霧山城(きりやまじょう)・その1 詰城跡(つめじろあと)
●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 康永元年・興国3年(1342)か
●別名 多気城
●築城者 北畠顕能
●高さ 標高414m(比高80m)
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年4月17日
解説
前稿でも述べたように、南北朝期における南朝方の本拠地は吉野であるが、実際の戦力としては北畠親房を中心とする伊勢や、伊賀、宇陀にその多くが集まっていたという。特に伊勢については、東国への足掛かりとして、田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)から外城田川を下った伊勢湾河口の大湊(伊勢市)を確保し、吉野までのラインを厳守していた。
北畠氏がのちにこの伊勢街道の山中である多気に城館・城砦を配置したのも、そうした戦略上の意図があったものと思われる。
ところで、「北畠氏館跡・庭園」と、同氏の本居城といわれた霧山城をまとめて別名「多気城」ともいう。
【写真左】詰城その1
東側に南北約50m×幅約7,8mに延びる郭(曲輪A)の箇所で、この位置から対岸の東御所を望める。
このうち、霧山城に向かう途中には、同氏の詰城といわれている東西100m、南北50mほどの小規模な城砦が残されている。今稿はその『詰城跡』を紹介したい。
【写真左】配置図
写真右側に北畠氏館跡・庭園があり、その南側の麓から西に向かって登城道が続き、最初にこの詰城が見えてくる。
現地の説明板より
“北畠氏館詰城跡
詰城跡は、北畠氏館跡の裏山の尾根上に立地し、館跡との比高差は約80mあります。
館跡の南西から山道を登りきった現在位置が、詰城の帯郭Aにあたります。この郭は南斜面にも回り込んでいて、山道にも利用されています。帯郭Aの北端には高さ1m程の壇状の高まりがあり、その北側には竪堀もあります。
【写真左】詰城縄張図
築城期等不明な点が多いが、配置から考えて霧山城の出丸として構築された可能性もある。
ただ、遺構からみると南北朝期から降った室町・戦国期の形式に近いようにも思える。
帯郭Aから山道を登ると、詰城の中心的な曲輪Bに至ります。東西約35m、南北約10~17mの平坦な郭で、山道は郭Bに入る城内路であった可能性もあります。
また、郭Bの西の尾根には、小規模な郭と堀切や竪堀を設けて防御性を高めています。
津市教育委員会”
【写真左】登城口付近
庭園の南側に設置されているが、左側には小規模な公園がある。
霧山城の登城口と共通で、詰城まで九十九折で約300mほど進んだところにある。なお、霧山城までは写真にもあるように、1,350mと結構距離がある。
【写真左】詰城その2・曲輪A
東側の曲輪Aの北端部で、この箇所だけ約1mほどの高くなっている。その箇所にはご覧のような鉄塔が建つ。
この高くなったところはおそらく東方を眺望するための櫓台だったと思われる。
【写真左】詰城その3・北東方向の郭段
曲輪Aの櫓台から先はご覧のような切崖状となっているが、途中で奥行2m程度の小規模な郭段が見える。
【写真左】詰城・その4
曲輪Aより曲輪Bを見上げる。
曲輪Bは当城の主郭に当たるもので、この日上までは登っていない。
Aからの比高はおそらく7,8mはあるだろう。
【写真左】詰城その5・堀切跡
曲輪Bの西端部に当たる所で、現状は大分埋まって堀切としての窪みはほとんど消滅しているが、北側の斜面には連続して竪堀の遺構が残る。
【写真左】詰城から東方の屋敷跡を俯瞰する。
曲輪Aから見たもので、前稿「北畠氏館跡・庭園」で紹介した六田館跡(東御所)や、土器や五輪塔などが出土したといわれる景賞院跡などがみえる。
●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 康永元年・興国3年(1342)か
●別名 多気城
●築城者 北畠顕能
●高さ 標高414m(比高80m)
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年4月17日
解説
前稿でも述べたように、南北朝期における南朝方の本拠地は吉野であるが、実際の戦力としては北畠親房を中心とする伊勢や、伊賀、宇陀にその多くが集まっていたという。特に伊勢については、東国への足掛かりとして、田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)から外城田川を下った伊勢湾河口の大湊(伊勢市)を確保し、吉野までのラインを厳守していた。
北畠氏がのちにこの伊勢街道の山中である多気に城館・城砦を配置したのも、そうした戦略上の意図があったものと思われる。
ところで、「北畠氏館跡・庭園」と、同氏の本居城といわれた霧山城をまとめて別名「多気城」ともいう。
【写真左】詰城その1
東側に南北約50m×幅約7,8mに延びる郭(曲輪A)の箇所で、この位置から対岸の東御所を望める。
このうち、霧山城に向かう途中には、同氏の詰城といわれている東西100m、南北50mほどの小規模な城砦が残されている。今稿はその『詰城跡』を紹介したい。
【写真左】配置図
写真右側に北畠氏館跡・庭園があり、その南側の麓から西に向かって登城道が続き、最初にこの詰城が見えてくる。
現地の説明板より
“北畠氏館詰城跡
詰城跡は、北畠氏館跡の裏山の尾根上に立地し、館跡との比高差は約80mあります。
館跡の南西から山道を登りきった現在位置が、詰城の帯郭Aにあたります。この郭は南斜面にも回り込んでいて、山道にも利用されています。帯郭Aの北端には高さ1m程の壇状の高まりがあり、その北側には竪堀もあります。
【写真左】詰城縄張図
築城期等不明な点が多いが、配置から考えて霧山城の出丸として構築された可能性もある。
ただ、遺構からみると南北朝期から降った室町・戦国期の形式に近いようにも思える。
帯郭Aから山道を登ると、詰城の中心的な曲輪Bに至ります。東西約35m、南北約10~17mの平坦な郭で、山道は郭Bに入る城内路であった可能性もあります。
また、郭Bの西の尾根には、小規模な郭と堀切や竪堀を設けて防御性を高めています。
津市教育委員会”
【写真左】登城口付近
庭園の南側に設置されているが、左側には小規模な公園がある。
霧山城の登城口と共通で、詰城まで九十九折で約300mほど進んだところにある。なお、霧山城までは写真にもあるように、1,350mと結構距離がある。
【写真左】詰城その2・曲輪A
東側の曲輪Aの北端部で、この箇所だけ約1mほどの高くなっている。その箇所にはご覧のような鉄塔が建つ。
この高くなったところはおそらく東方を眺望するための櫓台だったと思われる。
【写真左】詰城その3・北東方向の郭段
曲輪Aの櫓台から先はご覧のような切崖状となっているが、途中で奥行2m程度の小規模な郭段が見える。
【写真左】詰城・その4
曲輪Aより曲輪Bを見上げる。
曲輪Bは当城の主郭に当たるもので、この日上までは登っていない。
Aからの比高はおそらく7,8mはあるだろう。
【写真左】詰城その5・堀切跡
曲輪Bの西端部に当たる所で、現状は大分埋まって堀切としての窪みはほとんど消滅しているが、北側の斜面には連続して竪堀の遺構が残る。
【写真左】詰城から東方の屋敷跡を俯瞰する。
曲輪Aから見たもので、前稿「北畠氏館跡・庭園」で紹介した六田館跡(東御所)や、土器や五輪塔などが出土したといわれる景賞院跡などがみえる。
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