京極氏館跡(きょうごくしやかたあと)
●所在地 滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺
●築城期 室町期(応仁の乱頃 1467~77か)
●築城者 京極氏
●城主 京極氏・京極高清
●廃城 大永3年(1523)
●指定 上平寺城及び、京極氏館跡(国史跡)
●遺構 館跡(屋敷地・庭園・墓等)
●登城日 2014年9月10日
◆参考文献(「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編 サンライズ出版等)
京極氏館跡などがある弥高地区は、下記説明板にもあるように、東国と北陸(越前)を結ぶ街道筋にあって、以前紹介した清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)の麓を走る中山道側からは、北北西に約7キロ余り進んだ伊吹山南麓部に当たる。
【写真左】京極氏城館跡
写真の道を登っていくと、左右にそれぞれ屋敷跡などが見えてくる。
現地の説明板より
“国指定史跡
京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郡を与えられたのが始まりです。当初、近江における拠点は柏原館(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩み始め、これに伴って館と家臣屋敷を整備したのがここ「京極氏館」です。
永正2年(1505)、永く続いていた一族の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極高清は、山岳寺院上平寺(じょうへいじ)があったこの地を利用して居館を築きます。
【写真左】近江国上平寺 国史跡 京極氏遺跡 イラストマップ
下段の区域が上平寺城下町で、中央の伊吹神社鳥居を潜り上(北)へ進むと、薬師堂・隠岐屋敷・弾正屋敷・蔵屋敷などがあり、伊吹神社下に京極氏館跡がある。伊吹神社の横には京極氏一族の墓が祀られている。
なお、伊吹神社の階段下の左側の山道を登っていくと「上平寺城(標高669m)」があり、そこからさらに谷を隔て西の尾根伝いを進むと、弥高寺跡(標高715m)があるが、この日は時間もなく、またこの辺りは時節柄、熊、ヒル、スズメバチなどが多いという注意書きがあったため、登城してない。
伊吹神社境内全域が京極氏館跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が建ち並んでいたようです。
『上平寺城絵図』(市指定文化財)からは、内堀をはさんで館の南、現在の上平寺集落に武家屋敷や町屋敷が、さらに外堀があって市や民家がならぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還)」を取り込んでいることがわかります。
このように、16世紀初頭には北近江の政治拠点として栄えた上平寺ですが、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対し、浅見・浅井・三田村・堀氏などが上平寺城を攻め落とし、京極氏館は廃絶したと考えられています。
平成16年2月27日、わが国における戦国大名のあり方がわかる遺跡群として、京極氏館と南西尾根上の家臣屋敷、山頂の上平寺城、山岳寺院弥高寺跡が国の史跡に指定されました。”
【写真左】登城口付近
4台程度の駐車ができる場所がこの下に確保されている。そこに車を置き、ここから歩いて向かう。
なお、この入口の左右にある溝は当時の内堀跡とされている。
京極高清
京極高清については、これまで小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)、太尾山城(滋賀県米原市米原)その1、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1、勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)などで少し紹介しているが、ここで改めて、前稿で紹介した佐々木(京極)道誉から続く京極氏宗家の系譜を整理しておきたい。
【写真左】弾正屋敷跡
入口付近にある薬師堂を過ぎると、すぐに右手に見えてくる。
《京極家宗家の流れ》 ※一部省略
●所在地 滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺
●築城期 室町期(応仁の乱頃 1467~77か)
●築城者 京極氏
●城主 京極氏・京極高清
●廃城 大永3年(1523)
●指定 上平寺城及び、京極氏館跡(国史跡)
●遺構 館跡(屋敷地・庭園・墓等)
●登城日 2014年9月10日
◆参考文献(「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編 サンライズ出版等)
京極氏館跡などがある弥高地区は、下記説明板にもあるように、東国と北陸(越前)を結ぶ街道筋にあって、以前紹介した清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)の麓を走る中山道側からは、北北西に約7キロ余り進んだ伊吹山南麓部に当たる。
【写真左】京極氏城館跡
写真の道を登っていくと、左右にそれぞれ屋敷跡などが見えてくる。
現地の説明板より
“国指定史跡
京極氏遺跡 ― 京極氏城館跡・弥高寺跡 ―
京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郡を与えられたのが始まりです。当初、近江における拠点は柏原館(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩み始め、これに伴って館と家臣屋敷を整備したのがここ「京極氏館」です。
永正2年(1505)、永く続いていた一族の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極高清は、山岳寺院上平寺(じょうへいじ)があったこの地を利用して居館を築きます。
【写真左】近江国上平寺 国史跡 京極氏遺跡 イラストマップ
下段の区域が上平寺城下町で、中央の伊吹神社鳥居を潜り上(北)へ進むと、薬師堂・隠岐屋敷・弾正屋敷・蔵屋敷などがあり、伊吹神社下に京極氏館跡がある。伊吹神社の横には京極氏一族の墓が祀られている。
なお、伊吹神社の階段下の左側の山道を登っていくと「上平寺城(標高669m)」があり、そこからさらに谷を隔て西の尾根伝いを進むと、弥高寺跡(標高715m)があるが、この日は時間もなく、またこの辺りは時節柄、熊、ヒル、スズメバチなどが多いという注意書きがあったため、登城してない。
伊吹神社境内全域が京極氏館跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が建ち並んでいたようです。
『上平寺城絵図』(市指定文化財)からは、内堀をはさんで館の南、現在の上平寺集落に武家屋敷や町屋敷が、さらに外堀があって市や民家がならぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還)」を取り込んでいることがわかります。
このように、16世紀初頭には北近江の政治拠点として栄えた上平寺ですが、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対し、浅見・浅井・三田村・堀氏などが上平寺城を攻め落とし、京極氏館は廃絶したと考えられています。
平成16年2月27日、わが国における戦国大名のあり方がわかる遺跡群として、京極氏館と南西尾根上の家臣屋敷、山頂の上平寺城、山岳寺院弥高寺跡が国の史跡に指定されました。”
【写真左】登城口付近
4台程度の駐車ができる場所がこの下に確保されている。そこに車を置き、ここから歩いて向かう。
なお、この入口の左右にある溝は当時の内堀跡とされている。
京極高清
京極高清については、これまで小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)、太尾山城(滋賀県米原市米原)その1、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1、勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)などで少し紹介しているが、ここで改めて、前稿で紹介した佐々木(京極)道誉から続く京極氏宗家の系譜を整理しておきたい。
【写真左】弾正屋敷跡
入口付近にある薬師堂を過ぎると、すぐに右手に見えてくる。
《京極家宗家の流れ》 ※一部省略
佐々木(京極)道誉(1296~1373)
(鎌倉幕府御家人・室町幕府引付頭人、若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護)
⇓
京極 高秀(1328~1391)
(道誉三男)
(道誉三男)
(室町幕府評定衆、出雲・飛騨・隠岐守護)
⇓
京極 高詮(1352~1401)
(室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・石見・山城守護)
(兄弟:尼子高久 1363~91 など)
⇓
京極 高光(1375~1413)
(室町幕府侍所頭人、飛騨・出雲・隠岐・石見・山城守護)
⇓
(京極 持高)
⇓
(京極 高数)
⇓
京極 持清(1407~70)
(室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城守護)
※実父は高光
持清 長男 勝秀(1432頃~68) ⇒ 勝英長男・高清
次男 政光(1449~72)
三男 政経(政高)(1453~1502又は1508)
【写真左】蔵屋敷跡
少しカーブしたところを進むと右手に見えてくる。
進むにつれて奥行が深くなる。
京極争乱
上掲の説明板にある「永く続いた一族の内紛」とは、京極家の家督を巡る争いである。上記の《京極家宗家の流れ》で同家の系譜を綴っているが、10代高数あたりから畿内を中心として大きなうねりが現れてくる。
【写真左】隠岐氏屋敷跡
道路を挟んで反対側には蔵屋敷跡がある。雑草が繁茂しているため分かりずらいが、土塁跡が鮮明に残る。
名前から考えて、京極氏が隠岐国の守護職であったことから、佐々木道誉の孫高詮の代に守護代となった秀重の系譜を汲むものかもしれない。
地位は同屋敷跡の上段に京極氏の屋敷跡があることから京極高清の家老職であったと考えられる。
高数の代に嘉吉の変が勃発、そして世に名高い「応仁の乱」が次の持清の代から始まるが、これに期を合わせるかのように、京極家内部では家督相続をめぐる戦いが始まることになる。持清の長男勝英が父より先に亡くなり、その2年後持清が亡くなると、その跡を巡って下記の二派に対立が生じた。
この対立は概ね文明2年(1470)から永正2年(1505)までの約35年という長い抗争であった。そして最終的には乙童子丸、すなわち後の高清が京極家の争いを収束させた形となったが、この間代々受け継がれてきた出雲・隠岐・飛騨国の守護領国を事実上失うことになり、その代償はあまりにも大きかった。
【写真左】京極氏屋形跡
伊吹神社直下が京極氏の館跡である。
ここから、さらに奥に進む。
京極政経(政高)の出雲国下向
ところで、この争乱の間、孫童子丸派であった政経(政高)は、一時期乙童子丸(高清)派に押しやられた際、尼子氏を頼り守護国であった出雲へ下向している。
持清 長男 勝秀(1432頃~68) ⇒ 勝英長男・高清
次男 政光(1449~72)
三男 政経(政高)(1453~1502又は1508)
【写真左】蔵屋敷跡
少しカーブしたところを進むと右手に見えてくる。
進むにつれて奥行が深くなる。
京極争乱
上掲の説明板にある「永く続いた一族の内紛」とは、京極家の家督を巡る争いである。上記の《京極家宗家の流れ》で同家の系譜を綴っているが、10代高数あたりから畿内を中心として大きなうねりが現れてくる。
【写真左】隠岐氏屋敷跡
道路を挟んで反対側には蔵屋敷跡がある。雑草が繁茂しているため分かりずらいが、土塁跡が鮮明に残る。
名前から考えて、京極氏が隠岐国の守護職であったことから、佐々木道誉の孫高詮の代に守護代となった秀重の系譜を汲むものかもしれない。
地位は同屋敷跡の上段に京極氏の屋敷跡があることから京極高清の家老職であったと考えられる。
高数の代に嘉吉の変が勃発、そして世に名高い「応仁の乱」が次の持清の代から始まるが、これに期を合わせるかのように、京極家内部では家督相続をめぐる戦いが始まることになる。持清の長男勝英が父より先に亡くなり、その2年後持清が亡くなると、その跡を巡って下記の二派に対立が生じた。
孫童子丸(勝英嫡子)派 ←争い→ 乙童子丸(勝英庶子)派
政経 政光
多賀高忠(近江守護代) 多賀清直(飛騨守護代)
【写真左】京極氏屋形跡
伊吹神社直下が京極氏の館跡である。
ここから、さらに奥に進む。
京極政経(政高)の出雲国下向
ところで、この争乱の間、孫童子丸派であった政経(政高)は、一時期乙童子丸(高清)派に押しやられた際、尼子氏を頼り守護国であった出雲へ下向している。
- 文明4年(1472)11月16日、出雲国守護・京極政高、小野政継の日御碕検校職を安堵する(「小野文書」)
- 文明5年(1473)2月11日、京極政高、松田三河守に出雲国法吉郷を安堵する(「小野文書」)
- 文明6年(1474)11月17日、京極政高、尼子経久に美保関の公用一万疋を納めさせる(「佐々木文書」)
- 同年11月29日、京極政高、尼子経久に対し生馬郷・利弘保・阿陀加江(現:出雲郷)内青木分並びに多弥分を安堵する(「佐々木文書」)。足利義政、尼子経久に出雲国利弘保を安堵す(「佐々木文書」)。
【写真左】京極氏庭園跡・その1
屋形跡に入り、奥に進むと同氏庭園跡がある。
【写真左】京極氏庭園跡・その2
高清が作庭したとされ、手前と奥に二つの池を配し、中に小さな石をおいた中島がある。
この庭園に隣接した建物(礎石跡)があり、川戸谷の四季を借景にしながら、客人をもてなし、さまざまな儀礼・宴が行われていたという。
以上の史料は、おそらく政経自身が出雲国に在住しているときに安堵したものと思われる。
明くる文明7年(1475)年9月初旬、政経と息子高忠は出雲の国人衆らを率い上洛、政経は幕府(義政)から近江守護に改めて補任され、西軍方に抑えられていた近江国奪還の命を受けた。
なお、このとき出雲国から随従していた中には、当時16歳で、又四郎と名乗っていた尼子経久がいた。従って上掲した経久宛ての安堵状などは、事実上経久の父・清貞に対するものだろう。
【写真左】上平寺城(桐ヶ城)へ向かう道
京極氏屋形跡と反対側には、上平寺城へ向かう道がある。
当城は上平寺尾根にあり、伊吹山五合目方面に向かうルートでもある。このため、こちらに向かう際は、一般の登山と同じく、登山届をするようになっている。
そして、政経上洛に併せて随従した経久の立場は、名目上「人質」であった。混迷し大義を失った応仁の乱である。政経にとって、出雲国から引連れてきた国人衆が、この乱が長引くことによって他の一族がそうであったように、離反(西軍へ)する可能性も想定していたのだろう。経久はそれを食い止める意味もあった「人質」である。
経久が主君・京極政経の居館(京屋敷)で滞在したのはそれから5年間である。この間、元服しそれまで名乗っていた「又四郎」から、政経の偏諱を賜り「経久」と名乗った。人質とはいえ、経久が過ごした京都における5年間は、のちに彼自身にとって大きな経験となったことだろう。
【写真左】伊吹神社
京極氏屋形跡の上段に祀られている。
本殿の左側には京極氏の墓がある(下の写真参照)
【写真左】伊吹神社・本殿
小規模だが見事な彫刻で飾られている。「伊吹おろし」や雪が多いのだろう、太刀と同じ「鞘がけ」形式でさらにこの外を保護している。これを見た瞬間、以前参拝した因幡(鳥取県)鹿野城の城山神社を思い出した。
【写真左】京極氏一族の墓
もともとこの場所に高清の墓があったが、清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)でも述べたように、江戸時代、丸亀藩主・京極高豊が、歴代藩主の墓を整備した際、高清の墓石は移された。
ここに残る墓石の一つに、「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永承3年(1506)4月7日」の文字があり、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられている。
◎関連投稿
三田村城(滋賀県長浜市三田町 伝正寺)
上坂氏館(滋賀県長浜市西上坂町)
下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町)
明くる文明7年(1475)年9月初旬、政経と息子高忠は出雲の国人衆らを率い上洛、政経は幕府(義政)から近江守護に改めて補任され、西軍方に抑えられていた近江国奪還の命を受けた。
なお、このとき出雲国から随従していた中には、当時16歳で、又四郎と名乗っていた尼子経久がいた。従って上掲した経久宛ての安堵状などは、事実上経久の父・清貞に対するものだろう。
【写真左】上平寺城(桐ヶ城)へ向かう道
京極氏屋形跡と反対側には、上平寺城へ向かう道がある。
当城は上平寺尾根にあり、伊吹山五合目方面に向かうルートでもある。このため、こちらに向かう際は、一般の登山と同じく、登山届をするようになっている。
そして、政経上洛に併せて随従した経久の立場は、名目上「人質」であった。混迷し大義を失った応仁の乱である。政経にとって、出雲国から引連れてきた国人衆が、この乱が長引くことによって他の一族がそうであったように、離反(西軍へ)する可能性も想定していたのだろう。経久はそれを食い止める意味もあった「人質」である。
経久が主君・京極政経の居館(京屋敷)で滞在したのはそれから5年間である。この間、元服しそれまで名乗っていた「又四郎」から、政経の偏諱を賜り「経久」と名乗った。人質とはいえ、経久が過ごした京都における5年間は、のちに彼自身にとって大きな経験となったことだろう。
【写真左】伊吹神社
京極氏屋形跡の上段に祀られている。
本殿の左側には京極氏の墓がある(下の写真参照)
【写真左】伊吹神社・本殿
小規模だが見事な彫刻で飾られている。「伊吹おろし」や雪が多いのだろう、太刀と同じ「鞘がけ」形式でさらにこの外を保護している。これを見た瞬間、以前参拝した因幡(鳥取県)鹿野城の城山神社を思い出した。
【写真左】京極氏一族の墓
もともとこの場所に高清の墓があったが、清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)でも述べたように、江戸時代、丸亀藩主・京極高豊が、歴代藩主の墓を整備した際、高清の墓石は移された。
ここに残る墓石の一つに、「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永承3年(1506)4月7日」の文字があり、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられている。
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三田村城(滋賀県長浜市三田町 伝正寺)
上坂氏館(滋賀県長浜市西上坂町)
下坂氏館(滋賀県長浜市下坂中町)
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