羽衣石城跡(うえしじょうあと)
●所在地 鳥取県湯梨浜町羽衣石)
●探訪日 2007年9月3日
●築城期 貞治5年(1366)
●築城者 南条貞宗
●遺構 主郭・帯郭・虎口等
●標高 372m
【写真左】羽衣石城遠望
2014年1月25日撮影
【写真左】本丸跡に建つ模擬天守
◆解説
現地の説明板より転載
“羽衣石城の歴史
羽衣石城は、東伯耆の国人・南条氏の居城として貞治5年(1366)から慶長5年(1600)まで約234年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ、羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」「伯耆民談記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は、南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中ごろのものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが、南条氏を知る一つの手がかりである。
【写真左】羽衣石城跡 周辺案内図
さて、これらの諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩冶高貞の二男で高貞が滅亡したとき、越前国南条郡に逃れた。この貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ、義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治5年(1366)に羽衣石城を築いたという。
【写真左】主郭付近
探訪したのが9月初旬であったこともあり、草丈が伸びていて遺構部がはっきりしないが、主郭周りは奥行もあり、広々としている。
この南条氏の活動が盛んになるのは、応仁の乱以後である。明徳の乱(1391)、応仁の乱(1467~77)のために、伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、南條氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第8代南条宗勝の時には、守護山名澄之の権力を上回る武力を保持するにいたった。
【写真左】登城口付近にある駐車場
所在地は合併前、東郷町と呼ばれていたところで、現在倉吉市と鳥取市の間に挟まれた湯梨浜町というところにある。位置的には以前取り上げた「田内城」「打吹城」(いずれも倉吉市)の東に構えた山城である。
大永4年(1524)、隣国出雲の尼子経久は、伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城ならびに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し、同年5月中ごろまでにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の5月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子・国久が入城した。
しかし、尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558~1569)には、支配権を失った。南条宗勝は永禄5年(1562)に毛利氏の援助により、羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
【写真左】羽衣石城案内図
北にある東郷湖へ流れる羽衣石川からさかのぼっていき、途中から東側の谷沿いに入ると上記の駐車場がある。麓にある集落も当時の武家屋敷関係の跡らしく、残念ながら写真は撮っていないが、当時の面影を十分残している。
駐車場までは車で行けるように整備されている(※竹下総理時代の「ふるさと創生基金」で造られている)が、そこから本丸までの道のりはあまり整備されていない。登り道はかなり傾斜があり、日蔭はあるものの、その分風が吹くところが少ない。真夏などは相当水分補給しないとつらい登山となる。
天正7年(1579)、織田氏の山陰進出が本格的になると、南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが、天正10年(1582)羽柴秀吉の徹平とともに落城し、城主元続は京都へ逃走した。
天正13年(1585)秀吉と毛利氏との間で、領土の確定が行われ東伯耆八橋城を残して、秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。しかし慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の役で、西軍に属した南条元忠は没後改易され、羽衣石城は廃城となった。 東郷町教育委員会”
【写真左】模擬天守下の郭から見上げる
写真のような建物を建てた時、遺構部分も土木機械などでかなり手が加えられているようだ。
山城探訪というよりも、手軽な登山の到達点として公園化を図っているようで、遺構の管理までは手が行き届いていない。
【写真左】本丸跡から東郷湖・日本海を見る
俯瞰できる範囲は、北および西方が限度で、東・南は隣接する山並みが高く、ほとんど見えない。
なお、次稿でとりあげる「馬の山砦」(吉川元春本陣跡)が、この写真の東郷湖北方に見える。
ところで、この山城も上記したように、探訪する時期は夏は避けた方がいいかもしれない。このとき訪れたのは9月の上旬だったが、とにかく蒸し暑く、風がない状況だったので、ずいぶんと疲れた印象がある。そうした状況の時は、いつもそうだが、写真を撮る集中力も散漫になり、当城の遺構関係写真をほとんど撮っていない。
南条氏の出自
現地の説明板にもあるように、羽衣石城初代の南条貞宗は、塩冶高貞の二男としている。しかし諸説もあり、完全に断定はできないようだ。高貞の二男とする出典では、「羽衣石南条記」「伯耆民談記」などがあるとされているが、さらにもう一つとしては、「訳文大日本史」(水戸家蔵版・山路愛山訳)で、この中では、塩冶氏と同族の佐々木氏頼一族が彼を育てたという。このほかにも諸説あり、はっきりとしたことは分からない。
【写真左】城下の集落
撮影日:2014年1月25日
西麓を流れる羽衣石川沿いには、侍屋敷などがあったという。
現在、この付近には「馬場(東・西)」「市場」「長屋」「赤屋敷」などといった地名が残る。
さらに、上記の説明板にある南条氏が当地を支配する以前に、すでに南条氏が存在したという史料も見える。一つは「小早川文書」で、これによると、建武3年(1336)11月、足利尊氏の執事・高師直が、施行状をもって「南条又五郎」という人物に、「伯耆国富田庄内天万郷一分地頭職」を小早川氏に沙汰付するよう指定している。施行状を受けて政務をおこなう者は、守護職の分掌に相当する。
もうひとつは当時羽衣石城西南を治めていた小鴨氏の系図で、小鴨氏基が「母は南条壱岐守元伯女、元弘元年(1331)3月13日、足利尊氏より加冠(元服)のとき、氏の字を契約…」とあり、このときからすでに南条氏が存在していたのではないかという。
【写真左】倉吉市の定光寺にある南条元続・元忠・元秋の墓
三基とも南方の打吹山城を見る位置に建っている。
さて、南条氏および羽衣石城の流れは説明板の通りであるが、天正13年ごろから豊臣政権下で統治することになった南条元続は、関ヶ原の役までの15,6年間のあいだに、羽衣石城から倉吉・打吹城へと本拠を次第に変えていったようだ。実際、羽衣石城を本拠として、東伯耆三郡の政務をおこなうのには地理的に不便だっただろう。
当初打吹城への城番として派遣されていた人物には、南条備前守・山田越中守・小鴨元清らがいた。このときから倉吉の近世城下町としての土台が進められたという。
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●所在地 鳥取県湯梨浜町羽衣石)
●探訪日 2007年9月3日
●築城期 貞治5年(1366)
●築城者 南条貞宗
●遺構 主郭・帯郭・虎口等
●標高 372m
【写真左】羽衣石城遠望
2014年1月25日撮影
【写真左】本丸跡に建つ模擬天守
◆解説
現地の説明板より転載
“羽衣石城の歴史
羽衣石城は、東伯耆の国人・南条氏の居城として貞治5年(1366)から慶長5年(1600)まで約234年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ、羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」「伯耆民談記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は、南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中ごろのものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが、南条氏を知る一つの手がかりである。
【写真左】羽衣石城跡 周辺案内図
さて、これらの諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩冶高貞の二男で高貞が滅亡したとき、越前国南条郡に逃れた。この貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ、義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治5年(1366)に羽衣石城を築いたという。
【写真左】主郭付近
探訪したのが9月初旬であったこともあり、草丈が伸びていて遺構部がはっきりしないが、主郭周りは奥行もあり、広々としている。
この南条氏の活動が盛んになるのは、応仁の乱以後である。明徳の乱(1391)、応仁の乱(1467~77)のために、伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、南條氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第8代南条宗勝の時には、守護山名澄之の権力を上回る武力を保持するにいたった。
【写真左】登城口付近にある駐車場
所在地は合併前、東郷町と呼ばれていたところで、現在倉吉市と鳥取市の間に挟まれた湯梨浜町というところにある。位置的には以前取り上げた「田内城」「打吹城」(いずれも倉吉市)の東に構えた山城である。
大永4年(1524)、隣国出雲の尼子経久は、伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城ならびに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し、同年5月中ごろまでにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の5月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子・国久が入城した。
しかし、尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558~1569)には、支配権を失った。南条宗勝は永禄5年(1562)に毛利氏の援助により、羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
【写真左】羽衣石城案内図
北にある東郷湖へ流れる羽衣石川からさかのぼっていき、途中から東側の谷沿いに入ると上記の駐車場がある。麓にある集落も当時の武家屋敷関係の跡らしく、残念ながら写真は撮っていないが、当時の面影を十分残している。
駐車場までは車で行けるように整備されている(※竹下総理時代の「ふるさと創生基金」で造られている)が、そこから本丸までの道のりはあまり整備されていない。登り道はかなり傾斜があり、日蔭はあるものの、その分風が吹くところが少ない。真夏などは相当水分補給しないとつらい登山となる。
天正7年(1579)、織田氏の山陰進出が本格的になると、南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが、天正10年(1582)羽柴秀吉の徹平とともに落城し、城主元続は京都へ逃走した。
天正13年(1585)秀吉と毛利氏との間で、領土の確定が行われ東伯耆八橋城を残して、秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。しかし慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の役で、西軍に属した南条元忠は没後改易され、羽衣石城は廃城となった。 東郷町教育委員会”
【写真左】模擬天守下の郭から見上げる
写真のような建物を建てた時、遺構部分も土木機械などでかなり手が加えられているようだ。
山城探訪というよりも、手軽な登山の到達点として公園化を図っているようで、遺構の管理までは手が行き届いていない。
【写真左】本丸跡から東郷湖・日本海を見る
俯瞰できる範囲は、北および西方が限度で、東・南は隣接する山並みが高く、ほとんど見えない。
なお、次稿でとりあげる「馬の山砦」(吉川元春本陣跡)が、この写真の東郷湖北方に見える。
ところで、この山城も上記したように、探訪する時期は夏は避けた方がいいかもしれない。このとき訪れたのは9月の上旬だったが、とにかく蒸し暑く、風がない状況だったので、ずいぶんと疲れた印象がある。そうした状況の時は、いつもそうだが、写真を撮る集中力も散漫になり、当城の遺構関係写真をほとんど撮っていない。
南条氏の出自
現地の説明板にもあるように、羽衣石城初代の南条貞宗は、塩冶高貞の二男としている。しかし諸説もあり、完全に断定はできないようだ。高貞の二男とする出典では、「羽衣石南条記」「伯耆民談記」などがあるとされているが、さらにもう一つとしては、「訳文大日本史」(水戸家蔵版・山路愛山訳)で、この中では、塩冶氏と同族の佐々木氏頼一族が彼を育てたという。このほかにも諸説あり、はっきりとしたことは分からない。
【写真左】城下の集落
撮影日:2014年1月25日
西麓を流れる羽衣石川沿いには、侍屋敷などがあったという。
現在、この付近には「馬場(東・西)」「市場」「長屋」「赤屋敷」などといった地名が残る。
さらに、上記の説明板にある南条氏が当地を支配する以前に、すでに南条氏が存在したという史料も見える。一つは「小早川文書」で、これによると、建武3年(1336)11月、足利尊氏の執事・高師直が、施行状をもって「南条又五郎」という人物に、「伯耆国富田庄内天万郷一分地頭職」を小早川氏に沙汰付するよう指定している。施行状を受けて政務をおこなう者は、守護職の分掌に相当する。
もうひとつは当時羽衣石城西南を治めていた小鴨氏の系図で、小鴨氏基が「母は南条壱岐守元伯女、元弘元年(1331)3月13日、足利尊氏より加冠(元服)のとき、氏の字を契約…」とあり、このときからすでに南条氏が存在していたのではないかという。
【写真左】倉吉市の定光寺にある南条元続・元忠・元秋の墓
三基とも南方の打吹山城を見る位置に建っている。
さて、南条氏および羽衣石城の流れは説明板の通りであるが、天正13年ごろから豊臣政権下で統治することになった南条元続は、関ヶ原の役までの15,6年間のあいだに、羽衣石城から倉吉・打吹城へと本拠を次第に変えていったようだ。実際、羽衣石城を本拠として、東伯耆三郡の政務をおこなうのには地理的に不便だっただろう。
当初打吹城への城番として派遣されていた人物には、南条備前守・山田越中守・小鴨元清らがいた。このときから倉吉の近世城下町としての土台が進められたという。
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