林野城(はやしのじょう)
●所在地 岡山県美作市林野
●別名 倉敷城
●高さ 250m(比高170m)
●築城期 鎌倉時代
●築城者 後藤氏
●城主 後藤氏、尼子氏、江見久盛・久資、戸川秀安・岡市丞(宇喜多氏)、稲葉通政等
●遺構 郭、土塁、堀切、井戸等
●登城日 2017年9月3日、2020年3月30日
●別名 倉敷城
●高さ 250m(比高170m)
●築城期 鎌倉時代
●築城者 後藤氏
●城主 後藤氏、尼子氏、江見久盛・久資、戸川秀安・岡市丞(宇喜多氏)、稲葉通政等
●遺構 郭、土塁、堀切、井戸等
●登城日 2017年9月3日、2020年3月30日
◆解説(参考資料 HP『岡山県古代吉備文化財センター』等)
林野城は以前紹介した美作の三星城(岡山県美作市明見)の南方にあって、両城の間には吉井川の支流・梶並川が、林野城の南麓は吉野川がそれぞれ流れ、両川は林野城の西南端で合流している。
【写真左】林野城遠望
南麓を東西に流れる吉野川沿いの田圃の農道(朽木地区)から見たもので、この方向から見ると美しい山容である。
現地の説明板より
”林野城跡
群雄割拠の鎌倉時代林野城と呼ばれ、又、以後倉敷城とも呼ばれていた。向かい合う三星城の後藤一族が在城し、後に尼子勢・江見一族・宇喜多・小早川の勢力下にあったといわれている。
しかし、康安元年(正平16年・1361年)、山名伊豆守時氏が足利氏に背き、美作に侵攻の際に三星城とともにこの城も落ちたと伝えられている。
この城は三方を川によって遮られた馬の背状の地形をうまく利用して築かれた天然の要塞であり、城郭も立派で本丸・二の丸・三の丸と三段に活用した連郭式の豪壮な山城で、標高250米山容の雄大なることは作東随一のものといわれている。”
※
上掲の説明板は登城口付近に設置されたものだが、この文面では戦国期時代から南北朝時代へ移ったかのような内容となっており、これでは初心者にとって混乱と誤解を生むことになる。すっきりと時系列に沿って書き改めた方がいいと思われる。
現地本丸に設置されているもので、色が褪せていたので管理人によって少し修正している。
この図(鳥瞰図)は、北西側から見たもので、右側(南西麓)に大手道があり、そこから北東方向に伸びる尾根伝いに三の丸、二の丸と続き、途中の枝線左側(北)に物見台があり、再び本道へ戻り、本丸へ繋がる。
当城の北側法面はこの図にもあるように岩塊が連なる険峻な景観で、反対側南面も急傾斜が多いが北側ほどではない。
渡辺氏から後藤氏へ
さて、林野城は鎌倉期にすでにあったとされている。隣接する三星城の築城期は、応保・長寛年間(1161~63)といわれる。
このころは、源頼朝が伊豆に、頼朝の弟の一人希義(源希義墓所(高知県高知市介良)参照)が土佐にそれぞれ配流された頃で、出雲国では出雲守・源光保らが謀反の疑いで遠国へ配流(『百錬抄』)、また、石見守・藤原水範は罷免されている(『大日本史』)。このことから三星城の築城は後に内大臣になる平清盛の命によるものだろう。
【写真左】安養寺 林野城の南麓に建立されている寺院で、元はこの場所から北へ向かった上相間山(かみやはしたやま)に慶長6年(1601)建てられ、元禄10年(1697)に現在地に移転されている。
写真後背が林野城になる。なお、登城口はこの写真の左側にある。
林野城の築城者は不明だが、おそらく三星城を築いた渡辺長寛の一族と考えられる。しかし、この渡辺氏も長寛の子・長信が、正治2年(1200)に梶原景時に殉じたことにより、渡辺氏も消滅、その跡に後藤氏が入城(築城)したと思われる。
そして、三星城は後藤良猶とされ、その弟・良兼が林野城に在城したといわれる。ただ、別説では木下道光とするものもある。この木下氏はおそらく津山市新田の新宮城の城主であった木下氏と同族だろう(美作 新宮城-城郭放浪記 参照)。
その後、南北朝期における林野城の動きは、概ね三星城のそれとほぼ変わらないと思われ、戦国期に至るまで後藤氏が在城している。しかし、天文13年(1544)になると、一気に美作も激動の時代を迎える。
【写真左】登城口 右の説明板が冒頭で紹介したもので、その脇に階段が設置してあり、ここから登って行く。
尼子氏美作侵攻
出雲の尼子晴久が美作に侵攻し始めた。後藤氏は尼子氏の麾下となり、同氏は主として三星城の方を、林野城の方は尼子方の部将・川副久盛を置き、東作地方を守らせた。
それから10年後の天文23年(1554)、尼子氏麾下にあった後藤勝基は、天神山城の城主浦上宗景(備前・太鼓丸城(岡山県和気郡和気町田土 天神山)参照)と通じ、林野城攻略に転じた。
【写真左】登城道 この日めずらしく母娘の親子と一緒になった。地元では結構当城に登られる人が多いのかもしれない。
そんなこともあってか、枯葉が堆積しているものの歩きやすい道だ。
これに対し、城将川副久盛は、江見久次、水島宇京助、長瀬三郎兵衛らと共にこれを迎え撃ち、逆に三星城まで迫った。その後も数回両城での戦いが続いていくが、永禄8年(1565)になると、久盛の主君尼子氏の領国出雲が毛利氏に攻囲され出すと、久盛はやむなく出雲へ引き上げることになる。
これにより、久盛が引き上げた後、当城の城番は江見一族が守っていた。このときの浦上氏の動きははっきりしないが、このころ三村氏との戦いも激化しており、林野城攻略は取りやめていたのかもしれない。
【写真左】三の丸へ到着 このあと下の方に遺構があるようなので降りてみる。
宇喜多直家、東作へ侵攻
天正7年(1579)、宇喜多直家は東作地方に侵攻してきた。林野城番であった江見市之亟は、矢櫃城(やびつじょう)(津山市大吉)主・江見次郎と共に、勝田郡の鷹巣城(美作市海田)で宇喜多勢と戦ったが討死した。これにより、宇喜多氏は林野城を奪取、城番に片岡土佐守・森藤新五左衛門を置いた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属した宇喜多氏は敗れ、代わって小早川秀秋が備前・美作を領知することなった。そして林野城には稲葉通政が入城、2年後に秀秋が亡くなると、翌年森忠政が美作に入封されることになる。
【写真左】三の丸の下方 冒頭の復元絵図にもあるように複数の郭が描かれている。資料では大小7郭が複雑に構築され、先端部でかなり大きな土塁が構築され、大手道へと繋いでいる。
残念ながらこの日はそこまで降りて行っていない。
このあとUターンし二の丸を目指す。
森忠政と美作国人一揆
ところで、森忠政(津山城(岡山県津山市山下)参照)が美作に入封する際、同国では国人一揆による忠政への反発が起こった。
当時美作では小早川秀秋、宇喜多秀家の元家臣らが在地しており、忠政が美作に足を踏み入れる手前の国境である播磨及び因幡両国のそれぞれの地点で、両家(小早川・宇喜多)の家臣・浪人及び、地元の土豪ら2,680名らが陣取り入国を阻止しようとした。
【写真左】三の丸から二の丸へ向かう。 三の丸から二の丸へはアップダウンがあるものの、全体に緩やかな登り勾配で、途中には親切に階段が設置してある。
復元図ではさほど長い距離に描かれていないが、実際はかなりの距離を感じる。
そもそも一揆による阻止行動の理由は、それまで持っていた彼ら旧領主一族の既得権益が、新藩主となる森忠政らによって奪われることを恐れていたからである。最終的には忠政らによる一揆側への懐柔策が功を奏し、一揆側は瓦解し降伏した。
このとき、一揆側の首謀者の一人とされるのが、元小早川秀秋の家臣であった難波宗守だが、彼らが占拠していたのがこの林野城である。一揆側の敗北の責任をとって難波宗守は自害、林野城も森忠政に明け渡された。
【写真左】堀切二の丸に向かう途中で見えた堀切。
南の方を眺望したもので、林野城の南西麓を吉野川が流れている。
なお、この日三星城が望めるかと期待したが、木立に遮られて見ることはできなかった。写真でいえばこの右側に当たる。
長軸(南西~北東)はおよそ70m。これを3区画に分けている。
『日本城郭体系』によれば、最も手の入れ込んだ郭だという。
【写真左】二の丸東端部 二の丸の東端部は少し下がった郭になり、そこから再び登り勾配となり階段がついている。
【写真左】堀切 長径170mの峡長な平坦面をなし、それを3区画に切って郭を構えている。
東端の段には中央部より一段高く、東西15m×南北9mの郭があり、ここが主郭とされる。
冒頭で紹介した復元図だが、本丸及び二の丸を含めた周辺部分をズームしたもの。
【写真左】土塁西側先端部にある土塁で、手前には大分前に設置されたと思われるテレビ電波塔のような残骸。
全長が170mもある長大なもので、復元図にもあるようにこの場所には複数の建物が建っていたのだろう。
本丸から北西方面を見たもので、三星城が確認できると思われたが、木立が遮り見えない。
当時は手に取るように見えたことだろう。
林野城には復元図を見ると井戸が2か所描かれている。一つは主郭部にあるもので、もう一つは本丸北側の一段下がった郭にあるもの。
写真は主郭部にあるもの。
先を進むと、突然周りの景色と違い小笹が枯れた平坦面が現れた。
上記の郭をさらに進むと、三角点が見えた。
どうやらこの場所が最高所(H:250m)のようだ。
ここから下がって次の段がある。
【写真左】下の段 上との高低差はおよそ4m前後ある。
この先にも段が続いている。
次の段へは右にある犬走りを使って降りる。
【写真左】井戸跡から本丸方面を振り返る。 犬走りを降りて振り返ると、林野城の別名「倉敷城」と書かれた看板が法面に設置されている。
またその手前は大きな窪みがあり、石積が残っているので井戸跡だろう。
本丸から連続する郭の最終段のもので、北端部に当たる。
切岸先端部に立ったところ、あまりの険しい切岸を眼にして、連れ合いはここから降りるのを拒否。
しかし、ここまで来て再び戻るのもかなり体力的にきついため、先ず管理人が先導し、滑落しそうな箇所はサポートするからということで決行する。
険しい上に枯葉が堆積しているため、度々足元がすべる。写真の個所はまだ緩いほうだ。
おそらくこの道が搦め手だろうが、敵はここからは攻め込めないだろう。
急峻な道の一角にコブのような箇所がある。
復元図には小規模な郭と小屋らしきものが描かれているので、もともと物見台があったところかもしれない。
【写真左】平坦部に辿り着く。 高低差40m前後あったと思われる切岸を、冷や汗をかきながら一気に降りると、北側から登ってくる道と合流した。
右の看板には「藤乃森神社まで300m(全長700m) 美作美しい里山公園」と書かれた看板が設置されている。
左の道を降りても下山できそうだが、こちらを使うと北麓に出て大回りになることから、このまま藤乃森神社方面に向かうことにする。
祭神:倉稲魂神・大宮売神・猿田彦神・素戔嗚尊。
この稲荷神社は林野城の鬼門に守護神として艮(うしとら)に、京の伏見稲荷より勧請したという。
このあとさらに降りて農道を歩きながら林野城の登城口である冒頭の安養寺に戻った。