2009年12月5日土曜日

小国城(島根県浜田市金城町小国)

小国城跡(おぐにじょうあと)

●所在地 島根県浜田市金城町小国
●探訪日 2009年11月27日
●標高 503m
● 遺構 空堀、郭、帯郭、堀切、石垣
●築城期 中世
●城主 徳田刑部少輔

◆解説(参考文献:「島根県遺跡データベース」等)
 以前取り上げた同県内の奥出雲町にある「小国城」と同名であるが、この場所は石見の小国城である。

【写真左】小国城遠望
 南側からみたもの。左に少し見える山が「金木城(金城山)」の稜線

 登城口は、右に見える神社の左側にある。



 当城に関する資料はほとんどなく、唯一城主が徳田刑部少輔という武将であったということ程度である。

 所在地を見てみると、前々稿で取り上げた「花城」から北へ下り、途中の田ノ原というところから、東に52号線(県道か)を通って約2キロほどいった場所にある。

 直線距離では3キロ程度になるので、おそらくこの城も波佐一本松城と何らかの関係があったものとも思われるが定かでない。

【写真左】抱月トンネル付近にある案内図
 この場所は花城や波佐一本松城に向かうR186号線と、県道52号線の分岐点で、小国城は図の中央上部に示されている(写真クリック)。

 なお、図にある男性の絵は、金城町が生んだ演劇作家・島村抱月。


 もう一つ考えられるのは、この小国城の背後にある金木城(H720m)の出城とも考えられる。金木城は、南北朝期、北朝方の部将として活躍した田村氏の居城で、戦国期・永禄年間(1558~70)、福屋氏の家臣で、前記した徳田刑部少輔兼行が在城したともいわれている。

 地取りを考えると、安芸(広島)から雲月山を越えて浜田方面に向かう途中の場所でもあり、東には多数の山城があった旧旭町にも繋がることから、戦略的には重要な場所でもあったと思われる。

【写真左】小国城手前の沿道にある「島村抱月の生誕地顕彰の杜」
 ちなみに、この付近もむかしから「たたら」が盛んで、抱月の父も「たたら」業を営んだが、明治5年の浜田地震で被害を受けるなど苦労したという。

 この付近の地名は「下土居」ということから、小国城と関係のある屋敷があったものと思われる。

【写真左】登城口付近
 この写真の右に「最中山神社」神社がある。抱月の父が当社へ絵馬を奉納しているが、その絵は「宇治川先陣争いの図」という。

 当地・小国の武将がおそらく京へ上り、功があったという事だろう。ちなみにその武将は、他の石見武士と同様、源氏方だったと思われる。

【写真左】登城路
 登城路はほとんど直進するコースで、距離は短いものの、傾斜が思った以上にあり、ゆっくりと上がった方がいい。

 道そのものは管理がされていて、ブッシュの個所はまったくない。

【写真左】本丸直下付近
 途中で二手に分かれ、一方は尾根伝い、もう一方は斜面をジグザグに折れながら行く道がある。登りは後者を選んだ。

 写真の明るい場所は二の壇(仮称)の脇になる。

【写真左】二の壇
 現地には特に遺構名を示すものはないため、便宜上、使用している。

 下の方が二の壇で、左斜面の上が本丸になる。

【写真左】本丸その1
 二の壇から本丸までは約4m程度で、右側に登り道がある。

 本丸跡には写真のような小屋(休憩小屋)が建っているが、だいぶ年数が建っていて、内部の椅子も壊れていて座ることができない。

【写真左】本丸その2
 小屋の左側(西)には小規模な土塁が残っている。

【写真左】三角点
 本丸の北西地点に設置されている。なお本丸周辺のうち、西側、北側はかなりの要害をもった急峻な切崖となっている。
【写真左】金木城方面を見る
 本丸から南方向の視界は割といい方だが、北の金木城方面はやや不良。

 春・夏にはおそらく北方向はまったく見えないだろう。
【写真左】本丸から南に伸びる郭壇
 下山はこの尾根伝いに繋がる郭壇を通った。段数は4,5カ所で、下に降りるに従って尾根幅が狭くなり、自然に郭は消滅していく。

 遺構記録にある堀切や、空堀はそれらしきものは見えたが、ほとんど埋まっているような状況で、判然としない。

2009年12月4日金曜日

波佐一本松城(島根県浜田市金城町波佐)

波佐一本松城(はざいっぽんまつじょう)

●所在地 島根県浜田市金城町波佐
●探訪日 2009年4月27日
●標高 450m
●築城期 鎌倉時代
●築城者 佐々木刑部
●遺構 畝状空堀群29、水の手(軍用水路)、郭、腰郭、土塁、石垣、堀切、竪堀、櫓台など

◆解説(「島根県遺跡データーベース」「島根県HP」等)
●この日(4月27日)前稿の「花城」探訪後、当城麓の波佐公民館駐車場に車をとめ、登城口を確認すべく、公民館の人に訊ねた。たまたま、館長もおられ、当城の様子などを聞いてみた。すると、
「実は、数年前、麓のキャンプ場で子供たちが夏にキャンプをしていたら、クマが出てきて、それ以来キャンプ場も開店休業状態で、しかも城山付近から出てきたらしいとのことで、最近は誰も上がっていないようだ」
 とのこと。そのために、登城路はあるが、最近はほとんど管理していないので、まず無理だろう、とのこと。 これを聞いて残念だったが、クマに遭遇する確率が高い山城に登っていく勇気もなく、断念した。


●遺跡データベースを見ると、この山城の遺構種類は豊富である。
 築城期は鎌倉期で、南北朝時代「波佐谷の合戦」や、戦国期にはこの地が吉川元春夫人の御料所でもあったという。
 写真を撮っていないが、近くの八幡宮は佐々木高綱が文治元年に建立し、その後戦国期には尼子経久が再建立したという。
 前稿の「花城」と2キロ程度しか離れていないので、おそらくこの城が本城とされ、花城は支城の位置付けだったと思われる。
 いつかは登城してみたい山城である。
【写真左】波佐一本松城遠望
 手前の建物が公民館





【写真上】公民館前に掲示されていた当地の歴史紹介板
 当城の山の西麓には「馬場」という地区もあり、おそらくこの付近一帯が一族の集落だったと思われる。

花城跡(島根県浜田市金城町波佐)

花城跡(はなじょうあと)

●登城日 2009年4月27日
●所在地 島根県浜田市金城町波佐
●別名 中谷城跡・姫ノ城跡
●標高 485m
●遺構 郭 帯郭 腰郭 堀切等


◆解説(参考「島根県遺跡データーベース」等)
 浜田市から広島県の大佐スキー場方面に向かう国道186号線沿いにある。


【写真左】花城遠望
 西麓を走る186号線側からみたもので、左側の麓は周布川と支流落合川が合流している。






 規模としては小ぶりだが、山全体が天然の要害である。以下、現地の説明板による。

“花城(姫ノ城)跡

 花城は、金城町大字波佐城山イ 1172、大潰山から北方向に下がる稜線の先端部、波佐川の東側に位置する。別名中谷城、姫ノ城とも呼ばれていた。

 城郭は、山頂部の南北に伸びる全長400mに6段の郭、腰郭、武者走りなどがある。稜線の南側を遮断する堀切、1段目・2段目・3段目の郭の間に二つの堀切がある。波佐川を挟んだ城の西向かいに、万代城(番台)がある。花城の出張りの役目を持っていたのであろう。

 波佐一本松城との関連性が高い。また、城の北側に六角道があり、北西の方向に処刑場(不来ケ原)がある。花城は元亀元年(1570)に落城する(金城町誌 第6巻より)。
【写真左】麓にある説明板
 登り口付近に空地があるが、土木用の資材を貯蔵している場所も兼ねており、車は道路わきにのスペースに留めた。









図の説明より

 全貌を見てみると、山の中腹には、高さ約30m、幅約50mの岩の壁があり、南側には、人工的に造られた洞(姫をかくまった穴といわれている)があり、東側には、五輪塔もある。
 6月から7月にかけて、花城前の清流周布川には、沢山のホタルが飛び交う。

(平成16年6月設置 三栄町内会)”

【写真左】配置図
 この図では、下方が北を示している。














【写真左】遊歩道案内図
 このときは、この中の「大岩」や「姫の穴」方面の道が崩落しており、通行止めのため向かっていない。







【写真左】登城口付近
 登城路は山の脇をルートとしてるため、傾斜がきつく、七曲のコースで造られている。








【写真左】五輪塔
 現地説明板より
五輪塔
 この地は、花城(姫の城)の北麓に位置しており、この五輪塔は姫(白子姫)の墓といわれている。
 水・地輪は不明であるが、空・風・火輪は現存している”




【写真左】登城途中の大きな岩
 ところどころにこうした大きな岩があり、全体が岩の塊のような山城である。









【写真左】登城途中
 途中までは傾斜のきつい部分に階段が設置されているが、上にいくほど手つかず状態で、途中から道らしきものがなくなった。このため、目測で尾根伝いを進んでいった。







【写真左】郭付近
 山の形状としては、尾根の幅が狭く、東西は切崖のため、遺構の各所は規模が小さい。
 この郭も小規模なものである。








【写真左】堀切その1
 深さはさほどないが、前述したように尾根幅が狭いので、敵兵の進入防止も効果が高いと思われる。








【写真左】堀切その2 










【写真左】本丸付近
 現地には本丸跡を示す標識などがないため、確証はないが、この位置が周囲の尾根の中で一番高所になるため、おそらくこの場所と思われる。

 ただ、地図の等高線を見ると、さらに高所になった尾根がこの先(南)にあり、頂部が細長いものの平坦地面の大きな形状を示すところがある。
 さらにその先は鞍部が一端あり、続いてさらに尾根伝いに登ると「半場山」域に入る。
【写真左】最南端の堀切
 この堀切付近までが多少手入れがしてあり、その先の尾根はブッシュ状態だった。

 予想だが、この先にも遺構があってもおかしくない。というのも、上記の半場山まで行けば、長田川(周布川の支流)を挟んで、「波佐一本松城」が相対する位置になるからである。

長安八幡宮(島根県浜田市弥栄町)

長安八幡宮(ながやすはちまんぐう)


●探訪日 1回目 2008年5月15日、2回目 2009年2月11日、
      3回目2014年2月22日
●所在地 島根県浜田市弥栄町長安

◆解説
 前稿で取り上げた「永安城」と関係があった神社で、現地の説明板より転載する。

御神徳由緒の碑

 長安八幡宮のご祭神は、神宮皇后、応神天皇、王依姫命にして享徳元年(1452)3月、矢懸城主・永安治部少輔兼澄公、社人・岡本喜大夫、河野吉大夫の二人に命じ、宇佐八幡宮より勧請。同年4月、稲代村古屋河内(八幡風呂)に仮宮を設け、現在の永嶽山に社殿創設鎮座す。

 爾来、長安・稲代・大坪・程原・小角・横谷・笹目原・日高・西河内・門田十カ村の氏神となる。明治8年7月28日、郷社に列せられ、同年9月27日、神饌幣帛料共進神社の指定を受く。
【写真左】参道及び鳥居
 2014年2月参拝。











 長安天満宮の祭神は、学問の神・藤原道真公にして、永安大和守兼政公、山城の国・北の天満宮より勧請、郷田山に鎮座奉斎す。時に、嘉慶元年(1387)なり。

 後年、神手山い移転し、さらに明治42年7月25日、永嶽山に奉斎す。両社ともに津和野藩主・亀井公歴代の崇敬篤く、長安代官をして屡天下太平、五穀豊穣、国家安念、武運長久の祈願をなせしことは、現存する多数の棟札よりて窺い知られたり。
【写真左】長安八幡宮 本殿












 この両社を勧請せし永安家は、石見の名門・益田氏(藤原姓御神本氏)を祖とする三隅兼信公の二男・兼祐公が仁治2年(1241)長安地頭となりて来たり矢懸城に拠りて、永安氏を称したるに始まる。

 爾来、兼祐・兼栄・兼員・祥水・永安太郎…永安大和守兼政…永安治部少輔兼澄の諸公を経て、大和守に至り、部門の意地により毛利に抗し、吉川・熊谷・天野麾下二千余の来攻を受け、天文23年(1554)6月20日、落城。
【写真左】長安八幡宮参道麓から矢懸城を遠望する。











 宗家・益田に走るも二年後の弘治2年12月、自刃。かくて永安家は兼祐公以来、315年にして滅さす。嘗て新庄吉川家の介入を許し、所領半減して勢力衰退。青史に華々しき足跡を留め得ざりとは痛惜の極みなり。

 永安家の悲運を悼み、両社勧請の敬神の念を偲び、ここに鎮座600年式年大祭執行を記念して、村医・大屋敏郎氏の発願により、御神徳由緒の碑にその一端を留めて永安家歴代の慰霊と成し得たることに衷心より謝意を表するものなり。


昭和59甲子年5月27日
  長安八幡宮称宣寺本  博撰井書
  大屋 敏郎 ”
【写真左】境内の古木





【写真左】旧跡地
この写真の前方に永安城が見える。

2009年12月2日水曜日

永安城(島根県浜田市弥栄町長安本郷)

永安城(ながやすじょう)
  • 別名 矢懸城(やがけじょう)
  • 登城日 2009年2月11日
  • 探訪日 2回目麓まで2014年2月22日
  • 所在地 島根県浜田市弥栄町長安本郷
  • 時代 中世
  • 築城期 仁治2年(1241)
  • 築城主 永安兼祐
  • 遺構 本丸 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口
  • 標高 488m

【写真左】永安城遠望・その1
【写真左】永安城遠望・その2
 2014年2月22日に2回目の探訪の際、麓から撮ったもの。









◆解説(参考文献:「島根県遺跡データーベース」「益田市史」等)

現地の説明板より

“史蹟 矢懸城址(誰笠山(たかさやま)・愛宕さん)

 前面に聳ゆる山(488.3)。最後の長安代官増野新が山容笠を置く如しとて 誰笠山と命名したと伝えられる。

 仁治3年(1242)三隅兼信の二男兼祐長安治頭(じとう)として来たり、以後天文23年(1554)6月20日、一説には3月22日落城まで300余年間、永安氏の居城であった。

 この間、長安本郷、稲代、大坪、程原、三里、高内、門田を領して治めた。嘉慶元年(1387)大和守兼政は、山城国北野より天満宮を、治部少輔兼澄は宇佐より八幡宮を勧請した。時に享徳元年(1452)、降って弘治元年(1555)3月23日、毛利元就は己に与せざる永安氏を吉川元晴(元春)を大将とし、天野、香川、熊谷に2千の兵を授けて攻略し、春日尾之城(かすがおのじょう)と共に陥れた。

 永安氏は宗家益田氏の七尾城へ逃れるも永禄2年(1559)益田藤兼の降伏により自刃して遂に永安氏は滅亡した。最後の城主は永安大和守(入道)とも、永安式部少輔兼政ともいう。

 城址は自然の地形そのままに築城した山城で、本丸は東西59m、北方は急峻で遺構は見当たらない。東方に二の丸と思われる壇床があり、8m下方に幅5m深さ7mの堀切がある。二の丸より南方に檀床が続き、その下方に三の丸がある。
 
 東方堀切上には広い平地があり、尾根続きの先端に三角点がある。これより麓の竹の原方面へ広い軍道ともとれる道がある。当時の家臣団の住居は、石井谷(森が上)・高岡原・門田方面にあったのではとも推測される。

 元西分校前の矢が尾城址は、天険の要害であり、城構えも複雑堅固であり、一旦緩急の際はここに籠ったのではとも思える。ともあれ三代兼員(かねやす)の時、所領を姉良海と争い、上下分に分割して石見吉川氏が成立し、勢力半減した。最後に吉川元春に攻略され悲運の石見豪族として華々しき足跡の残されなかったことは痛恨の極みである。

   弥栄村(やさかむら)教育委員会
      平成3年3月   建てる”


 石見地方における鎌倉期の動きとしては、「吾妻鏡」によれば、建久4年(1193)4月、幕府御家人・佐々木定綱(高綱の兄)が石見守護として任命されている。
 しかし、定綱の子・広綱の代になり、承久の乱(1221年)において京方に従ったため、所領を没収された。

 この後に入ったのが、地方の御家人・益田兼高である。この兼高入部をきっかけに、以後益田氏一族が石見地方を長く治めていく。

 兼高の長男・兼季(かねすえ)の末は分かれて、周布・鳥居・福光・安富・末元・丸茂・仙道・遠田・波田・多根・黒谷・大草・波多野・吉田・乙吉の諸家となった。

 兼高の二男・兼信は、三隅に高城(三隅城)を築いて三隅氏を称し、その後、永安・竹彦・井之村(井野村)等の諸家に、三男・兼広は、那賀郡跡市・本明城福屋に住んで、福屋氏を称し、福光・横道・井田・堀等の諸家の祖となって、事実上益田家を離れた。

 これら益田惣領家をはじめ、支族である三隅・福屋・周布を含めた一族は、「石見四氏」の源流をなすようになった。
【写真左】永安城遠望その2
 登城路は写真の右の道を登った位置にある。









 次稿でとりあげる予定だが、当城麓にある「長安天満宮」にある由緒碑によれば、次のように記されている。

 「…三隅兼信の二男・兼祐が仁治2年(1241)、長安地頭となりて来たり、矢懸城(永安城)に拠りて、永安を称したに始まる。

 爾来、兼祐・兼栄・兼員・祥水・永安太郎…永安大和守兼政…永安治部少輔兼澄の諸公を経て、大和守に至り、部門の意地により毛利に抗し、吉川・熊谷・天野麾下二千余の来功を受け、天文23年(1554)6月20日、落城。

 宗家・益田に走るも2年後の弘治2年(1556)12月、自刃。かくて永安家は兼祐公以来315年にして滅さす。嘗て新庄吉川家の介入を許し、所領半減して勢力衰退。青史に華々しき足跡を留め得ざりとは痛惜の極みなり。…」
【写真左】登城口付近
 現地には案内板などがなかったため、付近の畑で仕事をしておられた老婦人に訪ね、場所を確認した。

 ちなみにこの写真の手前に道路があり、その下には運動公園やグランドがある。


 とある。この説明板では、三隅兼信が兼祐に永安(別府)に地頭として入部させたのは、仁治2年となっているが、「吉川文書」によると、翌年の仁治3年(1242)12月26日となっている。

 兼信の領地の一部を譲った形であるが、三隅氏に限らず、代が進むにつれ所領が子孫に分割されていく。当然所領の規模は小さくなっていき、後にはこうしたことから同族間で摩擦が起こってくる。永安では「女地頭」といわれた事例も残っている。

 下って戦国になるが、説明板の「大和守」とは、永安兼政のことで、当時毛利元就は石見の支配のためさまざまな工作・懐柔を巡らしていた。永安兼政は、大内義隆を討った陶晴賢に従っていため、吉川元春に攻められる。

 永安城(矢懸城)は陥落したものの、兼政らは同じく陶方にあった益田氏七尾城に身を寄せた。その後、陶晴賢も大内義長も毛利氏によって滅んだため、残るは益田藤兼のみとなり、ついに藤兼も毛利元就に降伏する。そして元就に忠勤を誓うことになるが、その条件として出されたのが、七尾城に身を寄せていた永安兼政の切腹だった。

 前記の説明板には、その時期を弘治2年12月としているが、「益田市誌(上巻)」には、兼政の首が藤兼によって毛利の使者・吉川元春に届けられたのが、永禄2年(1559)2月2日となっている。
【写真左】登城路途中
 登城路の幅が1間程度続くのは、途中までで、その後は一般的な登山道の道幅になる。

 1間幅の道は中腹に設けられた地元住民が利用する簡易水道タンクが設置されているところまでで、ここまでは割と道の管理はいいが、それを過ぎると道の状況はよくなく、ほとんどブッシュに近い。



【写真左】本丸下
 遺構がはっきりと確認できるのは、本丸が近付いた付近で、それまでは目立った遺構はほとんどない。  写真は本丸下の郭からみたもの。









【写真左】本丸跡に建つ愛宕神社
 本丸の大きさは変形の三角形で、長径30~40m、短径20m前後と思われる。

 なお、地元の人の話では、昔は毎年1回、この愛宕神社まで地元民が登り、この本丸付近で祭祀をやっていたのだが、今では高齢化と少子化で人がおらず、数人で本尊のみを抱えて、下の公民館までおろし、そこで祈念する行事を行っているとのこと。
 終わったら再び本尊を同社に戻している。


【写真左】本丸付近の遺構その1
 全体にブッシュ状態のため、遺構の確認が容易でないが、この写真は土塁付近を撮ったもの。








【写真左】本丸付近の遺構その2
 永安城の特徴は、本丸付近までの遺構が割と少ないこと。しかし、本丸を過ぎた東側付近から多くなっていることである。

 永安城(矢懸山)の東隣には別の山があるが、その間の鞍部が戦略的に重要と考えていたためか、この付近に遺構が多いようだ。 写真は少し暗くて分かりにくいが、郭壇の一部





【写真左】堀切その1
 この場所も東側にあるもので、尾根幅が極端に絞られている。









【写真左】堀切その2
 堀切を渡り切って、反対側からみたもの











【写真左】腰郭付近

田屋城跡(島根県浜田市弥栄町木都賀)

田屋城跡(たやじょうあと)

●登城日 2009年2月11日
●所在地 島根県浜田市弥栄町木都賀
●築城期 南北朝時代、三隅兼春
●遺跡の現状 山林その他
●土地保有 市町村地 民有地
●標高 310m
●別名 木束城跡、杵束城跡
●参考 島根県遺跡データーベース
【写真左】田屋城遠望
 写真中央の小山が田屋城になる。登り道は、この写真の右側にあり、旧小学校の入口も兼ねていたようだ。

 遺構があるのは、写真の樹木がある区域で、この後ろにはグランド、および校舎が建っている。


◆解説(現地説明板より)

“史蹟 杵束城(きつかじょう)
   別名 田屋城

位置

 杵束盆地の西部に位し、南北に蟠(わだかま)る小丘田屋山にあり(現・杵束小学校:すでに廃校。グランド・校舎のある丘)杵束盆地を望み景観よし。

由緒

 杵束城は、田屋山の小丘を東西に横断して切崖とし、南北の丘は即ち杵束城で、一の平、二の平があり、眼下にその所領杵束盆地を望む。兼春公の墓は、杵束城山切崖の北半部丘上の一隅木立の陰に宝篋印塔式の古墳がある。墓石の東面しているのは、死してなお南朝を守護し奉る心のあらわれであると伝えられている。

 杵束城は、三隅高城の外城で南朝(1336~92)の忠臣で石見勤皇の先駆者といわれた三隅四郎兼春の出城であった。兼春黒沢城(別名:鷹泊(たかのとまり)城)初代の城主で、三隅与一とたたえられた程の弓術にすぐれた武将で、その声望は父・兼連を凌ぐほどであった。
 父に従って王事に尽くし、後村上天皇践祚のみぎり、吉水印法印が読み上げた諸国勤皇の志士の中に、「三隅入道四郎」(「太平記」にあり)と記されたほどで、その勲功も高く、文武兼備の武将であった。

 兄謙知(かねとも)や、父兼連の死後、やむなく本宗三隅城主として面倒を見ていたようである。ために、益田系図では兼春を相続者としている。
 弥栄村教育委員会 平成3年3月 建てる”


 上記の説明板は、南北朝時代のことを述べたものであるが、特に尊氏と後醍醐天皇方に分かれた当時、この石見地方も複雑な抗争を続けている。

 三隅四郎兼春の父、三隅兼連は益田氏の分家で、後醍醐派(宮方)に属し、同じ益田氏分家としては、福屋兼景、周布兼宗などがいた。また、佐波顕清一族、高津長幸(吉見氏分家)も傘下に入っていた。

 一方尊氏派(北朝)としては、益田氏本家である益田兼見一族をはじめ、福光兼継(福屋分家)、周布兼氏(兼宗総領)、小笠原長氏(小笠原本家)、吉見頼直(吉見氏本家)などがおり、さらには当時守護であった上野頼兼が尊氏・武家方に入っている。

 田屋城関係が史料に出てくるのは、興国5年(康永3年:1344)4月で、上野頼兼が漁山(いさりやま:田屋城から北へ約3キロにある山)に布陣して、数か月攻めたとある。
【写真左】案内標
上の写真手前に立っている標識。 この地域は島根県の中で最も早く有機農業をめざした地域で、先駆地の一つである。


【写真左】右側(東)から登る道からみた傾斜部分
 小学校を建てる際にこの付近も相当改変されたと思われるが、今でも法面傾斜角度がきついので、築城当時はもっと険峻な切崖だったと思われる。

【写真左】旧グランドと旧小学校校舎
 城跡はこの写真の手前にあるが、おそらくこのグランド付近も田屋城の縄張りに入っていたと思われる。

 というのも、現在残っている遺構のみでは、山城としての要塞機能は不十分であり、小規模すぎる。

 縄張りから考えると、本丸はできるだけ高所に置くのが大前提である。この写真の校舎裏(北側)が鞍部になっており、切崖の跡が一部に認められる。そうしたことから、この校舎付近が本丸跡地であった可能性が高い。

 それを考慮して考えると、田屋城(杵束城)の規模は、南北300m、東西100m程度のものだったと考えられる。


【写真左】宝篋印塔と説明板
 グランドの南端部の東端に設置されている。当時からこの位置にあったものか、あるいはグランド・小学校建設時移設されたものかは分からない。

 ただ、少し築山形状になっているので、当初からこの位置だったとも考えられる。


【写真左】三隅兼春の墓 宝篋印塔とその他の墓群がある。宝篋印塔の大きさは小ぶりといえる。




【写真左】田屋城跡その1
 グランド側から南に向かって舌状に3,4の壇が構成されている。

 グランドから最初の郭は手前に土塁上の高まりをもたせ、すぐに東西に堀切を構成している。堀切西端部には帯曲輪状の平坦地を設けている。


【写真左】田屋城跡その2
 2段目郭と土塁。
 この写真は西側の位置だが、西端部には土塁が残る。東側も確認しようとしたが、竹の繁茂で進入できず、確認できなかったが、おそらく同じような土塁を設けていると思われる。

 なお、南端部に行くに従って細くなっているが、この先はまったく藪こぎ状態なので進むには無理がある。




【写真左】田屋城跡その3
堀切。 現在は4,5m程度だが、当時はもっと深かったものと思われる。



【写真左】田屋城跡その4
 2段目の郭中央部にあった石積み跡 2,3m四方で高さ2,30cmのものだが、おそらく祠か何かが祭ってあったものと思われる。