備中・忍山城(びっちゅう・しのぶやまじょう)
●所在地 岡山県岡山市北区上高田
●別名 信夫山城・四畦忍山城・忍ノ城
●高さ H:300m(比高 60m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 伊賀伊賀守
●城主 伊賀氏・浮田信濃守等
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2017年2月27日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
備中・忍山城(以下「忍山城」とする。)は、岡山市の北方上高田にあって、以前取り上げた備前の虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉) から南へ直線距離で5.5キロの足守川支流の日近川源流部に築かれた城郭である。
【写真左】忍山城遠望
東麓を走る県道71号線(建部大井線)から見たもの。
右上を走るのは県道72号線(岡山賀陽線)で、橋脚の先には忍山城のほぼ真下を通ることになりトンネルとなっている。
夕方になったため、逆光のせいか画面に赤い斑点のようなものが残った。カメラ音痴なのでこうした場合の撮影テクニックがあるかもしれないが、なかなか上達しそうにない。
伊賀氏
忍山城の築城期・築城者についてははっきりしない点があるが、築城者については伊賀伊賀守とあり、忍山城の東の谷を挟んだ鎌倉山城も伊賀氏の支城ともいわれている。
「日本城郭体系」でも指摘されているように、この伊賀伊賀守が織田信長の下知によって築城したという伝聞があるようだが、当時の状況を考えると整合しない点が多く、まったく違う伊賀伊賀守であろうとしている。
従って、この伊賀氏とは、虎倉城の稿でも紹介している伊賀氏が、当城の築城にも拘わったものと考えられる。
【写真左】南城方面を見る。
登城口を示す案内標識のようなものはないが、西麓にある真言宗御室派の観音院という寺院の左側に山道があるので、そこから向かう。
宇喜多と毛利の戦い
さて、忍山城でもっとも有名な戦いが、備前・備中・美作三国に跨って行われた毛利・宇喜多両氏の争奪戦である。備前浦上氏の家臣であった宇喜多直家(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)参照) は、戦国の三梟雄の一人といわれているが、西の毛利、東の織田がせめぎあう備前・備中・美作三国の中で、巧みに難局を乗り切ろうとした。
【写真左】登城口
右側に観音院の本堂がある。
車は境内脇の駐車場を借りた。
天正7年(1579)5月、毛利と手を結んでいた直家は、信長に内応したとして三星城(岡山県美作市明見) の城主で、直家の娘を嫁がせていた後藤勝基を攻め滅ぼしたものの、その年の10月、今度は直家自身が毛利と手を切り信長についた。
因みに、直家は三星城攻めと相前後して、毛利方の手中に入っていた今稿の忍山城を陥れている。さらには美作・高田城(岡山県真庭市勝山)にも兵を差し向けた。そして、美作の拠点として岩屋城(岡山県津山市中北上)も押さえていたが、当城も毛利氏が反撃してくる情勢にあった。
【写真左】削平地
観音院の裏側から登って行くが、途中から降る坂道となり、御覧の広い場所に出た。
北城の北端部に当たると思われるが、それにしてもあまりにフラットな削平地なので、この箇所は近年改変されたのかもしれない。
なお、この写真で言えば右側から北城のエリアになる。
直家自身、時々刻々と戦況が変わる状勢を常に見定めた上で、毛利よりも織田方が優勢であると踏んだからであろう。もっともこのころ直家自身は身体に腫物ができる難病に苦しんでいて、岡山城の病床から下知を出していた。
ところで、毛利氏が備中から備前へと進出しようとした際、大きな障害になったのはこの宇喜多直家だけではなかった。伯耆羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の南条元続である。
元続も直家とほぼ同じ時期(天正7年)ごろに、毛利氏から離反し織田方についた。このため、毛利氏は羽衣石城攻めは当初吉川元春が担当していたが、侍大将杉原盛重(神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照) 及び、宍道隆慶(宍道氏・金山要害山城参照) に任せ、元春は輝元、隆景らの本隊に合流、総勢3万の大軍を率いて、忍山城攻略に向かった。
【写真左】竪堀
さきほどの北城を目指して一気に尾根に登ればいいのだが、急峻なので西側斜面を南に進んでいく。
さっそく竪堀が現れる。
毛利氏の忍山城包囲
そして、この年(天正7年)12月24日、宇喜多勢の立て籠る忍山城を毛利勢が包囲した。この当時忍山城を守城していたのは、浮田信濃守と岡剛介をはじめとするおよそ1千人の城兵である。
毛利勢の先鋒を務めたのが吉川経言である。すなわち、後の周防・岩国城(山口県岩国市横山3) 主となる吉川広家である。当時18歳の若武者であったが、彼は忍山城に昼夜を分かたず次から次と戦法を駆使して攻め立てた。このため、終始守勢に立たされた信濃守らは、岡山城の直家に援軍を要請した。
【写真左】尾根にたどり着く。
次第に尾根に向かって登って行き、筋にたどり着いた。
写真では分かりにくいが、冒頭の写真で見えていた県道72号線の橋脚。
当然ながら、戦国はこうした道路はなく、深い谷を形成してたままの姿である。
岡山城に横臥の体を余儀なくされていた直家ではあったが、すぐに岡平内、長船又三郎、片山惣兵衛らに命じ、5千余騎を向かわせ、忍山城東の谷を隔てた鎌倉山城(勝尾山城)に援軍として着陣させた。
ところが、岡平内らが着陣して態勢を整えようとした矢先、経言は突如この援軍めがけて急襲した。あまりのことに援軍は浮足だし、ひとたまりもなく潰走する羽目になった。おそらく経言は援軍の情報を事前に察知し、前もって待機していたのであろう。
【写真左】北城の郭
上に登る途中にも小郭があり、さらに上を目指したところやや中規模な郭が現れた。
忍山城の浮田信濃守らは鎌倉山の援軍と呼応して毛利氏を討つ計画が失敗に終わると、やむなく撃って出た。形勢は不利になっていたが、それでも信濃守や剛勇の岡剛介の奮闘もあり、忍山城での決着は翌天正8年正月まで持ち堪えた。
忍山城落城
しかし、その月(正月)下旬、城内の陣屋から火が出た。毛利方の内通者によるもの、もしくは夜半外から火を放たれたなど諸説あるが、いずれにしてもこの火は容易に消すことはできず、城内は大混乱となった。この隙をついて毛利方は一気に攻め立てた。
岡剛介は何とか敵中を突破し、岡山城へ逃げかえったが、浮田信濃守は本丸に追い詰められ自刃、残った城兵530余人が討ちとられたという。
忍山城における戦いで、勝利を得た毛利氏は当城に桂左衛門大夫、岡宗太衛門を城番として入れ置いた。
そしてそのあと、毛利氏は余勢をかって忍山城から東方10キロの位置にあった直家の弟・宇喜多春家の居城・金川城(岡山県岡山市北区御津金川) を攻めたが、春家の奮戦もあって落とすことはできなかった。
【写真左】基壇の上に祠が。
先ほどの郭の南隅には小規模な土塁(基壇)があり、その一角に小さな祠が祀られている。
【写真左】祠の周りに石積
だいぶ崩れているが、当時はしっかりした基壇の上に祀られていたのだろう。
このあと、南に向かうが、一旦降りる形となっている。その先には南城が控える。
遺構
当城の麓には「平城(ひらき)」「土居」などの地名が残り、城域には主だった郭が9か所あり、要所には堀切が数か所認められる。ただ、全体に郭個々の大きさは小規模で、宇喜多氏らが一千余騎当城に拠ったことを考えると、城域以外の周辺部にもかなりの数の陣所を配置していたのではないかと思われる。
忍山城の縄張図としては、最近登城されたHP『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されておられるので、ご覧いただきたい。基本的に北側から南に伸びた尾根筋に北城と南城の二つで構成されている。
【写真左】緩やかな堀切
尾根筋に浅い堀切が出てきた。
【写真左】明確な堀切
しばらくするとしっかりとした堀切が配置されている。
【写真左】長い郭
北城と南城を連絡する渡りだが、郭もしくは兵站地としての役目もあったのだろう。
【写真左】大堀切・その1
当城の中では最大級のもの。
【写真左】大堀切・その2
西側から見たもので、南城の北端部にあたるが、その手前にも浅い堀切がある。
この堀切は南城の防御の意味もあるかもしれないが、南城が落とされた際、次の北城への攻撃をできるだけここで踏み止めるための狙いもあったのかもしれない。
このあとさらに南城頂部を目指して上に登る。
【写真左】郭段
大堀切から南城頂部へ直登していくと予想以上の傾斜がついている。
しばらく進むと郭段が出てくる。
【写真左】南城の主郭を見上げる。
尾根幅は狭いものの、登って行くと結構息が上がる。
ここで直接主郭へは行かず西、一旦回り込む。
【写真左】西の郭
腰郭だが西方を俯瞰する物見櫓的な役目をもったものだろう。
【写真左】南城の主郭
西の郭から上に向かって登ると、南城の主郭に至る。
【写真左】土塁
南城の一角には小規模な土塁が残る。
なお、この周辺部にはこのほか東西に中小の竪堀も散見される。
【写真左】勝尾山城を遠望する。
主郭からさらに南に進むと、県道72号線のトンネルが下を横断している。
そこからしばらく進むと、前段で紹介している勝尾山城が見える。
なお、勝尾山城は別名鎌倉山城ともいう。
このあと尾根筋を南に行けるところまで向かうことにする。
【写真左】郭
この付近から小規模な郭が連続して現れる。
【写真左】石積
枯葉に覆われていて明瞭でないが、石積の痕跡が認められる。
【写真左】さらに奥に進む。
南に行くに従って視界がよくなり、先端部近くに来たことが分かる。この辺りの郭は広い。
【写真左】腰郭
南城の最南端に当たる郭で、西側付近まで回り込んでいる。
【写真左】東方を俯瞰
毛利方がどの方向から攻めてきたのか詳しいことは分からないが、この当時毛利氏は備中をほぼ制圧していたので、西側から南の谷筋を通って北上したのだろう。
●所在地 岡山県岡山市北区上高田
●別名 信夫山城・四畦忍山城・忍ノ城
●高さ H:300m(比高 60m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 伊賀伊賀守
●城主 伊賀氏・浮田信濃守等
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2017年2月27日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
備中・忍山城(以下「忍山城」とする。)は、岡山市の北方上高田にあって、以前取り上げた備前の虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉) から南へ直線距離で5.5キロの足守川支流の日近川源流部に築かれた城郭である。
【写真左】忍山城遠望
東麓を走る県道71号線(建部大井線)から見たもの。
右上を走るのは県道72号線(岡山賀陽線)で、橋脚の先には忍山城のほぼ真下を通ることになりトンネルとなっている。
夕方になったため、逆光のせいか画面に赤い斑点のようなものが残った。カメラ音痴なのでこうした場合の撮影テクニックがあるかもしれないが、なかなか上達しそうにない。
伊賀氏
忍山城の築城期・築城者についてははっきりしない点があるが、築城者については伊賀伊賀守とあり、忍山城の東の谷を挟んだ鎌倉山城も伊賀氏の支城ともいわれている。
「日本城郭体系」でも指摘されているように、この伊賀伊賀守が織田信長の下知によって築城したという伝聞があるようだが、当時の状況を考えると整合しない点が多く、まったく違う伊賀伊賀守であろうとしている。
従って、この伊賀氏とは、虎倉城の稿でも紹介している伊賀氏が、当城の築城にも拘わったものと考えられる。
【写真左】南城方面を見る。
登城口を示す案内標識のようなものはないが、西麓にある真言宗御室派の観音院という寺院の左側に山道があるので、そこから向かう。
宇喜多と毛利の戦い
さて、忍山城でもっとも有名な戦いが、備前・備中・美作三国に跨って行われた毛利・宇喜多両氏の争奪戦である。備前浦上氏の家臣であった宇喜多直家(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)参照) は、戦国の三梟雄の一人といわれているが、西の毛利、東の織田がせめぎあう備前・備中・美作三国の中で、巧みに難局を乗り切ろうとした。
【写真左】登城口
右側に観音院の本堂がある。
車は境内脇の駐車場を借りた。
天正7年(1579)5月、毛利と手を結んでいた直家は、信長に内応したとして三星城(岡山県美作市明見) の城主で、直家の娘を嫁がせていた後藤勝基を攻め滅ぼしたものの、その年の10月、今度は直家自身が毛利と手を切り信長についた。
因みに、直家は三星城攻めと相前後して、毛利方の手中に入っていた今稿の忍山城を陥れている。さらには美作・高田城(岡山県真庭市勝山)にも兵を差し向けた。そして、美作の拠点として岩屋城(岡山県津山市中北上)も押さえていたが、当城も毛利氏が反撃してくる情勢にあった。
【写真左】削平地
観音院の裏側から登って行くが、途中から降る坂道となり、御覧の広い場所に出た。
北城の北端部に当たると思われるが、それにしてもあまりにフラットな削平地なので、この箇所は近年改変されたのかもしれない。
なお、この写真で言えば右側から北城のエリアになる。
直家自身、時々刻々と戦況が変わる状勢を常に見定めた上で、毛利よりも織田方が優勢であると踏んだからであろう。もっともこのころ直家自身は身体に腫物ができる難病に苦しんでいて、岡山城の病床から下知を出していた。
ところで、毛利氏が備中から備前へと進出しようとした際、大きな障害になったのはこの宇喜多直家だけではなかった。伯耆羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の南条元続である。
元続も直家とほぼ同じ時期(天正7年)ごろに、毛利氏から離反し織田方についた。このため、毛利氏は羽衣石城攻めは当初吉川元春が担当していたが、侍大将杉原盛重(神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照) 及び、宍道隆慶(宍道氏・金山要害山城参照) に任せ、元春は輝元、隆景らの本隊に合流、総勢3万の大軍を率いて、忍山城攻略に向かった。
【写真左】竪堀
さきほどの北城を目指して一気に尾根に登ればいいのだが、急峻なので西側斜面を南に進んでいく。
さっそく竪堀が現れる。
毛利氏の忍山城包囲
そして、この年(天正7年)12月24日、宇喜多勢の立て籠る忍山城を毛利勢が包囲した。この当時忍山城を守城していたのは、浮田信濃守と岡剛介をはじめとするおよそ1千人の城兵である。
毛利勢の先鋒を務めたのが吉川経言である。すなわち、後の周防・岩国城(山口県岩国市横山3) 主となる吉川広家である。当時18歳の若武者であったが、彼は忍山城に昼夜を分かたず次から次と戦法を駆使して攻め立てた。このため、終始守勢に立たされた信濃守らは、岡山城の直家に援軍を要請した。
【写真左】尾根にたどり着く。
次第に尾根に向かって登って行き、筋にたどり着いた。
写真では分かりにくいが、冒頭の写真で見えていた県道72号線の橋脚。
当然ながら、戦国はこうした道路はなく、深い谷を形成してたままの姿である。
岡山城に横臥の体を余儀なくされていた直家ではあったが、すぐに岡平内、長船又三郎、片山惣兵衛らに命じ、5千余騎を向かわせ、忍山城東の谷を隔てた鎌倉山城(勝尾山城)に援軍として着陣させた。
ところが、岡平内らが着陣して態勢を整えようとした矢先、経言は突如この援軍めがけて急襲した。あまりのことに援軍は浮足だし、ひとたまりもなく潰走する羽目になった。おそらく経言は援軍の情報を事前に察知し、前もって待機していたのであろう。
【写真左】北城の郭
上に登る途中にも小郭があり、さらに上を目指したところやや中規模な郭が現れた。
忍山城の浮田信濃守らは鎌倉山の援軍と呼応して毛利氏を討つ計画が失敗に終わると、やむなく撃って出た。形勢は不利になっていたが、それでも信濃守や剛勇の岡剛介の奮闘もあり、忍山城での決着は翌天正8年正月まで持ち堪えた。
忍山城落城
しかし、その月(正月)下旬、城内の陣屋から火が出た。毛利方の内通者によるもの、もしくは夜半外から火を放たれたなど諸説あるが、いずれにしてもこの火は容易に消すことはできず、城内は大混乱となった。この隙をついて毛利方は一気に攻め立てた。
岡剛介は何とか敵中を突破し、岡山城へ逃げかえったが、浮田信濃守は本丸に追い詰められ自刃、残った城兵530余人が討ちとられたという。
忍山城における戦いで、勝利を得た毛利氏は当城に桂左衛門大夫、岡宗太衛門を城番として入れ置いた。
そしてそのあと、毛利氏は余勢をかって忍山城から東方10キロの位置にあった直家の弟・宇喜多春家の居城・金川城(岡山県岡山市北区御津金川) を攻めたが、春家の奮戦もあって落とすことはできなかった。
【写真左】基壇の上に祠が。
先ほどの郭の南隅には小規模な土塁(基壇)があり、その一角に小さな祠が祀られている。
【写真左】祠の周りに石積
だいぶ崩れているが、当時はしっかりした基壇の上に祀られていたのだろう。
このあと、南に向かうが、一旦降りる形となっている。その先には南城が控える。
遺構
当城の麓には「平城(ひらき)」「土居」などの地名が残り、城域には主だった郭が9か所あり、要所には堀切が数か所認められる。ただ、全体に郭個々の大きさは小規模で、宇喜多氏らが一千余騎当城に拠ったことを考えると、城域以外の周辺部にもかなりの数の陣所を配置していたのではないかと思われる。
忍山城の縄張図としては、最近登城されたHP『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されておられるので、ご覧いただきたい。基本的に北側から南に伸びた尾根筋に北城と南城の二つで構成されている。
【写真左】緩やかな堀切
尾根筋に浅い堀切が出てきた。
【写真左】明確な堀切
しばらくするとしっかりとした堀切が配置されている。
【写真左】長い郭
北城と南城を連絡する渡りだが、郭もしくは兵站地としての役目もあったのだろう。
【写真左】大堀切・その1
当城の中では最大級のもの。
【写真左】大堀切・その2
西側から見たもので、南城の北端部にあたるが、その手前にも浅い堀切がある。
この堀切は南城の防御の意味もあるかもしれないが、南城が落とされた際、次の北城への攻撃をできるだけここで踏み止めるための狙いもあったのかもしれない。
このあとさらに南城頂部を目指して上に登る。
【写真左】郭段
大堀切から南城頂部へ直登していくと予想以上の傾斜がついている。
しばらく進むと郭段が出てくる。
【写真左】南城の主郭を見上げる。
尾根幅は狭いものの、登って行くと結構息が上がる。
ここで直接主郭へは行かず西、一旦回り込む。
【写真左】西の郭
腰郭だが西方を俯瞰する物見櫓的な役目をもったものだろう。
【写真左】南城の主郭
西の郭から上に向かって登ると、南城の主郭に至る。
【写真左】土塁
南城の一角には小規模な土塁が残る。
なお、この周辺部にはこのほか東西に中小の竪堀も散見される。
【写真左】勝尾山城を遠望する。
主郭からさらに南に進むと、県道72号線のトンネルが下を横断している。
そこからしばらく進むと、前段で紹介している勝尾山城が見える。
なお、勝尾山城は別名鎌倉山城ともいう。
このあと尾根筋を南に行けるところまで向かうことにする。
【写真左】郭
この付近から小規模な郭が連続して現れる。
【写真左】石積
枯葉に覆われていて明瞭でないが、石積の痕跡が認められる。
【写真左】さらに奥に進む。
南に行くに従って視界がよくなり、先端部近くに来たことが分かる。この辺りの郭は広い。
【写真左】腰郭
南城の最南端に当たる郭で、西側付近まで回り込んでいる。
【写真左】東方を俯瞰
毛利方がどの方向から攻めてきたのか詳しいことは分からないが、この当時毛利氏は備中をほぼ制圧していたので、西側から南の谷筋を通って北上したのだろう。