2019年11月17日日曜日

長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)

長篠城(ながしのじょう)

●所在地 愛知県新城市長篠市場、岩代、池内
●別名 末広城、扇城
●指定 国指定史跡
●築城期 永正5年(1508)
●築城者 菅沼元成
●城主 菅沼氏、奥平氏
●形態 平城
●遺構 郭・土塁・空堀・石垣
●備考 日本100名城 №・46
●登城日 2016年11月5日

解説
 長篠城は、三河(愛知県)の東端部新城市に所在する城郭で、この位置からおよそ8キロほど東進すると、遠江(静岡県)に至る。
【写真左】長篠城
 南側から見たもので、左に本丸があり、その右は空堀(当時は濠として水を溜めていた)がある。




現地の説明板より

”国指定史跡 長篠城

 ◆豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭(ほじょうくるわ)・瓢郭(ふくべくるわ)・弾正郭等、総面積約10ヘクタール。
 ◆本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
 ◆天正3年(1575)11月、徳川家康は奥平貞昌を城主に任命し、城郭整備5月、武田勝頼の猛攻に耐える。
【写真左】長篠城縄張概図
下方が北を示す。
 中央の上方に本丸があり、右に豊川(寒狭川)、左に宇連川が描かれている。そのうち寒狭川(かんさがわ)から城内に水を引き込み、本丸及び、二の丸、弾正郭などを二重の濠で囲む構成となっている。




 長篠の戦い

 天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下5百が守るこの長篠城を包囲して、攻防10日、織田信長3万・家康8千の援軍は、5月18日西方4キロの設楽原(したらがはら)に到着して陣を築く。武田軍は20日、長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し、壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。”
【写真左】「長篠の戦い 史跡めぐりコース」の案内図
 現地には中央に長篠城を置き、その周囲を囲んだ武田軍の陣配置などが描かれた案内図が設置されている。
 これによれば、武田勝頼が本陣としたのは、長篠城の北方天神山陣地のさらに北に設けている。

 
 長篠城址史跡保存館

 ◆現地に残された武具や出土品、参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
 ●奥平氏籠城の血染めの陣太鼓
 ●鳥居強右衛門落氏磔死(たくし)の図(落合左平次指物写)
 ●火縄銃(3-30匁)各種、弾丸・用具その他
 ●長篠合戦図屏風(尾張徳川家所蔵原寸復元)
 ●具足・武具 その他”
【写真左】本丸付近の濠
 右側が本丸で、左側が二の丸にあたる。上掲した縄張概図でも述べたように、現在は空堀となっているが、当時は水を蓄えた水堀となっていた。


菅沼氏

 長篠城の築城者は菅沼元成といわれている。築城期は永正5年(1508)といわれ、このころ元成が駿河の今川氏親と同盟関係を結んでいたという。当城の菅沼氏の出自については諸説あるものの、もともと美濃守護であった土岐氏の庶流ともいわれ、鳳来町長篠を本拠とし、北設楽郡田峰の菅沼氏や、南設楽郡作手の出である後段の奥平氏と合わせて山家三方衆と呼ばれた。いずれももとは今川氏の支配下にあった。
【写真左】本丸・その1
 現在長篠城の城域にJR飯田線が入っているため、遺構の一部は改変されているものの、主要な遺構は残っているものと考えられる。
 本丸の一角に「長篠城本丸跡」の標柱が建っている。


 長篠城は、長篠菅沼氏がしばらく当城の城主となった。元亀2年(1571)、武田信玄による三河侵攻により、菅沼氏は武田氏の軍門に降った。しかし、その2年後の元亀4年(天正元年・1573)信玄の病気により武田軍による三河侵攻は一旦停止した。これにより徳川家康が長篠城の城主・菅沼正貞を落とし、この年(天正元年)8月、正貞は放逐された。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡はきれいに整備されている。方形の郭で、長径80m×短径50m前後の規模。





奥平氏

 菅沼氏のあと当城の城主となったのは奥平氏である。奥平氏は以前紹介したように後に江戸期に入って、豊前の中津城(大分県中津市二ノ丁)の城主となる一族である。

 奥平氏も元々今川氏や武田氏に属し、菅沼氏と同様武田氏の有力な家臣であった。家康はこのころ、武田氏による三河国進攻に大きな脅威を感じており、武力だけでは困難と考え、奥平氏に対する懐柔策を練った。

 その内容は、奥平貞能の嫡男貞昌に家康の長女・亀姫を嫁がせ、武田家に人質として送っていた先妻・おふうと離縁させたことである。もちろんこれだけの条件では奥平父子は承服しないので、領地加増を併せて提示し家康に帰順させた。
【写真左】土塁・その1
 本丸は西側(寒狭川寄り)を除いてほぼ土塁で囲繞されている。
 写真はこのうちもっとも明瞭に残る土塁で、この土塁の反対側に濠が巡らされている。


武田勝頼軍の長篠城攻め

 このため、説明板にもあるように、奥平氏が武田氏に離反したことにより、勝頼は天正3年(1575)5月、1万五千の大軍を率いて長篠城攻めを行った。このとき長篠城には奥平定昌ほか僅か500の手勢であったため、家臣の鳥居強右衛門に命じて、織田・徳川連合軍への要請を託した。
【写真左】土塁・その2
 JR飯田線側から見たもので、飯田線が敷設される前はこのあたりも土塁があり、おそらく宇連川の川岸まで伸びていたものだろう。
 線路側からは見上げるような姿に見えるが、その高さは5m前後はあったものと思われる。
【写真左】豊川の渓谷
 本丸から南側の渓谷に降りて行くと、豊川と宇連川が合流する位置に至る。
 写真は豊川で、右に長篠城、左に強右衛門が磔となった箇所がある。
【写真左】豊川本流
 豊川(寒狭川)と宇連川が合流する箇所で、奥には手前に県道433号線、奥に新東名高速道路の橋梁が掛かる。





鳥居強右衛門磔死

 ところで、話題は少しそれるが、昭和40年(1965)に放映されたNHK大河ドラマ『太閤記』で一躍有名になったのが、秀吉役の当時新人だった新国劇出身の緒形拳、そして同じく文学座の新鋭高橋幸治が演じた信長である。
【写真左】「磔に散る 烈士 鳥居強右衛門」と表記された説明板。
 長篠城内に設置されているもので、強右衛門は当時36才だったという。






 それまで時代劇いえば、東映や大映などが娯楽的要素を前面に押し出した映画作品が多かったが、史実をできるだけ忠実に守り、なおかつ実際の舞台となった現地の状況なども紹介したことから、さらに人気に火が付いた。
 さて、二人の演技にも魅了されたが、管理人にとって強烈に印象に残っているのが、この長篠の戦いでの鳥居強右衛門(すねえもん)を演じた高橋幸治と同じ文学座所属の北村和夫である。
【写真左】長篠城内にある「鳥居強右衛門磔の場所」と書かれた標柱
 強右衛門が磔にされた場所は、ここから寒狭川の対岸にある。(下図参照)



 武田氏による長篠城攻めで、節目となったのが開戦から5日目に武田軍から放たれた火矢が長篠城の兵糧庫に当たり焼失したことである。この結果、籠城を決め込んでいた奥平貞昌らは、兵糧が数日で底をつくことになり、戦略を変えざるを得なくなり、岡崎の家康に救いの手を求めることになった。しかし、城外は武田軍が包囲し、簡単には岡崎にたどり着くことはできない。そこでこの厳しい状況下で、使者として志願したのが北村和夫扮する鳥居強右衛門である。
【写真左】強右衛門磔の場所
 寒狭川(豊川)を挟んで、西岸に位置し、武田軍の篠場野陣地といわれている。



 夜陰に乗じて城の下水口から向かい、川の中を潜りながら武田軍の包囲網を突破、岡崎城にたどり着いた。運よく、このとき岡崎城には織田軍3万も到着しており、翌日には徳川・織田連合軍3万8千の大軍を率いて向かうことになった。この朗報を受け取った強右衛門は、すぐに取って返して長篠城に急いだ。しかし、運悪く長篠城の近くにある有海村で武田軍に捕まってしまった。

 武田軍は強右衛門を拷問にかけた結果、徳川・織田軍が長篠城の救援に向かうことを知った。このため、両軍が長篠城に到着するまでに、奥平氏に降伏・開城させることを決め、そのためにはこの強右衛門を使って、徳川・織田両軍が支援に来ないという虚偽の報告を籠城している長篠城側に伝える術を講じた。
【写真左】興国山新昌寺
所在地:新城市有海字稲場2
 創建は天文8年(1539)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚。創建当時は「喜船庵」と呼ばれ、この場所も戦火に見舞われた。
 強右衛門は、この喜船庵に埋葬され、当院はその後萬治3年(1660)新昌寺に改められた。



 このとき、大河ドラマでは北村和夫演じる強右衛門は、先ず最初に武田軍が用意した茶漬けのような飯を大量に食べさせられ、そのあと、横たわっていたかなり高い磔柱(十字架)に縛り付けられ、そのまま一気に垂直に起こされた。これにより、長篠城側から強右衛門の姿が見えることになる。

 実際、強右衛門が磔となった場所は、長篠城の南西側を流れる豊川を挟んだ対岸で、長篠城から直線距離で180m前後の位置に当たる。今のように拡声器などない時代であるから、地声での伝達となる。

 180mも離れたところから、地声で伝えるとなると相当な声量の持ち主でないと務まらない。この大河ドラマで北村和夫を強右衛門役としたのは、すでに文学座の看板俳優として杉村春子の相手役などもこなしていた彼が適役だったのだろう。スタジオ収録なので、実際にはそこまでの声量は必要なかったのだろうが、テレビで見ていても北村演じる強右衛門は、その独特な分厚い声量を駆使して叫び、臨場感あふれる演技を見せた。
【写真左】鳥居強右衛門の墓
 新昌寺境内に建立されているもので、慶長8年(1608)強右衛門の子・信商によって作手鴨ヶ谷甘泉寺に移転され、宝暦13年(1763)に有志の手によって再建された。

 碑面に「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年三十六歳」とある。


 磔にされた強右衛門が最初に放った言葉は、武田軍にいわれたとおり、岡崎の徳川・織田軍は長篠城の救援に駆け付けないので、はやく降伏して城を明け渡すようにというものだったが、そのあと、突如、これは虚偽であり、実際には徳川・織田両軍がすでに支援に向かっているので、今しばらく持ち堪えてほしいと畳みかけるように叫んだ。慌てた武田軍は、すぐさま下から何本もの槍で強右衛門を突き刺し、絶命させた。

 強右衛門が命を賭して伝えたこの朗報に長篠城内は、大いに喜び士気が上がり、援軍が到着するまで城を持ち堪えた。この後、武田軍は織田軍らと長篠城手前の設楽原で戦うことになる。

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