旧・高松城(きゅう・たかまつじょう)
●所在地 香川県高松市高松町
●別名 喜岡城
●高さ 標高6.8m
●形態 平城・居館
●築城期 南北朝期
●築城者 舟木(高松)頼重
●城主 舟木頼重、高松左馬助頼邑
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年7月10日
◆解説
香川県の高松城といえば、現在の高松市内の玉藻町にある高松城(別名・玉藻城)が一般的である。これは天正18年(1590)生駒親正が築いた近世城郭ともいえるもので、瀬戸内海から直接城内に出入りできるようにした海城でもあった。
これとは別に、この高松城が築城される前に、ここから東南東約6キロほど向かったJR高徳線の屋島駅の近くに、もう一つの高松城があった。
【写真左】「高松城跡」の石碑
喜岡寺の前に建立された石碑
現地の説明板より
‟高松城跡(喜岡)
鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣・細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。
その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13年(1585)4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵100余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか200をもって勇敢に戦いましたが、衆寡敵しがたく城兵一人残らず討死しました。
高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。
高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。
高松市
高松観光協会”
【写真左】案内図
現地に設置されている「古高松地区ふれあいウォークルートマップ」という案内図で、赤字で示したところが高松城(喜岡寺)。
ちなみにこの近くには、東西を走るJR高徳線を挟んで北に、義経鞍掛の松などがある。
常光寺・喜岡寺
最初に築かれた旧・高松城(以下本稿では「高松城」とする。)が所在する位置には現在喜岡寺という寺院が建っている。
もともとこの場所には常光寺という寺院が建っており、その後説明板にもあるように南北朝期に至って、舟木頼重が築城したとされている。そして、建武2年(1335)11月に足利尊氏派の細川定禅が当城を攻略し落城したとある。しかし、別説では主だった舟木一族は討死したものの、頼重自身は生き延び、その子孫は戦国期まで続いたとされている。
戦国期に城主とされる高松左馬助頼邑の名が残っているが、おそらくこの左馬助が頼重の子孫ということだろう。
【写真左】喜岡寺山門
標高は7mにも満たない低地に築城されていた平城(居館)となるが、築城期とされる南北朝時代を考えると、この付近も瀬戸内の海がこの辺りまで来ていたものかもしれない。
したがって、形態としては海城の可能性が高い。
【写真左】境内
【写真左】五輪塔
境内一角には墓地があるが、そこには2,3基の五輪塔形式のものや、歴代住職とおもわれる墓が並んでいる。
なお、当地には秀吉による四国征伐の際、討死した唐人弾正・片山志摩の墓があったようだが、見過ごしてしまった。
ちなみに、他のサイトで見る限り、墓は当時の形式(宝篋印塔・五輪塔)でなく、近代になって改めて建立された一般的な墓石となっている。
このあと少し東の方へ向かってみる。
【写真左】権現宮の鳥居
喜岡寺の東側の堺は木立が南北に延び、その東側には社が安置されている。
額束には「権現宮」と記されているが、由来などは分からない。
右側の境内となる箇所は空き地となっているが、往時当社に関連するものがあったのだろう。
なお、この付近までは喜岡寺の境内と地盤高は同じくらいである。
さらに東に進む。
【写真左】もう一つの「高松城」の碑
南側の道路を東に進むと、少し下り坂になるが、権現宮の東側入口に「高松城址」と筆耕された石碑が建立されている。
【写真左】東側との段差
上記の位置から中に入らず道路を東(右)に進むと、ここで段差がある。
おそらく当時の城域はここまでだったのだろう。
【写真左】道路から見る。
段差のある箇所からそのまま道路を横切り、向側から見たもので、この位置からだと3,4m程度の段差があることが分かる。
このあと、北に向かう。
【写真左】東側中間地点
北に向かうほど段差は高くなり、この位置では6~7m前後の高低差が生じている。
右側の石碑は、昭和52年に行われた土地区画整理事業の碑。
このことから当時の状況とはだいぶ様変わりしたのだろう。
さらに北へ向かう。
【写真左】永之谷公園
上記の写真の位置もすでにこの公園の一角になるが、高松城は現在この永之谷公園という公園が、東から北へさらに西へとほぼ囲むような配置となっている。
想像だが、永之谷という名称から推察するに、築城期とされる南北朝期には、この東から北にかけて谷(永之谷)が形成されていた可能性が高く、濠の役目をしていたのかもしれない。
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昼寝城(香川県さぬき市多和)
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●築城者 舟木(高松)頼重
●城主 舟木頼重、高松左馬助頼邑
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年7月10日
◆解説
香川県の高松城といえば、現在の高松市内の玉藻町にある高松城(別名・玉藻城)が一般的である。これは天正18年(1590)生駒親正が築いた近世城郭ともいえるもので、瀬戸内海から直接城内に出入りできるようにした海城でもあった。
これとは別に、この高松城が築城される前に、ここから東南東約6キロほど向かったJR高徳線の屋島駅の近くに、もう一つの高松城があった。
【写真左】「高松城跡」の石碑
喜岡寺の前に建立された石碑
現地の説明板より
‟高松城跡(喜岡)
鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣・細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。
その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13年(1585)4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵100余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか200をもって勇敢に戦いましたが、衆寡敵しがたく城兵一人残らず討死しました。
高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。
高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。
高松市
高松観光協会”
【写真左】案内図
現地に設置されている「古高松地区ふれあいウォークルートマップ」という案内図で、赤字で示したところが高松城(喜岡寺)。
ちなみにこの近くには、東西を走るJR高徳線を挟んで北に、義経鞍掛の松などがある。
常光寺・喜岡寺
最初に築かれた旧・高松城(以下本稿では「高松城」とする。)が所在する位置には現在喜岡寺という寺院が建っている。
もともとこの場所には常光寺という寺院が建っており、その後説明板にもあるように南北朝期に至って、舟木頼重が築城したとされている。そして、建武2年(1335)11月に足利尊氏派の細川定禅が当城を攻略し落城したとある。しかし、別説では主だった舟木一族は討死したものの、頼重自身は生き延び、その子孫は戦国期まで続いたとされている。
戦国期に城主とされる高松左馬助頼邑の名が残っているが、おそらくこの左馬助が頼重の子孫ということだろう。
【写真左】喜岡寺山門
標高は7mにも満たない低地に築城されていた平城(居館)となるが、築城期とされる南北朝時代を考えると、この付近も瀬戸内の海がこの辺りまで来ていたものかもしれない。
したがって、形態としては海城の可能性が高い。
【写真左】境内
【写真左】五輪塔
境内一角には墓地があるが、そこには2,3基の五輪塔形式のものや、歴代住職とおもわれる墓が並んでいる。
なお、当地には秀吉による四国征伐の際、討死した唐人弾正・片山志摩の墓があったようだが、見過ごしてしまった。
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このあと少し東の方へ向かってみる。
【写真左】権現宮の鳥居
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右側の境内となる箇所は空き地となっているが、往時当社に関連するものがあったのだろう。
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さらに東に進む。
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【写真左】東側との段差
上記の位置から中に入らず道路を東(右)に進むと、ここで段差がある。
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【写真左】道路から見る。
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このあと、北に向かう。
【写真左】東側中間地点
北に向かうほど段差は高くなり、この位置では6~7m前後の高低差が生じている。
右側の石碑は、昭和52年に行われた土地区画整理事業の碑。
このことから当時の状況とはだいぶ様変わりしたのだろう。
さらに北へ向かう。
【写真左】永之谷公園
上記の写真の位置もすでにこの公園の一角になるが、高松城は現在この永之谷公園という公園が、東から北へさらに西へとほぼ囲むような配置となっている。
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