鈴尾城(すずおじょう)
●所在地 広島県安芸高田市吉田町福原
●別名 福原城
●高さ 316m(比高110m)
●指定 広島県指定史跡
●築城期 永徳元年・弘和元年(1381)
●築城者 福原広世
●城主 福原氏
●遺構 郭、石垣、土塁、堀、井戸
●別名 福原城
●高さ 316m(比高110m)
●指定 広島県指定史跡
●築城期 永徳元年・弘和元年(1381)
●築城者 福原広世
●城主 福原氏
●遺構 郭、石垣、土塁、堀、井戸
●登城日 2017年11月7日、及び16日
◆解説(参考資料 『知将 毛利元就』池亨著、『日本城郭体系 第13巻』等)
随分前から安芸の山城探訪する際、鈴尾城の近くを度々通っていたのだが、当時は他の山城の方を優先していたため、なかなか登城する機会が持てなかった。
鈴尾城は毛利氏の居城・吉田郡山城から南西へおよそ6キロほど隔てた可愛川(江の川)東岸に築かれた福原氏の居城である。別名福原城ともいう。
【写真左】鈴尾城遠望 北側の吉田町福原側から見たもので、写真には写っていないが、右側には可愛川(江の川)が流れている。
当日は下段で紹介している楞厳寺跡を先に探訪し、そのあと鈴尾城を目指した。
福原氏居館跡
鈴尾城の麓には、福原氏の平時の住まいがあったとされる居館跡がある。登城し始めると、最初にこの居館跡が見えてくる。
【左図】鈴尾城・居館・楞厳寺の配置図 現在地と書かれている箇所が福原氏居館跡になる。
現地の説明板より ①
‟福原氏居館跡
福原氏の居城であった鈴尾城は、別名福原城とも呼ばれ、永徳元年(1381)に福原広世が築城した。福原氏は、代々毛利氏の重臣であり、特に9代貞俊の妹は、毛利弘元の妻で、興元、元就を生んだ。
脇には休憩小屋などが建っている。
この地は、福原氏の居館跡(別名土居の壇)と伝えられ、本丸からは東側の谷の中腹に位置し、長さ約50m、幅約20mの広大な敷地を有している。
さらにこの東側下部には、小さな平地があるが、これらも居館の一部と使用されたもののようである。
昭和13年(1938)に、毛利元就生誕の碑が建てられた。
さらに東側に福原氏の菩提寺楞厳寺(りょうごんじ)跡がある。福原広俊ら8基の墓がある。
平成3年3月”
現在でいう「里帰り出産」ということだろう。
元就がこの地で生まれたのは間違いないようだが、兄興元もここで生まれたのかはっきりしない。
鈴尾城
居館跡を一通り見たあと、いよいよ本丸目指して登城開始する。当城についても現地に詳細な説明板が設置してある。
現地の説明板より
‟鈴尾(福原)城跡 (毛利元就誕生伝説地)
県史跡指定 1940(昭和15)年11月10日
鈴尾城は、吉田盆地南の可愛川(えのがわ)に面する丘陵上に築かれた山城で、永徳元年(1381)に毛利元春の五男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めて築いた城で、16世紀元俊に至るまでの219年間福原氏の居城と伝えられている。
九十九折れの道が続き、距離は短いものの傾斜は結構ある。
天文9年(1540)の郡山合戦には広俊がこの城に籠って吉田盆地の南の守りとした。
鈴尾城は、標高316m、比高110mで、三方を急峻な崖と背後を空堀で区切ることによって要害としている。郭は機能的に、頂部を輪状にめぐる中央部の郭群と北側の支尾根上につながる小郭群、さらに東側の谷近くにある居館跡の3群に分けられる。
現地に設置してあるもので、図にははいっていないが、下方には更に堀切が2か所ある。
頂上部の郭は、南北18m、東西12mの広さを持ち、その中央部には櫓だったと思われる高さ1m、上幅1.5mの石垣がある。
城の眼下には、可愛川があり、これを扼す要衝の地として戦国動乱期の吉田盆地を守る南の要であった。
1995(平成7)年3月
吉田町教育委員会“
要所にはこうした標柱が建っている。
【写真左】分岐点 最初の段に到達すると、左に本丸、右に井の壇の標識がある。
【写真左】井の壇・その1 井戸の径はさほど大きくないようだ。なお、この位置から本丸方向を見上げたが、かなりの高低差がある。また、この尾根筋の先には堀切が配置されている。
【写真左】長い郭 本丸がある尾根筋にたどり着くと、北西から南東方向に長軸をとる形で郭が連なる。
写真は北西方向に伸びる尾根に築かれた郭で、この下にも左右に腰郭がそれぞれ付随している。
【写真左】本丸側を見る。 先ほどの位置から反対方向に目を転ずると、基壇を配した本丸が見える。
【写真左】本丸・その1自然石なのか石積なのか分からないが、この個所だけ石が露出している。
反対側から見たもの。
本丸の南東部にあるもので、ここを下って更に尾根筋を進む。
堀切は3本あるが、写真はそのうち最初のもので一番大きい。
安芸・福原氏
鈴尾城の福原氏は説明板でも紹介されているように、永徳元年(1381)に毛利元春の五男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めたのに始まる。
毛利元春はその曾祖父・時親(大江時親邸(大阪府河内長野市加賀田)参照)の代から足利尊氏に終始従っており、このこともあって13歳の元服の折、尊氏の執事高師直の兄弟・師泰(金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)から一字をもらい、師親と名乗っている。
しかし、師泰が正平6年(1351)没落すると、名を元春と改名している。因みに、戦国期毛利元就の次男・吉川元春の元春は、この毛利元春からつけたものといわれている。
広世の兄弟としては、長兄・広房を筆頭に、庶家となる元房、広内(麻原氏)、忠広(中馬氏)と続き、五男・広世が福原の地を領した。
【上図】毛利家と福原家の関係図
元就の母は福原8代当主広俊の女で、弘元に嫁いでいる。
福原氏墓所
同墓所は鈴尾城の東麓にあった楞厳寺跡に所在するもので、現地の説明板では次のように記されている。
‟福原氏墓所
町史跡指定 1968(昭和43)年9月1日
楞厳寺(りょうごんじ)は、10代広俊の菩提寺で、開山は僧真如厳甫による禅寺である。防長移封により現在萩市にあり、13代元俊によって故郷の地名を山号として福原山徳隣寺と改称されている。下の段の竹藪東端が境内であったという。左の釈迦堂は11代貞俊が先祖を祀った信仰の御堂という。
西墓所は東墓所から少し上がったところにある。
福原氏の墓所は、芸藩通志によると八基とされているが、福原氏末裔の墓誌によると東西の墓所に五基とある。
東墓所を右からの墓誌によると、「福原大江朝臣広俊」(10代)の墓で、次は「福原大江朝臣貞俊」(11代)の墓であり、次は「祥室妙吉禅尼墳墓跡」で、毛利弘元の妻であり元就の母の墓跡である。大正10年に毛利、福原両氏の協議によって多治比の弘元の墓地に改葬された。
【写真左】楞厳寺跡 東墓所の下にあり、建物などはないが削平された跡が残り、数か所に小規模な五輪塔などが残されている。
西墓所は50m離れた所にあり、右から「福原広俊息女」の墓であり、左が「福原大江朝臣元俊」(12代)の墓である。
1995(平成7)年3月
吉田町教育委員会”
東墓所から少し登り、右に行くと西墓所がある。