2019年8月29日木曜日

上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪)

上赤阪城(かみあかさかじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪
●別名 楠木城・小根田城・桐山城
●指定 国指定史跡
●築城者 楠木正成
●城主 楠木正成、平野将監入道、楠木正季
●備考 楠木七城
●高さ 349.7m(比高150m)
●築城期 鎌倉時代末期、元弘2年又は3年
●廃城年 延文5年/正平5年(1360)
●遺構 郭・横堀等
●登城日 2016年10月12日

解説(参考文献 『国史跡 楠木城跡 千早赤阪村埋蔵文化財調査報告書 第5輯』 2008.3 千早赤阪村教育委員会編 等)

 上赤阪城は、別名楠木城・小根田城・桐山城などといわれる。
 所在地は、同村上赤阪にあり、前稿の下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) から東南方向へ直線距離で2キロほどの位置になる。
【写真左】上赤阪城
 本丸に建つ「楠木城址(上赤阪城)」の石碑
 眼下には富田林の市街地が眺望できる。





 ルートは、下赤阪城東麓を走る富田林五條線(705号線)を1.5キロほど南下すると、南河内グリーンロードという林道が左側に接続しているので、この道を東に1.4キロほど進む。金剛山から北西に伸びる尾根を横断するコースとなるが、しばらくすると千早赤阪村学校給食センターという施設があり、そこから南に枝分かれする農道があるので、そこを進む。数分で上赤阪城の看板などが設置された駐車場があるので、ここに車を停めて向かう。
【写真左】赤阪城塞群の配置図・その1
 上赤阪城は中央部に示されているが、前稿の下赤阪城をはじめとする赤阪城塞群はナンバリングで示している。
 それぞれの城名は下段のリストで示す。
【写真左】赤阪城塞・城名リスト
 ここでは、上赤阪城・下赤阪城・二河原辺城をはじめ、そのほか16の城名が記載されている。
 なお、千早城はこの図は示されていないが、上図に示したように城塞群からは距離はだいぶ離れ、金剛山に近い位置に所在している(千早城については、次稿で取り上げる予定)。










現地の説明板より

”国史跡 楠木城跡(上赤阪城跡)

 標高349.7m。比高150m。自然の険しい地形を利用した中世山城です。小根田城(おねだじょう)・桐山城・楠木本城とも呼ばれています。鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。

 元弘3年(1333)、平野将監(しょうげん)と楠木正季(まさすえ)は、多勢の鎌倉幕府軍相手に奮戦しましたが、水路を断たれ陥落しました。糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷(くそんだ)」という地名になって残っています。合戦の様子は『太平記』からもうかがえます。
【写真左】上赤阪城案内図
 上方が北を示す。現在地というところが駐車場で、2,3台程度のスペースが確保されている。







 城の遺構は、曲輪・堀切・竪堀・横堀で構成されています。とくに、大手前と搦手にある堀切群は堀を二重にしたおおがかりなもので、大手前の「そろばん橋」は特徴的です。遺構からみると戦国時代に改修されていますが、それ以前と考えられる遺構も残っています。この場所には「一の木戸」がありました。
 昭和9年3月に国史跡に指定されました。
    千早赤阪村”
【写真左】登城開始
 左に見える道は林道だが、上赤阪城へ向かう道ではない。
 なお、この位置に「本丸まで20分」と書かれていたが、管理人の足では30分以上かかった。



平野将監と楠木正季

 上赤阪城の築城期については明確な史料は残っていないが、当時の状況から考えて、前稿の下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) の後に築かれた可能性が高い。

 当城の城主とされているのが、平野将監と楠木正季である。城将が将監で、正季は副将だったという。これは正成の命によるものだろう。正季は正成の実弟であるが、平野将監は別名重吉ともいわれている。
【写真左】一の木戸付近
 登城口から少し進むと、一の木戸が出てくる。

 看板を確認できなかったが、木戸とは城門のことだが、いかにも両側から敵を監視できそうな状況である。



 将監が正成と接触を持った時期ははっきりしないが、もともと持明院統に仕える西園寺公宗(黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)参照) の家人といわれ、さらには大覚寺統に縁のある僧ともつながりを持っていた。

 西園寺家は代々朝廷側の窓口として、鎌倉幕府との調停役、すなわち関東申次(もうしつぎ)を行っていた家柄である。
【写真左】二の木戸
 一の木戸からおよそ50mほど登ったところにある。当城では本丸までに4か所の木戸があったとされる。

 上段でしめした城塞群配置でもわかるように、このあたりでは東側に足谷川を挟んで「二河原辺城」、西側には「一番のきり城」及び「首切り場」を望むことができるようだが、どの方向かよくわからなかった。


 元徳2年(1330)9月、尼崎住人教念・江三入道教性を首謀者とした摂津・河内・大和に及ぶ数千人の悪党が、東大寺領摂津国長洲荘(兵庫県尼崎市)に乱入、六波羅の軍勢と合戦に及ぶという事件が起こった(『宝珠院文書』)。

 平野将監入道は、教念・教性に与同した約40人の悪党の首領の一人であったという。将監に限らず、このころ後醍醐天皇の倒幕に向けた動きがあり、これらの動きと連動するものは他にもあったようで、将監が後醍醐天皇、大覚寺統、公家衆らと持っていたネットワークがここにきて具体的に一気に動き出したものと思われる。

 なお、上赤阪城は落城し、将監をはじめとする城兵は幕府軍に投降することになるが、その後京都の六条河原で処刑された。その数は将監をはじめ282人だったという。
【写真左】三の木戸
 一の木戸から250mほど進むと、三の木戸がある。そしてここを過ぎると「そろばん橋」「四の木戸」などが控える。
【写真左】そろばん橋付近
 標記されたものはなかったが、おそらくここがそろばん橋だろう。

 「そろばん」という俗名がつけられているが、実際には東側斜面に構築された畝状竪堀群と土橋が併設されたものと思われる。
 もっとも現地は草木に覆われて確認することはできなかった。
【写真左】四の木戸付近
 上の「そろばん橋」正面にみえる切岸状斜面から少し奥に向かった位置で、標記はなかったが、この辺りが四の木戸付近と思われる。
【写真左】郭段
 四の木戸付近から東側尾根には郭段が見え始める。
 二の丸側から伸びてきたものだが、この日はついうっかりして、二の丸側を踏査することを忘れてしまった。
【写真左】西側の谷
 登城途中の右側(西側)を見たもので、雑草が生い茂った景色だが、何となく近年まで棚田だったような段差が確認できる。
【写真左】ここで右折
 この標識が見えたので、素直に曲がったが、実は左側に進むと二の丸にむかうことができた。
【写真左】茶碗原
 上の標識部分からこの辺りは削平された平坦地で、「茶碗原」という郭。
 おそらく屋敷などがあった場所なのだろう。

 西の本丸側に向かっておよそ70mほど続く。
【写真左】本丸の案内標識が見えてきた。
 茶碗原は3段程度の高低差を持たせているが、緩い傾斜なのでこの付近でだいぶ呼吸が楽になる。
【写真左】本丸方面と金剛山ルートの分岐点。
 茶碗原の西端部から本丸に向けて直登しようと思えばできそうだが、南側にしっかりとした道があるのでこれを使う。

 途中で左側に金剛山に向かう道が分岐している。
 もっとも金剛山までは相当な距離があり、途中で猫路山城・坊領山城を経由することなる。
【写真左】井戸跡か?
 本丸に向かう途中で見つけたもので、かなり深い窪み。似たようなものがもう一か所あった。

 位置的にはこの辺りに設置されていると理想的だろう。
【写真左】本丸南端部
 本丸は南北におよそ80mの長さをもつ。手前は千畳敷といわれる個所で、ここから北に向かう。
【写真左】本丸に建つ石碑
北端部には、冒頭で紹介した「楠木城跡」と刻銘された石碑とは別に「上赤阪城址」の石碑も建つ。
【写真左】本丸から北西方向を俯瞰する。
 この位置からは地元の千早赤阪村より、石川を挟んだ対岸の富田林市の方がよく見える。

 このあと本丸を囲む帯郭側に降りる。
【写真左】帯郭
 本丸の南端部には腰郭が付随しているが、そこからは独立して西側から帯郭が本丸を囲む。

 西側から本丸北側を通り、東側の1/3まで連続する帯郭で、総延長は100mを超ええるだろう。
 写真の右側が本丸の切岸。
【写真左】堀切
 下山途中に見えたもので、茶碗原の南東に伸びる尾根に築かれたもので、立木で分かりずらいが、かなり大きな規模のもの。





◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)

2019年8月20日火曜日

下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋)

下赤阪城(しもあかさかじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村森屋
●別名 赤阪城
●指定 国指定史跡
●高さ 185.7m(比高61.4m)
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏
●廃城年 延文5年/正平15年(1360)
●備考 楠木七城
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年10月12日

◆解説(参考資料 『千早赤阪の文化遺産』㈳千早赤阪楠公史跡保存会編等)
 前稿の楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)に続き、楠木氏の史跡をとり上げる。
 今稿は楠木氏が河内国に入った初期に築かれたといわれている下赤阪城である。
【写真左】下赤阪城
 遺構の一部であろう土壇の上に石碑が建つ。








現地の説明板より

国史跡 赤阪城跡(下赤阪城跡)

 標高185.7、比高61.4m。金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された中世山城です。この城は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。

 元弘元年(1331)、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山へ逃れました。正成はこれにあわせてこの地で挙兵し、護良親王も当地に身を寄せたと伝えられています。幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は『太平記』に記述されています。しかし、にわか造りのため落城、正成は金剛山へと後退しました。
写真左】案内図
 現地に設置されていたが、だいぶ劣化し色も薄くなっていたため、管理人によって補正修正した。
 この案内図は、下赤阪棚田の会という団体が作成したもので、前稿の楠公誕生地をはじめ、棚田の見える展望台、寄手塚・身方塚など他の史跡を巡るコースが描かれていた。
 下赤阪城は同図の左側に配置されており、右側には千早赤阪中学校があり、当城周辺部は棚田をはじめとする眺望学習広場となっている。

 
 その後、元弘2年(1332)に正成は再起し、この城を奪還しました。ふたたびこの城は落城しますが、千早城での籠城の間に鎌倉幕府は滅亡しました。

 城としての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)であったといわれています。
 昭和9年3月に国史跡に指定されました。
    千早赤阪村教育委員会”
【写真左】南側から見る。
 南北に伸びる尾根筋に当たる箇所で、右側の道路を奥に進むと、当城の本丸があったといわれる個所(現・田圃)にたどり着く。
 右の建物は中学校の校舎で、敷地はだいぶ下がったところにあるので、見えている箇所は2階部分に当たる。


赤阪城塞群

 本稿の下赤阪城をはじめとして、千早赤阪村には中小の城郭が分布している。これらを総称して「赤阪城塞群」という。
 いずれも楠木正成及び同氏一族が関わったものといわれ、主だったものを列記すると次のようになる。
  1. 下赤阪城(赤阪城)
  2. 上赤坂城(楠木城)
  3. 千早城
  4. 二河原辺城
  5. 本宮城
  6. しょうぶ城
  7. 桝形城
  8. 猫路山城
  9. 坊領山城(国見山城)

 下赤阪城は楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)から南西方向へ直線距離でおよそ800mほど向かった丘陵地に所在する。東麓には千早川が南北に流れ、石碑の西側には「下赤阪の棚田」が眼下に見える。
【写真左】石碑
「史跡 赤阪城址」と刻銘された石碑で、昭和14年3月建設とある。







遺構

 写真でも分かるように、現在は道路やその東にある中学校などの施設ができているためほとんど遺構らしいものは残っていない。

 ただこの石碑が建っている箇所から尾根筋となる道路を北に500mほど下っていくと、道路の西側におよそ6mほど高い位置に長径(南北)60mほどの田圃が一枚あるが、この個所が「本丸」であったという伝承が残る。

 このことから、城域は北端部の本丸から、南は石碑の建つ位置までの尾根およそ500mを長軸とし、幅はこの尾根幅(30~100m前後)のものではなかったかと考えられる。そして東側の下がったところ、すなわち村立赤阪中学校の敷地をはじめ、周辺部の棚田の一部は当城の帯郭・腰郭として利用されていたのかもしれない。
【写真左】石碑の上から南側を見る。
 千早赤阪村は山間部であることから村内の幹線道路は狭い道が多い。
 普通車でも通行できるが、対向車とすれ違う時には気を遣う。

 逆に言えば、この辺りは当時(南北朝期)からあまり改変されていなかったことになる。写真の左が上述した中学校だが、その下を千早川が流れているので、天然の切岸だったのだろう。
【写真左】眺望学習広場付近
 石碑の右側には平坦地があり、眺望学習広場の小屋が建っている。
 おそらくこの付近も郭だったのだろう。
【写真左】さらに南に向かう。
 石碑のある箇所から南に向かうと、道が二方向に分岐するが、その間の尾根筋を登った箇所。

 ここにも田圃がある。このことから、下赤阪城の水の手は、尾根筋に沿って北方の本丸付近まで伸びていた遺構(用水路)があったものと思われる。
【写真左】下赤阪城から嶽山城を遠望する。
 下赤阪城から西北西へ直線距離で2.4キロ向かった位置には、同じく楠木正成が築城したといわれる嶽山城(大阪府富田林市龍泉) が見える。

 当城も楠木七城の一つで、中腹に龍泉寺があることから別名龍泉寺城とも呼ばれる。

 ところで、当城は寛正2年(1461)幕府の命によって、畠山氏の御家騒動を鎮圧すべく、石見から益田貞兼や兼尭(七尾城(島根県益田市七尾)・その1 参照)らが参戦している。その後、寛正4年(1463)4月には当城(下赤阪城)もしくは楠木城(上赤阪城)で、益田兼尭が山名是豊方に属して、畠山義就(河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園)参照) と戦っている。
 なお、嶽山城についてはいずれ別稿で取り上げる予定である。


下赤阪の棚田

 眺望広場から西に目を転ずると幅の狭い田圃が階段状に連なっている。平成11年に「日本の棚田百選」に選定された「下赤阪の棚田」である。春には代掻きが終わると、水を蓄え、田植えを待つ湖面のような姿があり、秋には黄金色の稲穂がたなびく、まさしく日本の原風景である。
【写真左】下赤阪の棚田
 残念ながら、下赤阪の棚田も御多分に漏れず、手前の田圃は耕作放棄で、外来種のセイタカアワダチソウが繁茂している。


 


 眼下では、ちょうどこのとき稲刈りが行われていた。狭い棚田のため、コンバインなどが入らず、バインダーという歩行用の機械で稲刈りをする。そして刈った稲は一束づつ稲架にかけている。昔は皆こうしたやりかただったが、時代と共にこの光景は失われつつある。

 手間暇のかかる棚田を維持していこうとするのは、先祖代々から受け継いできた田を消滅させたくないという強い想いや、使命感からくるものだろう。棚田も城郭と同じく、歴史的文化遺産である。末代まで残ってほしいものだ。

2019年8月14日水曜日

楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)

楠公誕生地(なんこうたんじょうち)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分
●別名 楠木正成生誕地
●遺構 堀・建物跡
●遺物 土器
●備考 楠公産湯の井戸、村立郷土資料館
●探訪日 2016年10月12日

解説(参考文献 『南朝研究の最前線』監修日本史史料研究会 編者 呉座勇一 洋泉社刊等)
 前稿河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園) で少し触れているが、烏帽子形城は楠木正成をはじめとする楠木氏の七城の一つであった。

 今稿ではその楠木正成ゆかりの史跡として多く所在する河内長野市の東隣・千早赤阪村の主だった史跡をとり上げたい。
 今稿ではその中から「楠木正成の誕生地」、及び「楠公産湯の井戸」を紹介したい。
【写真左】「楠公誕生地」と筆耕された石碑
 千早川とその支流・水越川が合流する位置に所在する。隣接して「郷土資料館」・「くすのきホール」などが建っているが、当時はこの辺り一帯が館跡だったと考えられる。

 また、ここから南へおよそ200mほど向かった位置には「赤土山城」という丘城もあり、これらも楠木氏と関わる城館と思われる。
【写真左】案内図
 現地にあった案内図で、文字が小さくて分りづらいため、管理人で少し補正している。
 中央左側に誕生地の位置を赤字で示している。



現地の説明板より・その1

‟「楠公誕生地遺跡」

 ここは楠木正成が生誕したという伝承の残る地です。くすのきホール建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせる建物跡を検出、出土遺物も14世紀のものが認められ、周囲の中世山城群と合わせて考えると楠木氏との関連も推定することが可能です。
 また、付近には楠公産湯の井戸の伝承地も残ります。
   千早赤阪村教育委員会”
【写真左】楠公誕生地入口
 写真は入口付近で、中の方は公園のような形に整備されている。
【写真左】「至誠一貫」の文字が筆耕された石碑。
 近くには御覧の石碑が建立されている。その右下には「楠公父子別れの桜井駅」と題する小さな彫り物?もついている。

 「桜井駅」とは、現在の大阪府三島郡島本町にある奈良時代の駅(うまや)のことで、当時京から西国に向かう街道の駅の一つであった摂津国嶋上郡大原駅」(「続日本書紀」)を指す。
 この駅で延元元年(1336)、足利尊氏の大軍を迎え撃つために、京都を発った正成が、桜井駅で嫡男・正行に遺訓を残し、彼を参陣させず河内へと引き帰らせたことが太平記に記されている。
【写真左】村立郷土資料館
 楠公誕生地の南隣に建てられている施設で、写真左側にはくすのきホールが隣接している。
 この辺りから14世紀ごろの土器群、二重の堀に囲まれた建物跡が検出されている。





現地の説明板より・その2

‟楠公産湯の井戸
 楠木正成(1294~1336)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物です。ここ水分山の井で生まれたといわれています。正成が生まれた楠公誕生地からは、同時代の中世館城を確認しています。
 地元では、正成は「楠公さん」と呼ばれ親しまれており、この井戸の水を産湯に使ったといわれています。
    千早赤阪村”
【写真左】楠公産湯井戸
 楠公誕生地から北へおよそ150mほど向かったところにある。







楠木氏の出自

 楠木正成は戦前から南北朝時代に後醍醐天皇の忠臣の一人として活躍した武将として著名である。赤阪城や千早城に拠って幕府軍と戦った話などは、戦前の皇国史観のシンボルの一人、あるいは、忠臣の鑑として修身教育でも度々とり上げられてきた。
【写真左】大楠公(楠木正成)の像
 以前紹介した河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市) に建立されている正成の像で、当城も南北朝期正成らが南朝方として戦った場所と伝えられている。



 そして上掲したように、地元河内の千早赤阪村には彼が当地で誕生したとされる「産湯の井」などが史跡として紹介されている。しかしながら、正成自身の出生地はともかく、楠木氏自身の出自などについては確定しておらず、千早赤阪村の出という説は否定されつつあるのが実情である。


駿河国の楠木氏

 ところで、2016年に『南朝研究の最前線』(監修日本史史料研究会 編者 呉座勇一 洋泉社刊)という書籍が発刊された。この中で同氏の出自に関する興味深い事項があり、そこで同書を基に少し考察してみたい。

 正応6年(1293)7月、鎌倉幕府は鶴岡八幡宮に駿河国の入江荘(静岡市清水区)内の「長崎郷」三分の一と、「楠木村」を寄進した(「鶴岡八幡宮文書」)。

 正応6年は永仁元年でもあるが、この年の4月、霜月騒動を起点として幕府の実権を握っていた内管領平頼綱が北条貞時の命によって討死、7年にわたる頼綱の専制はここに幕を下ろした。これを「平禅門の乱」という。

 既述した駿河国の入江荘内の地は、頼綱の所領地で、平禅門の乱後、幕府が没収し鶴岡八幡宮へ寄進した可能性が高い。また、同乱(平禅門の乱)後、幕府内で絶大な権力を持ったのが、得宗内管領長崎氏で、「長崎郷」はこの長崎氏の出自元という。

 そしてここでもっとも注目されるのは、この長崎郷内にあった楠木村である。楠木氏が長崎氏の後援を得て幕府内の御家人・得宗被官となっていったと思われ、楠木氏がこの楠木村に所在した楠木氏ではないかということである。
【写真左】当時の駿河国長崎郷と楠木村
 現在の静岡市清水区に当たり、巴川中流域にあった長崎郷の一部で、因みに、長崎郷の東隣は、 入江荘吉川という地区で、安芸北西部から石見にかけて版図を広げた駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町)   の吉川氏の領地である。



 では楠木氏がどういう経緯で駿河国から河内国に移住したのだろうか。正成が河内に入った最初の頃、拠点の一つとしたのが同国の観心寺(楠木氏の菩提寺:大阪府河内長野市寺元)だが、それ以前に当院は幕府の有力御家人安達氏の所領地で、霜月騒動の折、同氏は平頼綱によって討たれた。

 その後、得宗領に組み込まれたものの、前述した「平禅門の乱」の結果、今度は楠木氏が得宗家から地頭(代)として現地に送り込まれたという(おそらく長崎氏の命によるものだろう)流れが最も説得力を持つ。

 河内楠木氏の出自を駿河国に求めるこれらの推論は、いわば間接的な傍証史料に基づくものだが、当時の中世武士の姓名は概ねその土地に由来する形で名乗ってきたことを考えると、そもそも河内国に楠木という地名もなく、また、これまでよくいわれてきた河内国のいわゆる「悪党」という在地野武士団のようなイメージは、後代の人たちによる脚色によるところが大きいと思われる。

安芸・吉川氏との接点

 なお、上図にもあるように、長崎・楠木の地区の東隣には戦国期毛利元就の二男・元春が養子として入った吉川氏の出身地吉川地区がある。
 安芸国で最初に築いた駿河丸城 の築城者・吉川経高がこの地(駿河国吉川)から安芸大朝に入ったのが正和2年(1313)といわれている。

 楠木氏が駿河国から河内に入った時期ははっきりしないが、いずれにしても駿河国にあった両氏との接点を証明する史料はないが、物理的に考えても十分にあったものと思われる。

2019年8月3日土曜日

河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園)

河内・烏帽子形城(かわち・えぼしがたじょう)

●所在地 大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園
●指定 国指定史跡
●高さ 182m(80m)
●築城期 南北朝時代(元弘2年/正慶元年・1332年)
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏、畠山氏、甲斐性氏等
●遺構 郭・堀切・土塁・空堀等
●備考 楠木七城・烏帽子形公園
●登城日 2016年10月15日

解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』仁木宏・福島克彦編者吉川弘文館等)

 前稿大江時親邸(大阪府河内長野市加賀田) から真北へおよそ4キロ余り下っていくと、加賀田川と石川が合流する地点に烏帽子形公園がある。烏帽子形城はこの公園内に築かれた城郭である。
【写真左】長大な堀と土塁
 烏帽子形城の特徴の一つとして挙げられるのは、長大な横堀とそれに付属する土塁である。
 写真は東側にある屈曲しながら伸びる横堀と土塁。



現地の説明板より

‟烏帽子形城

 この城は残されている記録から一時期使われなかったこともありましたが、室町時代から江戸時代のはじめ、元和年間(1615年)までは確実に使用されていました。
 城は北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182mの烏帽子形山に築かれています。
【写真左】烏帽子形公園入口
 当城は烏帽子形公園として整備され、南側に入口が設けられている。
 左の坂を登って行くと駐車場があり、ここに停めて向かう。


 城の築城は、南北朝時代に楠正成によって築かれたと伝えられています。応仁の乱後、河内守護の畠山氏の持ち城であり、安土桃山時代にはキリシタン大名で、この地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。

 城は主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には郭が造られています。1988年の調査で、主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。”
【写真左】烏帽子形公園案内図
 左方向が北を示す。右側が入口で駐車場の近くにはプールなどが設置されているが、当時は郭などの遺構もあったのかもしれない。
 また東側には当城の鎮守とされた烏帽子形八幡神社が祀られている。

 右側にある青い色で示してあるのが石川。

畠山氏

 烏帽子形城の城主は畠山氏一族といわれている。畠山氏についてはこれまで、船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)の稿などで少し触れているが、同氏が歴史の表舞台に出てくるのは、応永5年(1398)に制定された室町幕府の三管領四職七頭の制のころである。
 もっともそれ以前の南北朝時代に尊氏から越中・河内・紀伊の守護に任じられているが、既述したように3代将軍足利義満の信任を得たこのころ(応永5年)が最も華々しい時期でもあった。
【写真左】烏帽子形城の復元予想図
 この予想図は本丸付近を描いたものだが、実際には長径(南西~北東)300m余の規模を持つ。






 ところで、応仁・文明の乱が勃発するのは応仁元年(1467)ごろだが、そのきっかけの一つとなったのが、この畠山氏の家督相続をめぐる内紛からといわれている。

 乱勃発の13年前、すなわち享徳3年(1454)、畠山氏は家督をめぐって対立が起きた。この時の当事者が同国守護職畠山義就(よしなり)と、政長である。
 詳細はここでは省くが、この対立の中で登場するのが「押子形城(おしこがたじょう)」で、文正元年(1466)、義就が押子形城に拠った政長を攻め落としたといわれる。この押子形城が烏帽子形城であったと考えられている。
 またそれから58年後の大永4年(1524)には政長の流れを汲む稙長(たねなが)が、義就流れを汲む義堯(よしたか)の烏帽子形城を攻めている。
【写真左】横堀
 南の駐車場から歩いて北に向かっていくと、さっそく横堀が現れる。







河内キリシタンの拠点

 畠山氏の内乱がしばらく続いた後、河内を制圧したのが三好長慶(芥川山城(大阪府高槻市大字原)参照) である。しかし、長慶をはじめとする三好氏一族の支配も信長の入京によって消滅し、河内国も信長によってしばらく平定することになる。このとき、信長は同国(河内国)の諸城を破却する命を下すが、烏帽子形城だけは地域支配の拠点として残した。
【写真左】空堀から上の土塁を見上げる。
 この辺りの空堀は南側から東に伸びるもので、並行して土塁が右側に付随する。





 ところで、宣教師ルイス=フロイスの書簡に、1575年(天正3年)5月4日付で、烏帽子形のキリシタンを訪ねた記録がある。
 また1582年(天正10年)2月15日付長崎発パードレ=ガスパル・クエリヨの報告によれば、烏帽子形城には3人の領主がいたと記されている。このうち2人がキリシタンの武士で、一人は畠山氏の遺臣といわれ、堺の裕福な貴族と称されたパウロ(伊地智)文太夫で、もう一人はシメアン(池田丹後守教正)の娘を娶ったことが記録されている。

 さらにこの頃城下にはおよそ300人のキリシタンが住んでおり、教会を建てるための木材などが準備されていたという。
【写真左】横堀終点
 東から北に延びた横堀はここで終わり、左側から伸びてきた郭と、さらに右(東)に波状に配置された空堀・土塁と合流する。
 このあと東側に配置された横堀・土塁方面に向かう。


秀吉の紀州攻め

 信長が本能寺で横死したあと、秀吉は天下統一に向けて動き出すが、畿内でもっとも大きな抵抗勢力となったのが、信長時代から続いた根来寺を中心とする紀州勢力である。

 烏帽子形城の東麓には高野山へ続く高野街道があり、さらに北側には大和国の五條に続く大沢街道が、さらに西方へは和泉国に繋がる和泉街道などがあり、当城はまさにこれら街道筋が交差する要衝に位置していた。
【写真左】東側の横堀と土塁
 東側は次第に下がっていくが、写真のように横堀と土塁をセットにした遺構が続く。




 
 

 天正12年(1590)、秀吉は当時岸和田城主であった中村一氏(米子城(鳥取県米子市久米町)  参照)に命じて、烏帽子形城を紀州勢対策として改修させるよう命じている。
 また、この改修工事にあたっては、益田長秀や本願寺教如からも普請用の鍬などが送られている(『宇野主水日記』)。

 そしてこの改修工事が当城における最後のものであったことから、現在残る遺構はこの年(天正12年)のものであろうとされる。
【写真左】この先に本丸
 本丸はのちほど踏査することにして、先ずは北東方向の段に向かう。
【写真左】この先に古墳
 登城したこの日要所に標柱を設置するための杭が建っていたが、おそらく現在では各遺構の名称等を記したものが設置されているのだろう。
【写真左】谷に降りて行く
 北東方向には左右の尾根と尾根の間にできた谷筋が出来ており、谷底まで降りられる階段が設置されている。
【写真左】土橋
 かなり幅のある谷で、自然地形でもあるが堀としての役目もしていたのだろう。土橋のような形状を残す。
 このあと、この土橋を渡り、本丸方面を目指す。
【写真左】谷の反対側の郭段
 土橋を渡り西側をみると、不揃いな段が確認できる。
【写真左】本丸の北側
 途中で空堀があり、その先を行くと再び右手に空堀が控える。
【写真左】東西に伸びる土塁
 さきほど見てきた谷の上端部に当たる箇所で、この箇所で土塁が東西に走っている。
【写真左】空堀
 左上が本丸に当たるが、その下にも空堀が控える。
【写真左】帯郭
 本丸を囲繞する郭で、奥の方は空堀状となっており、手前方向に行くほど幅が広くなり、平坦地となっているので郭とした。
【写真左】帯郭
 別の角度から見たもので、囲繞する郭の奥行がかなりある。
 写真左の階段を上がると本丸に至る。
【写真左】本丸
 南北に長径50m×短径(5~20m)の長さを持ち、北端部を最高所として南側へ3段の高低差を持たせている。
 北端部が解放され見晴らしが効く。
【写真左】石造
 本丸の脇には御覧の石像が建立されている。
【写真左】本丸北端部より河内長野市街地を俯瞰する。
【写真左】調査後の郭?
 本丸の東側だったと思うが、御覧のような箇所があった。
 当城は昭和63年度公園整備のため、平成7年度には史跡指定のための発掘調査がそれぞれ部分的に行われているが、調査終了後の処置としてこのような形をのこしたものだろう。
 因みに、昭和63年度のときは礎石建物2棟などが検出されている。
【写真左】西側の横堀と土塁
 本丸の西側に降りると、幅は狭いものの南北に70m前後の長さを持つ横堀と土塁が続く。
 なお、この写真右下は切岸となって細い尾根が続くが、その途中には中規模な堀切が設置されている(下の写真参照)。
【写真左】堀切
【写真左】烏帽子形八幡神社
 当城の東側の麓には冒頭で紹介した烏帽子形八幡神社が鎮座している。





現地の縁起より

‟烏帽子形八幡神社
 この神社は、素戔嗚命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇が御祭神で、上田、喜多、小塩、楠ヶ丘、大師町五地区の氏神として崇敬されている。
 本殿は、棟札および棟束の墨書により、文明12年(1480年室町時代)の建立が確認され、昭和25年に重要文化財の指定を受けている。なお、昭和40~41年の解体修理によって建立当初の姿に復元された。

 また烏帽子形山の山頂には、楠木七城のひとつと伝えられる烏帽子形城跡があり、山城特有の土塁や、空濠が残されている。
 山頂から北方へのびる尾根の先端には、古墳時代後期と推定される径20m、高さ3mの円墳一基がある。
    昭和62年3月
       河内長野市”