丸屋城(まるやじょう)
●所在地 広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬
●登城日 2010年5月6日
●築城期 南北朝
●築城者 蒲刈多賀谷氏(多賀谷景茂)
●形式 水軍城(海城)
●標高 40m
●遺構 郭、堀切等
●規模 700m×150m
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」、サイト「戦国日本の津々浦々」等)
広島県の瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つ下蒲刈島にある海城である。
【写真左】下蒲刈島案内図
さて、丸屋城については、現地に直接当城の詳細な説明がある掲示板はないものの、芸予諸島の歴史も含めた内容が示されているので、転載しておく。
“天神鼻緑地環境保全地域
この地域は、歴史的、文化遺産と周辺の樹林地が一体となって良好な自然環境を形成しているため指定したものです。〈指定年月日 平成3年3月31日〉
●登城日 2010年5月6日
●築城期 南北朝
●築城者 蒲刈多賀谷氏(多賀谷景茂)
●形式 水軍城(海城)
●標高 40m
●遺構 郭、堀切等
●規模 700m×150m
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」、サイト「戦国日本の津々浦々」等)
広島県の瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つ下蒲刈島にある海城である。
下蒲刈島へは、本土側の川尻から安芸灘大橋が繋がり、車で行くことができる。同島からさらに東に点在する島々(上蒲刈島・豊島・大崎下島)へも橋が繋がり、さらに二つの小島(平羅島・中ノ島)を経て、最後は愛媛県の岡村島まで車で行くことができるようになった。
【写真左】下蒲刈島案内図
同図に図示はされていないが、安芸灘大橋を渡り、ぐるっとU字方向に東に廻ると、下蒲刈中学校があり、その北端に突き出た半島全体が丸屋城跡である。
さて、丸屋城については、現地に直接当城の詳細な説明がある掲示板はないものの、芸予諸島の歴史も含めた内容が示されているので、転載しておく。
“天神鼻緑地環境保全地域
この地域は、歴史的、文化遺産と周辺の樹林地が一体となって良好な自然環境を形成しているため指定したものです。〈指定年月日 平成3年3月31日〉
下蒲刈町の天神鼻地域は、北に女猫の瀬戸、東に大浦の瀬戸を望む地域にあり、今では一部が埋め立てられいるが、その両脇は入江となり、絶好の船溜りで古くから海上交通の要衝であった。
中世には、多賀谷水軍の丸谷城が築かれ、瀬戸四水軍城遺跡として、今でも保存されている貴重な半島です。この半島一帯は、約70年生の赤松が自生し、景観もさることながら、動物相も豊かなところです。
広島県”
【写真左】大津泊まり(大津泊庭園)と、左に伸びた舌状の丸屋城
現在は丸屋城全体が公園となっており、城下周囲には遊歩道が整備されている。北端部のところから階段も設置され、丸屋城跡(公園)を散策できる。
また、この付近については、古来より「大津泊り」という船泊まりの歴史も併せて紹介されているので、これも転載しておく。
“大津泊について
下蒲刈島は、古くから瀬戸内海航路における要衝として注目され、船泊として栄えていたところです。
中世には、多くの紀行文に「かまがり」の名前が記されていました。また、この海域を勢力圏としていた海の豪族多賀谷氏が丸屋城(左方に見える小丘)に本拠を構え、城の西側の大きな入江(大津泊、大津湊ともいう)を「船隠し」、「船溜まり」としていました。
【写真左】丸屋城遠望
西側の安芸灘大橋たもとの展望台から撮ったもの。
近世に入ると、このルートを通る船舶、特に朝鮮通信使来島時には係留所、風よけ、風待ちのために大船団が停泊しておりました。
近世末期になると、藩の産業政策の一環として、新開が築かれ、水田・塩田・綿作地・養魚池等に利用され、その名も「塩浜新開」と呼ばれるようになりました。
しかし、近年の社会情勢の変化、時代の要請等により、新開も不要となり、埋め立てをされ、安芸灘大橋を渡った島の玄関口にあたるこの地に、下蒲刈町の「ガーデンアイランド構想(全島庭園化構想)」の一環として庭園を造り、『大津泊庭園』と命名し、人々の憩いの場、集いの場とすることとなりました。”
【写真左】大津泊(庭園)側から見た丸尾城遠望
長く伸びた丸尾城の中間部には、トンネルがあり、地元の人の往来が多い。手前は庭園の池
さて、丸屋(丸谷とも書く)城の築城期は、南北朝期とされ、「毛利家文書」によれば、観応2年(1351)に、伊予国周桑郡北条郷の地頭・多賀谷氏が、下蒲刈島に所領を得たとあり、また「芸藩通志」には「多賀谷式部景茂、はじめて城く」と記されている。
【写真左】丸屋城入口付近
登城口としては、前記した城下の遊歩道からのコースもあるが、南側から尾根伝いに上っていくコースも設定されている。
写真は尾根からのコースであるが、城跡として整備されているのは、「天神鼻緑地」が主な部分だが、この写真手前の尾根がさらに高くなっており、本丸はその場所にあったらしい。現在は民有地でミカン畑となっているようだ。
多賀谷氏はこのように、南北朝期、当地に地頭として入ってきたが、元の出身地は武蔵国埼玉郡で、承久の乱後当地に下向したもののようだ。
南北朝期になると、南朝方に追われる形で、蒲刈島と倉橋島に本拠を移し、その後、海賊衆として、「蒲刈多賀谷氏」と「倉橋多賀谷氏」に分かれ、それぞれ勢威を振い、以後相互に連携を強め、他の瀬戸内水軍とも協力しながら、大内氏に属し、瀬戸内の海上権益を支配していった。戦国期になると、大内氏の滅亡に伴い、小早川氏や毛利氏に属し同氏の命脈を保った。
【写真左】土塁跡
入口付近から少し入ると、写真にあるように右側(東側)に高さ1m弱の土塁跡が見える。また同城の東西側面は、比高が低いこともあって、全周囲にわたり険峻な切崖を構成している。
現在は、長く伸びた郭段跡に無数の樹木が植えられ、訪れる人の目を楽しませている。
当城の遺構でもっとも明瞭に残っているが堀切である。登城口の南側から先端部までの間に3カ所確認できたが、登城口手前の南側本丸付近にも堀切があるように思われた。
【写真左】石垣跡
堀切付近に見えたもので、おそらく当時のものと思われる。場所によってはほとんど垂直な切崖個所もあるため、崩落を防ぐため石積みが施工されたものと思われる。
写真にあるような、遊歩道は当時はないため、先端部は断崖絶壁の様相を呈していたものと思われる。
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