平島館(ひらしまやかた)
●所在地 徳島県阿南市那賀川町古津字居
●別名 阿波公方館、平島塁
●築城期 天文3年(1534)
●築城者 足利義維
●城主 足利氏(義冬・義助・義種)、平島氏(義次、義景、平島義辰、義武、義宜、義根)
●遺構 土塁
●備考 阿波公方・民俗資料館
●登城日 2017年3月4日
◆解説
徳島県を流れる大河として有名なのは吉野川だが、県内区域内でもっとも幹川流路延長が長いのは剣山を源流とする那賀川である。この那賀川沿いに築城された山城としてこれまで紹介したのは、上流部の仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)、そして中流域では上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)があった。
今稿で紹介するのは、下流域に築かれた館跡とされる阿波・平島館、別名阿波公方館である。
【写真左】平島館
平島館の所在地である古津という地名からも分かるように、足利義冬が当地に移ったころ(天文年間)、このあたりは多くの中洲状の島が点在していた。
古津には古津湊があり、その北方の中洲には手島、今津浦、色ヶ島などがあり、さらに北の江野島などに多くの船が往来していた。従って、当時の平島館は海城形態の城館だったことが推測される。
写真は平島館に残る土塁の一部
現地の説明板より
”阿波(平島)公方
戦国時代の動乱の中、将軍継承争いに敗れた足利義冬は、阿波の守護細川氏に迎えられ、天文3年(1534)那賀川河口の平島庄(ひらしましょう)に移り住んだ。これが阿波(平島)公方の始まりである。
平島庄は足利家ゆかりの天龍寺領であった。義冬は上洛の機会をうかがいながらも、病に倒れてしまったが、その子足利義栄(よしひで)がついに上洛を果たし、永禄10年(1568)に征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。しかし、将軍職も織田信長の登場によって、わずかな期間で失い、まもなく阿波の撫養の地で病死した。
【写真左】平島館遠望
阿波公方民俗資料館がすぐ近くにあり、そこから歩いておよそ100mほど向かった田圃の中に見える。
江戸時代になると、歴代阿波公方は徳島藩主蜂須賀家の政策により、公方の権威を引き下げられ、圧迫した生活を余儀なくされた。その中にあって、9代公方義根(よしもと)は、漢文学に優れた才能をあらわし、「棲龍閣(せいりゅうかく)詩集」に多くの秀作を残している。
しかし、公方に対する蜂須賀家の圧迫は一段と厳しくなり、ついに文化2年(1805)に阿波国を退去するに至った。那賀川赤池の西光寺には室町幕府10代、14代将軍をはじめ、歴代阿波公方の墓石を残し、民間に幾多の伝承を伝え、往年の面影をしのばせている。”
【左図】阿波公方系図
民俗資料館の展示ブースに掲示されていたものを管理人によって少し加工したもの。
文字が小さいため分かりずらいが、義冬を初代とし、以下赤字で示したものが阿波公方の系譜となる。
阿波公方
大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、室町幕府10代将軍は大内義興の支援を受けて足利義稙がその座に着いた。しかし、その後義稙は、管領細川高国の専横が激しくなると対立、大永元年(1521)細川晴元・持隆を頼り京都を出奔、阿波国撫養にたどり着いた。その後当地で病没することになる。
【写真左】足利義稙像
室町幕府第10代将軍。
民俗資料館に展示されている義稙の像。
寛正5年(1464)誕生。父は8代将軍義政の弟・義視で、母は日野富子の妹である。従って、足利家の兄弟と、日野家の姉妹同士がそれぞれ縁組していることになる。
結果的に彼は延徳2年(1490)に第10代将軍となり、一旦退いたものの、永正5年(1508)再び将軍に復帰し、細川高国と対立するまで約13年間その座に就いたことになる。大永3年(1523)58歳で死去。
義稙の養子・義冬(別名:義維(よしつな))は、永禄年間那賀郡平島庄・西光寺に入り古津の平島館を修築してここに移り、父に代わって将軍になるべくこの阿波から天下を窺った。のちに阿波公方の初代となるのがこの義冬である。
【写真左】平島館
義冬は当初古津の平島塁(現資料館)を改築して公方館とし、およそ南北110m×東西110mの方形屋敷を構え、周囲には堀を巡らし、那賀川支流の苅屋川から水を引き入れた。
義冬の住む居館や重臣の住宅もこの中に数棟建てた。意匠的には京の公家屋敷と武家屋敷が混在する景観だったという。
ところで、義冬を阿波平島庄に斡旋したのは、前述したように細川持隆(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)だが、このとき、当庄と併せ近隣の吉井・楠根・仁宇・鷲敷を宛がわれた。
いずれも那賀川沿いに集積する地域で、吉井・楠根は仁木氏の居城・上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)に隣接するところで、仁宇・鷲敷は当川をさらに遡った那賀郡那賀町内で、仁宇城でも紹介したように、細川氏所縁の地である。これらを併せて三千貫だったが、義冬に随従した家臣がそれぞれの家族を合わせておよそ360人前後だったため、この貫高ではとても満たせず、幾人かを本国に帰国させている。
【写真左】阿波公方民俗資料館
平島館の土塁の西側には阿波公方関係の史料が展示されている阿波公方民俗資料館がある。
上大野城の稿でも述べたように、義冬は三好三人衆らの支援を受け息子の義栄を第14代室町幕府将軍にさせたが、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢力に圧され、しかもその最中に義栄が病死したため、再度阿波に引き上げた。
【写真左】足利義冬像
阿波公方初代。
上述したように、義稙に子供がなく、11代将軍義澄の子・亀王君が義稙の養子となり、後に義冬を名乗る。
母は阿波守護・細川成之の娘(清雲院)で、義冬は後に周防大内義興の娘を妻としている。
阿波公方となる前は、和泉国堺において異母兄である将軍足利義晴と対峙し、自ら幕府の体制を敷き、堺公方とも呼ばれた。
阿波公方はそれでも一縷の望みを持ち続け、義冬の弟義助は当地平島館にあって、上洛の機会を窺うべく、支援者であった阿波細川氏などに期待を寄せていたが、細川氏の滅亡さらに、三好一族は土佐の長宗我部氏の阿波侵攻により滅び、上洛の方途は閉ざされることになる。
【写真左】足利義栄像
室町幕府第14代将軍。
天文7年(1538)義冬の長男として平島で誕生。永禄9年(1566)父義冬に代わって京都に上り、従五位に叙せられ左馬頭に任ぜられる。
2年後の永禄11年(1568)2月に征夷大将軍に任ぜられ名前を義親から義栄と改める。
同年9月、足利義昭を奉じて京に攻め上った織田信長に攻められ、阿波に奔走。10月撫養で病没。享年31。
その後、義稙、義次、義景、義辰、義武、義宜、義智と阿波公方の系譜は続いたが、9代義根に至って徳島藩主・蜂須賀家により阿波国退去を命ぜられ、約250年続いた阿波公方・平島館はここに歴史の幕を閉じた。
蜂須賀氏
ところで、江戸期における阿波国の藩主は蜂須賀家であるが、それ以前の天正13年(1585)に当時秀吉の家臣であった蜂須賀家政が最初に当国に入っている。家政の父は正勝である。当初秀吉は四国攻めなどで武功を挙げた正勝に阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを選んだため、秀吉はその子家政に阿波国を与えたという。
【写真左】徳島城
徳島城の前身は室町初期に細川頼之が築いた渭水城(いすいじょう)ともいわれ、後に家政が修築して徳島城とした。
家政が最初に入城したのは一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)で、その後徳島城を築城することになる。
関ヶ原の戦いでは東軍方に属した形になり、淡路国も加増され25万石余の大名となった。
【写真左】蜂須賀家政像
この像は徳島城内に建立されている。家政は跡を継いだ嫡男・至鎮が夭折したため、孫の忠秀の後見をすることになり、結局寛永6年(1629)まで徳島藩の政務を取り仕切った。その後寛永15年に81歳で亡くなる。
晩年の寛永元年(1624)、平島公方家に館の修理資材などを下賜しているので、当時家政としては阿波公方に対しそれなりに敬意を払っていたのだろう。
阿波公方が途中から足利から平島姓を名乗るようになったのは、義次の代(4代)からであって、命じたのは蜂須賀家政である。もっとも阿波公方側では公式には平島姓を名乗っていたものの、一族自身では足利姓を自認し代々名乗っていた。
西光寺
説明板にもあるように、平島館からJR牟岐線を東に向かった阿波中島駅の南には、西光寺という寺院があるが、ここには平島公方墓所として一族の墓が祀られている。
【写真左】西光寺
所在地:徳島県阿南市那賀川町赤池185番地
山号 己心山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 薬師如来
現地の説明板より
❝平島公方墓所
平島公方一族の墓は義稙・義冬・義栄の3基を含め、この墓所内に23基を数えることができる。しかし、昭和17年の西光寺の火災のため国宝の阿弥陀如来をはじめ、貴重な古文書を焼失し、さらに過去帳も廃燼に帰したため、公方の墓についても調査は困難を極め、現在判明しているのは案内標柱のある14基のみである。
【写真左】足利義稙の墓
中央のものが義稙の墓である。
なお、8代平島公方義宜の時代に、京都の名儒島津崋山(1737~94、那賀川町熊氏須賀墓地に墓あり)を招いて、子弟を教育し、9代公方義根の時代には阿波国南方地域における漢文学の中心地の観を呈していたが、その当時平島館に出入りしていた数多くの文人のうち、医者であり儒学者でもあった高橋赤水(1769~1848)の墓も当墓地内にあり、その壁面には江戸末期の大書家貫名菘翁による書が刻まれている。
阿南市教育委員会”
【写真左】足利義冬の墓
義稙の右側に義冬の墓が隣接している。
【写真左】2代公方 義助の墓
左側に義助の墓があり、その右に義冬室(大内義興の女)、さらに右には義冬の母の墓がある。
なお、写真には入っていないが、義助の墓の左には義助の室で、周防柳沢氏の女の墓がある。
【写真左】5代義景の弟・義国の墓
墓の形式から見ると、晩年は出家したようだ。
【写真左】7代義武の墓
写真の右側にあるのが、7代義武で、その左に弟・義人の墓がある。
また、奥には8代義宜の長子・義智の墓がある。
【写真左】石川政子の墓
彼女は阿波公方8代の義宜の室。
【写真左】義人の子・義智室琴和の墓
義人は7代義武の弟で、その娘が琴和である。彼女は、8代義宜の長子・義智に嫁いでいる。系図から見ると、琴和が年上妻になるかもしれない。
【写真左】墓所全景
このほか阿波公方関係の墓を記したものが数基あるが、省略させていただく。
●所在地 徳島県阿南市那賀川町古津字居
●別名 阿波公方館、平島塁
●築城期 天文3年(1534)
●築城者 足利義維
●城主 足利氏(義冬・義助・義種)、平島氏(義次、義景、平島義辰、義武、義宜、義根)
●遺構 土塁
●備考 阿波公方・民俗資料館
●登城日 2017年3月4日
◆解説
徳島県を流れる大河として有名なのは吉野川だが、県内区域内でもっとも幹川流路延長が長いのは剣山を源流とする那賀川である。この那賀川沿いに築城された山城としてこれまで紹介したのは、上流部の仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)、そして中流域では上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)があった。
今稿で紹介するのは、下流域に築かれた館跡とされる阿波・平島館、別名阿波公方館である。
【写真左】平島館
平島館の所在地である古津という地名からも分かるように、足利義冬が当地に移ったころ(天文年間)、このあたりは多くの中洲状の島が点在していた。
古津には古津湊があり、その北方の中洲には手島、今津浦、色ヶ島などがあり、さらに北の江野島などに多くの船が往来していた。従って、当時の平島館は海城形態の城館だったことが推測される。
写真は平島館に残る土塁の一部
現地の説明板より
”阿波(平島)公方
戦国時代の動乱の中、将軍継承争いに敗れた足利義冬は、阿波の守護細川氏に迎えられ、天文3年(1534)那賀川河口の平島庄(ひらしましょう)に移り住んだ。これが阿波(平島)公方の始まりである。
平島庄は足利家ゆかりの天龍寺領であった。義冬は上洛の機会をうかがいながらも、病に倒れてしまったが、その子足利義栄(よしひで)がついに上洛を果たし、永禄10年(1568)に征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。しかし、将軍職も織田信長の登場によって、わずかな期間で失い、まもなく阿波の撫養の地で病死した。
【写真左】平島館遠望
阿波公方民俗資料館がすぐ近くにあり、そこから歩いておよそ100mほど向かった田圃の中に見える。
江戸時代になると、歴代阿波公方は徳島藩主蜂須賀家の政策により、公方の権威を引き下げられ、圧迫した生活を余儀なくされた。その中にあって、9代公方義根(よしもと)は、漢文学に優れた才能をあらわし、「棲龍閣(せいりゅうかく)詩集」に多くの秀作を残している。
しかし、公方に対する蜂須賀家の圧迫は一段と厳しくなり、ついに文化2年(1805)に阿波国を退去するに至った。那賀川赤池の西光寺には室町幕府10代、14代将軍をはじめ、歴代阿波公方の墓石を残し、民間に幾多の伝承を伝え、往年の面影をしのばせている。”
【左図】阿波公方系図
民俗資料館の展示ブースに掲示されていたものを管理人によって少し加工したもの。
文字が小さいため分かりずらいが、義冬を初代とし、以下赤字で示したものが阿波公方の系譜となる。
阿波公方
大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、室町幕府10代将軍は大内義興の支援を受けて足利義稙がその座に着いた。しかし、その後義稙は、管領細川高国の専横が激しくなると対立、大永元年(1521)細川晴元・持隆を頼り京都を出奔、阿波国撫養にたどり着いた。その後当地で病没することになる。
【写真左】足利義稙像
室町幕府第10代将軍。
民俗資料館に展示されている義稙の像。
寛正5年(1464)誕生。父は8代将軍義政の弟・義視で、母は日野富子の妹である。従って、足利家の兄弟と、日野家の姉妹同士がそれぞれ縁組していることになる。
結果的に彼は延徳2年(1490)に第10代将軍となり、一旦退いたものの、永正5年(1508)再び将軍に復帰し、細川高国と対立するまで約13年間その座に就いたことになる。大永3年(1523)58歳で死去。
義稙の養子・義冬(別名:義維(よしつな))は、永禄年間那賀郡平島庄・西光寺に入り古津の平島館を修築してここに移り、父に代わって将軍になるべくこの阿波から天下を窺った。のちに阿波公方の初代となるのがこの義冬である。
【写真左】平島館
義冬は当初古津の平島塁(現資料館)を改築して公方館とし、およそ南北110m×東西110mの方形屋敷を構え、周囲には堀を巡らし、那賀川支流の苅屋川から水を引き入れた。
義冬の住む居館や重臣の住宅もこの中に数棟建てた。意匠的には京の公家屋敷と武家屋敷が混在する景観だったという。
ところで、義冬を阿波平島庄に斡旋したのは、前述したように細川持隆(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)だが、このとき、当庄と併せ近隣の吉井・楠根・仁宇・鷲敷を宛がわれた。
いずれも那賀川沿いに集積する地域で、吉井・楠根は仁木氏の居城・上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)に隣接するところで、仁宇・鷲敷は当川をさらに遡った那賀郡那賀町内で、仁宇城でも紹介したように、細川氏所縁の地である。これらを併せて三千貫だったが、義冬に随従した家臣がそれぞれの家族を合わせておよそ360人前後だったため、この貫高ではとても満たせず、幾人かを本国に帰国させている。
【写真左】阿波公方民俗資料館
平島館の土塁の西側には阿波公方関係の史料が展示されている阿波公方民俗資料館がある。
上大野城の稿でも述べたように、義冬は三好三人衆らの支援を受け息子の義栄を第14代室町幕府将軍にさせたが、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢力に圧され、しかもその最中に義栄が病死したため、再度阿波に引き上げた。
【写真左】足利義冬像
阿波公方初代。
上述したように、義稙に子供がなく、11代将軍義澄の子・亀王君が義稙の養子となり、後に義冬を名乗る。
母は阿波守護・細川成之の娘(清雲院)で、義冬は後に周防大内義興の娘を妻としている。
阿波公方となる前は、和泉国堺において異母兄である将軍足利義晴と対峙し、自ら幕府の体制を敷き、堺公方とも呼ばれた。
阿波公方はそれでも一縷の望みを持ち続け、義冬の弟義助は当地平島館にあって、上洛の機会を窺うべく、支援者であった阿波細川氏などに期待を寄せていたが、細川氏の滅亡さらに、三好一族は土佐の長宗我部氏の阿波侵攻により滅び、上洛の方途は閉ざされることになる。
【写真左】足利義栄像
室町幕府第14代将軍。
天文7年(1538)義冬の長男として平島で誕生。永禄9年(1566)父義冬に代わって京都に上り、従五位に叙せられ左馬頭に任ぜられる。
2年後の永禄11年(1568)2月に征夷大将軍に任ぜられ名前を義親から義栄と改める。
同年9月、足利義昭を奉じて京に攻め上った織田信長に攻められ、阿波に奔走。10月撫養で病没。享年31。
その後、義稙、義次、義景、義辰、義武、義宜、義智と阿波公方の系譜は続いたが、9代義根に至って徳島藩主・蜂須賀家により阿波国退去を命ぜられ、約250年続いた阿波公方・平島館はここに歴史の幕を閉じた。
蜂須賀氏
ところで、江戸期における阿波国の藩主は蜂須賀家であるが、それ以前の天正13年(1585)に当時秀吉の家臣であった蜂須賀家政が最初に当国に入っている。家政の父は正勝である。当初秀吉は四国攻めなどで武功を挙げた正勝に阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを選んだため、秀吉はその子家政に阿波国を与えたという。
【写真左】徳島城
徳島城の前身は室町初期に細川頼之が築いた渭水城(いすいじょう)ともいわれ、後に家政が修築して徳島城とした。
家政が最初に入城したのは一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)で、その後徳島城を築城することになる。
関ヶ原の戦いでは東軍方に属した形になり、淡路国も加増され25万石余の大名となった。
【写真左】蜂須賀家政像
この像は徳島城内に建立されている。家政は跡を継いだ嫡男・至鎮が夭折したため、孫の忠秀の後見をすることになり、結局寛永6年(1629)まで徳島藩の政務を取り仕切った。その後寛永15年に81歳で亡くなる。
晩年の寛永元年(1624)、平島公方家に館の修理資材などを下賜しているので、当時家政としては阿波公方に対しそれなりに敬意を払っていたのだろう。
阿波公方が途中から足利から平島姓を名乗るようになったのは、義次の代(4代)からであって、命じたのは蜂須賀家政である。もっとも阿波公方側では公式には平島姓を名乗っていたものの、一族自身では足利姓を自認し代々名乗っていた。
西光寺
説明板にもあるように、平島館からJR牟岐線を東に向かった阿波中島駅の南には、西光寺という寺院があるが、ここには平島公方墓所として一族の墓が祀られている。
【写真左】西光寺
所在地:徳島県阿南市那賀川町赤池185番地
山号 己心山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 薬師如来
現地の説明板より
❝平島公方墓所
平島公方一族の墓は義稙・義冬・義栄の3基を含め、この墓所内に23基を数えることができる。しかし、昭和17年の西光寺の火災のため国宝の阿弥陀如来をはじめ、貴重な古文書を焼失し、さらに過去帳も廃燼に帰したため、公方の墓についても調査は困難を極め、現在判明しているのは案内標柱のある14基のみである。
【写真左】足利義稙の墓
中央のものが義稙の墓である。
なお、8代平島公方義宜の時代に、京都の名儒島津崋山(1737~94、那賀川町熊氏須賀墓地に墓あり)を招いて、子弟を教育し、9代公方義根の時代には阿波国南方地域における漢文学の中心地の観を呈していたが、その当時平島館に出入りしていた数多くの文人のうち、医者であり儒学者でもあった高橋赤水(1769~1848)の墓も当墓地内にあり、その壁面には江戸末期の大書家貫名菘翁による書が刻まれている。
阿南市教育委員会”
【写真左】足利義冬の墓
義稙の右側に義冬の墓が隣接している。
【写真左】2代公方 義助の墓
左側に義助の墓があり、その右に義冬室(大内義興の女)、さらに右には義冬の母の墓がある。
なお、写真には入っていないが、義助の墓の左には義助の室で、周防柳沢氏の女の墓がある。
【写真左】5代義景の弟・義国の墓
墓の形式から見ると、晩年は出家したようだ。
【写真左】7代義武の墓
写真の右側にあるのが、7代義武で、その左に弟・義人の墓がある。
また、奥には8代義宜の長子・義智の墓がある。
【写真左】石川政子の墓
彼女は阿波公方8代の義宜の室。
【写真左】義人の子・義智室琴和の墓
義人は7代義武の弟で、その娘が琴和である。彼女は、8代義宜の長子・義智に嫁いでいる。系図から見ると、琴和が年上妻になるかもしれない。
【写真左】墓所全景
このほか阿波公方関係の墓を記したものが数基あるが、省略させていただく。
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