丹波・八木城(たんば・やぎじょう)・その2
●所在地 京都府南丹市八木町本郷内山・小谷
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●城主 内藤国貞、内藤宗勝、内藤ジョアン
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日
◆解説(参考資料 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』㈱吉川弘文館、HP「南丹市八木町観光協会」等)
前稿につづき八木城をとり上げたい。今稿では本丸からさらに北東方面に残る遺構や、内藤宗勝の息子の一人・ジョアン(如安)などを中心に紹介していく。
【写真左】八木城本丸 主郭には隅の方に櫓台があり、前稿でも紹介した虎口がその横にある。
またこれとは別に直線形の土塁があり、そこから北側にかけてもう一つの虎口が配置されている。
【写真左】左に行くと妙見宮方面
内藤ジョアン(如安)
永禄8年(1565)、内藤宗勝は赤井直正との戦いにおいて討死した。宗勝には下図に示したように、二人の男子(貞勝、如安)と娘(のちのジュリア)がいた。
宗勝死去により内藤家の家督継承をめぐって、この長男・貞勝と次男・如安の間で内紛が起きた。その結果、形式上は貞勝が家督を継ぎ、如安は執政を取り仕切る立場となった。ただ、残っている文書を見る限り実際には如安が家督を継いだような形跡がある。
【写真左】松永氏略系
嫡男貞勝については、不明な点が多い。八木城主としては貞勝となっているものの、父・長頼健在中でも彼の動きが記録上残っていないため、事実上ジョアンが長頼(内藤家)の後継者となった可能性が高い。
現地の説明板より
“MISERICORDIAS DOMINI IN AETERNUM CANTABO
戦国キリシタン武将 ジョアン内藤飛騨守忠俊 ゆかり之地
ジョアン内藤飛騨守忠俊は、八木城主備前守宗勝の子、八木城に生まれ、1565年頃、南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイス神父より洗礼を受ける。将軍足利義昭に仕え、織田信長との戦に際しては、頭に十字架をHISの打物を施した兜を頂き、二千の兵を率いて二条城に出陣した。
【写真左】主郭周辺の配置図
前稿で全体の配置図を紹介しているが、この図はさらに主郭を中心とした遺構の配置図。下方が北を示す。
主郭は▲マークの位置に当たり、ここを中心として登ってきた東側をはじめ、南、西(二の丸)、そしてその途中からさらに北に延びる尾根筋(北の丸)にも郭が連続する。
また、主郭周辺の郭群とは別に、西側にも独立した郭群(烏嶽 内藤法雲)もある。
本丸から北の方へ少し進んだ位置で、大分崩れているが、石積が残る。
また、八木城落城後は、将軍足利義昭と共に鞆の浦に隠棲した。
文禄の役に際し、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、朝鮮を経て明国北京に赴き、講和を締結して文禄の役を終結せしめた。
以後、前田利家に仕えたが、1614年遂に徳川家康の禁教令により、ユスト高山右近と共にルソンに追放された。
マニラ市サン・ミケルにてますます信仰の道を究め、かたわら医学書、宗教書を翻訳した。1626年(寛永3年)波乱万丈の生涯を終え、異国の地にて帰天。七十余歳。
1982年6月8日 建立。
【写真左】帯郭 どの箇所を撮ったのか記憶が曖昧だが、帯郭状の箇所。
小西行長、高山右近との出会い
如安が八木城の城主としてあったのは二条城の戦いの翌年、すなわち天正2年(1574)ごろまでといわれ、その後、それ以前から支援していた足利義昭とともに備後鞆の浦(鞆城(広島県福山市鞆町後地)参照)に移っている。
堀切の箇所と思われるが、この日は妙見宮まで向かっていない。
天正13年(1585)如安は小西行長(近世宇土城(熊本県宇土市古城町)参照)に出会い、秀吉の朝鮮出兵の際にも、行長の家臣として行長を補佐した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで行長は西軍に属したが、敗れ斬首された。その後如安は肥前の有馬晴信の斡旋で平戸に逃げ、その後加藤清正(熊本城(熊本県熊本市中央区)参照)の客将となる。
【写真左】長い郭 この写真も妙見宮方面に向かう途中の場所で、尾根筋に長い郭を残す。
慶長8年(1603)清正の客将から加賀前田家に4千石で迎えられ、当時同じく前田家に入っていた高山右近(宇陀・沢城(奈良県宇陀市榛原区沢)参照)がいたことから二人は熱心に布教活動や教会の建設に励んだ。
しかし、その後家康による江戸幕府は次第にキリスト教の禁圧を始める。慶長17年(1612)3月21日、本多正純の家臣でキリシタンであった岡本大八は、火刑に処され、翌日前述した肥前のキリシタン大名・有馬晴信は、甲斐国に配流され自害させた(「岡本大八事件」)。
【写真左】二の丸から西に延びる郭 この日は主だった郭群をすべて踏査していない。すべてを見ようと思えば丸一日かかるだろう。
キリスト教徒海外追放
そして、慶長19年(1614)3月7日、幕府は高山右近・内藤如安らキリスト教徒百余人の海外追放、並びに残党70余人の陸奥国外ヶ浜流刑を決めた。陸奥国外ヶ浜というのは、現在の青森県津軽半島から夏泊半島までの陸奥湾を望む地である。地名は、陸地が尽きるという由来から来たもので、鎌倉時代から流刑の地としてすでに知られていた。
その後、如安らの追放先となるフィリピン側との事前協議や、船の準備などもあったのだろう、決定してから7ヶ月後の10月6日、正式に船出となった。100名をこえる海外追放者であるので、おそらく船は2,3艘用意されたのだろう。
因みに、この翌月(11月15日)、家康・秀忠は大阪城にあった豊臣秀頼攻略のため出陣した。いわゆる「大阪冬の陣」である。
【写真左】内藤ジョアンの石碑 登城口手前の農道わきに設置されているもので、右下に上段で紹介した説明板の内容が筆耕されている。
なお、この写真の奥に見える小山は、八木城の支城といわれる鶴首山城で、その麓には後段で紹介する八木城の居館跡とされる東雲寺がある。
高山右近らがマニラに到着したとき、当時フィリピンはスペイン領であったので、総督ファン・デ・シルバ(第14代総督 任期(1609~1616年))らから大歓迎を受けた。しかし、右近は慣れない気候などもあって翌年死去する。如安には妹・ジュリアも随従した。
マニラでは日本人キリシタン町サンミゲルを築いたといわれるから、右近・如安らと同船していた日本人キリシタン100余名が協力して町を興したのだろう。如安はその後寛永3年(1626)当地で没した。説明板では享年70余となっているが、資料によっては74歳とするものもある。ジョアンが亡くなったころ、江戸幕府の将軍は、3代目の家光となっていた。
東雲寺
東雲寺は、前述したように、内藤ジョアンの石碑から北におよそ500m程向かったところにある。八木城主の居館跡に建てられたという寺院である。創建時期ははっきりしないが、上述したように、明智光秀が丹波を平定した天正7年(1579)以降と考えられる。
残念ながら当院を写した写真が少なく、物足りないが、外周部に残る石垣などは当時のものが再利用されたように見える。
現在の通用門はこれとは別の位置にあり、この門のみ独立して置かれている。居館時代のものだろうか。
【写真左】東雲寺の背後 墓地が見えるが、その後背には鶴首山城が控える。
龍興寺
東雲寺から西に200mほど向かうと龍興寺がある。享徳元年(1452)細川勝元の香華寺として建立されたとあるので、前記した東雲寺よりも古い寺院となる。
【写真左】龍興寺 境内には、本堂(方丈)、鐘楼の他、牡丹園、梅園、花奔園などがあり、裏側には写真を撮っていないが、織田信長の弟・信包(のぶかね)の供養塔などもある。
現地の説明板より
”南丹市指定文化財 昭和61年3月30日
龍興寺鐘楼
当寺は、享徳元年(1452)細川勝元公の香華寺(こうげじ)として建立されたと伝わる。このことは元禄15年(1702)に完成した『本朝高僧伝』の玄詔伝に記されている。
鐘楼は本堂の東側、参道の傍らに建つ。切妻造桟瓦葺で、桁行・梁間各一間である。柱は粽(ちまき)付の円柱で、四方転びに建てられている。軒は一軒で半繁垂木、妻は一重の紅梁蟇(こうりょうかえる)股となっている。
元文5年(1740)園部藩作成の『寺社類集』には、鐘楼の記述はないが、19世紀のはじめに書かれた考えられる『丹波志桑船記』には、鐘楼の記述がある。また戦時中に供出された梵鐘には、延享4年(1747)の銘があったとの伝承もあるので、天明6年(1786)再建の現本堂と同じ頃にこの鐘楼も建造されたものと思われる。
平成17年3月 南丹市教育委員会”
龍興寺からほぼ真南に見える。
写真中央の尖った山が八木城。
龍興寺を建立する2年前の宝徳2年(1450)、勝元は山城国(京都)に龍安寺を創建し、寺領を寄進している。現在、龍安寺は世界遺産の一つとなっており、枯山水の方丈庭園が特に有名で、多くの観光客が訪れる名刹である。
また、出雲国との関連でいえば、龍興寺を建立した同じ享徳元年(1452)、出雲大社の国造・千家持国が、杵築大社祈祷巻数を細川勝元に贈呈している。16歳で管領に就任し、通算23年間もその任にあったことから、まさに勝元の絶頂期であったと思われる。