東川城(ひがしかわじょう)
●所在地 香川県木田郡三木町朝倉字吉谷
●高さ H:110m(比高:15m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 植田美濃守安信
●形態 丘城
●遺構 郭
●廃城 天正10年(1582)
●登城日 2016年7月10日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
東川城が所在する三木町は、香川県の中央部からやや東に位置する町で、南北19キロ、東西5キロ前後と細長い形の町域を持つ。西隣が高松市で、東隣がさぬき市となる。
三木町を南北に縦断するのが、吉田川でこの川をのぼっていき、ほぼ中流域となる朝倉に東川城がある。
【写真左】東川城遠望
北側から見たもので、左側は切通された県道42号線が走る。
因みに、東川城は前稿の戸田山城(香川県高松市東植田町南城)から東へおよそ1キロほど離れた位置に所在する。
現地の碑文より
“城址由来
植田城と共に元亀―天正年間 植田美濃守安信公の居城にして当時、旧山田郡・三木郡・香川郡の一部を領し代々善政をしく 天正10年秋、土佐の将長曾我部元親の侵攻を受け将兵果敢に大軍を迎え撃つもついに力尽き壮烈な最期を遂ぐ。その名は今もなお世に惜しまれている。
高松市番町 剣道10段範士 勲三等 植田平太郎 長女 信子 記”
【写真左】道路側から見る。
南側から見たもので、以前は道路を挟んだ右側の丘陵とつながっていたものと思われる。
ちなみに、右側の丘陵先端部の高さは東川城の頂部とほぼ同じだが、その先(東方)はゴルフ場があるため当時の状況は分からない。
前稿戸田山城(香川県高松市東植田町南城) で紹介した植田氏の居城といわれる。上掲した碑文にはこの東川城を居城としたのが植田美濃守安信とされ、長曾我部の侵攻において力尽き最期を遂げたとある。
●所在地 香川県木田郡三木町朝倉字吉谷
●高さ H:110m(比高:15m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 植田美濃守安信
●形態 丘城
●遺構 郭
●廃城 天正10年(1582)
●登城日 2016年7月10日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
東川城が所在する三木町は、香川県の中央部からやや東に位置する町で、南北19キロ、東西5キロ前後と細長い形の町域を持つ。西隣が高松市で、東隣がさぬき市となる。
三木町を南北に縦断するのが、吉田川でこの川をのぼっていき、ほぼ中流域となる朝倉に東川城がある。
【写真左】東川城遠望
北側から見たもので、左側は切通された県道42号線が走る。
因みに、東川城は前稿の戸田山城(香川県高松市東植田町南城)から東へおよそ1キロほど離れた位置に所在する。
現地の碑文より
“城址由来
植田城と共に元亀―天正年間 植田美濃守安信公の居城にして当時、旧山田郡・三木郡・香川郡の一部を領し代々善政をしく 天正10年秋、土佐の将長曾我部元親の侵攻を受け将兵果敢に大軍を迎え撃つもついに力尽き壮烈な最期を遂ぐ。その名は今もなお世に惜しまれている。
高松市番町 剣道10段範士 勲三等 植田平太郎 長女 信子 記”
【写真左】道路側から見る。
南側から見たもので、以前は道路を挟んだ右側の丘陵とつながっていたものと思われる。
ちなみに、右側の丘陵先端部の高さは東川城の頂部とほぼ同じだが、その先(東方)はゴルフ場があるため当時の状況は分からない。
植田美濃守安信
前稿戸田山城(香川県高松市東植田町南城) で紹介した植田氏の居城といわれる。上掲した碑文にはこの東川城を居城としたのが植田美濃守安信とされ、長曾我部の侵攻において力尽き最期を遂げたとある。
しかし、東川城の規模・形状を見る限り、同氏の居城とするには少し無理があるように思われる。というのも、写真でも分かるように、南北を走る道路とその西に流れる川の間にあって、狭小なこの丘城を見る限り居城としては、あまりにも小規模で不似合いであるからである。
【写真左】「東川城」の石碑
道路わきに階段があり、その左側に設置してある。
なお、これとは別に碑文を記したものがあるが、この日は草丈が伸びすぎてその場所を確認することはできなかった。
このためHP『城郭放浪記』の写真より抄出させていただいた。いつもながらお礼申し上げます。
やはり、植田氏が居城としていたのは、戸田山城(香川県高松市東植田町南城) および、その麓にあった戸田城(館)であろう。そして東川城はあくまでも支城としての機能を持ったもので、同氏家臣が守城していたと考えられる。
道路わきに階段があり、その左側に設置してある。
なお、これとは別に碑文を記したものがあるが、この日は草丈が伸びすぎてその場所を確認することはできなかった。
このためHP『城郭放浪記』の写真より抄出させていただいた。いつもながらお礼申し上げます。
やはり、植田氏が居城としていたのは、戸田山城(香川県高松市東植田町南城) および、その麓にあった戸田城(館)であろう。そして東川城はあくまでも支城としての機能を持ったもので、同氏家臣が守城していたと考えられる。
ところで、この植田美濃守安信(以下「植田安信」とする)は、別名景隆ともいわれ、天正14年の九州における戸次川の戦い(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次) 参照)に参戦している。従って、天正10年の長曾我部軍の讃岐侵攻の際は、亡くなってはおらず、秀吉の配下にあった仙谷秀久の一軍として九州へ赴いている。
【写真左】階段
この階段を登って行く。
【写真左】北側の斜面
登って行くと、右側に大きな岩の塊が見える。
【写真左】主郭手前
階段があるのはここまでで、ここから手すりを伝って上に登る。
【写真左】主郭・その1
主郭とされる頂部は削平とまではいかないが、なだらかな面となっている。規模はおよそ7,8m前後の円形。
【写真左】祠
主郭には二つの祠が祀られている。記銘されたものがないため分からないが、おそらく植田氏を祀ったものだろう。
【写真左】主郭・その2
階段から登ってきた入口付近で、虎口に当たる箇所。
【写真左】西側先端部
川(吉田川)方向へ伸びる郭。
【写真左】北側
この先は急峻な崖となっている。
このあと、一旦降りて河原側へ向かう。
【写真左】西麓
以前は畑地となっていたような状況だが、当時(中世)はこの付近も川もしくは河原だったのだろう。
左側が東川城の切岸で、右の竹藪側に吉田川が流れる。
【写真左】遠望
再度南側から見たもの。
【写真左】階段
この階段を登って行く。
【写真左】北側の斜面
登って行くと、右側に大きな岩の塊が見える。
【写真左】主郭手前
階段があるのはここまでで、ここから手すりを伝って上に登る。
【写真左】主郭・その1
主郭とされる頂部は削平とまではいかないが、なだらかな面となっている。規模はおよそ7,8m前後の円形。
【写真左】祠
主郭には二つの祠が祀られている。記銘されたものがないため分からないが、おそらく植田氏を祀ったものだろう。
【写真左】主郭・その2
階段から登ってきた入口付近で、虎口に当たる箇所。
【写真左】西側先端部
川(吉田川)方向へ伸びる郭。
【写真左】北側
この先は急峻な崖となっている。
このあと、一旦降りて河原側へ向かう。
【写真左】西麓
以前は畑地となっていたような状況だが、当時(中世)はこの付近も川もしくは河原だったのだろう。
左側が東川城の切岸で、右の竹藪側に吉田川が流れる。
【写真左】遠望
再度南側から見たもの。