高天神城(たかてんじんじょう)・その1
●所在地 静岡県掛川市上土方・下土方
●別名 鶴舞城
●指定 国指定史跡
●高さ 132m(比高100m)
●築城期 治承4年(1180)~建久2年(1191)ごろ又は、文安3年(1446)ごろ。
●築城者 渭伊隼人直孝・土方次郎義政
●城主 福島佐渡介基正、小笠原右京進春儀・弾正忠氏清・与八郎長忠等
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 掛川三城
●登城日 2016年11月5日
◆解説(参考資料 『文学で読む日本の歴史 戦国社会篇』五味文彦著 山川出版、掛川市HP等)
高天神城については、足助城(愛知県豊田市足助町 真弓山) や、三河・野田城(愛知県新城市豊島字本城) で少し触れているが、遠江国(静岡県)の中南部にあって、特に武田氏と徳川氏が深くかかわった城郭である。
【写真左】高天神城遠望
東から見たもの。
中央部の丸い形の箇所に本丸がある。
鶴翁山高天神城
別名鶴舞城または、鶴翁山高天神城ともいう。現地にある略年表によれば、当城(当山)の記録が初めて現れるのは、延喜12年(913)で、「藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ」とある。
このことから、このころはまだ城郭としての形は形成されていないと思われるが、治承4年(1180)、源頼政や頼朝が挙兵したこの年、渭伊隼人直孝が山砦を築いたと記録されている。
渭伊(いい)隼人直孝は、後の井伊直政の系譜につながる一族で、以仁王と共に平氏討伐の先鋒を切った源頼政(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)の家臣で、この年(治承4年)5月26日、宇治川で頼政らが戦死すると、平家の追手から逃れるべく、地元遠江の鶴翁山(高天神城)に隠棲したといわれる。
【上図】案内図
この日は搦手門側から向かったが、左図にもあるように大手門から向かう道の二つがあるようだ。
上図はかなり簡略された絵図だが、東峰に本丸(東の丸)を置き、西峰に西の丸を設け、その間は井戸郭が連絡している。
詳細については下段の配置図を参照されたい。
その後鎌倉幕府が樹立すると、建久2年(1191)頼朝の右大将であった土方次郎義政が改めて砦として手を加えている。この後、室町時代まで当城の記録はないようだが、南北朝時代も何らかの形で当城が関わったものとみられる。
その後、文安3年(1446)福島佐渡守基正が城主となった。この福島基正は、当時の駿河国守護であった第5代当主今川範忠の家臣とされ、基正はこのとき当城と併せて、丸子城の城主も兼任していたといわれるが、伝承の域を出ない。
記録もさることながら、この丸子城は現在の静岡市駿河区丸子にあって、高天神城から50キロ以上も離れているため、同時期に両城の城主であったというのは無理があるだろう。
【写真左】登城口
前記したようにこの個所は搦手側に当たるが、本丸に祀られている高天神社の参道でもある。
因みに当社は、祭神を天皇産霊神・天菩毘命・菅原道真公として祀る。
小笠原氏
ところで、応仁・文明の乱の時代になると、遠江国も他国と同じく乱世の時代を迎えた。その後、今川氏が駿河国平定をはじめたころから遠江国も同氏の支配下に圧された。特に、今川義元の代になる天文5年(1536)になると、小笠原右京進春儀(春義)が高天神城の城主となった。
この小笠原氏は、遠江小笠原氏ともいわれるが、もとは信濃守護であった小笠原氏の出で、当時府中といわれた現在の松本市井川付近に本拠を持った府中小笠原氏を出自とする。その後、小笠原弾正忠氏、同与八郎長忠と続くが、この間、主君今川義元が桶狭間の戦いで信長に討たれると、永禄11年(1568)、高天神城は徳川氏に属した。
【写真左】登城道
登城道はほとんどこうした階段が敷設され、幅も余裕を持ったものになっているが、写真はかなり高い切岸状の側面がある場所。
近世になってこうした景観になったのであろうが、当時もこの搦手から登ると、両側の高い位置から攻められる可能性が高かったのだろう。
なお、前記した長忠は、軍記物に書かれた武将名で、史料からは、信興と記されている。この信興は上述したように、今川義元が亡くなると、その跡を継いだ氏真に一時的には使えるが、家康が遠江を支配に置くと、信興は家康に従った。そして、大井川を挟んで東の駿河国を支配した武田氏と対峙するいわゆる境目の城の城主としてその責務を担わされることになる。
【写真左】三日月井戸
登城道の途中には「三日月井戸」といわれる遺構が残る。
現在では井戸というより、水溜まりのような形態だが、当時はこの位置から湧水が出ていたのだろう。
高天神城の戦い・1回目(天正2年)
信興が城主となってからは、度々武田氏との攻防が行われ、のちに「高天神城の戦い」として語り継がれることなる。この戦いは武田信玄が亡くなり、その跡を継いだ勝頼と家康の戦いであるが、大きな戦いは二度行われた。
1回目は、天正2年(1574)5月に行われたもので、このとき武田軍は2万5千余騎を率いて、遠江へ入った。勝頼が最初に入ったのが大井川西岸にあった小山城である。当城は信玄時代に築かれた城郭で、勝頼の代になると、さらに東海道の金谷原(島田市)に諏訪原城も築き、高天神城攻めの拠点としていた。
【上図】配置図
上掲した案内図と重複するが、現地に設置してあったものを管理人によって少し加工修正している。
なお、案内図は上方が南を示しているが、この配置図は上方が北を示す。
右側に本丸を置き、左側には高天神社兼ねた西の丸が配置されている。
高天神城には信興(長忠)はじめ僅か1千余騎が籠っていた。武田軍が大軍を率いて当城に向かうという報を知った信興は、当然ながら家康に援軍を求めた。しかし、その家康も信州から南下する武田軍の別部隊に対処しなけらばならず、自軍の勢力が1万前後ではとても高天神城へ援軍を送る余裕もなかった。
【写真左】鐘曲輪
大手から登って行くと、最初にこの鐘曲輪にたどり着く。本丸と西の丸の間にある郭で、西の丸側へ向かうと、途中から井戸郭になる。
最初に西方の西の丸方面に向かうことにする。
このため、家康は当時京都の葵祭を楽しんでいた信長に急ぎ救援を求めた。信長が京から岐阜に戻ったのが5月28日のことである。そして信長が岐阜を出立したのが6月14日とされる。このように家康からの要請にもかかわらず、なぜか信長の動きは極めて緩慢である。
同月17日に信長はやっと三河の吉田城(現在の豊橋市)に着陣した。しかし、高天神城はすでに西の丸を落とされ、兵糧は欠乏していた。武田軍の攻防の前に、本間氏清や、丸尾義清などの勇将が討死、18日、ついに信興は武田軍に降伏した。
【写真左】かな井戸・井戸曲輪
左側には井戸跡があり、その奥には、高天神城合戦の石碑が祀られている。
高天神城の戦い・2回目(天正9年)
2回目の戦いは、天正9年(1581)である。1回目の戦いで高天神城を手中にした武田勝頼であったが、その後天正3年(1575)の長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)及び設楽原の戦い( 織田信長戦地本陣(愛知県新城市牛倉城山)参照)で大敗を喫した。 有力な家臣を多数失った勝頼は、この段階から防戦の態勢をとらざるを得なくなる。
徳川家康は次第に武田軍が押さえていた支城を次々と落とし、高天神城の補給路を断って行った。当時武田軍が高天神城の支城としていたものは、諏訪原城(島田市金谷)、小山城(吉田町)、相良城(牧之原市)などである。
【写真左】堂尾曲輪
井戸曲輪から北に細長く伸びた先端部の郭で、その先にも2段の郭が北に延び、先端部の郭は井楼郭と呼ばれる。
また、堂尾曲輪の南側には後ほど紹介する二の丸が控えている。
なお、西の丸を含めた西峰の城域は、武田氏が支配した天正2年(1574)以降に大改修がなされた箇所といわれている。
徳川勢が本陣としていたのが、同国城東郡横須賀(現 掛川市西大渕)の横須賀城(松尾城・両頭城)である。この横須賀城から高天神城までの距離は、直線距離でわずか6キロほどである。しかし、陸路で見てみると、横須賀城から東へ海岸部を通り、大浜辺りで北上していくルートとすれば、10キロほどになる。しかも、途中には西大谷川、東大谷川があり、お互いにとってこの二つの川が進路を阻む効果があったのだろう。
【写真左】堀切
堂尾曲輪の手前に見えたもので、下の郭との境に配置されている。
ところで、この横須賀城の当時の様子を推考してみたい。地名である「須賀」は砂地を意味し、この付近は海岸部とさほど変わらぬ低地であったようだ。このため、正保年間(1645~48)に描かれた国絵図を見ると、横須賀城の南側には横須賀湊が描かれていることから横須賀城は海城の形態であったと考えられる。
【写真左】「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清 戦死の址」
堀切の近くには上述した兄弟の墓が建立されている。
説明板より
‟天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、武田軍の銃弾に当たり討死した。”
さて、2回目の戦いのときの高天神城の城将は、今川旧臣といわれる岡部元信といわれる。徳川方による補給路を閉ざされた高天神城は、次第に苦境に陥ることになる。当然、勝頼は当城救援に向かわざるを得ないが、しかし、結果として彼はその行動を起こしていない。一説には、このころ相模の北条氏との同盟が破綻し、このため北条氏による攻撃を恐れたため動かなかったともいわれている。また、織田信長が背後で常に勝頼をけん制していたこともあり、勝頼はかなり悩んでいたとされる。
【写真左】堀切
当城の見どころの一つである長大な横堀と並行して走る堂尾曲輪伝いに見えたもので、見事な堀切。
信長の指示もあって、結局高天神城の城兵は「降伏」は許されず、多くの者が餓死し、わずかの生存者による城兵が最後の戦いを挑んだが、城将・岡部元信はじめ688名は討死、直後家康方は城内に突入して掃討し、ここに高天神城は落城した。
【写真左】横堀と土塁・その1
高天神城の見どころの一つである横堀と土塁である。
現地の案内図では、当城の西側に設置され、北端部は井楼郭から南端部は西の丸・高天神社の西側まで描かれているが、実際には二の丸直下までが残る。
長さは150m前後あるだろう。
【写真左】横堀と土塁・その2 北側から見た横堀と土塁で、左側斜面を登って行くと井楼郭などがある。
なお、横堀は北に進むにつれて整備されていないため、先端部までは踏査していない。
先端部との合流地点には井楼郭の下にある腰郭がある。
【写真左】二の丸
横堀から再び元に戻り、西の丸の北隣にある二の丸に向かう。
【写真左】二の丸から南の西の丸を見上げる。
二の丸から西の丸までの比高は8m前後ある。
【写真左】西の丸と高天神社
西の丸から南に回り込んでいくと西の丸と高天神社がある。
元々高天神社は、次稿で紹介する東峰の本丸側にあったものだが、後に(武田氏領有時か)西峰の西の丸側に移された。
西の丸は高天神社境内がその位置のようだが、当社も西の丸と一体となっている。
なお、西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、別名「丹波曲輪」とも呼ばれる。
【写真左】天神社(社務所)裏の土塁
社務所側の裏側には土塁が囲繞しているが、その奥には下段で示す竪堀状の堀切がある。
【写真左】堀切
左側が天神社(西の丸)側で、堀切を介して右に下段で紹介する馬場平がある。
【写真左】馬場平
南西方向に伸びる尾根に築かれているもので、武田軍得意の騎馬隊が待機していたのだろう。
【写真左】甚五郎抜け道
馬場平からさらに西の方へ向かう小さな道があるが、これを「甚五郎抜け道」と呼ぶ。
説明板より
‟甚五郎抜け道
天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は、本国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。
この難所を別名
犬戻り猿戻りとも言う。
大東町(掛川市)教育委員会”
【写真左】馬場平からの眺望・その1
馬場平に設置されている看板で、奥が南方で、手前が北方を示し、小笹山の標識が建っている。
小笹山は、高天神城を含む丘陵地の最高所で265m。
【写真左】馬場平から御前崎方面を遠望する。
御前崎は西麓を流れる菊川を挟んで西にある牧ノ原台地の先端部の岬。
戦国期は高天神城の東南麓まで遠州灘が迫っていた。
次稿に続く。
当城は一回では紹介しきれないので、東峰を中心とする東の丸(本丸側)については、次稿で紹介したい。
●所在地 静岡県掛川市上土方・下土方
●別名 鶴舞城
●指定 国指定史跡
●高さ 132m(比高100m)
●築城期 治承4年(1180)~建久2年(1191)ごろ又は、文安3年(1446)ごろ。
●築城者 渭伊隼人直孝・土方次郎義政
●城主 福島佐渡介基正、小笠原右京進春儀・弾正忠氏清・与八郎長忠等
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 掛川三城
●登城日 2016年11月5日
◆解説(参考資料 『文学で読む日本の歴史 戦国社会篇』五味文彦著 山川出版、掛川市HP等)
高天神城については、足助城(愛知県豊田市足助町 真弓山) や、三河・野田城(愛知県新城市豊島字本城) で少し触れているが、遠江国(静岡県)の中南部にあって、特に武田氏と徳川氏が深くかかわった城郭である。
【写真左】高天神城遠望
東から見たもの。
中央部の丸い形の箇所に本丸がある。
鶴翁山高天神城
別名鶴舞城または、鶴翁山高天神城ともいう。現地にある略年表によれば、当城(当山)の記録が初めて現れるのは、延喜12年(913)で、「藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ」とある。
このことから、このころはまだ城郭としての形は形成されていないと思われるが、治承4年(1180)、源頼政や頼朝が挙兵したこの年、渭伊隼人直孝が山砦を築いたと記録されている。
渭伊(いい)隼人直孝は、後の井伊直政の系譜につながる一族で、以仁王と共に平氏討伐の先鋒を切った源頼政(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)の家臣で、この年(治承4年)5月26日、宇治川で頼政らが戦死すると、平家の追手から逃れるべく、地元遠江の鶴翁山(高天神城)に隠棲したといわれる。
【上図】案内図
この日は搦手門側から向かったが、左図にもあるように大手門から向かう道の二つがあるようだ。
上図はかなり簡略された絵図だが、東峰に本丸(東の丸)を置き、西峰に西の丸を設け、その間は井戸郭が連絡している。
詳細については下段の配置図を参照されたい。
その後鎌倉幕府が樹立すると、建久2年(1191)頼朝の右大将であった土方次郎義政が改めて砦として手を加えている。この後、室町時代まで当城の記録はないようだが、南北朝時代も何らかの形で当城が関わったものとみられる。
その後、文安3年(1446)福島佐渡守基正が城主となった。この福島基正は、当時の駿河国守護であった第5代当主今川範忠の家臣とされ、基正はこのとき当城と併せて、丸子城の城主も兼任していたといわれるが、伝承の域を出ない。
記録もさることながら、この丸子城は現在の静岡市駿河区丸子にあって、高天神城から50キロ以上も離れているため、同時期に両城の城主であったというのは無理があるだろう。
【写真左】登城口
前記したようにこの個所は搦手側に当たるが、本丸に祀られている高天神社の参道でもある。
因みに当社は、祭神を天皇産霊神・天菩毘命・菅原道真公として祀る。
小笠原氏
ところで、応仁・文明の乱の時代になると、遠江国も他国と同じく乱世の時代を迎えた。その後、今川氏が駿河国平定をはじめたころから遠江国も同氏の支配下に圧された。特に、今川義元の代になる天文5年(1536)になると、小笠原右京進春儀(春義)が高天神城の城主となった。
この小笠原氏は、遠江小笠原氏ともいわれるが、もとは信濃守護であった小笠原氏の出で、当時府中といわれた現在の松本市井川付近に本拠を持った府中小笠原氏を出自とする。その後、小笠原弾正忠氏、同与八郎長忠と続くが、この間、主君今川義元が桶狭間の戦いで信長に討たれると、永禄11年(1568)、高天神城は徳川氏に属した。
【写真左】登城道
登城道はほとんどこうした階段が敷設され、幅も余裕を持ったものになっているが、写真はかなり高い切岸状の側面がある場所。
近世になってこうした景観になったのであろうが、当時もこの搦手から登ると、両側の高い位置から攻められる可能性が高かったのだろう。
なお、前記した長忠は、軍記物に書かれた武将名で、史料からは、信興と記されている。この信興は上述したように、今川義元が亡くなると、その跡を継いだ氏真に一時的には使えるが、家康が遠江を支配に置くと、信興は家康に従った。そして、大井川を挟んで東の駿河国を支配した武田氏と対峙するいわゆる境目の城の城主としてその責務を担わされることになる。
【写真左】三日月井戸
登城道の途中には「三日月井戸」といわれる遺構が残る。
現在では井戸というより、水溜まりのような形態だが、当時はこの位置から湧水が出ていたのだろう。
高天神城の戦い・1回目(天正2年)
信興が城主となってからは、度々武田氏との攻防が行われ、のちに「高天神城の戦い」として語り継がれることなる。この戦いは武田信玄が亡くなり、その跡を継いだ勝頼と家康の戦いであるが、大きな戦いは二度行われた。
1回目は、天正2年(1574)5月に行われたもので、このとき武田軍は2万5千余騎を率いて、遠江へ入った。勝頼が最初に入ったのが大井川西岸にあった小山城である。当城は信玄時代に築かれた城郭で、勝頼の代になると、さらに東海道の金谷原(島田市)に諏訪原城も築き、高天神城攻めの拠点としていた。
上掲した案内図と重複するが、現地に設置してあったものを管理人によって少し加工修正している。
なお、案内図は上方が南を示しているが、この配置図は上方が北を示す。
右側に本丸を置き、左側には高天神社兼ねた西の丸が配置されている。
高天神城には信興(長忠)はじめ僅か1千余騎が籠っていた。武田軍が大軍を率いて当城に向かうという報を知った信興は、当然ながら家康に援軍を求めた。しかし、その家康も信州から南下する武田軍の別部隊に対処しなけらばならず、自軍の勢力が1万前後ではとても高天神城へ援軍を送る余裕もなかった。
【写真左】鐘曲輪
大手から登って行くと、最初にこの鐘曲輪にたどり着く。本丸と西の丸の間にある郭で、西の丸側へ向かうと、途中から井戸郭になる。
最初に西方の西の丸方面に向かうことにする。
このため、家康は当時京都の葵祭を楽しんでいた信長に急ぎ救援を求めた。信長が京から岐阜に戻ったのが5月28日のことである。そして信長が岐阜を出立したのが6月14日とされる。このように家康からの要請にもかかわらず、なぜか信長の動きは極めて緩慢である。
同月17日に信長はやっと三河の吉田城(現在の豊橋市)に着陣した。しかし、高天神城はすでに西の丸を落とされ、兵糧は欠乏していた。武田軍の攻防の前に、本間氏清や、丸尾義清などの勇将が討死、18日、ついに信興は武田軍に降伏した。
【写真左】かな井戸・井戸曲輪
左側には井戸跡があり、その奥には、高天神城合戦の石碑が祀られている。
高天神城の戦い・2回目(天正9年)
2回目の戦いは、天正9年(1581)である。1回目の戦いで高天神城を手中にした武田勝頼であったが、その後天正3年(1575)の長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)及び設楽原の戦い( 織田信長戦地本陣(愛知県新城市牛倉城山)参照)で大敗を喫した。 有力な家臣を多数失った勝頼は、この段階から防戦の態勢をとらざるを得なくなる。
徳川家康は次第に武田軍が押さえていた支城を次々と落とし、高天神城の補給路を断って行った。当時武田軍が高天神城の支城としていたものは、諏訪原城(島田市金谷)、小山城(吉田町)、相良城(牧之原市)などである。
【写真左】堂尾曲輪
井戸曲輪から北に細長く伸びた先端部の郭で、その先にも2段の郭が北に延び、先端部の郭は井楼郭と呼ばれる。
また、堂尾曲輪の南側には後ほど紹介する二の丸が控えている。
なお、西の丸を含めた西峰の城域は、武田氏が支配した天正2年(1574)以降に大改修がなされた箇所といわれている。
徳川勢が本陣としていたのが、同国城東郡横須賀(現 掛川市西大渕)の横須賀城(松尾城・両頭城)である。この横須賀城から高天神城までの距離は、直線距離でわずか6キロほどである。しかし、陸路で見てみると、横須賀城から東へ海岸部を通り、大浜辺りで北上していくルートとすれば、10キロほどになる。しかも、途中には西大谷川、東大谷川があり、お互いにとってこの二つの川が進路を阻む効果があったのだろう。
【写真左】堀切
堂尾曲輪の手前に見えたもので、下の郭との境に配置されている。
ところで、この横須賀城の当時の様子を推考してみたい。地名である「須賀」は砂地を意味し、この付近は海岸部とさほど変わらぬ低地であったようだ。このため、正保年間(1645~48)に描かれた国絵図を見ると、横須賀城の南側には横須賀湊が描かれていることから横須賀城は海城の形態であったと考えられる。
【写真左】「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清 戦死の址」
堀切の近くには上述した兄弟の墓が建立されている。
説明板より
‟天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、武田軍の銃弾に当たり討死した。”
さて、2回目の戦いのときの高天神城の城将は、今川旧臣といわれる岡部元信といわれる。徳川方による補給路を閉ざされた高天神城は、次第に苦境に陥ることになる。当然、勝頼は当城救援に向かわざるを得ないが、しかし、結果として彼はその行動を起こしていない。一説には、このころ相模の北条氏との同盟が破綻し、このため北条氏による攻撃を恐れたため動かなかったともいわれている。また、織田信長が背後で常に勝頼をけん制していたこともあり、勝頼はかなり悩んでいたとされる。
【写真左】堀切
当城の見どころの一つである長大な横堀と並行して走る堂尾曲輪伝いに見えたもので、見事な堀切。
信長の指示もあって、結局高天神城の城兵は「降伏」は許されず、多くの者が餓死し、わずかの生存者による城兵が最後の戦いを挑んだが、城将・岡部元信はじめ688名は討死、直後家康方は城内に突入して掃討し、ここに高天神城は落城した。
【写真左】横堀と土塁・その1
高天神城の見どころの一つである横堀と土塁である。
現地の案内図では、当城の西側に設置され、北端部は井楼郭から南端部は西の丸・高天神社の西側まで描かれているが、実際には二の丸直下までが残る。
長さは150m前後あるだろう。
【写真左】横堀と土塁・その2 北側から見た横堀と土塁で、左側斜面を登って行くと井楼郭などがある。
なお、横堀は北に進むにつれて整備されていないため、先端部までは踏査していない。
先端部との合流地点には井楼郭の下にある腰郭がある。
【写真左】二の丸
横堀から再び元に戻り、西の丸の北隣にある二の丸に向かう。
【写真左】二の丸から南の西の丸を見上げる。
二の丸から西の丸までの比高は8m前後ある。
【写真左】西の丸と高天神社
西の丸から南に回り込んでいくと西の丸と高天神社がある。
元々高天神社は、次稿で紹介する東峰の本丸側にあったものだが、後に(武田氏領有時か)西峰の西の丸側に移された。
西の丸は高天神社境内がその位置のようだが、当社も西の丸と一体となっている。
なお、西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、別名「丹波曲輪」とも呼ばれる。
【写真左】天神社(社務所)裏の土塁
社務所側の裏側には土塁が囲繞しているが、その奥には下段で示す竪堀状の堀切がある。
【写真左】堀切
左側が天神社(西の丸)側で、堀切を介して右に下段で紹介する馬場平がある。
【写真左】馬場平
南西方向に伸びる尾根に築かれているもので、武田軍得意の騎馬隊が待機していたのだろう。
【写真左】甚五郎抜け道
馬場平からさらに西の方へ向かう小さな道があるが、これを「甚五郎抜け道」と呼ぶ。
説明板より
‟甚五郎抜け道
天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は、本国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。
この難所を別名
犬戻り猿戻りとも言う。
大東町(掛川市)教育委員会”
【写真左】馬場平からの眺望・その1
馬場平に設置されている看板で、奥が南方で、手前が北方を示し、小笹山の標識が建っている。
小笹山は、高天神城を含む丘陵地の最高所で265m。
【写真左】馬場平から御前崎方面を遠望する。
御前崎は西麓を流れる菊川を挟んで西にある牧ノ原台地の先端部の岬。
戦国期は高天神城の東南麓まで遠州灘が迫っていた。
次稿に続く。
当城は一回では紹介しきれないので、東峰を中心とする東の丸(本丸側)については、次稿で紹介したい。
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