2019年11月26日火曜日

織田信長戦地本陣(愛知県新城市牛倉城山)

織田信長戦地本陣(おだのぶなが せんちほんじん)

●所在地 愛知県新城市牛倉城山
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 織田信長
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭等
●備考 茶臼山
●登城日 2016年11月6日

解説
 織田信長戦地本陣は、長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) から西へおよそ4キロほど向かった茶臼山に築かれた(以下「茶臼山本陣」とする。)城砦である。
【写真左】「織田信長戦地本陣跡」と書かれた看板。
 現在は最近できた新東名高速道路が東西を横断しているため、本陣とされる茶臼山は南北500m×東西250mほどの独立峰に見えるが、当時は北西側から延びる尾根の先端部だったと考えられる。









現地の説明板より

織田信長戦地本陣跡

 天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
 そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
 このすぐ北側には、側近羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
 布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。

 ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」

   昭和57年3月30日 新城市教育委員会″
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その1
 新東名高速道路のPAから直接歩いて向かうことができる。

 因みに、近距離で向かうには「下り線」のPAに駐車したほうがいいが、「上り線」のPAからでも距離は長くなるもの向かうことができるようだ。



信長本陣

 信長が最初に軍議を開いた場所が上平井の極楽寺といわれ、本稿の茶臼山本陣から南西へおよそ1.3キロほど向かったに位置になる。因みに、当時この極楽寺は廃寺となっており、その南にある平井神社付近も含めた箇所となる。

 この辺りの地勢は北西から伸びてきた舌状丘陵の先端部に当たり、当初この位置から東方に武田軍の動きを見ることができると考えたのだろう。
 その後、この茶臼山本陣に移ることになる。
【写真左】長篠設楽原合戦城鳥瞰図
 現地に設置されている大変に詳細な図だが、全図を添付すると文字が小さくなるため、主要な箇所のみを載せている。
 赤字で示した武将は信長・家康軍、青字のものは武田軍。

 参考までにこの戦い(設楽原の戦い)で参戦している主だった武将は次の通り。
《信長・家康軍》
 佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、石川数正、徳川家康、本多忠勝、大久保忠世、榊原康政、大須賀康高

《武田軍》
 真田信綱、穴山信君、馬場信房、土屋昌続、武田信豊、武田勝頼、小幡信貞、武田信康、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その2

下りPAの展望台から見たもので、左隅の道が下りPAからの道で、中央左の道が上りPAからの道のようだ。


現地の説明板より

‟解説
 天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
 21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し、武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
 武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。”
【写真左】登城用階段付近
 おそらく、新東名高速道路敷設に伴う周辺整備工事に併せて設置されたものだろうが、それまでは茶臼山の南麓から登って行く道が使われていた。
 両脇に「奉納 茶臼山稲荷祭」と書かれた赤いのぼりが立てられている。


鉄砲隊の威力

 長篠・設楽原の戦いで画期となったのは、大量の鉄砲隊が動員されたことである。織田・徳川連合軍、及び武田軍のそれぞれの兵力は、諸説あり確定されていないが、説明板にもあるように、武田軍の兵力に対し、織田・徳川連合軍はおよそ2.5~3.0倍とされている。

 さらに、この戦いで織田・徳川連合軍は2,500もの鉄砲隊を活用した。対する武田軍は「馬一筋」といわれる騎馬隊である。武田軍が信長らの鉄砲隊に関する情報はある程度知っていたものと思われるが、このときはそれほどの威力はないものと踏んでいたのだろう。

 果せるかな、武田軍はこの戦いで信玄以来の勇将といわれた山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊など討死し、数千の兵力がこの合戦で散った。
【写真左】茶臼山稲荷の参道
 階段を登り、道なりに進むと、途中で南から登ってくる参道と合流する。
【写真左】茶臼山稲荷(神社)
 奥の高台に本殿が祀られ、その下が境内になっている。信長軍は主としてこの場所を軍議を行う際使っていたのだろう。

 なお、茶臼山には斜面に横穴式古墳2基があり、茶臼山の北側では平安末期といわれる経筒が出土している。また茶臼山稲荷とは別に山住稲荷という社もあったようだ。
【写真左】茶臼稲荷社の本殿
 当社本殿の建築様式は宮大工が建てたような神社形式のものでなく、現代風の建物で小規模なものだが、昔から氏子よって鎮守してきたものだろう。
【写真左】神社裏
 信長軍はこの茶臼山の東側を主な陣所とし、家康軍は茶臼山南麓に陣を構えたといわれている。
【写真左】織田信長歌碑が刻まれた石碑
 上掲した珍しい信長の歌碑が刻まれている。
【写真左】PAから鈴木金七誕生の地を遠望する。

 鈴木金七は、前々稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎に向かったが、かれはそのまま岡崎に留まったという。

 このため、強右衛門はその後英雄扱いされたが、金七は武士を捨て帰農した。
【写真左】新東名高速道路の長篠設楽原PA
 写真は下りのPAで、奥の林を超えると上りのPAがある。上下とも道路の南側に設置してある。 

2019年11月22日金曜日

三河・野田城(愛知県新城市豊島字本城)

三河・野田城(みかわ・のだじょう)

●所在地 愛知県新城市豊島字本城
●別名 根古屋城
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼定則
●城主 菅沼氏
●指定 新城市指定史跡
●高さ 50m(比高10m)
●形態 平山城
●遺構 郭・土塁・堀・井戸等
●登城日 2016年11月5日

解説
 三河・野田城(以下「野田城」とする。)は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) が所在する位置から、豊川沿いにおよそ10キロ余り下った同市豊島本城に築かれた平城である。
【写真左】野田城の石碑
「野田城址」と筆耕された石碑が建つ。








現地の説明板・その1

‟野田城跡

 この城は、永正5年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。

 城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年定盈が関東へ入封されるまで続いた。

     昭和56年3月1日  新城市教育委員会”
【写真左】野田城の平面図
 この図は縄張図ではないが、もともと平城であるため郭間の高低差もさほどないため、現在では険峻さを感じない。
 しかし、当城の特徴は南北に配置された連続する渕と呼ばれた濠が最大の防御だったのだろう。


菅沼定盈

 野田城の城主は、前稿で紹介した長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) と同じく菅沼一族である。もともと今川氏の支配下にあったが、その後徳川氏に属した。

 説明板にもあるように、野田城の初代城主・菅沼定則のころは今川氏に属し、東三河の抑えを任されていたが、享禄2年(1529)徳川家康の祖父・清康(三河松平氏)の三河宇利城攻めの際、軍功があり吉田・宇利の二郡を与えられ、この周辺部の国衆らは定則の勧誘によって徳川清康の支配下となった。因みに、このころ清康は一時的ではあったが三河国統一を成し遂げている。
【写真左】入口付近
 野田城の入口は当時の三の丸の西側にある。写真はその前を道路が設置されているが、当時はこの道は本丸から三の丸間を連絡する犬走があった可能性が高い。

 因みに道路の右側には龍渕と呼ばれる濠が三か所に亘って長く伸びていた。


 さて、定則の孫は定盈(さだみつ)である。徳川家康と同じく天文11年(1542)生まれといわれている。因みにこの年は、武田晴信(信玄)が諏訪頼重を甲斐国に幽閉させたのち自害させ、また、出雲国では山口の大内義隆が毛利元就らを引き従わせ、尼子晴久の居城・月山富田城攻めを開始した年でもある。

 定盈は19歳のとき家康に属している。定盈の父・定村の頃は今川氏に帰順していたようだが、同氏を含めた山家三方衆の分裂が生じ、この戦いによって定村は弘治2年(1556)に不慮の事故で亡くなっている。享年35歳。
 家康に仕えた定盈はその後離反することなく、一貫して家康の忠勤に励んだ。この後、遠江の高天神城攻めや、小牧・長久手の戦いに武功を挙げ、家康の江戸開幕に伴って上野国阿保で1万石を領した。
【写真左】二の丸
 入口から入るとすぐに二の丸に至る。奥には既に本丸に祀られている稲荷神社が見えている。

 なお、左側には三の丸があるが、どういうわけか管理人は写真に撮っていない。おそらく、この時は整備されていなかったかから撮っていなかったかもしれない。
【写真左】竪堀
 二の丸と本丸の間にある竪堀。上述した平面図にもあるように、三の丸・二の丸・本丸の3郭間の接続部は全体に絞られ、両側には竪堀で構成されている。
 平面部分の深さは現在では相当埋まったせいか浅いが、当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】反対側
 奥に道路が見えるが、当時はそうしたものはなく、犬走か若しくはそのまま「龍渕」の方へ傾斜した竪堀だったのだろう。



現地の説明板・その2

“野田の戦

 元亀4年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈(さだみつ)の守るこの野田城を攻撃するためであった。

 野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。

     新城市教育委員会”
【写真左】本丸へ向かう。
 手前は二の丸から本丸へつなぐ通路だが、当時は土橋で繋がれていたのかもしれない。
【写真左】本丸・その1
 北西の角に稲荷の鳥居が見えるが、その右側は少し下がった段になっており、次第に南東部に郭が伸びる。
【写真左】野田城稲荷
 菅沼一族の家紋は複数あるようだが、この家紋はそのうちの「菅沼三つ目」といわれるもの。
【写真左】侍屋敷
 本丸からさらに南に下がると、侍屋敷といわれる郭がある。
 主だった家臣たちの住居は主として南を流れる豊川沿いに配置されていたのだろう。
【写真左】切岸
 侍屋敷の北側斜面に当たる箇所で、この付近になると、桑渕は途切れているが、切岸の下方に最下段の郭を置き、その周りを杉川という豊川の支流が流れている。




狙撃された信玄

 本丸から少し南に下がった郭の一角に「伝 信玄公、狙撃場所」と書かれた場所がある。
 これは元亀4年・天正元年(1573)1月から2月にかけて行われた武田軍と徳川軍の戦いで信玄が野田城を包囲していた時、城内から信玄を標的にして火縄銃が放たれ、疵を負ったといわれるものである。
 
現地の説明板・その3

"伝 信玄公、狙撃場所

 笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。
 その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。

     新城市教育委員会”

【写真左】信玄が狙撃された場所
 南側の郭に設置されているので、信玄は野田城の南麓側、即ち龍渕側に居たのだろう。





 伝承では、城内から美しい笛の音が流れ、それに誘われた信玄が本陣を抜け出した途端、定盈の家臣鳥居三左衛門の銃によって狙撃されたという。この鳥居三左衛門は、前稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と同姓だが、その関係は分からない。

 この戦いのあと、信玄は亡くなるのだが、そのきっかけがこのときの狙撃によるものという説もある。ただ、最近では信玄が亡くなる6年前から患っていた胃がんが原因とされている。
【写真左】井戸・その1
 本丸と侍屋敷の境に当たる南東部に井戸が設けられている。
 他の城郭では水源の確保が困難な場所が多く、城域から離れた場所に設けられることが多いが、この場所に井戸を確保できたことは菅沼氏らにとって大いに助かったことだろう。
【写真左】井戸・その2
 だいぶ埋まってはいるが、直径は3m近くはあるだろう。


2019年11月17日日曜日

長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)

長篠城(ながしのじょう)

●所在地 愛知県新城市長篠市場、岩代、池内
●別名 末広城、扇城
●指定 国指定史跡
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼元成
●城主 菅沼氏、奥平氏
●形態 平城
●遺構 郭・土塁・空堀・石垣
●備考 日本100名城 №・46
●登城日 2016年11月5日

解説
 長篠城は、三河(愛知県)の東端部新城市に所在する城郭で、この位置からおよそ8キロほど東進すると、遠江(静岡県)に至る。
【写真左】長篠城
 南側から見たもので、左に本丸があり、その右は空堀(当時は濠として水を溜めていた)がある。




現地の説明板より

”国指定史跡 長篠城

 ◆豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭(ほじょうくるわ)・瓢郭(ふくべくるわ)・弾正郭等、総面積約10ヘクタール。
 ◆本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
 ◆天正3年(1575)11月、徳川家康は奥平貞昌を城主に任命し、城郭整備5月、武田勝頼の猛攻に耐える。
【写真左】長篠城縄張概図
下方が北を示す。
 中央の上方に本丸があり、右に豊川(寒狭川)、左に宇連川が描かれている。そのうち寒狭川(かんさがわ)から城内に水を引き込み、本丸及び、二の丸、弾正郭などを二重の濠で囲む構成となっている。




 長篠の戦い

 天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下5百が守るこの長篠城を包囲して、攻防10日、織田信長3万・家康8千の援軍は、5月18日西方4キロの設楽原(したらがはら)に到着して陣を築く。武田軍は20日、長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し、壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。”
【写真左】「長篠の戦い 史跡めぐりコース」の案内図
 現地には中央に長篠城を置き、その周囲を囲んだ武田軍の陣配置などが描かれた案内図が設置されている。
 これによれば、武田勝頼が本陣としたのは、長篠城の北方天神山陣地のさらに北に設けている。

 
 長篠城址史跡保存館

 ◆現地に残された武具や出土品、参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
 ●奥平氏籠城の血染めの陣太鼓
 ●鳥居強右衛門落氏磔死(たくし)の図(落合左平次指物写)
 ●火縄銃(3-30匁)各種、弾丸・用具その他
 ●長篠合戦図屏風(尾張徳川家所蔵原寸復元)
 ●具足・武具 その他”
【写真左】本丸付近の濠
 右側が本丸で、左側が二の丸にあたる。上掲した縄張概図でも述べたように、現在は空堀となっているが、当時は水を蓄えた水堀となっていた。


菅沼氏

 長篠城の築城者は菅沼元成といわれている。築城期は永正5年(1508)といわれ、このころ元成が駿河の今川氏親と同盟関係を結んでいたという。当城の菅沼氏の出自については諸説あるものの、もともと美濃守護であった土岐氏の庶流ともいわれ、鳳来町長篠を本拠とし、北設楽郡田峰の菅沼氏や、南設楽郡作手の出である後段の奥平氏と合わせて山家三方衆と呼ばれた。いずれももとは今川氏の支配下にあった。
【写真左】本丸・その1
 現在長篠城の城域にJR飯田線が入っているため、遺構の一部は改変されているものの、主要な遺構は残っているものと考えられる。
 本丸の一角に「長篠城本丸跡」の標柱が建っている。


 長篠城は、長篠菅沼氏がしばらく当城の城主となった。元亀2年(1571)、武田信玄による三河侵攻により、菅沼氏は武田氏の軍門に降った。しかし、その2年後の元亀4年(天正元年・1573)信玄の病気により武田軍による三河侵攻は一旦停止した。これにより徳川家康が長篠城の城主・菅沼正貞を落とし、この年(天正元年)8月、正貞は放逐された。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡はきれいに整備されている。方形の郭で、長径80m×短径50m前後の規模。





奥平氏

 菅沼氏のあと当城の城主となったのは奥平氏である。奥平氏は以前紹介したように後に江戸期に入って、豊前の中津城(大分県中津市二ノ丁)の城主となる一族である。

 奥平氏も元々今川氏や武田氏に属し、菅沼氏と同様武田氏の有力な家臣であった。家康はこのころ、武田氏による三河国進攻に大きな脅威を感じており、武力だけでは困難と考え、奥平氏に対する懐柔策を練った。

 その内容は、奥平貞能の嫡男貞昌に家康の長女・亀姫を嫁がせ、武田家に人質として送っていた先妻・おふうと離縁させたことである。もちろんこれだけの条件では奥平父子は承服しないので、領地加増を併せて提示し家康に帰順させた。
【写真左】土塁・その1
 本丸は西側(寒狭川寄り)を除いてほぼ土塁で囲繞されている。
 写真はこのうちもっとも明瞭に残る土塁で、この土塁の反対側に濠が巡らされている。


武田勝頼軍の長篠城攻め

 このため、説明板にもあるように、奥平氏が武田氏に離反したことにより、勝頼は天正3年(1575)5月、1万五千の大軍を率いて長篠城攻めを行った。このとき長篠城には奥平定昌ほか僅か500の手勢であったため、家臣の鳥居強右衛門に命じて、織田・徳川連合軍への要請を託した。
【写真左】土塁・その2
 JR飯田線側から見たもので、飯田線が敷設される前はこのあたりも土塁があり、おそらく宇連川の川岸まで伸びていたものだろう。
 線路側からは見上げるような姿に見えるが、その高さは5m前後はあったものと思われる。
【写真左】豊川の渓谷
 本丸から南側の渓谷に降りて行くと、豊川と宇連川が合流する位置に至る。
 写真は豊川で、右に長篠城、左に強右衛門が磔となった箇所がある。
【写真左】豊川本流
 豊川(寒狭川)と宇連川が合流する箇所で、奥には手前に県道433号線、奥に新東名高速道路の橋梁が掛かる。





鳥居強右衛門磔死

 ところで、話題は少しそれるが、昭和40年(1965)に放映されたNHK大河ドラマ『太閤記』で一躍有名になったのが、秀吉役の当時新人だった新国劇出身の緒形拳、そして同じく文学座の新鋭高橋幸治が演じた信長である。
【写真左】「磔に散る 烈士 鳥居強右衛門」と表記された説明板。
 長篠城内に設置されているもので、強右衛門は当時36才だったという。






 それまで時代劇いえば、東映や大映などが娯楽的要素を前面に押し出した映画作品が多かったが、史実をできるだけ忠実に守り、なおかつ実際の舞台となった現地の状況なども紹介したことから、さらに人気に火が付いた。
 さて、二人の演技にも魅了されたが、管理人にとって強烈に印象に残っているのが、この長篠の戦いでの鳥居強右衛門(すねえもん)を演じた高橋幸治と同じ文学座所属の北村和夫である。
【写真左】長篠城内にある「鳥居強右衛門磔の場所」と書かれた標柱
 強右衛門が磔にされた場所は、ここから寒狭川の対岸にある。(下図参照)



 武田氏による長篠城攻めで、節目となったのが開戦から5日目に武田軍から放たれた火矢が長篠城の兵糧庫に当たり焼失したことである。この結果、籠城を決め込んでいた奥平貞昌らは、兵糧が数日で底をつくことになり、戦略を変えざるを得なくなり、岡崎の家康に救いの手を求めることになった。しかし、城外は武田軍が包囲し、簡単には岡崎にたどり着くことはできない。そこでこの厳しい状況下で、使者として志願したのが北村和夫扮する鳥居強右衛門である。
【写真左】強右衛門磔の場所
 寒狭川(豊川)を挟んで、西岸に位置し、武田軍の篠場野陣地といわれている。



 夜陰に乗じて城の下水口から向かい、川の中を潜りながら武田軍の包囲網を突破、岡崎城にたどり着いた。運よく、このとき岡崎城には織田軍3万も到着しており、翌日には徳川・織田連合軍3万8千の大軍を率いて向かうことになった。この朗報を受け取った強右衛門は、すぐに取って返して長篠城に急いだ。しかし、運悪く長篠城の近くにある有海村で武田軍に捕まってしまった。

 武田軍は強右衛門を拷問にかけた結果、徳川・織田軍が長篠城の救援に向かうことを知った。このため、両軍が長篠城に到着するまでに、奥平氏に降伏・開城させることを決め、そのためにはこの強右衛門を使って、徳川・織田両軍が支援に来ないという虚偽の報告を籠城している長篠城側に伝える術を講じた。
【写真左】興国山新昌寺
所在地:新城市有海字稲場2
 創建は天文8年(1539)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚。創建当時は「喜船庵」と呼ばれ、この場所も戦火に見舞われた。
 強右衛門は、この喜船庵に埋葬され、当院はその後萬治3年(1660)新昌寺に改められた。



 このとき、大河ドラマでは北村和夫演じる強右衛門は、先ず最初に武田軍が用意した茶漬けのような飯を大量に食べさせられ、そのあと、横たわっていたかなり高い磔柱(十字架)に縛り付けられ、そのまま一気に垂直に起こされた。これにより、長篠城側から強右衛門の姿が見えることになる。

 実際、強右衛門が磔となった場所は、長篠城の南西側を流れる豊川を挟んだ対岸で、長篠城から直線距離で180m前後の位置に当たる。今のように拡声器などない時代であるから、地声での伝達となる。

 180mも離れたところから、地声で伝えるとなると相当な声量の持ち主でないと務まらない。この大河ドラマで北村和夫を強右衛門役としたのは、すでに文学座の看板俳優として杉村春子の相手役などもこなしていた彼が適役だったのだろう。スタジオ収録なので、実際にはそこまでの声量は必要なかったのだろうが、テレビで見ていても北村演じる強右衛門は、その独特な分厚い声量を駆使して叫び、臨場感あふれる演技を見せた。
【写真左】鳥居強右衛門の墓
 新昌寺境内に建立されているもので、慶長8年(1608)強右衛門の子・信商によって作手鴨ヶ谷甘泉寺に移転され、宝暦13年(1763)に有志の手によって再建された。

 碑面に「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年三十六歳」とある。


 磔にされた強右衛門が最初に放った言葉は、武田軍にいわれたとおり、岡崎の徳川・織田軍は長篠城の救援に駆け付けないので、はやく降伏して城を明け渡すようにというものだったが、そのあと、突如、これは虚偽であり、実際には徳川・織田両軍がすでに支援に向かっているので、今しばらく持ち堪えてほしいと畳みかけるように叫んだ。慌てた武田軍は、すぐさま下から何本もの槍で強右衛門を突き刺し、絶命させた。

 強右衛門が命を賭して伝えたこの朗報に長篠城内は、大いに喜び士気が上がり、援軍が到着するまで城を持ち堪えた。この後、武田軍は織田軍らと長篠城手前の設楽原で戦うことになる。