2010年5月3日月曜日

名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)

名護屋城(なごやじょう)

●所在地 佐賀県唐津市鎭西町名護屋
●登城日 2007年4月25日
●築城期 天正19年(1591)
●築城者 豊臣秀吉
●形式 平山城
●指定 国特別史跡
●天守構造 5重7階

 先月まで因幡・鳥取地域の山城を取り上げ、できればその流れで、鳥取城も紹介したかったが、当城の登城は数年前に終えているものの、まともな写真が残っておらず、いずれ再度当城を含め、関係した諸城の登城を終えた段階で、改めてとりあげたいと思う。
 そこで、今回はいささか唐突ながら、佐賀県唐津市にあった「名護屋城」を取り上げたい。

◆解説(参考文献(「日本の歴史⑪ 天下一統」集英社版等)

 豊臣秀吉による朝鮮半島侵略は、第1回目が天正20年・文禄元年(1592)で、いわゆる「文禄の役」といわれている。第2回目は慶長2年(1597)で、「慶長の役」ともいわれている。
 秀吉が朝鮮侵略を考え始めたのは、第1回目のときより7年前の天正13年(1585)にさかのぼるといわれている。

 具体的な史料としては、家臣たちの知行高を増やし、あるいは確保するためには、日本国内では限度があるとして、他国からそれを得ようとしたとされる、直臣の一柳市介らにあてた文書である。同文書では、朝鮮はおろか「唐国」までも覇権の範囲としていた。
【写真左】名護屋城跡に立つ周辺陣跡配置図
 全国からやってきた大名の陣跡だが、これを見ただけでもその数の多さに驚く。





 仲介に当たっていた宗氏領有の対馬は、事実上、朝鮮慶尚道(キョンサンド)の一属島である。秀吉の考えを立てれば、朝鮮国の意にそぐわないことになり、朝鮮国の考えを秀吉にいえば、ほどんど「御乱心」状態の秀吉に受け入れられるはずもなかった。

 誰も秀吉に異を唱えることができなくなったまま、文禄元年、実行に移された。禄高を基準に、九州・四国の大名は、1万石につき600人、中国・紀州は500人、五畿内は400人、東海・関東は300人、越後・出羽は200人というふうに、全国にわたって軍役が課せされた。
【写真左】名護屋城跡その1
 破却された城であるため、当然石垣類も完全には残っていない。







 ところで、名護屋城の築城については、第1回目の前年、すなわち天正19年(1591)9月に加藤清正を責任者として秀吉が命じ、普請開始は翌月10月10日となった。

 2回にわたる朝鮮侵略の経緯や内容はすでに知られた通り、そもそもが覇権という露骨な他国侵略であるから、双方にとって何の益もなく、大きな傷跡を残すだけだった。慶長3年(1598)8月18日、第2回目の出兵で多くの大名が朝鮮に在陣中のまま、秀吉は62歳の生涯を終える。
【写真左】名護屋城跡その2



【写真左】名護屋城跡から玄界灘を望む
 手前の写真は土塁跡を残した部分
【写真左】天守台跡
 探訪した2007年のこの時、もっとも復元個所の進んだ場所で、下段の説明にもあるように、礎石の間に玉石もならべてあった。


















特別史跡名護屋城跡 天守閣跡

 ここは城のシンボルである天守閣が建てられていた天守台です。天守台は、本丸の中でも一段高くなっており、名護屋城で最も高い場所(標高約88m)となっています。

 肥前名護屋城図屏風(佐賀県重要文化財)では、屋根が五層で地上六階建て、瓦葺きで白亜の壁をもつ天守閣が描かれており、天守台石垣の大きさや周囲に描かれた建物・石垣などとの比較から、高さ30mに及ぶ天守閣がそびえていたことがわかっています。

 現在までの発掘調査で、天守建物の基礎となった礎石(土台石)は、計24個の配置が確認されており、天守台中央部分には、親柱を据えていた直径90cm程の大きな礎石が四つ置かれていました。
 また、現在、礎石がみられる地面の部分は、もともとは石垣に囲まれた半地下式の空間(穴蔵)であった部分で、廃城に伴い石垣が大きく壊されていることが分かっています。

 残っている石垣から推定すると、今よりさらに約2m高い位置まで石垣が築かれていたものと考えられます。また、その石垣の天端(最も高い部分=天守建物の1階部分の床にあたる場所)での規模は、東西18m、南北22mに復元されています。

 天守台への入口は、石垣が一部途切れている東側と考えられますが、発掘調査の結果、新たに南側にも入口が設けられていたことがわかりました。天守閣に二つの入口が存在する例は珍しいことから、これらの入口が同時期にあったのではなく、天守台石垣を築く際、途中で出入口の場所を変更した可能性も指摘されています。

 そのほか、礎石の周囲からは、海辺から運ばれた大きさ10cm前後の玉石がびっしりと敷かれている部分が見られ、穴蔵内部の床一面に玉石が敷かれていたことが明らかとなりました。
【写真左】天守台の隣の部分
 このときは御覧の通り、ブルーシートなどがかけてあったが、現在はおそらく完了しているだろう。




 出土遺物の中で特徴的なものとして、天守台周辺部からは、金箔を施した瓦(□瓦・軒丸瓦など)を含め、多くの瓦類が出土しています。

 しかし、金箔瓦の占める割合は低く、金箔瓦は全体的に用いられたものではなく、屋根の軒先部分など、限定された場所に用いられていたものと考えられます。

 天守台は、この地域が唐津藩に含まれるのに伴い、江戸時代前半頃に破却を受けて壊され、以後、古城を管理する「城番」が置かれます。発掘調査でも、江戸時代と考えられる造成面、区画状石列等が発見されており、何らかの施設が存在していた可能性があります。

 江戸時代後期に描かれた、名護屋城や陣の位置を記した「配陣図」類の中には、本丸付近に模式的に「御番所」と記された建物が描かれており、また、江戸時代後期の『伊能忠敬測量日記』には、「名古屋村城山遠見番所~」と記されていることなどから、天守台跡に「番所」等の建物が建てられていた様子がうかがえます。”

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