2018年11月20日火曜日

安芸・日野原城(広島県安芸高田市美土里町本郷)

安芸・日野原城(あき・ひのはらじょう)

●所在地 広島県安芸高田市美土里町本郷
●別名 高城・高の山城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 日野氏、高橋氏か
●高さ H:528m(190m)
●遺構 郭・堀切・竪堀
●登城日 2016年3月25日

◆解説(参考文献 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』安芸高田市歴史民俗博物館編

 安芸・日野原城(以下「日野原城」とする。)は、安芸高田市に所在する山城で、以前取り上げた安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)から西におよそ3キロほど向かった位置に築かれた。
【写真左】日野原城遠望
 東麓を走る吉田邑南線(県道6号線)から見たもの。








 上記に示した吉田邑南線はおそらく戦国期にすでに開かれていた街道と思われ、起点は毛利元就の居城・吉田郡山城 から石見の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺) までを結ぶ道で、街道筋には多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比) や、冒頭の安芸・松尾城及び、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)などが配置している。

築城者と城主

 日本城郭体系では城主として進藤杢之充の名がみえるが、ただ所在地が同町木村となっているので、城名は同一ながらはっきりしない。また、地元の伝説では南北朝時代に南朝方であった日野氏が当城に籠ったが落城したといわれてる。

 最近発刊された非常に読みやすい著書『安芸高田お城拝見』(安芸高田市歴史民俗博物館編)でも指摘されているように、戦国期には高橋氏の勢力圏でもあり、同氏一族の居城としても使用された可能性が高い。
【写真左】主郭下の駐車場

 当城に向かうには、電波塔などの施設点検のための道路が設置されているので、これを使う。

 東から南にかけて走る道路(金屋壬生線)の途中から当城に向かう道があるが、目立った標識もないため、カーナビを頼りに向かう。

 写真は主郭と思われる南側の下にアスファルトで整地された駐車場。おそらく当時の二の丸付近と思われる。



遺構

 添付写真にもあるように、現在主郭を中心とした区域には電波塔などの施設が建設され、このため大幅な改変がなされている。
 特に平成22年に地デジ用の電波塔が建設された際に発掘調査などが行われたが、すでに明確な遺構を確認することはできなかったとされている。

 ただ、主郭から北西に下る尾根筋には2本の堀切、また現在駐車場となっている南側の尾根には竪堀が残されているようだ。
【写真左】主郭の西側斜面
 この斜面も、もとは郭段などがあったものと思われるが、施設設置工事のためなくなったかもしれない。


【写真左】竪堀

 あまり明瞭でないが、駐車場の東斜面には2~3本の竪堀が確認できる。


【写真左】主郭に向かう
 駐車場から主郭まではおよそ10mほどの高低差がある。

 現在は管理用に階段が設置されていて登りやすくなっている。
【写真左】主郭から駐車場を見下ろす。
 南方を望む角度になるが、駐車場との高低差は思った以上に高く感じる。
【写真左】主郭
 御覧のように鉄塔を設置するため表面は相当重機などで均されている。

 主郭部分の遺構はまったく消滅していると思われるが、大きさは当時と同じ程度であったと思われる。
【写真左】三角点
頂部528.3mの高さになる。なお、このピークとは別に、西へ200mほど向かった位置にもほぼ同じ高さのピークがあるが、こちらには城郭遺構があるのか不明。

 また、当城から南東方向450mへ向かっの尾根筋には、松笠城といわれる城郭があり、ふもとの街道(金屋壬生線))を見下ろす位置に築かれていることから、日野原城の出丸(前城)であった可能性もある。
【写真左】主郭北の郭
 主郭を取り巻く郭群は腰郭の形態として東・北・西の各方向に4,5か所確認できる。ただ、現状は雑木が繁茂していて明瞭ではない。
【写真左】主郭西の郭
 奥のほうの尾根を北西に進むと二条の堀切があるということだが、当日は断念した。
【写真左】竪堀か
 だいぶ埋まっていたため断定できないが、駐車場の東斜面に見える。
【写真左】南東麓を俯瞰する。
 日野原城の南東麓には神楽で有名な神楽門前湯治村が建っている。

 その湯治村の背後にも丹蔵城という城郭があることが確認されているが、街道の分岐点となるので、日野原城と何らかのかかわりがあったものと思われる。
【写真左】主郭を横から見る。
 下山前にもう一度振り返る。

2018年11月15日木曜日

笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置)

笠置山城(かさぎやまじょう)

●所在地 京都府相良郡笠置町笠置
●指定 国指定史跡覚
●高さ H:288m(比高 200m)
●形態 山城
●備考 行在所・笠置寺
●築城期 南北朝期
●築城者 後醍醐天皇等
●城主 木沢長政
●遺構 郭・堀切・土塁
●登城日 2016年3月6日

◆解説(参考文献 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」仁木宏・福島克彦編等〉
 笠置山城は木津川の南岸にそそり立つ笠置山に築かれた山岳寺院(笠置寺)と併存していた山城である。
【写真左】笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏

 古来より天人彫刻五十尺の仏といわれ、奈良時代中期には彫刻されていたという。




現地の説明版より

❝笠置山縁起
 笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたようである。

 奈良時代大和大峰山と同じく修験行場として栄え、平安時代には永承7年(1052)以後世の末、法思想の流行とともに笠置山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけた。
【写真左】案内図

 現地に設置してあった簡単な案内図で、文字が小さいため分かりずらいが、右下の現在地は麓から急坂道を登ったところにある駐車場で、そこから歩いて向かう。

 この図では中央にある行在所付近が最高所に当たる。なお、後段でも示すように山城遺構としては笠置寺山門を過ぎた毘沙門堂から南の尾根筋に多く残っている。
 
【写真左】駐車場付近

 笠置寺に向かうには西麓の狭い急坂道を登って行く(運転に不慣れな方は時間はかかるが、下の方に停めて歩いて行ったほうがいいかもしれない)

 登り詰めたところに広い駐車場があり、ここに停めてから歩いて向かう。


 更に鎌倉時代、建久2年(1191)藤原貞慶(解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開するとき信仰の寺として全盛を極めた時代であった。

 しかし、元弘元年(1331)8月、倒幕計画に失敗された後醍醐天皇の行在所となり、幕府との攻防一ヶ月9月29日、全山焼亡、以後復興ならず、室町時代少々の復興を見るも江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。
 明治9年、大倉丈英和尚錫を此の山に止め復興に力を尽くすこと20年、ようやく現在の姿に山容を整えられたのである。❞
【写真左】山門

 駐車場から坂を登って行くと、山門がある。笠置寺の入口にあたるところで、ここで拝観料を払って入る。
 



笠置寺

 説明版の縁起にも記されているように、創建期は不明であるが、往古法相宗として開かれた山岳修験の道場であった。ちなみに現在法相宗を本山としている代表的なものとしては、奈良の興福寺、及び薬師寺などがある。 近世に至ると、笠置寺は真言宗智山派の寺院となった。山号は鹿鷺山、本尊は弥勒仏。
【写真左】ここで拝観料を払い入山する。

 上掲した案内図をもとに反時計回りのコースで向かう。





 笠置寺の北麓には木津川が東西に流れ、それと並行して伊賀街道(国道163号線)が走る。 東隣の南山城村を超えると伊賀国(三重県)に至り、笠置山の西麓を通る笠置街道を2キロほど南下するとすぐに大和国(奈良県)に入る。ちなみにこの入口にあたるのが、徳川幕府兵法指南役を務めた大和柳生藩家老屋敷が所在する柳生庄(奈良市柳生町)である。
【写真左】伝虚空蔵磨崖仏

 現地の説明版より

"寺伝では弘仁年間(810~824)弘法大師賀この石にのぼり求聞寺法を修し一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる。

 彫刻の様式から中国山西省運崗の磨崖仏に相通じるものがあるところから、本尊弥勒菩薩と同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。
 先年拓本にとり8m×10mの大掛軸が出来た。おそらく拓本の掛軸としては最大だろう。
  笠置寺奉賛会"  

元弘の変

 笠置山(城)についてはこれまで、匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)などでも紹介してきたように、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇が、笠置山に籠ったものの、幕府軍の猛攻によって陥落、天皇が捕らわれた地である。
 笠置山陥落後、花園上皇(後醍醐天皇の先代)は後醍醐のこうした動きを次のように記した。
「王家の恥、何事かこれ如(し)かんや、天下静謐、もっとも悦ぶべしといえども、一朝の恥辱また嘆かざるべからず」

 翌2年(1322)後醍醐天皇は隠岐に流され、天皇の子息尊澄(宗良親王)は讃岐へ、尊良(たかよし)親王は土佐に流罪になった。
【写真左】ゆるぎ石

現地の説明版より

"(ゆるぎ石)
 元弘元年(1331年)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲を受けたところである。
 この石は奇襲に備えるため、武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり、人の力で動くため“ゆるぎ石"といわれている。″



木沢長政

 戦国期に至って当城を城郭として改修したといわれるのが木沢長政といわれる。彼についてはすでに信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) でも述べているが、長政が笠置山城に入ったのは天文10年(1541)である。彼はもともと畠山氏の被官であったが、その後細川晴元に鞍替えし、山城国守護代から大和国守護職まで勢力を広げ、特に笠置山(寺)を抑えていた興福寺が勢力を弱めると、同国(大和)の北東出入口であるこの笠置寺をいわゆる境目の城郭として整備していった。
【写真左】ゆるぎ石付近から東方に木津川を望む。

 写真に見える木津川は、ここからさらに遡っていくと南から流れてくる名張川と合流する。また、そのまま本流木津川を東進すると伊賀国に至る。

 因みに、笠置山から伊賀国まではおよそ10キロ余りである。


山岳寺院と城郭

 上述したように笠置山城は、もともと山岳寺院であり、その後城郭としても整備された経緯を持つ特異なケースだが、実はこうした事例は意外と多く残されている。近畿地方で山岳寺院と城郭が併存してきたものとして、30か所余りのものが明らかにされている(『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦著 ㈱吉川弘文館)。
 特にその代表例として最も大規模なものは、近江の観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町) などが挙げられるだろう。
【写真左】岩山に根を張る松

 上の写真と同じくゆるぎ石付近から西方を撮ったもので、見事な松が立っている。

 松の枝から木津川が見える。このまま下っていくと、木津川は大山崎町で宇治川・桂川と合流し、淀川となって大阪湾に注ぐ。


 今回の登城では笠置寺をはじめ、主として北側エリアにある史跡・遺構を探訪したが、山城の見どころとしては、むしろ南側の尾根にそれらがあるようだ。
 具体的には稲荷大明神から南に鐘楼跡・六角堂跡などがあるが、このあたりから尾根の西側に畝上空堀群、さらに南に進んで二重堀切、そして最南端にはまとまった郭群があり、その南入口付近には堀切と「側射施設」があることが最近の発掘調査で判明している。
【写真左】二の丸跡・その1

 現地の説明版より

(二の丸跡)
 太平記には"笠置の城は山高くして………”と書かれているが、後醍醐天皇の仮皇居であり正式な築城はされなかった。
 しかし室町時代以降、山頂行在所跡を本丸とみたてたのか一段下のこの広場を二の丸跡とよぶようになった.”
【写真左】二の丸跡・その2

 ところどころにこうした巨石が散在しているため、平滑された一般的な郭の形態はなしていないが、兵站地として使用されたのだろう。

【写真左】貝吹岩・宝蔵坊跡と後醍醐天皇在所に向かう分岐点

 二の丸跡を下ると、正面奥に貝吹岩があり、左に向かうと行在所につながる。
 先ず貝吹岩に向かう。
【写真左】貝吹岩

 横に長い一枚岩で、往古修行中の山伏たちがこの上に乗ってほら貝を吹いたことから名づけられたという。
【写真左】宝蔵坊跡

 貝吹岩付近から下に見える谷間にあったとされ、現在はなだらかな段が残る。
【写真左】行在所入口

 現地の説明版より

❝後醍醐天皇行在所跡

 元弘元年(1331)8月27日政治改革に失敗され、京都御所を出られた後醍醐天皇を受け入れた場所である。

 天皇方2,500、笠置山に向かって北条方75,000と伝う大軍を相手に攻防一ヶ月、ついに9月28日夜半風雨を味方にした北条方50名の決死隊により奇襲攻撃を受け、大磨崖仏を始め笠置寺山内49ヶ寺すべて灰塵に帰してしまった。
  標高290m笠置山頂である。
     笠置寺奉賛会″
【写真左】行在所

 宮内庁管轄の区域になるため一般人は入れないが、中のほうは平たん地になっており、自然の樹木が生えている。
 おそらく当時はこの中に仮宮殿のような建物が建てられていたのだろう。
【写真左】大師堂

現地の説明版より

”大師堂
 石仏弘法大師(室町期)を奉安する。
 天平勝宝3年(751)東大寺實忠和尚により建立された正月堂の跡である。
 旧正月堂は元弘元年(1331)の元弘戦乱で焼亡、以来復興されず、明治30年(1897)関西鉄道の開通により、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺旧正月堂跡に移築し現在に至る。
 正月堂の名は笠置寺本尊禮堂にとどめる。東大寺山内には、このため当初から正月堂は建立されていない。
    笠置寺奉賛会"
【写真左】近くの店でスイーツをいただく。

 笠置寺の隣には料理旅館があり、そこでスイーツ(わらび餅だったと思う)と飲み物をいただいた。
【写真左】笠置山遠望

 下山後少し西進した箇所から見上げたもの。










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「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より 
田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)