したのは、決して自から望んだものではなかった。
【写真左】見玉尼の墓
 蓮如は生涯で5人もの妻を持つことになる。このため、27人という多くの子息・息女がいた。

 蓮如の初婚は、27歳という当時としは晩婚であるが、最初の妻は伊勢氏の出とされる平良房の娘・如了(にょりょう)である。如了はその後病死したため、わずか14年の夫婦生活であったが、二人の間に4男3女と7人儲けた。

 見玉(けんぎょく)は、この如了との間にできた子で、二女である。このころはもっとも生活が苦しいときで、見玉7歳のとき如了が亡くなり、長男・順如を除いてほとんどが禅寺や尼寺に預けられた。見玉はその後度重なる不幸が続き、京都から父蓮如を頼って吉崎にやってきたが、病に罹り、26歳の生涯を終えた。死ぬ間際には吉崎御坊が完成し、父と共に喜びながら浄土へ旅立ったという。
 

 しかし、のちに蓮如が真宗教線のために確立した「講」や「御文」などが、この吉崎において花を開き、吉崎御坊は瞬く間に多くの参詣者を集め、当地には「多屋」と呼ばれる宿坊が軒を連ね、吉崎は巨大な宗教都市を生むことになる。

 ところで、吉崎は現在の福井県あわら市にあって、北隣の石川県加賀市と接している。こうしたことから、越前と加賀の両国と常に関わる場所でもあった。ちなみに、吉崎御坊から600m程北に進むと、大聖寺川が流れており、同川を6キロほど遡ると、以前紹介した大聖寺城(石川県加賀市大聖寺錦町)に至る。
【写真左】本堂跡と刻銘された石碑
 同坊跡のほぼ中心部に祀られている。









説明板より・その2

“吉崎御坊の本堂跡
 文明3年5月吉崎へ下向された蓮如上人は、この御山の地形が大変よいとして原始林を伐り開き整地をして、7月27日から門徒衆の働きによりかたのごとく御坊を建立し、諸国から集まる多くの門徒に真宗の御法をおときになった。

 照西寺(滋賀県多賀町)の古絵図によると、本堂は南面し柱間5間4面、正面中央に向拝があって、中に御本尊と親鸞聖人の御影像を安置し、本堂の西側に庫裡と書院があった。

 吉崎御坊は文明6年(1474)3月28日、火難にあいその後再建したが、翌年8月21日再び戦国の動乱で焼失し、上人は4年余りで吉崎を退去された。その後、永正2年(1506)三度火災にかかり、御坊跡は荒廃のままとなった。”


 二曲城(石川県白山市出合町)の稿でも紹介したように、蓮如が吉崎御坊を建立し、布教を開始して凡そ1年、蓮如は御坊を一時閉門し、門徒の出入りを停止した。

 この理由は定かでないが、翌文明5年(1473)9月、湯治を目的に山中温泉に向かった。心身ともに疲れていたのであろう、このころから彼には上洛の意志があったとされるが、すぐには京に向かわず、一旦は加賀の藤島に足を止めた。
【写真左】蓮如上人の銅像・その1
 同坊跡の南側に建立されている。
高村光雲作で、光雲四大作の一つといわれ、昭和9年10月完成。高さ5m、台座約7m。
【写真左】蓮如上人の銅像・その2
 上人は北の日本海を眺めるように立っている。








 北陸や上越地方は元々親鸞聖人が足跡を残したところであり、しかも、加賀藤島には本願寺5世・綽如が創建した超勝寺がある。蓮如の藤島行きとは、事実上この超勝寺を拠点とした旅であった。

 藤島に滞在して約1か月、吉崎の多屋衆・門徒宗から、蓮如に御坊・吉崎に戻ってほしいとの要請が湧き上がった。同年11月、蓮如は再び吉崎で報恩講を開催した。ところが、その翌年の文明6年3月吉崎御坊は火災に遭った(下段の「本光坊了顕の墓」参照)。
【写真左】本光坊了顕の墓
 文明6年3月の火災のおり、了顕は親鸞聖人直筆の教行信証六巻の中信の巻、を猛火の中飛び込み、聖教を抱えたまま壮烈な殉教の死を遂げたという。



 布教の道場が焼失したのもつかの間、以前から確執のあった加賀守護富樫家の内紛により、富樫政親から蓮如に対し支援依頼が届いた。

 政親は弟・幸千代と敵対し、一時幸千代に追われていた。この内紛は元を辿れば、応仁の乱が引き金となったものだが、幸千代が真宗高田派と与していたことから、蓮如は止む無く政親に協力する態度を示した。
【写真左】西から北側の急斜面
 本格的な山城遺構のようなものはないが、比高40mの小丘部に設けたことや、こうした急傾斜面が、東から西にかけてあることを考えると、多少は防衛上の観点も考慮したものだったと考えられる。


 戦いの結果、幸千代を滅ぼしたが、その戦いの主戦力は加賀門徒をはじめとする一向一揆衆であった。彼らはその後、さらなる勢力を拡大し、守護として返り咲いた政親にとっては逆に脅威となっていった。当然ながら、政親と蓮如との信頼関係は揺らぎ、さらに蓮如自身も彼ら門徒衆が限りなく武装化した集団となることを危惧していた。

 文明7年(1475)3月、ついに加賀一揆衆は、富樫政親によって破れ、主だった者は越中へ奔った。7月、蓮如は敗走した門徒たちを追って越中井波瑞泉寺までたどり着いた。おそらくこれは、弟子の一人で一揆を扇動した下間蓮崇を質す目的もあったのかもしれない。
【写真左】御坊跡から北方を俯瞰する。
 御坊の北麓縁には西側から伸びてきた北潟湖が見え、中央の小山(鹿島神社)の左側の水道を介して石川県から流れてきた大聖寺川が合流し、そのまま日本海へ注ぐ。

 蓮如が吉崎を退去する際は、この海路を使って舟で若狭小浜に向かったとされる。


 8月、越前・加賀国の一向一揆衆は、もはや蓮如が思い描いた門徒衆とはなり得なくなったのだろう、下間蓮崇を破門し、同月21日、吉崎を退去した。

 その後、加賀国では長享2年(1488)6月、再び盛り返した加賀の一揆衆は、遂に富樫政親を滅ぼし、ここに門徒領国、すなわち「百姓の持たる国」(鳥越城・その1(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)参照)を誕生させた。

 吉崎を退去した蓮如はその後、京に戻り文明10年(1478)山科に本願寺を造営、長享の一揆の翌年、寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居所を構えた(山科本願寺跡(京都府京都市山科区西野阿芸沢町)参照)。
 蓮如の最後の事績となったのが、82歳となった明応5年(1496)9月に、大坂御坊(後の石山本願寺)を造営したことである。そして3年後の明応8年(1499)、85歳の波乱に富んだ人生を終え遷化した。
【写真左】宝物館・太鼓堂
 吉崎御坊跡を降りて、麓に向かうと最初に目に留まるのがこの太鼓堂である。

 真宗大谷派別院(東御坊)の建物で、別院本堂が竣工する2年前の延享2年(1745)、越後下関の関三左衛門によって、大工小屋として建てられたという。



【写真左】念力門


説明板より・その3

“念力門の由来
 この門は天正19年(1591)豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進したもので、元治元年(1864)「蛤御門(はまぐりごもん)の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守った由来により、「火消門」ともよばれた名高い門であります。

 昭和24年(1949)11月西本願寺より御下附(当時輪番福井正善寺住職・巨橋義信師)100余名の信徒によって京都から250粁(約60里)16台の荷車で念仏のかけ声と共に運ばれたものです。

 なお、念力門の名は西本願寺第23世・勝如上人によって命名されました。ちなみに、この石碑の裏面には次のように刻まれております。…(以下略)”
【写真左】大谷派 吉崎別院(東別院)
 この他江戸期に建立された建物が並んでいる。

2015年2月6日金曜日

平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上)

平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)

●所在地 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
●指定 国指定史跡
●備考 平泉寺城
●創建 養老元年(717)
●開祖 泰澄
●遺構 砦等
●登城日 2014年6月17日

◆解説
 平泉寺白山神社については、先般越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)二曲城(石川県白山市出合町)で取り上げたように、中世越前・加賀国で勃発した一揆の際、深くかかわった寺院城郭である。
【写真左】白山神社・本殿













 現地の説明板より・その1

"平泉寺白山神社説明文

 福井、石川、岐阜の三県にまたがる白山(標高2702m)、古くから信仰の山として、富士山や立山と共に日本の三名山と仰がれました。そして白山は、福井県が生んだ偉大な宗教家泰澄大師によって開かれ、ここ平泉寺白山神社も、大師によって養老元年(717)に創立されました。
【写真左】平泉寺白山神社境内案内図
 主だった史跡は現在の尾根沿いに立ち並んでいるが、当時はこの寺社を中心として麓及び、南北の谷間にも多くの家が建ち並んでいたといわれている。


 以来、平泉寺は、白山の表参道として、更に中世には、48社36堂6000坊が建ち並び、多くの僧兵を擁して大いに栄え、この時代には福井県(当時の越前)の宗教、文化、武力、の中心として、強大な勢力を誇っていたと伝えられています。
 ところが、天正2年(1574)に加賀の一向一揆の乱入によって、全山ことごとく焼失してしまいましたが、豊太閤の時に再興され、尚白山を管理していましたが、明治4年(1871)に白山は、加賀に編入され、同時に神仏分離の命令によって寺号を棄てて白山神社となって今日に至っています。

 しかも今猶大社の面目を残し、全盛時代を物語る参道の石畳、本社前の大石垣、大拝殿当時の礎石をはじめとして、老木が左右に立ち並んでいます。更に600年前に建てられた楠木正成公の墓塔や、永平寺奉納の石燈籠など、数多くの史跡に富み、平泉寺城址として国の文化財に指定をされています。

 また、この境内には慶長年間に造られたといわれる旧玄成院庭園があり、国の文化財に指定されています。このように境内がそのまま史跡であり、数多くの文化財が保存されている所は、他には見当たりません。”
【写真左】参道入り口付近
 ここから石畳を使った緩い坂道がしばらく続く。








上掲の説明板と重複するが、もう一つのものも転載しておく。

現地の説明板より・その2

“白山神社
   福井県勝山市平泉寺町鎮座

御祭神  本社   伊弉尊(いざなみのみこと)
       別山社  天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
      越南知社(おおなむちしゃ) 大己貴尊(おおなしちのみこと)(大国主命)

創建   養老元年(717)
【写真左】六千坊旧蹟 塔頭
 天台宗霊應山顯海寺(けんかいじ)
 参道入り口付近の左側に残る。
なお、この近くには泰澄大師廟があったのだが、写真に撮ってない。


由緒

 当社は白山の開祖・泰澄大師の創建にかかる。大師は白山登拝の途中林泉(今の御手洗池)を発見され、そこで白山の神の託宣をうけられ、当地が神明遊止の聖地なのを知り、社を建てて、白山の神を奉斎されたのに始まる。

 白山信仰の中心地で、古くは白山平泉寺と呼ばれ、後世一般に平泉寺の名で知られたため、寺院であるかのようにおもわれてきたが、本来神社である。
 平安時代以降白山登拝の拠点である白山三馬場の一つとして隆盛を極めた。
【写真左】最初の鳥居



 鎌倉時代のはじめ、兄頼朝に追われた源義経が奥州平泉に落ち延びる途中、当社に詣でたことが『義経記』に見え、鎌倉末の後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に呼応して、当社の僧兵が大野郡牛ヶ原の地頭を攻め、滅ぼしたことも『太平記』に見え、著名なことである。

 中世の最盛期には、社領9万石、48社・36堂・6000坊とうたわれ、戦国時代には一乗谷の朝倉氏とともに越前における一大勢力であった。平泉寺出身の三光坊(さんこうぼう)は、能面師の祖と仰がれている。

 このような当社であったが、惜しくも天正2年(1574)折から係争中の一向一揆のため放火せられ、全山一時に灰燼に帰した。その後約10年にして再興せられ、豊臣秀吉をはじめ、江戸時代に入ると、越前藩主松平家の篤い崇敬をうけ、やがて明治維新に際し、政府の神仏分離令により長年の神仏習合の姿を脱し、本来の白山社に復し今日に至っている。”

城跡としての遺構

 現在残る平泉寺の遺構は説明板にもあるように、天正2年(1574)におこった一向一揆との戦いで、全山が焦土と化したため、最盛期にあった主だった建物などはほとんど焼失している。そして、後に秀吉や江戸期に入ってから再興されている。

 しかし、城砦遺構としては、わずかに砦が挙げられる。これは現在の平泉寺参道を中心とする尾根筋ではなく、北側の谷を隔てた北谷地区側の尾根に残るもので、2か所確認されている。もともと、この北谷に旧平泉寺境内があったとされ、当該砦群も北方の防衛として築かれたものだろう。残念ながら当時探訪した日は少し雨も降り、その場所は踏査していない。

 なお、砦とは別に平泉寺正面に大規模な堀切があったとされるが、この場所がどのあたりなのか管理人には確認できなかった。
 ところで、当社周辺には大変に多くの石積・石垣が現在でも残るが、これらの技術は後の近世城郭築城の基礎となったともいわれている。
【写真左】旧玄成院庭園入口

 説明板より

 “旧玄成院(げんじょういん)庭園

 昭和5年10月に国の名勝に指定された本庭園は、享禄年間(約460年前)に室町幕府の管領・細川武蔵守高国により作庭されたと伝えられ、現存する庭園としては北陸で一番古い庭である。
【写真左】旧玄成院庭園


 様式は枯山水。築山の正面高い所に一際高く立っている石が本尊石で、この石を中心に渦巻状に石が配置されている。

 池の左手奥は滝を模した石組で、池の右に鶴島、左に亀島を配し、亀島の近くには石橋も架けられ、池の前には宝船に形どった一位の木があり、蓬莱の趣を示している。

 なお庭の左隅の五重の石塔には永享6年(1434)の銘があり、沙羅双樹とともに好古の客の喜ぶところである。”
【写真左】本社・拝殿入口前の鳥居
【写真左】奥に拝殿
 この辺りは大変に広く、奥に拝殿がみえるが、そこからさらに上にむかったところに本社がある。
【写真左】拝殿前の通路左側
 現在はご覧の通り何もないが、当時は何らかの建物が建っていたものと思われる。
【写真左】拝殿

説明板より

“拝殿 安政6年(1859)の造営
 天正2年(1574)兵火にかかって焼失する以前は、正面45間という我が国最大の拝殿であった。今も左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っている。

 その中央部に再建された現在の拝殿は、江戸時代の寄棟造味榑葺(くれぶき)の簡素な建物ではあるが、天平時代の風情をよく残しているといわれる。

 正面入口にかかっている「中宮平泉寺」の額は一品天眞親王(てんしんしんのう)の筆。拝殿内の絵馬は越前藩主松平家以下の奉納にかかり、桃山以降の逸品である。”
【写真左】本社・その1
現地の説明板より

“御本社
  寛政7年(1795)の造営

御祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
 現社殿は越前藩主松平重富公による再建で総欅(けやき)の入母屋榑葺(くれぶき)。昇り竜の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。
【写真左】本社・その2

 御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。今は失われているが、中世から近世には、さらに金剱(かなつるぎ)社と加宝社が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。”
【写真左】納経所

説明板より

“納経所(のうきょうじょ)
平安の頃より六十六部といって、滅罪の経典である法華経を写経して、その一部ずつを日本六十六か所の神社に納めながら諸国を巡礼したが、とくに江戸時代には盛んにおこなわれた。

 越前での納経所は当社だけである。境内にある結(むすび)神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が今も立っている。”
【写真左】三之宮
説明板より
“三之宮
   明治22年の改築
安産の守護神として信仰が厚く、そのために当社は昔から安産の御守りと岩田帯を頒布している。”
【写真左】楠木正成公墓塔
説明板より

“楠木正成公墓塔
  延元年間(約650年前)の建立

 当社は後醍醐天皇の建武の中興に際して、北條氏の一族を大野郡牛ヶ原に攻め滅ぼすなど、官軍との関係が密接であった。
 古い縁起によると、楠木正成公の甥恵秀律師(えしゅうりっし)は、平泉寺衆徒の1人で、延元元年(1336)当社三之宮に参籠していると夢に大楠公が騎馬姿で現れ、不思議に思っていたが、やがて大楠公湊川戦死を聞き知るにおよんで、それがまさに夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を立てて菩提を弔った、と伝える、
 周囲の石棚と参道は寛文8年(1668)、越前藩主松平光通公の奉納によるものである。”
【写真左】分岐点
 左方向・法恩寺登山口へ、右へ剱の宮へ、手前平泉寺本社へ。

2015年2月2日月曜日

大聖寺城(石川県加賀市大聖寺錦町)

大聖寺城(だいしょうじじょう)

●所在地 石川県加賀市大聖寺錦町
●指定 加賀市指定文化財(昭和35年10月7日)
●高さ 67~70m
●築城期 鎌倉時代
●築城者 狩野氏
●城主 狩野氏、一向一揆、溝口秀勝、山口玄蕃頭宗永、前田氏等
●形態 連郭式
●遺構 郭・土塁・空堀
●登城日 2014年6月18日

◆解説(参考文献『大聖寺城跡発掘調査現地説明会資料』加賀市教育委員会H24・6・3、「雲州松江の歴史をひもとく」松江歴史館編集等)
【写真左】大聖寺城遠望
 南東の大聖寺駅側から見たもので、左側には津葉城が隣接する。

【写真左】大聖寺城要図
 大聖寺城跡縄張調査図を参考に主だった遺構を作図した。

 なお、この大聖寺城の西側(同図左上)の谷は、「骨が谷」と呼ばれているが、この谷を介して隣接する丘陵地は、「津葉城」があったとされる。



現地の説明板より

大聖寺城址錦城山の由来

 標高67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。
【写真左】錦城山(大聖寺城址)公園案内図
 登城口に当たる東麓部に設置されているもので、この位置には忠霊塔・芝生広場を含め駐車場が完備されている。



 本丸をはじめ、二ノ丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防御を固めていた。
 慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封したのち、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。
 慶長5年、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍1,200に対して、前田軍は25,000の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子をはじめ多くの将兵が討死した。
【写真左】登城道
 東側の駐車場から歩いて向かう。
 登城したのが、梅雨時であったため雑草の丈が伸びて遺構の様子を見るのにはあまりいい時期でなく、藪蚊に大分咬まれた。


 殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長は、すぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。
 藩政時代はお止め山として、一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の黄葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。

 なお、大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。
     平成14年12月  加賀市”
【写真左】贋金造りの洞穴

説明板より

“贋金造りの洞穴
 明治元年明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、この洞穴の中で贋金を製造した。

 銀製品をとかし、弐歩金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に露見に及び、製造責任者市橋波江に切腹を命じた。
 然し子息には倍の禄を与えて功に報いた。この事件をパトロン事件という。(註 パトロンとは弾薬の意)”

大聖寺城(錦城山)の歴史

 大聖寺城及び、津葉城が所在するこの小丘陵地は、錦城山と呼ばれている。大聖寺というのは、この錦城山に白山寺の末寺白山五院の一つ大聖寺があったことに由来している。
 現地の説明板には主に天正11年以後のことが記されているが、ここではそれ以前の主だった動きを少し紹介しておきたい。
【写真左】東丸
 大聖寺城には大小の郭が大変多く残るが、そのうちこの東丸の郭はもっとも眺望の効く箇所で、特に大聖寺の街並みがよく見える(下の写真参照)。
【写真左】大聖寺の街並み
 左側奥には加賀市役所や大聖寺駅が見える。









 築城期は鎌倉時代、狩野氏が築いたとされているが、詳細は不明である。その後南北朝時代の建武2年(1335)、『大聖寺城」の初見が『太平記』に見られる。

 加賀の鳥越城・その1(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)でも述べたように、同国では一向一揆による支配が強くなっていくが、戦国時代の弘治元年(1555)、越前の朝倉教景が大聖寺城に籠る一揆勢を攻撃し、落城させたとある(『朝倉始末記』)。
【写真左】下馬屋敷跡
 東丸を抜けてさらに西に進むと、途中で谷間に配置された下馬屋敷跡がある。
 また、この谷の上段には番所屋敷跡が造られている。

 このあと、再び南側の尾根筋伝いを進み、鐘ヶ丸に向かう。



 信長が足利義昭を奉じて入京する前年の永禄10年(1567)、一揆勢が居城としていた加賀・松山城及び、朝倉氏が拠っていた大聖寺城が、義昭の仲介によって焼却された。

 いずれも信長の支配がこのころから次第に強くなっていったことを物語るものだが、天正年間に至るとその勢いは増していき、同3年(1575)柴田勝家が改めて朝倉氏の拠る大聖寺城を奪回し、信長が佐久間盛政を城番として置いた。5年後の天正8年(1580)、信長は新たに大聖寺城主として勝家家臣の拝郷五左衛門を置いた。そして、本能寺の変において信長が亡くなると、秀吉がその跡を継いていくことになる。
【写真左】鐘ヶ丸・その1
 当城の中では二の丸と同じく最も規模が大きい。
【写真左】鐘ヶ丸・その2
 西側(左)には土塁が配置され、その外側は切崖となって、下段に腰郭が配置されている。
【写真左】鐘ヶ丸・その3
 鐘ヶ丸の北側にはそれぞれ1~2m程度の比高差を持つ腰郭が2段附属されており、一旦この鞍部で本丸側と区画されている。
【写真左】土塁
 鐘ヶ丸側のもので、当城にはこうした規模の大きな土塁が多くみられる。
【写真左】鐘ヶ丸から下の道に降りる。
 鐘ヶ丸の北西端を過ぎると、本丸の西側にある谷沿いに下る道がある。
 写真手前が鐘ヶ丸側で、左に向かうと西の丸になる。上部は本丸側の切崖に当たり、ここから直接登ることはできない。
 このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
 日当たりもよくなく、湿気がかなりある。植物関係には全く疎いが、これまであまり見たこともないような草が多い。
【写真左】馬洗い池
 西の丸の東側にある池で、現在は殆ど水が溜っていない。
【写真左】発掘調査跡か
 記憶が定かでないが、三の丸の脇を踏査しているとき、右側斜面にあった箇所で、法面の崩落修理にも見えるが、発掘調査後復旧のために積まれた土嚢にも見える。
 また、付近にはこの箇所以外にも調査跡とみられる箇所があった。なお、この斜面の上部に二の丸がある。
【写真左】三の丸・西の丸・戸次丸分岐点
 三の丸の長軸は長いものの、幅が狭いせいか、良好な写真は撮っていなかった。
 このあと、先ず東端部の戸次丸に向かう。



戸次丸(べっきまる)

 大聖寺城には多くの郭が残るが、その中で東端部に伸びる尾根筋には、戸次丸(べっきまる)という名の郭がある。

 この名前の由来については、二つのことが挙げられる。一つは、元織田信長の家臣で天正4年(1576)に当城の城主となった戸次広正の名前から命名されたもの。戸次広正の元の名前は、梁田広正とされ、後に朝廷から秀吉、光秀らとともに右近太夫に任ぜられ、豊後の名族戸次(別喜・大友)の姓を下賜されたといわれる。

 もう一つは、後段で紹介するように、慶長5年に行われた大聖寺城における戦いで敗れた山口玄蕃充が、秀吉に仕えたとき、豊後大友義統の改易に伴って豊後国に入り、太閤検地を行っているが、その時の経験から本人が名付けた可能性もある。
【写真左】戸次丸
 上記分岐点から東の尾根伝いに進んで行くが、それまでに4ヵ所の郭段が連続していく。先端部の戸次丸は南北に長い三角形をなしており、その下段にはさらに2段の腰郭が配置されている。

 写真は戸次丸の入り口付近で、この日は次第に雑草の草丈が長くなってきたため、この辺で引き返す。
 そのあと、改めて分岐点に戻り、二ノ丸を目指す。
【写真左】二の丸
 鐘ヶ丸とほぼ同規模の大きな郭で、北面の周囲には土塁が囲繞する。

 このあと、更に西に向かい本丸を目指す。
【写真左】本丸下段の郭付近
 北側の土塁箇所にブルーシートが掛けられているが、発掘調査箇所と思われる。






山口玄蕃頭宗永

 説明板にもあるように、城主宗永は関ヶ原の戦い前、西軍(石田三成方)に与し、東軍方の前田利長と戦った武将である。

 大聖寺城における戦いは、宗永らは、1000騎にも満たず、一方前田方は2万以上の大軍である。衆寡敵せず、宗永・修弘父子は自害した。ときに、慶長5年(1600)8月3日、関ヶ原の戦い1か月前のことである。

 なお、宗永父子は自害し、修弘の弟、弘定もこののち、大坂の陣において豊臣勢に与するが、戦死している。しかし、修弘または弘定の子であろうか、子孫はその後出雲・松江藩に仕えている。
【写真左】山口玄蕃頭宗永公之碑
 二の丸を西に進み、少し坂を上っていくと、やがて南北に伸びた本丸が見えてくる。

 その一角には、慶長年間に当城で討死した城主・山口宗永の慰霊碑が祀られている。



 松江歴史館編集による「雲州松江の歴史をひもとく」という本の中に「松江藩士のルーツ」というのがある。これを見ると、加賀国からは2人が仕えている。

 二人とも山口宗永の子孫かどうか不明だが、禄高では、一人が100~499石、もう一人が10~99石と小禄である。しかし、明治維新後になると、この系譜の中から、日銀の理事となった山口宗義や、明治時代を代表する建築家・山口半六などが輩出している。
【写真左】本丸・その1
 西側(写真右)は長い土塁があり、その土塁の一角には櫓台となった高まりがある。
【写真左】本丸・その2 土塁
 右側の郭底面からおよそ4m前後の比高を持つ土塁で、左側は急傾斜の切崖となっている。

 当城は全般にいえることだが、標高100mにも満たない平山城ながら、要所の切崖はかなり鋭角に削ぎ落とした要害を持つ。
 宗永らが、少数精鋭で果敢に前田勢と戦った様子がこれらの遺構からも想像される。
 このあと、中央の谷に向かって下山する。
【写真左】郭段
 すべての郭に名称がついてはいないが、いずれも施工精度が高く、雑草は繁茂しているものの、登城時期がよいともっと見ごたえがあると思われる。


深田久弥

 帰宅してから知ったのだが、大聖寺(町)は、小説家・登山家の深田久弥の生誕地らしい。

 彼が登山にのめり込むきっかけとなったのが、中学生のとき(大正7年)、友人と登頂した白山だったという。地元の山ということもあるが、この山は往古から人を引き付ける山のようだ。
 もっとも、ほとんど標高1,000mにも満たない山城登城で息が切れている管理人には別世界だが……。

2015年2月1日日曜日

新田義貞戦没伝説地(福井県福井市新田塚)

新田義貞戦没伝説地
(にったよしさだせんぼつでんせつち)

●所在地 福井県福井市新田塚
●別名 新田塚(燈明寺畷 新田義貞戦没伝説地)
●指定 国指定史跡(1924年12月9日)
●遺構 なし
●出土品 鉄製冑
●探訪日 2014年6月17日

◆解説
 前稿越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)でも紹介したように、今稿では新田義貞が自刃したといわれる「新田義貞戦没伝説地」を取り上げる。

現地の説明板より

“国指定史跡
 燈明寺畷(とうみょうじなわて)
   新田義貞戦没伝説地

 明暦2年(1657)農民がこの地の水田から鉄製冑と掘り出した。当時の藩軍学者井原番右衛門がこれを暦応元年(1338)閏7月にこの付近で戦死したと伝えられている新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞戦死の地と考えられるようになった。


 福井藩主松平光通は万治3年(1660)、この地に「暦応元年閏7月2日、新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。
 以後、この地は義貞戦死の地とされ「新田塚」とも呼ばれて、今日にいたっている。
    福井市教育委員会”
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その1
 道路側からみたもの。










出土品比定地

 当地は、大正13年(1924)12月9日に国の指定を受けているが、近年になって、出土品のうち、鉄製冑が義貞時代すなわち南北朝期のものでなく、戦国時代の様式(小田原鉢)のものだと指摘されるようになっている。

 こうしたことから、比定地についても若干の疑義があるようだが、当時の義貞と斯波高経らが戦った場所は、多少の誤差はあったとしても、この新田塚付近であることは先ず間違いと思われる。

【写真左】新田義貞戦没伝説地・その2
 東側に社を置き、境内はおよそ南北60m×東西30mの規模の持つ。






燈明寺(畷)

 当地の西の脇を南北に走る芦原街道(県道5号線)を北に進むと、九頭竜川に至るが、その街道の東と九頭竜川に挟まれた地区は、灯明寺町と呼ばれている。

 実際に同町内に同名の寺院もあるが、この区内を東西に走る馬渡川が流れており、燈明寺畷(なわて)という名が示すように、当時は築堤されていない九頭竜川水系が不定形に流れ、湿地帯の中に田圃が点在していたような地勢であったと思われる。

【写真左】新田義貞戦没伝説地・その3
 新田義貞を祀る社が奥に建立されている。これがおそらく藤島神社だろう。

 新田氏の本貫地は上野国(群馬県)新田郡新田荘で、源義国を祖とし、新田氏8代である。
 本殿前には、新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」の入った賽銭箱が置いてある。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その4
 横から見たもの。











燈明寺城

 なお、義貞が斯波高経らの諸城を攻略するために築いたとされる向城・燈明寺城の所在地については、本稿の戦没地から芦原街道をさらに北へ約1キロほど向かったところにある現在の白山神社付近といわれている。

 江戸時代の地誌『越前国城跡考』という史料には、「24間四方のうち、掻き上げ形あり」と記されていることから本格的な築城ではなく、あくまでも暫定的な使用を目的として築かれたという。
 近くにあったものの、残念ながら管理人はこの場所については当日探訪していない。ただ、幸いに、Googleのストリートビューで白山神社が確認できるので興味のある方はご覧いただきたい。
【写真左】新田義貞戦没伝説地・その5
 周辺部は公園のような扱いとなっているようだ








新田義貞の墓

 燈明寺畷において自刃した義貞であったが、その頸(首)は黒丸城の斯波高経のもとに届けられた。当初、この首が誰のものであるのか分からなかったという。そこで高経が首実検をしたところ、義貞に似ており、眉の上の矢傷及び、所持していた名刀・鬼切丸を見て、彼であったことが分かった。
【写真左】新田塚の碑
 境内に建立されている。











 その後、高経は直ぐに時宗の陣僧8名を現地に派遣して遺骸を収容し、坂井市丸岡町の称念寺に送り、葬儀を執り行った。しかし、頸は再び京へ送られた。おそらく足利尊氏において、直に実検する必要があったのだろう。

 尊氏はこのあと、北朝光明天皇より征夷大将軍に任じられた。同年・暦応元年(1338)8月11日のことである。


◎関連投稿

金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)
脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)