2022年2月22日火曜日

中村御所(高知県四万十市中村本町1 一條神社)

 中村御所(なかむらごしょ)

●所在地 高知県四万十市中村本町1 一條神社
●高さ 19m(比高9m)
●形態 居館
●築城期 不明
●城主 一条氏
●登城日 2017年5月21日
●備考 一條神社

解説(「中村城跡調査報告書」1985年中村市教育委員会編等)
 前稿中村城より南東へおよそ500mほど向かったところにあるのが一條神社である。現在中村本町という市街地に独立した小丘があり、その上に当社が祀られている。
【写真左】一条神社の参道
 中村市の市街地にあり、付近にはスーパーや銀行など町の中心部に当たる。
 写真は南側から見たもので、鳥居が建ち参道を進むと小高い丘に一条神社が祀られている。


現地の説明板より

“一條神社

 この神社は、文久2年(1862)、中村御所跡の小森山山頂にあった一条家御廟所跡に、土佐一条氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立されました。土佐一条氏は応仁の乱を避け荘園の復興を目指して下向した関白一条教房に始まり、その子房家以後4代、中村の文化、経済の発展に力をそそぎました。

 この神社には教房の父、兼良をはじめ、土佐一条氏歴代の霊を祀っています。毎年11月に行われる大祭は、土佐の3大祭の一つに数えられています。現在の社殿は、昭和19年(1944)の建立です。“
【写真左】「中村御所跡」の石碑
 鳥居の左側には「一条氏 中村御所跡」と筆耕された石碑が建つ。





中村御所

 神社の参道脇には「中村御所跡」と記された石碑が建立され、石碑には下段のように記されている。

”中村御所跡
 御所は一条教房が中村下向の時居館として構築、一条氏敗去のあと荒廃したが、慶長12年(1607)、遺臣により一条氏数代の霊をまつる一祠が建てられた。
 神域には藤見の御殿跡や化粧の井戸など一条氏ゆかりの旧跡が残っている。”
【写真左】参道
 南北凡そ100mほどの長さだが、街中にあるためか幅は20mもない。






比定地

 ところで、通称中村城といわれている城郭も、前稿でその比定地を明確に定めていなかったが、本稿の中村御所についても、今のところその比定地は完全に確定していない。
【写真左】中村御所館跡 推定復元図
 現地に設置されたもので、総面積は18,000㎡、東西11.5m、南北157mの規模。

 また、この図板の右側には以下のように記されている。






説明板より

❝中村御所館跡
 天正17年(1589)の『地検帳』によると、此の丘陵が森山で維摩(ゆいま)堂床がある。
 小山の東側に、御堀・北堀・寺院跡や小田つきの広い土地に建物がある。
 西側には、御土居が散田と登録され「居(いる)」の記載で家屋のあったことが知れる。
 御土居・御堀の敬称は長宗我部元親に付けたものではあるが、東・西同じ地割の絵図範囲が土佐一條氏の『中村御所』跡と推定できる。

 応仁2年(1468)前(さき)の関白従一位一條教房が幡多庄に下向から一世紀ーー-。
往時の華やかな公家文化と壮大な権勢が偲ばれる。
   昭和63年(1988)
   提供 中村南ロータリークラブ
   <解説>岡村憲治❞
【写真左】一条神社
 祭神は、若藤男命(一條兼良)、若藤女命(同夫人)、一條教房並びに子孫房家・房冬・房基・兼定・内政及び其の連枝の霊、としている。
 祭日の一つである春祭りでは、土佐一條公家行列藤祭が5月3日に行われる。


 中村御所がこの一条神社を含めた小丘部であるとしたのは、「中村御所と敬称された一条氏の御土居は、現在の中村市本町一丁目に当たり、森山、すなわち一条神社のある小丘を含めた一帯にあったと見られている」と「高知県歴史辞典」で記した島田豊寿氏である。
【写真左】「御化粧の井戸」
 本殿に向かう参道が階段となる左脇に一条家が使ったといわれる井戸が残る。
 女官・侍女たちが化粧のために使用されたと伝わり、一枚岩をくりぬいたもので、水深は5m。今日まで枯れたことがないという。


 これとは別に「中村の御所」と記された史料が残っている。これは宝永5年(1708)吉田孝世が著した『土佐物語』に出てくるもので、一条氏が土佐に下向した際、
「文明11年已亥、中村の古城を結構に築きて、教房・房家移り給ひ、国中の諸士国司と仰ぎ奉り、中村の御所とぞ申しける」
 と記され、ここではこの「中村の御所」を山地、即ち天守谷山と呼ばれる現在の公園(桜の壇)と推定している。
【写真左】一条神社から中村城方面を遠望する。
 本殿から北西方向に中村城を模した四万十市郷土博物館の建物が見える。
【写真左】一条神社の西端部
 本殿の西側法面を見たもので、コンクリートで覆われているものの、この個所は当時から険峻な斜面であったものと思われる。

【写真左】一条神社の看板猫・チビちゃん
 参拝したこの日(2017年5月21日)、境内に人懐っこい猫がいた。当社の看板猫で、「チビ」という。

 管理人が訪れたとき、連れ合いは参拝もそこそこにチビちゃんに夢中だった。あれから随分年が経っている。今も元気だろうか。

中村御所と中村城

 確定的な史料がないため、中村御所と中村城の位置についてこれ以上推考することはできないが、管理人が抱くイメージとしては、一条氏は本稿の一条神社にあった中村御所を居館とし、山地にあたる中村城(為松城など)には、家臣であった為松氏など主だった重臣を配置し、それぞれのエリアで館を建てていたのではないかと想像する。
【写真左】四万十川南岸にある香山寺側から中村城及び中村の街並みを見る。




 というのも、元々教房が土佐に下向する前から当地(幡多庄等)は一条氏の荘園(家領)であって、この時代すでに当地を治めるための拠点があったはずで、荘園領主から大名領主へと変貌を遂げる際、中村の街づくり(京を模倣)を開始し、最も財を成したとされる南海航路からもたらされた対明貿易などをみたとき、後川及び四万十川に挟まれた中村御所は、その機能性から考えて、近くに河湊を配置し、海運を中心とした産業の振興を図っていたのではないかと考えられるからである。
【写真左】四万十川河口部を見る。
 上記の香山寺から四万十川の河口部を見たもので、後川と合流した箇所が見える。
 その先には土佐湾(太平洋)が見える。

2022年2月19日土曜日

土佐・中村城・その2(高知県四万十市中村丸之内)

 土佐・中村城(とさ・なかむらじょう)・その2

●所在地 高知県四万十市中村丸之内
●別名 為松城
●形態 平山城
●高さ 70m
●築城期 不明
●築城者 為松氏
●城主 為松氏、吉良親貞、山内氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2005年6月10日、及び2017年5月21日

◆解説(参考資料『中村城跡調査報告書』1985年3月 中村市教育委員会 等)
 前稿に続いて中村城をとり上げるが、本稿では一条氏が滅亡したあとの動きを追ってみたい。
【写真左】四万十市郷土博物館
 旧二の丸跡に建つ模擬天守風の四万十市郷土博物館
 前稿でも述べたが、手前には土塁が残っている。因みにこの博物館が建っている箇所にも土塁があったという。


現地の説明板より

❝史跡めぐり  中村城跡
 中村城とは、為松山頂にあった4つの城群、即ち東ノ城、為松城、詰(本丸)、今城の総称で、連立式の城郭であったと考えられています。

 ここに残っている石垣は、昭和40年に発見されたもので、山内2万石2代藩主山内政豊(別名 良豊)時代の慶長18(1613)年、新たに中村城として修復された時のものだと思われます。
 この城の詳細は不明ですが、翌々年の元和元(1615)年の一国一城令により廃城となり、以後修復されることはありませんでした。❞


長宗我部氏、幡多郡一円を支配

 中村城の最後の城主一条兼定が豊後に去ったのは、前稿でも述べたように天正2年である。この段階で、次に入ったのが長宗我部元親である(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)。

 天正2年(1574)2月、兼定が豊後臼杵に逃れたあと、長曾我部元親は兼定の子内政を中村御所(中村城か)から高知の大津・天竺城(高知県高知市大津)へ移した。その後、中村城の城監に命じられたのが、元親の弟で当時吾川郡の吉良城(高知県高知市春野町大谷)主となっていた吉良左京進親貞である。ところが、親貞はその2年後の天正4年に死去したため、谷忠兵衛忠澄が城監となった。
【写真左】中ノ森段付近
 中村公園(城)の中心部である為松城から北に進んだ位置で、現在は遊園地などになっている。
 このため遺構はほどんど認められない。


谷忠兵衛忠澄

 谷忠兵衛忠澄は長宗我部氏臣下の中でも特に外交面を担当していた武将で、元親も彼には全幅の信頼を置いていた。

 長曾我部氏が治めていたのは、伊予の一部を除く四国全土であったが、天正13年(1585)8月、羽柴秀吉による四国攻めによって彼の軍門に降り、それに伴い、忠澄は同14年12月、九州豊後の戸次川の戦い(長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)参照)に従軍した。

 この戦い直後、戦死した元親の長男信親の遺骸・遺品を受け取るために島津軍と交渉、荼毘に付したのち遺灰を高野山に登り奥の院に納めた。このとき、土佐武士700人の供養を併せて行い石塔婆を建立している。
 
 忠澄のこうした動きからも、彼が土佐中村城に常に在城する状況ではなかったようで、忠澄のあとを受け持ったのが桑名藤蔵人並びに、その息子桑名弥次兵衛一孝といわれ、当城の城監と記録されている。
【写真左】広場
 二ノ丸から南東部に進んだ場所で、郭跡と見られる。








現地の説明板より

❝史跡めぐり
東ノ城跡
 この城跡は中村城跡の城群の一つで、一条氏一門の西小路氏の持城と考えられています。城は二区画に分かれていて、面積は約200平方米(約60坪)程度であったと思われます。16世紀後半に一条政権が滅び、西小路氏も中村を退去すると、城は荒廃し、山畠となりました。

 現在は地形が変化し、かつての城の面影はほとんどありませんが、わずかに土塁の一部が残っています。❞
【写真左】上ノ段から見る。
 この個所も公園となっており改変された跡だが、もとは郭だったのだろう。





山内氏

 長宗我部氏のあとは山内一豊の一族が当地・土佐一円を治めることになる。一豊が土佐に入ったのは関ヶ原後の慶長6年(1601)1月である。最初に入ったのが浦戸城である。

 一豊は浦戸を拠点としてこの年の4月から家臣を従えて、土佐領内の巡視を行い、その2か月後には領内要地に一門・重臣を配置していった。中村については、一豊の弟・康豊を置き、2万石を分封させている。

 康豊が中村に住んでから4年後の慶長10年、一豊が死去し嫡子がいなかったため、同年11月康豊の長子・忠義が本家を襲封し2代藩主となった。そして忠義が若かったため、実父康豊が後見役となり、このため中村には常住することはなく、さらに元和元年(1615)の一国一城令により中村城は破却され、中村城はここに幕を下ろすことになる。
【写真左】駐車場付近に戻る。
 この近くに「中村城」と記された石碑が建っている。

 




現地の説明板より

❝為松城跡
 城跡のこのあたりは為松城の詰(本丸)とよばれ、約800平方米(240坪)の広さであったようです。この詰につづき8区画で城を形成していました。

 城主とされる為松氏は、この地方の有力な豪族(国人)の出ですが、一条氏の入国以来家臣となっています。しかし、16世紀後半の一条政権滅亡とともに所領を失い、歴史から姿を消しました。
現在、この碑の左手50mの地点に土塁の一部が残っています。❞
【写真左】一条神社を遠望する。
中村城から見たもので、次稿で予定している一条氏を祀った神社が見える。