織田信長戦地本陣(おだのぶなが せんちほんじん)
●所在地 愛知県新城市牛倉城山
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 織田信長
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭等
●備考 茶臼山
●登城日 2016年11月6日
◆解説
織田信長戦地本陣は、長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) から西へおよそ4キロほど向かった茶臼山に築かれた(以下「茶臼山本陣」とする。)城砦である。
【写真左】「織田信長戦地本陣跡」と書かれた看板。
現在は最近できた新東名高速道路が東西を横断しているため、本陣とされる茶臼山は南北500m×東西250mほどの独立峰に見えるが、当時は北西側から延びる尾根の先端部だったと考えられる。
現地の説明板より
‟織田信長戦地本陣跡
天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
このすぐ北側には、側近羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。
ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
昭和57年3月30日 新城市教育委員会″
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その1
新東名高速道路のPAから直接歩いて向かうことができる。
因みに、近距離で向かうには「下り線」のPAに駐車したほうがいいが、「上り線」のPAからでも距離は長くなるもの向かうことができるようだ。
信長本陣
信長が最初に軍議を開いた場所が上平井の極楽寺といわれ、本稿の茶臼山本陣から南西へおよそ1.3キロほど向かったに位置になる。因みに、当時この極楽寺は廃寺となっており、その南にある平井神社付近も含めた箇所となる。
この辺りの地勢は北西から伸びてきた舌状丘陵の先端部に当たり、当初この位置から東方に武田軍の動きを見ることができると考えたのだろう。
その後、この茶臼山本陣に移ることになる。
【写真左】長篠設楽原合戦城鳥瞰図
現地に設置されている大変に詳細な図だが、全図を添付すると文字が小さくなるため、主要な箇所のみを載せている。
赤字で示した武将は信長・家康軍、青字のものは武田軍。
参考までにこの戦い(設楽原の戦い)で参戦している主だった武将は次の通り。
《信長・家康軍》
佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、石川数正、徳川家康、本多忠勝、大久保忠世、榊原康政、大須賀康高
《武田軍》
真田信綱、穴山信君、馬場信房、土屋昌続、武田信豊、武田勝頼、小幡信貞、武田信康、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景
下りPAの展望台から見たもので、左隅の道が下りPAからの道で、中央左の道が上りPAからの道のようだ。
現地の説明板より
‟解説
天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し、武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。”
【写真左】登城用階段付近
おそらく、新東名高速道路敷設に伴う周辺整備工事に併せて設置されたものだろうが、それまでは茶臼山の南麓から登って行く道が使われていた。
両脇に「奉納 茶臼山稲荷祭」と書かれた赤いのぼりが立てられている。
鉄砲隊の威力
長篠・設楽原の戦いで画期となったのは、大量の鉄砲隊が動員されたことである。織田・徳川連合軍、及び武田軍のそれぞれの兵力は、諸説あり確定されていないが、説明板にもあるように、武田軍の兵力に対し、織田・徳川連合軍はおよそ2.5~3.0倍とされている。
さらに、この戦いで織田・徳川連合軍は2,500もの鉄砲隊を活用した。対する武田軍は「馬一筋」といわれる騎馬隊である。武田軍が信長らの鉄砲隊に関する情報はある程度知っていたものと思われるが、このときはそれほどの威力はないものと踏んでいたのだろう。
果せるかな、武田軍はこの戦いで信玄以来の勇将といわれた山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊など討死し、数千の兵力がこの合戦で散った。
【写真左】茶臼山稲荷の参道
階段を登り、道なりに進むと、途中で南から登ってくる参道と合流する。
【写真左】茶臼山稲荷(神社)
奥の高台に本殿が祀られ、その下が境内になっている。信長軍は主としてこの場所を軍議を行う際使っていたのだろう。
なお、茶臼山には斜面に横穴式古墳2基があり、茶臼山の北側では平安末期といわれる経筒が出土している。また茶臼山稲荷とは別に山住稲荷という社もあったようだ。
【写真左】茶臼稲荷社の本殿
当社本殿の建築様式は宮大工が建てたような神社形式のものでなく、現代風の建物で小規模なものだが、昔から氏子よって鎮守してきたものだろう。
【写真左】神社裏
信長軍はこの茶臼山の東側を主な陣所とし、家康軍は茶臼山南麓に陣を構えたといわれている。
【写真左】織田信長歌碑が刻まれた石碑
上掲した珍しい信長の歌碑が刻まれている。
【写真左】PAから鈴木金七誕生の地を遠望する。
鈴木金七は、前々稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎に向かったが、かれはそのまま岡崎に留まったという。
このため、強右衛門はその後英雄扱いされたが、金七は武士を捨て帰農した。
【写真左】新東名高速道路の長篠設楽原PA
写真は下りのPAで、奥の林を超えると上りのPAがある。上下とも道路の南側に設置してある。
●所在地 愛知県新城市牛倉城山
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 織田信長
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭等
●備考 茶臼山
●登城日 2016年11月6日
◆解説
織田信長戦地本陣は、長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) から西へおよそ4キロほど向かった茶臼山に築かれた(以下「茶臼山本陣」とする。)城砦である。
【写真左】「織田信長戦地本陣跡」と書かれた看板。
現在は最近できた新東名高速道路が東西を横断しているため、本陣とされる茶臼山は南北500m×東西250mほどの独立峰に見えるが、当時は北西側から延びる尾根の先端部だったと考えられる。
現地の説明板より
‟織田信長戦地本陣跡
天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
このすぐ北側には、側近羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。
ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
昭和57年3月30日 新城市教育委員会″
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その1
新東名高速道路のPAから直接歩いて向かうことができる。
因みに、近距離で向かうには「下り線」のPAに駐車したほうがいいが、「上り線」のPAからでも距離は長くなるもの向かうことができるようだ。
信長本陣
信長が最初に軍議を開いた場所が上平井の極楽寺といわれ、本稿の茶臼山本陣から南西へおよそ1.3キロほど向かったに位置になる。因みに、当時この極楽寺は廃寺となっており、その南にある平井神社付近も含めた箇所となる。
この辺りの地勢は北西から伸びてきた舌状丘陵の先端部に当たり、当初この位置から東方に武田軍の動きを見ることができると考えたのだろう。
その後、この茶臼山本陣に移ることになる。
現地に設置されている大変に詳細な図だが、全図を添付すると文字が小さくなるため、主要な箇所のみを載せている。
赤字で示した武将は信長・家康軍、青字のものは武田軍。
参考までにこの戦い(設楽原の戦い)で参戦している主だった武将は次の通り。
《信長・家康軍》
佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、石川数正、徳川家康、本多忠勝、大久保忠世、榊原康政、大須賀康高
《武田軍》
真田信綱、穴山信君、馬場信房、土屋昌続、武田信豊、武田勝頼、小幡信貞、武田信康、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その2
現地の説明板より
‟解説
天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し、武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。”
【写真左】登城用階段付近
おそらく、新東名高速道路敷設に伴う周辺整備工事に併せて設置されたものだろうが、それまでは茶臼山の南麓から登って行く道が使われていた。
両脇に「奉納 茶臼山稲荷祭」と書かれた赤いのぼりが立てられている。
鉄砲隊の威力
長篠・設楽原の戦いで画期となったのは、大量の鉄砲隊が動員されたことである。織田・徳川連合軍、及び武田軍のそれぞれの兵力は、諸説あり確定されていないが、説明板にもあるように、武田軍の兵力に対し、織田・徳川連合軍はおよそ2.5~3.0倍とされている。
さらに、この戦いで織田・徳川連合軍は2,500もの鉄砲隊を活用した。対する武田軍は「馬一筋」といわれる騎馬隊である。武田軍が信長らの鉄砲隊に関する情報はある程度知っていたものと思われるが、このときはそれほどの威力はないものと踏んでいたのだろう。
果せるかな、武田軍はこの戦いで信玄以来の勇将といわれた山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊など討死し、数千の兵力がこの合戦で散った。
【写真左】茶臼山稲荷の参道
階段を登り、道なりに進むと、途中で南から登ってくる参道と合流する。
【写真左】茶臼山稲荷(神社)
奥の高台に本殿が祀られ、その下が境内になっている。信長軍は主としてこの場所を軍議を行う際使っていたのだろう。
なお、茶臼山には斜面に横穴式古墳2基があり、茶臼山の北側では平安末期といわれる経筒が出土している。また茶臼山稲荷とは別に山住稲荷という社もあったようだ。
【写真左】茶臼稲荷社の本殿
当社本殿の建築様式は宮大工が建てたような神社形式のものでなく、現代風の建物で小規模なものだが、昔から氏子よって鎮守してきたものだろう。
【写真左】神社裏
信長軍はこの茶臼山の東側を主な陣所とし、家康軍は茶臼山南麓に陣を構えたといわれている。
【写真左】織田信長歌碑が刻まれた石碑
上掲した珍しい信長の歌碑が刻まれている。
【写真左】PAから鈴木金七誕生の地を遠望する。
鈴木金七は、前々稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎に向かったが、かれはそのまま岡崎に留まったという。
このため、強右衛門はその後英雄扱いされたが、金七は武士を捨て帰農した。
【写真左】新東名高速道路の長篠設楽原PA
写真は下りのPAで、奥の林を超えると上りのPAがある。上下とも道路の南側に設置してある。
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