2010年5月28日金曜日

手島屋敷、小早川神社(広島県竹原市東野町・新庄町)

手島屋敷・小早川神社
               (てじまやしき・こばやかわじんじゃ)

●所在地 広島県竹原市 東野町・新庄町
●探訪日 2008年3月15日


◆解説(参考文献「本郷町史」等)
 前稿「木村城」の西麓に、今回取り上げる「手島屋敷」「小早川神社(和賀神社)」がある。
 木村城のある地域は、旧名「都宇・竹原荘」といっていたところで、京都の賀茂御祖(みおや)社(下賀茂社)の荘園で、このことから当地の中央を流れる川名が賀茂川となっている。

 賀茂川の支流田万里川が合流するところが新庄の中心地で、寛治4年(1090)の官符により、所領40町が賀茂御祖社に寄進され成立している。

小早川神社

 当社は木村城の西麓432号線脇に建立された神社で、近世初期に創建された。

【写真左】小早川神社
 規模やその威容などなかなかのものだが、現在は朽ち果てている。

 最初に訪れたのは2008年だが、その後今年もその脇の道路を走った際にも、全く手が加えられておらず、なんともさみしい限りである。



現地の説明板より
和賀神社(小早川神社)
 昭和20年の豪雨による山津波で損壊。小早川隆景を祀る神社。

 慶長2年(1597)6月、隆景が三原城で没したので、新庄ほか数カ村の人々が木村城跡の若宮社(前稿木村城参照)に、隆景を祀り、陰暦9月13日を祭日として、旧竹原8カ村の村役人や、毛利家からも度々参拝し、祭りは300年間続いたが、明治維新後中止となり、若宮社も衰退しようとしたので、城の元に明治22年に社殿を建立、同23年に県社となる。

 明治12年12月に毛利家の三子三郎を迎えて小早川家を再興した。
 大正12年、献納の灯篭に小早川四郎の名が見える。
竹原市観光協会”



手島屋敷

 木村城の西麓には、手島屋敷跡などがある。

現地の説明板より
手島屋敷
 間口50m、高さ3mの石垣、石垣の両隅は枡形が切られ、中世の武家屋敷の遺構である。かつては「西殿(にしどん)屋敷」(西の殿屋敷)と呼んでいた。

 小早川氏が竹原を去って以後、竹原小早川家の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受け継いだものと想像される。
 中世城館調査では「居館候補地」としてあげられている。
  竹原市観光協会”
【写真左】手島屋敷配置図および、東野町北部案内図
 手島屋敷から北方へ数分歩くと、小早川家墓地がある(下段写真参照)

 また、南方には青田古墳や、毘沙門岩などがある。









【写真左】手島屋敷跡に残る石垣群










【写真左】小早川家墓地














 前稿でも紹介したように 、同氏は正嘉2年(1258)から天文19年(1550)までの約300年間、木村城を本拠にして当地を治めた。

 参考までに、初代政景から以降の歴代当主を掲げておく。

 政景⇒景宗⇒祐景⇒重景⇒重宗⇒実義⇒義春⇒仲義⇒弘景⇒盛景⇒弘景⇒弘平⇒興景

 最後の興景のあと、沼田小早川16代・繁平の後を相続した毛利隆景が、沼田の小早川17代となり、併せて竹原小早川も引き継ぎ、小早川隆景となった。

 赤字の「弘景」は、前稿で紹介したように、沼田本家の高山城を文明年間に攻めている。 
 

 また、話が遡るが、初代政景のとき、竹原小早川家が所領していた地域は、当地(都宇・竹原荘)、沼田荘内梨子羽郷地頭門田5町が主なものだが、これ以外には、四国讃岐国(香川県)与田郷(大川郡大内町)もあったが、その後代が進むにつれてはっきりしなくなる。

2010年5月12日水曜日

木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)

木村城(きむらじょう)

●登城日 2008年3月15日
●所在地 広島県竹原市新庄町字城の本
●築城期 正嘉2年(1258)
●築城者 小早川政景
●形式 山城
●遺構 郭、空堀、井戸、石垣、土塁
●指定 広島県指定史跡
●標高 150m(比高130m)
●別名 新庄城、篠原城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
 広島県竹原市にある山城で、瀬戸内海に面する竹原港から賀茂川を約5キロほど遡った新庄地区にある。

 賀茂川と並行して走る国道432号線が、山陽道(国道2号線)と交差する位置にも近いことから、古代・中世を通じて交通の要衝でもあった。
【写真左】木村城遠望
 西側から見たもので、城跡は北に伸びる丘陵先端を堀切り、南北の尾根に10数カ所の郭が設けられている。




 築城期は正嘉2年(1258)といわれるから、後深草天皇のときで、鎌倉幕府は宗尊親王、執権は北条長時である。

 翌年は「正嘉の飢餓」と呼ばれる災難が発生し、疫病も流行した。

 現地に当城の概要が簡単に記されているので、下段に記す。

県史跡 木村城跡
  昭和48年3月28日指定
 正嘉2年(1258)都宇(つう)竹原荘の地頭職として、竹原小早川家の初代である政景沼田小早川茂平の子)がこの城を構えた。

 天文19年(1550)毛利氏から養子として迎えられていた14代隆景が、沼田小早川家を相続して、本郷の高山城に移るまでの約300年間、竹原小早川家の本拠であった山城である。
 城跡は、本丸を中心に数多くの「曲輪」が配置され、井戸跡や土塁跡、堀切などの遺構をとどめている。
  竹原市・竹原市教育委員会”
【写真左】木村城要図
 西側にある登城口付近に設置された図で、右方向が北を示す。当城は東から南にかけてかなりの数の竪堀が設置されている。





 また、竹原小早川家の菩提寺や墓地関係の説明板もあるので、併せて載せておく。

“(1)法常寺跡―竹原小早川氏の菩提寺であった寺跡に五輪塔や宝篋印塔が残っている。

(2)竹原小早川家墓地―天平風の石組の基壇の上に、蓮座を二段重ねた大型宝篋印塔を中心に約30基をこえる宝篋印塔や五輪塔が並び、戦国時代の者が多い。 この墓地の裏山には、13代興景公夫妻の宝篋印塔がある。

(3)居館跡―正面の長さ約52m、高さ約3mの古風な石垣が残り、この両端には勝負の壇が見られる。“
【写真左】登城路途中に設置された「古川家乃墓」
 東側から向かう登城路の斜面に、忽然と当該墓が建立されている。小早川家の重臣としては、手島氏が有名だが、この「古川家」の墓がなぜ、この場所にあるのかわからない。

 「日本城郭大系14巻」にも同氏(古川家)のことについては記載されていない。
 墓そのものは、近世の形式だが、その大きさから考えて、小早川氏や木村城と何らかの関係があったと思われる。
 
 裏付けするものはないが、前稿で紹介した「本郷城」の古志氏が、出雲国栗栖山城から移住してきたとき、同氏に随従してきたのが古川氏ではないかと考えられる。

 出雲国の古志氏については不明な点が多く、南北朝後期から室町期にかけて、その一部は備後(本郷城など)へ、残りは同国に残るものの、戦国期になると同氏は各地に離散したような形跡がある。

 当城に建立された古川家の墓も、そうした本郷城を起点として、その後、何らかの経緯を経て、小早川家に仕えた同氏の一部ではないだろうか。
【写真左】井戸跡
 登城路の終了地点東側平坦地にある。









 小早川氏略系図によると、同氏の元は土肥次郎実平に始まり、その子・遠平から小早川を名乗り、実子である惟平と、養子景平に分かれる。

 元々、土肥氏は桓武平氏で、相模国(神奈川県)湯河原一帯の土肥郷に居を構えていた。また隣接する早川荘(小田原市)も知行していたことから、相模国にあった時、すでに「早川」や「小早川」を名乗っていた。

 小早川氏が竹原を含む安芸国に来住してきたのは、元の領主沼田氏が滅亡し、土肥実平が沼田荘地頭職として入った文治元年(1185)ごろで、建永2年(1207)には、茂平が沼田荘地頭職を安堵され、建保元年(1213)になると、季平が沼田新荘地頭職を幕府から安堵された。
【写真左】北端部にある祠跡
 神社(若宮社)のようなものがあったらしく、現在は礎石などが残っている。



 政景の父・茂平が木村城のある竹原荘や都宇の地頭職を得たのは、それから後で、いわゆる承久の乱をきっかけに、承久3年(1221)に当地の地頭職を得ている。

 30年後の正嘉2年(1258)、説明板にあるように、茂平は子・政景に当地の地頭職を譲った。木村城はその年に築城された。 応仁の乱の際、竹原小早川家は西軍山名方に属し、城主11代・弘景は二度にわたって、沼田本家の高山城を攻撃、文明9年(1477)沼田本家の所領を割譲させた。
【写真左】本丸付近
 当城の規模はさほど大きくはないが、帯郭など遺構の保存度は良好である。








【写真左】本丸跡
 幅10~15m×長さ18mで、楕円形となっており、西側には一部石垣を残す。









写真左】本丸付近から北方を見る
 右に走る道は、国道432号線で、同線と沿うように賀茂川が流れている。なお、写真左の山東麓には手島屋敷がある。

2010年5月11日火曜日

本郷城(広島県福山市本郷町字城山)

本郷城(ほんごうじょう)

●所在地 広島県福山市本郷町字城山
●登城日 2009年2月4日
●築城期 健保元年(1213)
●築城者 大庭三郎景連
●城主 大庭氏、古志氏等
●形式 山城(連郭式)
●標高 143m(比高110m)
●遺構 郭、空堀、土塁、石垣、井戸等
●指定 市指定史跡
●備考 大場城、古志城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
 前稿「鷲尾山城」から南東へ約5キロ下ったところに本郷城がある。別名、大場(大庭)城、古志城ともいわれている。
【写真左】本郷城遠望
 南側から撮ったもの。











 現地にある説明板より当城の沿革を記す。

大場山(城山)
 福山市本郷町字城山762番・字山手762番(619は間違い)
 標高 143m
 眺望 東 本郷町内・神村の山々 
     西 立神方面の山々
     南 本郷町内・四国石鎚連峰
     北 新庄奥山・大谷山

【写真左】大場山城(本郷城)見取り図
 規模は小規模で、構造も簡単なものである。しかし、本丸、三の丸などは広く、施工も丁寧である。



 大場山城

 ●1213年(健保元年)(鎌倉時代前期)
    大庭(おおば)三郎景連が新庄の地頭として築城
 ●その後12代大庭氏が居城 「伝承」
 ●その後、古志正光より古志清左衛門に至る6代居城 「水野記」
     古志正光…□□□□…古志豊清…左衛門太夫豊綱…
     …古志四郎五郎元清…古志清左衛門元綱(豊長)

 ●1512年(永正9年)
    「古志の城」と呼ばれていたこの城は、大内氏の命を受けた毛利興元により攻め落とされるも、後に古志氏は、大内氏と和睦し、城主に復帰する 「西備名区」
 ●1591年(天正19年)(安土桃山時代後期)
    古志清左衛門の時、毛利氏により改易される 「水野記」
 監修 備陽史探訪の会 会長 田口義之
【写真左】登城路
 小規模な山城であるが、登城路の傾斜はきつく、天然の要害を利用している。

桜植樹・登山道整備事業
 2002年(平成14年)3月17日
 事業実施 城山60会
  氏名列記(省略)
 桜苗木 100本 平成13年度環境緑化推進事業
            広島県みどり推進機構等
 活動資金援助 日野某”



 築城期・築城者については、「日本城郭大系14巻(以下「14巻」とする」(新人物往来社)によると、南北朝時代、古志氏(義綱か)とされているが、現地の説明板にもあるように、鎌倉期に地頭として入ってきた大庭氏が最初に築城したと考えられる。
【写真左】二ノ丸から三の丸を見る
 下段の三の丸の方が幅が長く、面積も広い。






 というのも、伝承ながら「12代」も続いたという経緯は、軽視できない。また、当地にやってきた時期である建保年間は、和田氏(義盛)による北条義時攻め(和田合戦)があり、義盛ら主だった和田一族は敗死するものの、残党の一部は新たな領地を求めて西国にやってくる(「土佐・和田城」2009年3月21日投稿参照)。

 おそらく、この和田合戦の際、鎮圧に当たった大庭氏(景連)が、その功によって当地に地頭としてやってきたと考えられる。
【写真左】「馬廻し」といわれているところ
 本丸、二の丸、三の丸を北側から東側にかけて取り巻いている郭で、全長180m程度になる。これだけ長い規模があれば、当時馬の数も相当なものだったと思われる。




 本郷(大庭)城主である大庭氏は12代まで続き、そのあと、古志氏が継ぐ。

 記録では、明徳2年(1391)の明徳の乱(山名氏による室町幕府に対して起こした反乱)の戦功によって、当地(備後新庄)を受けたことに始まるとしている。このことから、初期の大庭氏が当城を治めていた期間は、約180年間になる。

【写真左】石垣跡
 上記の馬廻しと接する本丸・二の丸・三の丸側壁部に残っているところで、石垣跡はこのほか2,3カ所確認できる。






 古志氏は、昨年(2009)2月に取り上げた出雲国の「浄土寺山城」や「栗栖山城」の城主である。特に明徳の乱の際、幕府方から鎮圧の要請を受けたとき、同氏はすでに浄土寺山城から、栗栖山城へ移っていたころで、現地の説明板では、初代を古志正光としているが、「14巻」では、古志義綱となっている。

 ちなみに、上記の説明板では、その後の城主名を、
   □□□□豊清、左衛門太夫豊綱、四郎五郎元清、清左衛門元綱(豊長
 とし、「14巻」では、
   国信、久信、為信、宗信、景勝、豊長
 などとなっており、ほとんど一致しておらず、最後の豊長だけが合致している。現地説明板の出典は、「水野記」という文献で、「14巻」のそれは、「西備名区」という史料のようだ。
【写真左】本丸跡
 西側から見たもので、奥行きがかなりあり、しかも平坦面の精度がよい。





 城主の名前が史料によってこれだけ違うのも珍しい。現地の説明板には、そのためか、あらかじめ出典元を下段に明記していることは親切だ。

 さて、「14巻」によると、為信の代の永正9年(1512)、尼子方に属して挙兵したため、これを大内義興の命を受けた毛利興元によって攻略され、一旦落城している。しかし、その後再び盛り返したとある。

【写真左】「人呼岡」付近
 呼称名が珍しいが、この写真の左側の高い所が「人呼岡」といわれているところで、さらに西側は「けぬきぼり」と呼ばれる堀切状の谷がある。ただその個所は伐採されていないため、写真には収めていない。
 なお、写真右手前には井戸跡がある。




 前年の永正8年、8月には京都船岡山において、将軍足利義稙を擁する大内義興・細川高国と、前将軍足利義澄を擁する細川澄元らの戦い、いわゆる「船岡山合戦」が勃発する。

 その際、大内義興は尼子経久らを従えて、当地で戦い、結果大内軍の大勝に終わっている。戦後になると、大内氏は京に長期間在京することになるが、先に帰国した尼子氏をはじめ、安芸武田氏らが不穏な動きを見せている。おそらく、古志為信の行動も、そうした対大内氏からの離反の動きの一つだったと思われる。
 その後、大内氏の元に再び属し、直接的には毛利氏の命に従っていく。

 元亀3年(1572)、前稿で紹介した西隣の「鷲尾山城」の杉原氏との関係が悪化、同氏に攻められたものの、小早川隆景の斡旋で和睦を結んだ。
 古志豊長はその後も所々の戦いで戦功を挙げたが、尼子方に内通しているとの讒言があり、隆景は三原城に豊長を呼び、酒宴の席で寝込んだ豊長の首をはねたという【写真左】本郷城本丸付近から南方に瀬戸内海を見る。
 手前に見える海は、松永湾。右側には瀬戸内しまなみ海道が走る。

2010年5月9日日曜日

鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)

鷲尾山城(わしおやまじょう)

●登城日 2010年1月30日
●所在地 広島県尾道市木ノ庄町木梨字大平
●築城期 建武3年(1336)
●築城者 杉原信平・為平
●形式 山城(放射状連郭式)
●標高 324m
●遺構 郭(30)、空堀、土塁、井戸、築庭等
●指定 広島県史跡(昭和52年3月4日)
●別名 鷲城・霊鷲城・釈迦ヶ峰城・(木梨城)

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)

 鷲尾山城は、尾道市街地から北方約10キロに向かった位置にあり、真南には山陽自動車道尾道ICが近接する。また、西方2キロには石見銀山街道(出雲街道)の国道184号線が南北に走っている。
【写真左】鷲尾山城遠望
 南側から撮ったもの。






 当城の概要について、現地の説明板から転載しておく。

広島県史跡 鷲尾山城跡

 1336年(建武3)足利尊氏に従い、九州多々良浜(博多)の戦いで戦功を立てた杉原信平・為平が、木梨13カ村(尾道・後地・栗原・吉和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を賜り、木梨に鷲尾山城を築き居城とした。

 以来、信平、光信、元盛、元直、光恒と続き、備後の覇者として武威を張ったが、1543年(天文12)6月、雲州富田城主尼子晴久によって、城は攻め落とされ、光恒は城内で自害、その子高盛は捕らえられた。やがて、大内氏の助力を得て鷲尾山城に帰り、名を釈迦ガ峰城とめた。
【写真左】鷲尾山城平面図
 規模は700m×300mもあり、全体が要害堅固な山城である。本丸は35m×25mの大きさを持ち、北側には尾根伝いに7段の郭を配し、それぞれ東部に土塁を設置している。
 連続する郭先端(北端部)鞍部に大きな堀切を設けている(同図には図示されていない)。

 もっとも要害堅固な個所は、南から西にかけての位置で、天然の切り立った斜面を有効に使っている。



 その後、石原小次郎忠直に再び攻められ高盛は戦死、その子元恒は古志氏を頼って新庄に落ち延び、小早川隆景を頼り、再度木梨へ帰り、石原氏を滅ぼし鷲尾山城を回復した。

 1584年(天正12)、元恒は千光寺山に権現山城を築いてここに移った。

 1337年(建武4)築城以来、実に247年木梨杉原氏の本城として備南地方を鎮めた鷲尾山城も、1591年(天正19)秀吉の山城停止令によって廃城となった。
 現在も、山上から尾根線に沿って、郭、井戸、空濠など多くの遺構を残し、規模、内容とも県内を代表する山城跡である。

 広島県教育委員会 尾道市教育委員会 鷲尾山城址保勝会”
【写真左】五輪塔群
 登城口へは当山の途中まで車で行くことができるが、その途中に五輪塔群が祀られている。おそらく杉原氏一族のものと思われる。





 以上が当城および城主の杉原氏などの動きだが、杉原氏自身はその後文禄4年(1595)、毛利輝元の命によって周防国爪止荘に移封されている。

 ところで、説明板にある杉原信平・為平は、兄弟であり、信平は又太郎といい、木梨氏の祖となり、為平が当城の初代城主とされている。なお、史料によっては、鷲尾山城を「木梨城」とするものもある。
 為平の後裔としては、神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)主となった忠興や、伯耆・出雲で活躍した杉原盛重などがいる。

【写真左】城下入口付近の案内板(惣門跡)
 この写真には見えないが、正面に鷲尾山城が見える。南側城下には集落が点在しており、この場所は、「惣門跡」と呼ばれている個所。

 車ではここから左側の道に入っていくが、集落付近の道幅は大変せまく、鋭角のカーブなどがあるので注意が必要。




【写真左】登城口
 中腹まで車で行くことができ、駐車場も4,5台程度は確保されている。この場所から徒歩になるが、全体に険峻な山のため、途中石などが崩落している個所が多い。

 ただ、地元の方々の尽力によって定期的に管理保全されているようで、利用する者にとってはありがたい。


 なお、天文12年(1543)尼子晴久が当城を攻め落としたとされているが、おそらくこれはその年の暮れから翌天文13年にかけての出来事と考えられる。というのも、以前京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)の稿でも紹介したように、天文12年の春、大内・毛利軍が月山富田城を攻め入った時、大内氏などは大敗北を喫した。

 尼子氏はその後石見銀山などを攻略するなど、この年は主に東西地域(石見・伯耆)の守りを固めている。

 記録では、翌天文13年(1544)3月11日、毛利元就・隆元父子が、備後国田総(庄原市総領町付近)で尼子晴久と戦う、とある。鷲尾山城を攻略したのち、帰国途中この地で戦ったものと思われる。
写真左】大堀切
 登城後10数分登っていくと、鞍部に写真にある大堀切が見える。本丸方面はこの写真の右に向かうが、左側尾根を少し行くと、削平された平坦地(郭)が見える。

 当城を南側から攻め入るのは容易でないため、この西側が重要な位置を占めていたと思われる。


 ところで、尼子晴久がこの鷲尾山城という瀬戸内を眼下に見下ろす備後最南端に、なぜ唐突に攻め入ったのか、はっきりしないが、よほどこの城を落とす大きな理由があったことは否めない。
 想像だが、晴久としては、鷲尾山城を落とすことによって、瀬戸内の海上権益をも手中に収め、伸長著しい毛利元就の東方侵略を、ここで分断しようとしたのではないかとも考えられる。
【写真左】登城途中
 この写真の左側が既に郭段を構成しているところで、登城路は西側斜面をほぼ真っすぐに向かう。



【写真左】六の段跡
 冒頭で示した7段の郭の中の6段目の郭である。幅は狭いものの、長さはかなりある。また施工も岩山の割に丁寧な仕上げになっている。

【写真左】石垣跡
 地元の方々によってこうした説明標識が設置されているのはありがたい。



【写真左】五ノ段跡
 段数番号が少なくなるにつれて、長さは短く、幅は広くなっていく。段によっては、整備されていないか所もあるが、おおよその形は想像できる。

【写真左】井戸跡
 2ノ段か、3ノ段辺りか覚えていないが、この個所に井戸跡が見える。すでに埋まっていてその形状は確認できないが、地質とこの位置の高さを考えると、相当深い井戸だったと思われる。

 また、この付近には「柱穴」などもあったことから、掘立柱による建物があったものと思われる。



【写真左】本丸跡
 前記したように、本丸は広く施工が丁寧である。なお、本丸周囲にも土塁の跡が一部残る。
本丸の隅には祠が祀ってある。

 現在、本丸跡に跡には、桜の木が数本植えてあり、簡易な照明器具も設置してあることから、その時期にはおそらく当地で地元の人によって、花見が行われているのだろう。


【写真左】本丸跡にある祠
 石積みをした跡に建ててある。



写真左】虎口跡
 上記祠の左側には虎口の跡が残っている。この位置から下段に郭が取り巻いているが、その側面には大岩が2,3カ所あり、容易に侵入できない構造となっている。



【写真左】本丸下段にある石垣跡
 前段で紹介した北方に伸びる7段の郭のうち、高低差の高い個所にはこうした石垣が残る。

 なお、南側の遺構については写真を載せていないが、急峻な斜面を構成している。西方には馬場跡が残っているが、残念ながらそこまでは踏査していない。




【写真左】南方に瀬戸内海を見る 方向としては、瀬戸内しまなみ海道の各諸島が望めるが、当日は靄がかかりはっきりしない。



【写真左】南方に建設中の尾道~三次高速道路を見る。











◎関連投稿
千光寺山城(広島県尾道市東土堂町)

2010年5月8日土曜日

丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)

丸屋城(まるやじょう)

●所在地 広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬
●登城日 2010年5月6日
●築城期 南北朝
●築城者 蒲刈多賀谷氏(多賀谷景茂)
●形式 水軍城(海城)
●標高 40m
●遺構 郭、堀切等
●規模 700m×150m

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」、サイト「戦国日本の津々浦々」等)
 広島県の瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つ下蒲刈島にある海城である。
 下蒲刈島へは、本土側の川尻から安芸灘大橋が繋がり、車で行くことができる。同島からさらに東に点在する島々(上蒲刈島・豊島・大崎下島)へも橋が繋がり、さらに二つの小島(平羅島・中ノ島)を経て、最後は愛媛県の岡村島まで車で行くことができるようになった。

【写真左】下蒲刈島案内図
 同図に図示はされていないが、安芸灘大橋を渡り、ぐるっとU字方向に東に廻ると、下蒲刈中学校があり、その北端に突き出た半島全体が丸屋城跡である。








 さて、丸屋城については、現地に直接当城の詳細な説明がある掲示板はないものの、芸予諸島の歴史も含めた内容が示されているので、転載しておく。

天神鼻緑地環境保全地域
 この地域は、歴史的、文化遺産と周辺の樹林地が一体となって良好な自然環境を形成しているため指定したものです。〈指定年月日 平成3年3月31日〉
 下蒲刈町の天神鼻地域は、北に女猫の瀬戸、東に大浦の瀬戸を望む地域にあり、今では一部が埋め立てられいるが、その両脇は入江となり、絶好の船溜りで古くから海上交通の要衝であった。
 
 中世には、多賀谷水軍の丸谷城が築かれ、瀬戸四水軍城遺跡として、今でも保存されている貴重な半島です。この半島一帯は、約70年生の赤松が自生し、景観もさることながら、動物相も豊かなところです。
広島県”
【写真左】大津泊まり(大津泊庭園)と、左に伸びた舌状の丸屋城
 現在は丸屋城全体が公園となっており、城下周囲には遊歩道が整備されている。北端部のところから階段も設置され、丸屋城跡(公園)を散策できる。




 また、この付近については、古来より「大津泊り」という船泊まりの歴史も併せて紹介されているので、これも転載しておく。

大津泊について
 下蒲刈島は、古くから瀬戸内海航路における要衝として注目され、船泊として栄えていたところです。
 中世には、多くの紀行文に「かまがり」の名前が記されていました。また、この海域を勢力圏としていた海の豪族多賀谷氏が丸屋城(左方に見える小丘)に本拠を構え、城の西側の大きな入江(大津泊、大津湊ともいう)を「船隠し」、「船溜まり」としていました。

 そして、地乗り航路(安芸地乗り)をとっていた瀬戸内海往来の船舶の風よけのための停泊などにも利用していました。
【写真左】丸屋城遠望
 西側の安芸灘大橋たもとの展望台から撮ったもの。








 近世に入ると、このルートを通る船舶、特に朝鮮通信使来島時には係留所、風よけ、風待ちのために大船団が停泊しておりました。

 近世末期になると、藩の産業政策の一環として、新開が築かれ、水田・塩田・綿作地・養魚池等に利用され、その名も「塩浜新開」と呼ばれるようになりました。
 しかし、近年の社会情勢の変化、時代の要請等により、新開も不要となり、埋め立てをされ、安芸灘大橋を渡った島の玄関口にあたるこの地に、下蒲刈町の「ガーデンアイランド構想(全島庭園化構想)」の一環として庭園を造り、『大津泊庭園』と命名し、人々の憩いの場、集いの場とすることとなりました。”
【写真左】大津泊(庭園)側から見た丸尾城遠望
 長く伸びた丸尾城の中間部には、トンネルがあり、地元の人の往来が多い。手前は庭園の池






 さて、丸屋(丸谷とも書く)城の築城期は、南北朝期とされ、「毛利家文書」によれば、観応2年(1351)に、伊予国周桑郡北条郷の地頭・多賀谷氏が、下蒲刈島に所領を得たとあり、また「芸藩通志」には「多賀谷式部景茂、はじめて城く」と記されている。

 また、康応元年(1389)には、将軍足利義満が、厳島神社参詣を名目として大船団を組んで、西下したとき、多賀谷氏は当時、本拠を安芸に移し、大内氏配下の警固衆として活動ししていたという。
【写真左】丸屋城入口付近
 登城口としては、前記した城下の遊歩道からのコースもあるが、南側から尾根伝いに上っていくコースも設定されている。

 写真は尾根からのコースであるが、城跡として整備されているのは、「天神鼻緑地」が主な部分だが、この写真手前の尾根がさらに高くなっており、本丸はその場所にあったらしい。現在は民有地でミカン畑となっているようだ。



 多賀谷氏はこのように、南北朝期、当地に地頭として入ってきたが、元の出身地は武蔵国埼玉郡で、承久の乱後当地に下向したもののようだ。

 南北朝期になると、南朝方に追われる形で、蒲刈島と倉橋島に本拠を移し、その後、海賊衆として、「蒲刈多賀谷氏」と「倉橋多賀谷氏」に分かれ、それぞれ勢威を振い、以後相互に連携を強め、他の瀬戸内水軍とも協力しながら、大内氏に属し、瀬戸内の海上権益を支配していった。戦国期になると、大内氏の滅亡に伴い、小早川氏や毛利氏に属し同氏の命脈を保った。
【写真左】土塁跡
 入口付近から少し入ると、写真にあるように右側(東側)に高さ1m弱の土塁跡が見える。また同城の東西側面は、比高が低いこともあって、全周囲にわたり険峻な切崖を構成している。

 現在は、長く伸びた郭段跡に無数の樹木が植えられ、訪れる人の目を楽しませている。

【写真左】堀切その1
 当城の遺構でもっとも明瞭に残っているが堀切である。登城口の南側から先端部までの間に3カ所確認できたが、登城口手前の南側本丸付近にも堀切があるように思われた。



【写真左】堀切その2





【写真左】石垣跡
 堀切付近に見えたもので、おそらく当時のものと思われる。場所によってはほとんど垂直な切崖個所もあるため、崩落を防ぐため石積みが施工されたものと思われる。








【写真左】丸尾城先端部
 写真にあるような、遊歩道は当時はないため、先端部は断崖絶壁の様相を呈していたものと思われる。

2010年5月3日月曜日

名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)

名護屋城(なごやじょう)

●所在地 佐賀県唐津市鎭西町名護屋
●登城日 2007年4月25日
●築城期 天正19年(1591)
●築城者 豊臣秀吉
●形式 平山城
●指定 国特別史跡
●天守構造 5重7階

 先月まで因幡・鳥取地域の山城を取り上げ、できればその流れで、鳥取城も紹介したかったが、当城の登城は数年前に終えているものの、まともな写真が残っておらず、いずれ再度当城を含め、関係した諸城の登城を終えた段階で、改めてとりあげたいと思う。
 そこで、今回はいささか唐突ながら、佐賀県唐津市にあった「名護屋城」を取り上げたい。

◆解説(参考文献(「日本の歴史⑪ 天下一統」集英社版等)

 豊臣秀吉による朝鮮半島侵略は、第1回目が天正20年・文禄元年(1592)で、いわゆる「文禄の役」といわれている。第2回目は慶長2年(1597)で、「慶長の役」ともいわれている。
 秀吉が朝鮮侵略を考え始めたのは、第1回目のときより7年前の天正13年(1585)にさかのぼるといわれている。

 具体的な史料としては、家臣たちの知行高を増やし、あるいは確保するためには、日本国内では限度があるとして、他国からそれを得ようとしたとされる、直臣の一柳市介らにあてた文書である。同文書では、朝鮮はおろか「唐国」までも覇権の範囲としていた。
【写真左】名護屋城跡に立つ周辺陣跡配置図
 全国からやってきた大名の陣跡だが、これを見ただけでもその数の多さに驚く。





 仲介に当たっていた宗氏領有の対馬は、事実上、朝鮮慶尚道(キョンサンド)の一属島である。秀吉の考えを立てれば、朝鮮国の意にそぐわないことになり、朝鮮国の考えを秀吉にいえば、ほどんど「御乱心」状態の秀吉に受け入れられるはずもなかった。

 誰も秀吉に異を唱えることができなくなったまま、文禄元年、実行に移された。禄高を基準に、九州・四国の大名は、1万石につき600人、中国・紀州は500人、五畿内は400人、東海・関東は300人、越後・出羽は200人というふうに、全国にわたって軍役が課せされた。
【写真左】名護屋城跡その1
 破却された城であるため、当然石垣類も完全には残っていない。







 ところで、名護屋城の築城については、第1回目の前年、すなわち天正19年(1591)9月に加藤清正を責任者として秀吉が命じ、普請開始は翌月10月10日となった。

 2回にわたる朝鮮侵略の経緯や内容はすでに知られた通り、そもそもが覇権という露骨な他国侵略であるから、双方にとって何の益もなく、大きな傷跡を残すだけだった。慶長3年(1598)8月18日、第2回目の出兵で多くの大名が朝鮮に在陣中のまま、秀吉は62歳の生涯を終える。
【写真左】名護屋城跡その2



【写真左】名護屋城跡から玄界灘を望む
 手前の写真は土塁跡を残した部分
【写真左】天守台跡
 探訪した2007年のこの時、もっとも復元個所の進んだ場所で、下段の説明にもあるように、礎石の間に玉石もならべてあった。


















特別史跡名護屋城跡 天守閣跡

 ここは城のシンボルである天守閣が建てられていた天守台です。天守台は、本丸の中でも一段高くなっており、名護屋城で最も高い場所(標高約88m)となっています。

 肥前名護屋城図屏風(佐賀県重要文化財)では、屋根が五層で地上六階建て、瓦葺きで白亜の壁をもつ天守閣が描かれており、天守台石垣の大きさや周囲に描かれた建物・石垣などとの比較から、高さ30mに及ぶ天守閣がそびえていたことがわかっています。

 現在までの発掘調査で、天守建物の基礎となった礎石(土台石)は、計24個の配置が確認されており、天守台中央部分には、親柱を据えていた直径90cm程の大きな礎石が四つ置かれていました。
 また、現在、礎石がみられる地面の部分は、もともとは石垣に囲まれた半地下式の空間(穴蔵)であった部分で、廃城に伴い石垣が大きく壊されていることが分かっています。

 残っている石垣から推定すると、今よりさらに約2m高い位置まで石垣が築かれていたものと考えられます。また、その石垣の天端(最も高い部分=天守建物の1階部分の床にあたる場所)での規模は、東西18m、南北22mに復元されています。

 天守台への入口は、石垣が一部途切れている東側と考えられますが、発掘調査の結果、新たに南側にも入口が設けられていたことがわかりました。天守閣に二つの入口が存在する例は珍しいことから、これらの入口が同時期にあったのではなく、天守台石垣を築く際、途中で出入口の場所を変更した可能性も指摘されています。

 そのほか、礎石の周囲からは、海辺から運ばれた大きさ10cm前後の玉石がびっしりと敷かれている部分が見られ、穴蔵内部の床一面に玉石が敷かれていたことが明らかとなりました。
【写真左】天守台の隣の部分
 このときは御覧の通り、ブルーシートなどがかけてあったが、現在はおそらく完了しているだろう。




 出土遺物の中で特徴的なものとして、天守台周辺部からは、金箔を施した瓦(□瓦・軒丸瓦など)を含め、多くの瓦類が出土しています。

 しかし、金箔瓦の占める割合は低く、金箔瓦は全体的に用いられたものではなく、屋根の軒先部分など、限定された場所に用いられていたものと考えられます。

 天守台は、この地域が唐津藩に含まれるのに伴い、江戸時代前半頃に破却を受けて壊され、以後、古城を管理する「城番」が置かれます。発掘調査でも、江戸時代と考えられる造成面、区画状石列等が発見されており、何らかの施設が存在していた可能性があります。

 江戸時代後期に描かれた、名護屋城や陣の位置を記した「配陣図」類の中には、本丸付近に模式的に「御番所」と記された建物が描かれており、また、江戸時代後期の『伊能忠敬測量日記』には、「名古屋村城山遠見番所~」と記されていることなどから、天守台跡に「番所」等の建物が建てられていた様子がうかがえます。”