2022年5月19日木曜日

鈴尾城(広島県安芸高田市吉田町福原)

 鈴尾城(すずおじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町福原
●別名 福原城
●高さ 316m(比高110m)
●指定 広島県指定史跡
●築城期 永徳元年・弘和元年(1381)
●築城者 福原広世
●城主 福原氏
●遺構 郭、石垣、土塁、堀、井戸
●登城日 2017年11月7日、及び16日

解説(参考資料 『知将 毛利元就』池亨著、『日本城郭体系 第13巻』等)
  随分前から安芸の山城探訪する際、鈴尾城の近くを度々通っていたのだが、当時は他の山城の方を優先していたため、なかなか登城する機会が持てなかった。
 鈴尾城は毛利氏の居城・吉田郡山城から南西へおよそ6キロほど隔てた可愛川(江の川)東岸に築かれた福原氏の居城である。別名福原城ともいう。
【写真左】鈴尾城遠望
 北側の吉田町福原側から見たもので、写真には写っていないが、右側には可愛川(江の川)が流れている。
【写真左】登城開始
 当日は下段で紹介している楞厳寺跡を先に探訪し、そのあと鈴尾城を目指した。






福原氏居館跡

 鈴尾城の麓には、福原氏の平時の住まいがあったとされる居館跡がある。登城し始めると、最初にこの居館跡が見えてくる。
【左図】鈴尾城・居館・楞厳寺の配置図
 現在地と書かれている箇所が福原氏居館跡になる。









現地の説明板より ①

‟福原氏居館跡
 福原氏の居城であった鈴尾城は、別名福原城とも呼ばれ、永徳元年(1381)に福原広世が築城した。福原氏は、代々毛利氏の重臣であり、特に9代貞俊の妹は、毛利弘元の妻で、興元、元就を生んだ。
【写真左】福原氏居館跡
 脇には休憩小屋などが建っている。








 この地は、福原氏の居館跡(別名土居の壇)と伝えられ、本丸からは東側の谷の中腹に位置し、長さ約50m、幅約20mの広大な敷地を有している。
 さらにこの東側下部には、小さな平地があるが、これらも居館の一部と使用されたもののようである。
 昭和13年(1938)に、毛利元就生誕の碑が建てられた。
 さらに東側に福原氏の菩提寺楞厳寺(りょうごんじ)跡がある。福原広俊ら8基の墓がある。
平成3年3月”
【写真左】毛利元就生誕の碑
 現在でいう「里帰り出産」ということだろう。
 元就がこの地で生まれたのは間違いないようだが、兄興元もここで生まれたのかはっきりしない。

 元就が生まれて3年後の明応9年(1500)、父弘元は長男興元に家督を譲り、隠居を決意、幼い松寿丸(元就)とともに、多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)へ移った。

鈴尾城

 居館跡を一通り見たあと、いよいよ本丸目指して登城開始する。当城についても現地に詳細な説明板が設置してある。

現地の説明板より 

‟鈴尾(福原)城跡 (毛利元就誕生伝説地)
県史跡指定 1940(昭和15)年11月10日

 鈴尾城は、吉田盆地南の可愛川(えのがわ)に面する丘陵上に築かれた山城で、永徳元年(1381)に毛利元春の五男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めて築いた城で、16世紀元俊に至るまでの219年間福原氏の居城と伝えられている。
【写真左】登城道
 九十九折れの道が続き、距離は短いものの傾斜は結構ある。




 天文9年(1540)の郡山合戦には広俊がこの城に籠って吉田盆地の南の守りとした。
 鈴尾城は、標高316m、比高110mで、三方を急峻な崖と背後を空堀で区切ることによって要害としている。郭は機能的に、頂部を輪状にめぐる中央部の郭群と北側の支尾根上につながる小郭群、さらに東側の谷近くにある居館跡の3群に分けられる。
【写真左】鈴尾城略図
 現地に設置してあるもので、図にははいっていないが、下方には更に堀切が2か所ある。





 頂上部の郭は、南北18m、東西12mの広さを持ち、その中央部には櫓だったと思われる高さ1m、上幅1.5mの石垣がある。
 城の眼下には、可愛川があり、これを扼す要衝の地として戦国動乱期の吉田盆地を守る南の要であった。

1995(平成7)年3月
吉田町教育委員会“
【写真左】五合目
 要所にはこうした標柱が建っている。
【写真左】分岐点
 最初の段に到達すると、左に本丸、右に井の壇の標識がある。
【写真左】井の壇・その1
 井戸がある壇のことで、北側の尾根筋上に設置してある。
【写真左】井の壇・その2
 井戸の径はさほど大きくないようだ。なお、この位置から本丸方向を見上げたが、かなりの高低差がある。また、この尾根筋の先には堀切が配置されている。
【写真左】八合目
【写真左】長い郭
 本丸がある尾根筋にたどり着くと、北西から南東方向に長軸をとる形で郭が連なる。

 写真は北西方向に伸びる尾根に築かれた郭で、この下にも左右に腰郭がそれぞれ付随している。
【写真左】本丸側を見る。
 先ほどの位置から反対方向に目を転ずると、基壇を配した本丸が見える。
【写真左】本丸・その1
自然石なのか石積なのか分からないが、この個所だけ石が露出している。
【写真左】本丸・その2
 反対側から見たもの。

【写真左】毛利元就生誕五百年記念の碑
平成9年(1997)1月に、「福原城顕彰会」と「可愛商工会」が建立したと記されている。
【写真左】腰郭
本丸の南東部にあるもので、ここを下って更に尾根筋を進む。
【写真左】堀切
 堀切は3本あるが、写真はそのうち最初のもので一番大きい。








安芸・福原氏

 鈴尾城の福原氏は説明板でも紹介されているように、永徳元年(1381)に毛利元春の五男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めたのに始まる。

 毛利元春はその曾祖父・時親(大江時親邸(大阪府河内長野市加賀田)参照)の代から足利尊氏に終始従っており、このこともあって13歳の元服の折、尊氏の執事高師直の兄弟・師泰(金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)から一字をもらい、師親と名乗っている。

 しかし、師泰が正平6年(1351)没落すると、名を元春と改名している。因みに、戦国期毛利元就の次男・吉川元春の元春は、この毛利元春からつけたものといわれている。

 広世の兄弟としては、長兄・広房を筆頭に、庶家となる元房、広内(麻原氏)、忠広(中馬氏)と続き、五男・広世が福原の地を領した。








【上図】毛利家と福原家の関係図
 元就の母は福原8代当主広俊の女で、弘元に嫁いでいる。

福原氏墓所

 同墓所は鈴尾城の東麓にあった楞厳寺跡に所在するもので、現地の説明板では次のように記されている。

‟福原氏墓所
   町史跡指定 1968(昭和43)年9月1日

 楞厳寺(りょうごんじ)は、10代広俊の菩提寺で、開山は僧真如厳甫による禅寺である。防長移封により現在萩市にあり、13代元俊によって故郷の地名を山号として福原山徳隣寺と改称されている。下の段の竹藪東端が境内であったという。左の釈迦堂は11代貞俊が先祖を祀った信仰の御堂という。
【写真左】楞厳寺配置図
 西墓所は東墓所から少し上がったところにある。




 福原氏の墓所は、芸藩通志によると八基とされているが、福原氏末裔の墓誌によると東西の墓所に五基とある。

 東墓所を右からの墓誌によると、「福原大江朝臣広俊」(10代)の墓で、次は「福原大江朝臣貞俊」(11代)の墓であり、次は「祥室妙吉禅尼墳墓跡」で、毛利弘元の妻であり元就の母の墓跡である。大正10年に毛利、福原両氏の協議によって多治比の弘元の墓地に改葬された。
【写真左】楞厳寺跡
 東墓所の下にあり、建物などはないが削平された跡が残り、数か所に小規模な五輪塔などが残されている。




 西墓所は50m離れた所にあり、右から「福原広俊息女」の墓であり、左が「福原大江朝臣元俊」(12代)の墓である。
   1995(平成7)年3月
     吉田町教育委員会”
【写真左】東墓所
【写真左】西墓所
 東墓所から少し登り、右に行くと西墓所がある。







2022年5月8日日曜日

安芸・祝屋城(広島県安芸高田市甲田町深瀬)

 安芸・祝屋城(あき・いわいやじょう)

●所在地 広島県安芸高田市甲田町深瀬
●別名 岩屋城・巖城・巖屋城
●指定 安芸高田市指定史跡
●高さ 標高257m(比高80m)
●築城期 永正6年(1509)、またはそれ以前
●築城者 宍戸元家
●城主 宍戸氏(深瀬氏)
●遺構 郭、土塁、堀、井戸
●登城日 2016年1月8日、2017年11月16日

解説(参考文献 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』安芸高田市歴史民俗博物館編、『日本城郭体系 第13巻』等)

 安芸・祝屋城(以下「祝屋城」とする。)は、これまで五龍城(広島県安芸高田市甲田町上甲立)や、安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)の稿でも少し触れているが、五龍城から北方約5キロの位置にあり、可愛川が東に大きくカーブする北岸に所在する。
【写真左】祝屋城遠望
南東側から見たもので、主郭となるのが東郭群。
 東麓を可愛川(江の川)が抉るようにカーブしている。


現地の説明板より

“祝屋(巌屋)城址
 第6代五龍城主宍戸元家が1504(永正元)年築城。五龍城を長男元源(もとよし)に譲り、次男隆兼、三男家俊とともに移り住んだ。
 隆兼は祝屋城主となり、当地の地名深瀬氏を名乗った。1600(慶長5)年周防三丘(みつお)に移るまで4代96年間在城した。

 1540(天文9)年6月、尼子国久、誠久(まさひさ)、久幸の三将は将兵3千余を率いて、備後路から志和地の八幡山城に陣を進めた。そして祝屋城、五龍城を陥れた後、郡山城へ迫る計画であった。
 尼子勢に対して、深瀬隆兼、宍戸隆家が祝屋城前の犬飼平、江の川石見堂の渡しの合戦で激しく防戦し、遂に尼子勢を敗退させ、備後路からの吉田郡山城攻めを諦めさせた。

   甲田町教育委員会“
【写真左】南東麓付近
 登城口付近を示したもので、現在麓は農道や干陸された田圃が広がる。






深瀬

 祝屋城の北東端にある塩谷から川が合流し、さらには祝屋城の南麓には、南西側の谷からも川が流れこみ、この大きくカーブする地点でこれら2本の川が合流している。

 こうしたこともあって、当時この付近の可愛川(江の川)の川幅は築堤されていないこともあり、おそらく200m前後はあったものと思われる。またその地名である「深瀬」からも想像されるように、祝屋城の東麓は対岸から簡単に渡河できない深い川床を持った地勢であったと考えられる。換言すれば、この江の川が重要な濠の役目をしていたものと思われる。

築城期

 祝屋城の築城期は、説明板によると永正元年(1504)となっているが、明応7年(1498)の記録に、大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)が、宍戸氏救援に際し「岩屋城の守りを固めるよう指示した」とあり(『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』)、これ以前からすでに築城されていた可能性が高い。
 因みに、毛利元就はこの前年・明応6年(1497)に郡山城で毛利弘元の次男として生まれている。
【写真左】登城口
 岩屋城址と筆耕された石碑と、そのそばに説明板が置いてある。







深瀬宍戸)隆兼

 祝屋城の城主である深瀬隆兼は、説明板にもあるように、甲立の五龍城主であった宍戸元家の次男で、永正6年(1509)、隠居した父元家と三男家俊とともにこの城に移った。

 ところで、宍戸氏が毛利氏と和睦したのは天文2年(1533)で、それまでは両者の領地は隣接していたことから度々戦いが行われている。このころは両者はほぼ対等の力を誇示していたこともあり、翌天文3年の正月、元就自ら五龍城を訪れ、元就の長女五龍姫と、宍戸元源の嫡孫隆家との婚儀を決めている。毛利氏にとって後に宍戸氏の存在は大きな力となっていく。
【写真左】深瀬氏の墓
 鳥獣対策用の入口を開けてしばらく進むと、御覧の五輪塔群が目に留まった。深瀬氏一族のものといわれている。


祝屋城麓の合戦

 尼子氏が毛利元就の居城吉田郡山城攻めを行ったのは、天文9年(1540)9月のことである。その前哨戦といわれるのが、説明板にもあるように、同年6月新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)を主力とする尼子国久らによる祝屋城麓での合戦である。
【写真左】八幡山城遠望
所在地 広島県三次市志和知町
 可愛川の支流板木川の東岸にある八幡山城。祝屋城から東に直線距離でおよそ2.4キロほどの位置になる。



 尼子国久らが陣城とした八幡山城は、永正13年(1516)頃に三吉致高(むねたか)比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)参照)によって築かれた。この段階では三好致高は、尼子氏に属し、祝屋城攻めの先導役などを務めている。おそらく致高自ら国久らに対し、持城である八幡山城を陣城として提供したのだろう。
【写真左】竪堀
 登城途中に見えたもので、上の方まで延びている。








 対する隆兼らは、祝屋城及びその東方にあった犬飼平に井楼(せいろう)・塁棚などの要害を築いて対峙、可愛川挟んでの対陣となった。そして隆兼軍には兄である五龍城主・元源及びその息子父などが救援に駆け付け、尼子国久軍らを撃退させた。
 この戦いのあと、尼子軍の先導役を務めた三吉致高は尼子氏から離れ、毛利方につくことになる。
【写真左】西側郭群が見えてきた。
 手前の郭段が少し高くなっている。







居館的丘城

 祝屋城は比高80mほどの丘城である。そして山城としての防御性に関しては少し脆弱性が感じられる。当城の特徴としては、まとまった郭群が東西に分離し、周辺部の遺構にも特筆されるようなものが少ない。

 可愛川北岸の麓から登り口があり、東西の郭群の間にある竪堀を越えると、そこから西郭群、東郭群へと分岐する。西郭群は東西におよそ50m程の尾根に郭を2,3段配置し、西端部に堀切を介した単純な構造となっている。
【写真左】西側郭
 奥行20m×幅10m前後のもので、奥に行くに従い細くなる。







 メインとなるのは東郭群で、虎口直前の斜面に井戸を設け、そこから腰郭が控え、その上に東西に延びた連郭式の遺構が残る。

 西端部には土塁があり、中央の郭が主郭と思われるが、かなりフラットに削平されていることからこの個所に何棟かの建物があったものと考えられ、積極的な戦闘形式の城郭ではなく、居館的要素の強い城郭と思われる。
 また、東郭群の東端部で角になった箇所には3段の郭があり、祝屋城の東方にある谷との境に物見台的なものがあったものと思われる。
【写真左】堀切
 西側郭群の西端部にあるもので、北側に向かうと谷を形成しており、防御性からも効果が高い。
 このあと東郭群に向かう。
【写真左】西郭群と東郭群の境付近
 左が東郭群側で右側が西郭群となるが、概ね東西郭間の比高差は20m前後となる。
【写真左】井戸跡
 西郭群から南側の道を東郭群に向かって進むと、途中で井戸跡がある。この位置にあることから、東西両方の位置からも使いやすかったものと思われる。
【写真左】井戸跡から切岸を見上げる。
 この上に東郭群が配置されているが、険峻な切岸である。
【写真左】突然、猪に遭遇
 この位置から約5m程先の斜面で「ガサガサ」と音がしたと思ったら、丸々と太った巨大な猪が突然出てきた。どうやら爆睡していたようだ。

 管理人と連れ合いは普段から賑やかなクマよけの鈴などを鳴らして登城しているのだが、その音でも目覚めなかったらしく、起きた瞬間びっくりして、バランスを崩し、崖から2,3mほど転がった。

 しかし、すぐに体勢を立て直し、奥の方へ逃げて行った。それにしても、あの猪がこっちに向かってきたらひとたまりもなかっただろう。このあと、この先の東郭群の踏査をどうするか迷ったが、リュックについているクマよけの鈴をさらに良く鳴るようにセットし直し、向かった。
【写真左】東郭群に入る。
 奇麗に削平されている。
【写真左】土塁
 西側にあるもので、南北に延び、下にある腰郭側にも西側に配置されている(下段の写真参照)。
【写真左】下段の腰郭と土塁
 上の段から見たもので、下の郭にある土塁の幅はやや小ぶりなもの。
【写真左】東郭群中心部
西から東にかけて3,4段の郭で構成されているが、全体に段差は低い。
 中央の郭は少し高くなっている。
【写真左】フラットな郭
 これだけ平滑な面に仕上がっているため、居館的な建物が建っていた可能性が高い。
【写真左】北東下の段
 東郭群の北東隅にあるもので、上との比高差は7,8m前後ある。
【写真左】塩谷側
 最下段の郭から下の方を見たもので、塩谷側になるが、急峻である。
【写真左】虎口
 東郭の入口付近
【写真左】祝屋城登城口から八幡山城を遠望する。
 手前の田圃とその奥を走る国道54号線の間には可愛川(江の川)が流れる。当時は手前の田圃も川幅を広げ大きく蛇行した可愛川だったのだろう。


教徳寺

 祝屋城の近くには深瀬氏所縁の教徳寺がある。
 当院開祖といわれるのが、五龍城主宍戸元家の四男歌之介元隆で、幼少期から出家を希望し、大永3年(1523)本願寺10代証如(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)に帰依し、法名了西を賜る。
【写真左】教徳寺
浄土真宗本願寺派 正源山教徳寺
所在地 安芸高田市甲田町深瀬1222






 帰国後、兄元源、次兄隆兼が弟了西のためにこの地に一宇を建立した。永禄3年(1560)3月、2代了円のとき、本願寺より寺号教徳寺を拝受す。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後毛利・宍戸ともに防長にいくように命があったものの、門信徒の懇請によりこの地に残り現在に至っている。

2022年5月2日月曜日

安芸・星ヶ城(広島県広島市安佐北区白木町大字市川)

 安芸・星ヶ城(あき・ほしがじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区白木町大字市川
●高さ 279m(比高152m)
●形態 山城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 井上元兼、市川経好
●遺構 土塁、郭、井戸、堀
●指定 なし
●登城日 2017年11月7日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 前稿安芸・生城山城(広島県東広島市志和町志和東)より県道46号線を北におよそ11キロほど向かった安佐北区白木町市川に築かれたのが安芸・星ヶ城(以下「星ヶ城」とする)である。

【写真左】星ヶ城遠望
 東麓の小越側の谷から見たもの。









 生城山城の西麓を流れる関川は、星ヶ城の南麓で北方から流下してきた三條川と合流し、JP芸備線と並走しながら南下し、深川で太田川と合流する。この手前の上深川には以前紹介した吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)がある。
【写真左】登城開始
 登城口は西麓を南北に走る県道37号線沿いから東に入る農道があり、そこの行き止まり地点にある。ただ、目立たない標識なので分かり辛い。
 写真は墓地の脇にある登山道入口。


現地の説明板より

”星ヶ城展望台
<地名の由来>
 白木町市川の地名由来は貞和元年(1345年)ごろ、三田郷地頭に市川助行がいて、同郷の年貢を抑留し幕府の咎を受けています。
 三田郷と市川氏とを結んで考えると、市川氏が三田郷に住んでいて地名が「市川」となり、近世の市川村に繋がると推測されます。
【写真左】鳥獣対策用の扉を開ける。
 しばらく行くと、御覧の扉がある。鹿や猪などが出るようだ。





<星ヶ城の歴史>
 星ヶ城はこの吉井山山頂(標高:278m、比高:158m)にありました。
 天文の初めまで市川氏がいたとされ、市川氏は武田氏(佐東銀山城)の一族で、市川村は当時武田氏の所領であり、この星ヶ城を拠点とした城主が武田氏か市川氏かは全く不明である。

 天文3年(1534年)頃、毛利氏(吉田郡山城)と武田氏の井原:般若谷の合戦で市川氏は滅亡する。その後、毛利氏の家臣:井上元兼が入城したと思われるが、この井上一族は強大な勢力を持ち、主君:元就を侮辱し寺領の押領や公領の妨害などの横暴を極めたとし、天文19年(1550年)7月、毛利元就により一族もろとも粛清される。
【写真左】第1休息地と標記された郭
 登城口から尾根ピークに達すると、そこから左折し、部分的な階段を使いながら北進する。
 途中で井戸跡らしき窪みがあったが表示されたものはなかったので、おそらく自然地形のものだろう。
 写真のものは南端部にある小郭。


 井上元兼が誅死した後、毛利氏の家臣:市川経好が星ヶ城に入る。
 経好は山県郡新庄小倉の城主吉川国経の孫で、毛利元就の次男:元春を吉川家に迎え入れるにあたり尽力したので、市川村と小越村との境にある小田城を守ることとなる。その際、吉川から市川に改姓した。

 市川経好は元就の命を受けた幾多の戦いに功績を立て、またその行政手腕が認められ、1557年周防山口奉行として高嶺城を預けられた。
 経好は天正12年(1584)没し、二男元好が継いだが、封を出雲に移された。星ヶ城最後の城主と思われる。
 歴史は今から4~5百年前、戦国時代(1467~1590)のことである。
    -広島市「白木町史」より引用-
    星ヶ城展望台整備:森づくり・夢づくり‟白木” ”
【写真左】堀切
 鞍部が埋められ歩きやすくなっているが、当時はかなりの深さがあったと思わせる堀切。

 当城の中では二番目に大きなものかもしれない。


武田市川氏

 説明板にもあるように、毛利氏が侵攻し始める前の天文年間初期、星ヶ城は佐東銀山城主・武田氏の一族市川氏(前期市川氏)であったと記されている。佐東銀山城とは当時の地名安芸国佐東郡にあったことからこの名称となっているが、近世以前は金山城と記されている。

 当城については、すでに銀山城(広島市安佐南区祇園町)の稿でも紹介しているように、承久の乱後その戦功により甲斐守護職であった武田信光が安芸守護職に任命され、鎌倉末期までに武田山に築かれた城郭である。
【写真左】竪堀・その1
 堀切を過ぎて少し進むと右手に竪堀が見える。
 因みに当城の竪堀が配置されているのは東側のみで、小越地区からの攻撃を意識している。


 この武田氏は室町期には度々大内氏と激闘を繰り返しているが、このころの同氏の勢力範囲は東麓を流れる太田川の上流域である支流の三條川沿い、すなわち現在の白木町三田・市川まであった。因みに、隣接していたのが、当時の三入荘の地頭熊谷氏(伊勢ヶ坪城(広島市安佐北区大林町)参照)で、太田川を巡る川船の通行税などをめぐって度々争っている。
【写真左】竪堀・その2
 先ほどの竪堀の延長部で、予想以上に長い規模だ。
【写真左】竪堀・その3
 中に入る。深さも相当ありそうだ。








 さて、星ヶ城の初期の城主とされる市川氏は、説明板にもあるように、南北朝時代に地頭として当地を治めていた武将とされる。戦国期に至り井原:般若谷の合戦で滅亡したという。
 井原というのは星ヶ城が所在する市川の北隣の地区で、以前紹介した北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)や鍋谷城などがある。
【写真左】第2休息地
 要所にこうした休息地を確保している所は以外と少ない。

 登城道が延々と木立に遮られ、腰を降ろす場所もないような山城は体力的にも、気分的にも疲れやすいものだが、こうした場所を提供していただくと大変ありがたい。


市川経好

 毛利元就が天文年間に市川氏(前期)を滅ぼした後、家臣の井上元兼を当城に入れたが、その16年後横暴な井上一族を元就は粛清し誅滅させた。このことについては阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)の稿で述べているのでご覧いただきたい。

 そのあとに入ったのが市川経好である。星ヶ城の麓から南西に降る三條川沿いにある吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)の稿ですでに紹介しているが、改めて経好を含む当時の吉川家の系図を示しておきたい。
【左図】吉川家系図
 星ヶ城城主となった経好は、吉川経世の嫡男で、その弟経高は、大内氏(毛利氏)によって滅ぼされた武田氏、並びに山県氏一族の今田氏に入った。



 系図にも示しているように、吉川経好が星ヶ城に入ったあと、姓を吉川から、市川と改めた。(後期市川氏)

 市川に入った経好が最初に築いたのが、星ヶ城と同じ尾根筋で先端部にある小田城である。この城については残念ながら踏査していないが、星ヶ城と同じく市川と小越の境に築かれた標高200m余りの城郭である。
【写真左】前方に本丸が見えだした。
 この手前にも竪堀があり、さらに進むと前方にコブのような形で本丸が見えた。



 また、経好が居館としていたのが、西麓を流れる三條川の西岸にある「伝市川氏居館跡」で、現在の順経寺に当たる。

 その後、弘治3年(1557)4月、山口の大内氏最後の当主・義長が自刃したあと、毛利氏はこの市川経好を高嶺城(山口県山口市上宇野令)の城番として置いた。
【写真左】堀切
 本丸に向かう手前にもう一つ大きな堀切が介在している。
 この堀切は最初に紹介したものより深さ・幅とも大きく、なかなか見ごたえがある。
【写真左】本丸手前の郭
 堀切を過ぎると傾斜がきつくなり、さらに尾根幅は狭まる。
 写真の郭は南郭と呼称され、幅は狭いが長さがある。
【写真左】志和口の町並み
 南郭から眺望したもので西麓に当たる。右側に三條川や白木中学校の建物が見える。
【写真左】土塁
南郭の右側(東)には大分劣化しているが土塁が残る。
【写真左】本丸直下の看板
 この先に本丸があるが、その上り口には冒頭の説明板が設置してある。
【写真左】案内図
 説明板には御覧の案内図がついている。遺構の名称などは付記してないが、位置関係は良く分かる。
【写真左】本丸に向かう。
 登城道の脇にはいろいろな桜の木が植えられている。
【写真左】本丸南端部
 本丸に辿り着く。整備され眺望もよさそうだ。
【写真左】本丸南端部から登ってきた方向を眺望。
 本丸の直下が南郭となる。
 右側(西)に三條川やJR芸備線、左側に生城山城から流れてきた関川が見える。
【写真左】少し東に移動してみる。
 先ほどから東に移動し、切岸の状況を見る。険峻だ。
【写真左】本丸北東部
【写真左】土塁
 本丸の北側先端部付近で、かなり低くなっているが土塁の痕跡が認められる。
【写真左】北端部から南方を振り返る。
 前郭から見上げた時はさほどの広さはないと思われたが、以外と奥行があり広い規模だ。
 このあと西側の腰郭方面に降りてみる。
【写真左】西側の腰郭
 腰郭というより帯郭といったほうがいいかもしれないが、西側を囲繞している。
【写真左】井戸跡
 帯郭の北端部に残るもので、井戸跡としての残存度は高い。