北畠氏館跡・庭園(きたばたけしやかたあと・ていえん)
●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 康永元年ごろ
●築城者 北畠顕能・細川高国
●遺構 庭園・石垣・土塁等
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年4月17日
◆解説
北畠氏館跡・庭園は、大和国から伊勢神宮に向かう道として古くからあった伊勢本街道の中途、伊勢国(三重県)の美杉の山中にある。
【写真左】北畠氏庭園・その1
【写真左】北畠氏庭園・その2
【写真左】北畠氏庭園・その3
伊勢本街道は現在の国道368号線及び369号線とほぼ同じルートで、大和側(奈良県)の宇陀郡御杖村の敷津で、北方の伊賀の方から来た368号線と369号線が交わり、2キロほど東進するとやがて伊勢国に入る。
北畠氏は前稿「田丸城」でも述べたように、南北朝期親房が後醍醐天皇を支援し、のちに南朝方の中心として戦い、三男・顕能が伊勢国司となり、戦国期に至って公家の出でありながら当地の戦国大名となった一族である。このため根拠地は伊勢国がその代表とされているが、親房の時代には、関東から東北にかけて長男・顕家などが活躍している。
【写真左】「歴史のふるさと 多気探訪マップ」
現地に設置されているもので、左側に伊勢本街道の難所の一つ「飼坂峠」が図示されている。
北畠氏関係の史跡はこの図の中央上段部に示されている。
また、親房自身については、晩年吉野から賀名生(あのう)(現五條市)に奔り、最期は当地で没したとされているが、大和国宇陀福西で亡くなったという別説もあり、北畠氏の活躍の場がかなり広範囲であったことが分かる。
現地の説明板より
“ 北畠神社由緒(別格官弊社)
祭神 従一位
右大臣 准后 北畠顕能公
配祀 北畠親房公(父) 北畠顕家公(兄)
例祭日 10月13日
建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。時に延元元年(1336)12月以降57年間を世に南北朝時代と言う。
北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近にあったが動乱にして自ら陣頭に指揮を執り足利勢と対決した。
【写真左】北畠神社拝殿
当社は顕能を祀っているが、父親房・兄顕家は大阪の阿倍野神社、また顕家は福島県伊達市の霊山(りょうぜん)神社にも祀られている。
大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元3年5月弱冠21歳で阿倍野(大阪市)の露と消えた。
神皇正統記(じんのうしょうとうき)は親房が常陸国の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた史書である。顕能は皇国3年(1342)に戦略上の拠点として、この地に霧山城を築き伊勢国司に任じられた。
この位置が当時の居館跡である。館は多気御所又北畠御所と呼ばれていた。
その生涯58年のうち実に45年の歳月は、南朝護持のため捧げられたものである。大小の合戦60数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。
【写真左】北畠顕家の像
顕家が和泉堺浦で亡くなる一週間前、彼は後醍醐天皇に対し、帝の政治手法について痛烈な諫奏文(かんそうぶん)を送っている。
畿内から関東・東北まで連戦連夜、南朝のために戦い続けた。
源義経ほどの知名度はないかもしれないが、南北朝期の悲運の公家武将といえる。
南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。
弘和3年(1383)7月28日多気に没す。以後9代200数十年にわたって伊勢国司は一志、飯南、度会、志摩の南勢五郡と紀伊、伊賀、大和に及ぶ領域に善政を布いたが、天正4年(1576)11月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教(とものり)は三瀬の館(多気郡)において殺され、北畠氏は滅亡した。
寛永20年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次、この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び、村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。
昭和3年11月、天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが、終戦とともに廃せられた。
霧山城 標高560m、遥かに吉野連峰を望む。
昭和11年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有・管理)
北畠氏館跡庭園 享禄元年(1528)管領細川高国の作という。
昭和11年国の「名勝」及び「史跡」に指定せらる。”
【写真左】北畠氏庭園・その4
現地の説明板より
“北畠氏館跡庭園
国指定名勝・北畠氏館跡庭園は、当代庭園中屈指の作として全国的に高い評価を受けています。近年各地の発掘調査により、同時代の庭が見つかってきましたが、この庭園は埋もれずに残っていたものとして、とても貴重なものといえます。
「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、東側には高さ約2mの須弥山石を中心にした渦巻式の立石枯山水が組まれています。
築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。
発掘調査の結果、池は16世紀代に造られたことが分かりました。これは7代国司北畠晴具(はるとも)の時代、享禄元年(1518)頃管領細川高国の作庭という説に合致しています。
津市教育委員会”
【写真左】礎石建物跡
北畠神社からさらに奥に進んだところにあり、柱間2間×2間の身舎に東側に縁側がついたものが残る。格調高い建物であったという。
【写真左】東御所跡
北畠神社の東側を流れる川の対岸部に残るもので、別名「六田館跡」ともいわれている。現在はご覧のように田圃となっている。
当時はこの館跡周囲に深さ3mの大規模な堀がめぐっていたという。
●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 康永元年ごろ
●築城者 北畠顕能・細川高国
●遺構 庭園・石垣・土塁等
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年4月17日
◆解説
北畠氏館跡・庭園は、大和国から伊勢神宮に向かう道として古くからあった伊勢本街道の中途、伊勢国(三重県)の美杉の山中にある。
【写真左】北畠氏庭園・その1
【写真左】北畠氏庭園・その2
伊勢本街道は現在の国道368号線及び369号線とほぼ同じルートで、大和側(奈良県)の宇陀郡御杖村の敷津で、北方の伊賀の方から来た368号線と369号線が交わり、2キロほど東進するとやがて伊勢国に入る。
北畠氏は前稿「田丸城」でも述べたように、南北朝期親房が後醍醐天皇を支援し、のちに南朝方の中心として戦い、三男・顕能が伊勢国司となり、戦国期に至って公家の出でありながら当地の戦国大名となった一族である。このため根拠地は伊勢国がその代表とされているが、親房の時代には、関東から東北にかけて長男・顕家などが活躍している。
【写真左】「歴史のふるさと 多気探訪マップ」
現地に設置されているもので、左側に伊勢本街道の難所の一つ「飼坂峠」が図示されている。
北畠氏関係の史跡はこの図の中央上段部に示されている。
また、親房自身については、晩年吉野から賀名生(あのう)(現五條市)に奔り、最期は当地で没したとされているが、大和国宇陀福西で亡くなったという別説もあり、北畠氏の活躍の場がかなり広範囲であったことが分かる。
現地の説明板より
“ 北畠神社由緒(別格官弊社)
祭神 従一位
右大臣 准后 北畠顕能公
配祀 北畠親房公(父) 北畠顕家公(兄)
例祭日 10月13日
建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。時に延元元年(1336)12月以降57年間を世に南北朝時代と言う。
北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近にあったが動乱にして自ら陣頭に指揮を執り足利勢と対決した。
【写真左】北畠神社拝殿
当社は顕能を祀っているが、父親房・兄顕家は大阪の阿倍野神社、また顕家は福島県伊達市の霊山(りょうぜん)神社にも祀られている。
大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元3年5月弱冠21歳で阿倍野(大阪市)の露と消えた。
神皇正統記(じんのうしょうとうき)は親房が常陸国の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた史書である。顕能は皇国3年(1342)に戦略上の拠点として、この地に霧山城を築き伊勢国司に任じられた。
この位置が当時の居館跡である。館は多気御所又北畠御所と呼ばれていた。
その生涯58年のうち実に45年の歳月は、南朝護持のため捧げられたものである。大小の合戦60数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。
【写真左】北畠顕家の像
顕家が和泉堺浦で亡くなる一週間前、彼は後醍醐天皇に対し、帝の政治手法について痛烈な諫奏文(かんそうぶん)を送っている。
畿内から関東・東北まで連戦連夜、南朝のために戦い続けた。
源義経ほどの知名度はないかもしれないが、南北朝期の悲運の公家武将といえる。
南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。
弘和3年(1383)7月28日多気に没す。以後9代200数十年にわたって伊勢国司は一志、飯南、度会、志摩の南勢五郡と紀伊、伊賀、大和に及ぶ領域に善政を布いたが、天正4年(1576)11月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教(とものり)は三瀬の館(多気郡)において殺され、北畠氏は滅亡した。
寛永20年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次、この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び、村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。
昭和3年11月、天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが、終戦とともに廃せられた。
霧山城 標高560m、遥かに吉野連峰を望む。
昭和11年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有・管理)
北畠氏館跡庭園 享禄元年(1528)管領細川高国の作という。
昭和11年国の「名勝」及び「史跡」に指定せらる。”
【写真左】北畠氏庭園・その4
現地の説明板より
“北畠氏館跡庭園
国指定名勝・北畠氏館跡庭園は、当代庭園中屈指の作として全国的に高い評価を受けています。近年各地の発掘調査により、同時代の庭が見つかってきましたが、この庭園は埋もれずに残っていたものとして、とても貴重なものといえます。
「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、東側には高さ約2mの須弥山石を中心にした渦巻式の立石枯山水が組まれています。
築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。
発掘調査の結果、池は16世紀代に造られたことが分かりました。これは7代国司北畠晴具(はるとも)の時代、享禄元年(1518)頃管領細川高国の作庭という説に合致しています。
津市教育委員会”
【写真左】礎石建物跡
北畠神社からさらに奥に進んだところにあり、柱間2間×2間の身舎に東側に縁側がついたものが残る。格調高い建物であったという。
【写真左】東御所跡
北畠神社の東側を流れる川の対岸部に残るもので、別名「六田館跡」ともいわれている。現在はご覧のように田圃となっている。
当時はこの館跡周囲に深さ3mの大規模な堀がめぐっていたという。
0 件のコメント:
コメントを投稿