備前・日笠青山城(びぜん・ひがさあおやまじょう)
●所在地 岡山県和気郡和気町日笠上
●高さ 216m(比高140m)
●築城期 平安末期
●築城者 日笠将監親政
●城主 日笠氏、頼房、藤田甚左衛門
●遺構 郭、土塁、堀切、畝状竪堀
●指定 町史跡
●高さ 216m(比高140m)
●築城期 平安末期
●築城者 日笠将監親政
●城主 日笠氏、頼房、藤田甚左衛門
●遺構 郭、土塁、堀切、畝状竪堀
●指定 町史跡
●備考 長泉寺
●登城日 2017年4月13日
●登城日 2017年4月13日
◆解説(参考資料 日笠朝子著「日笠物語」、日笠賢著「日笠荘」等)
備前・日笠青山城(以下「青山城」とする。)は、以前紹介した浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)から東へおよそ3キロほど向かった日笠上にある水精山に築かれた城郭である。
【写真左】青山城遠望 南側から見たもので、中央の山が青山城。なお、この写真では天神山城は左方向になる。
現地の説明板より
❝日笠青山城跡
和気町指定史跡(昭和54年11月26日指定)
日笠青山城は、戦国時代に築かれた山城で、天神山城主・浦上宗景の宿老であった日笠頼房の居城でした。天神山城から南東へと続く丘陵上、日笠盆地を一望できる場所に築かれており、その重要性をうかがわせています。
丘陵の頂部に主郭、その北側に北郭、東側の尾根に二の郭が位置し、郭が連なる形式(連郭式)を持った山城でした。また、郭からは竪堀が要所に多く掘られており、防御を意識した構造になっています。
天神山城は、宇喜多直家により天正5年(1577)に攻略されました。日笠青山城も激しい合戦の末に落城したと伝えられます。
和気町”
【写真左】登城途中の道。 長泉寺側の駐車場に止め、そこからきれいな道が上の方にあったので、勘を頼りに向かったが全く違う道だった。幸い、当院の御住職に御親切に登城口を教えていただいた。お礼申し上げます。
写真は登城途中の箇所で倒木・竹などが少し道を塞いでいた箇所。荒れた箇所はこの部分のみであとはさほど難儀でない。
東側の尾根に二の郭を置き、その南側には畝状竪堀群が設置され、西に向かって一旦細くなり、虎口を設けて主郭に至る。
ここから軸は南北に変わり、主郭北端で堀切を介し、北郭に繋ぐ。北郭及び主郭の西及び北斜面には執拗なまで畝状竪堀群を配置している。
日笠氏
日笠城の由来は、平安末期に日笠将監親政が水精山に城を築き、当地を本拠としたことに始まる。因みに日笠氏は坂上田村麻呂の子・若狭国日里宇まで遡るという。
初代から数えて9代目の頼房の時、戦国時代を迎える。このころすでに日笠氏は浦上氏の家臣として仕えていた。当時の浦上氏の居城は三石城(岡山県備前市三石)である。
【写真左】左二の郭、右主郭に向かう分岐点 登城道は上記のように、二の郭と主郭に向かう分岐点に繋がっている。
このあと先ず左の二の郭に向かう。
ところで、浦上氏は室町期に備前国守護となった赤松氏(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)の重臣で、三石城を拠点として同国守護代となっていた。
嘉吉の変で赤松満祐が将軍足利義政を暗殺し、その後幕府軍によって満祐が討伐された際、浦上氏も主家に殉じたが、その後浦上則宗が再び赤松家を再興する。しかし、則宗の孫・村宗の代になると、村宗は赤松氏と対立、主家の赤松義村は大永元年(1521)村宗の刺客によって殺害された。こののち浦上氏は播磨国支配へと動き始める。
【写真左】二の郭・その1 二の郭には電波塔のような施設が建っている。
このあと主郭に向かう。
この後浦上氏は村宗の子であった政宗と宗景兄弟は不仲となり、弟・宗景は日笠頼房の勧めで吉井川の東岸に天神山城を築いた。時に享禄5年(天文元年・1532)のことである。
宗景は、その後吉井川沿いに繋がる東備前から北方の美作地方まで治めていくことになる。
【写真左】虎口郭 縄張図にある虎口郭とされている箇所で、虎口そのものは大分埋まっているが、当時は左右に土塁の高まりがあったものと思われる。
【写真左】主郭南端部 少し左に回り込むと、主郭入口と思われる個所に二つ目の虎口と思われる入口が現れる。
上段が主郭となる。
天文12年(1543)に浦上氏の被官となった宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)は、浦上氏の命により多くの戦功を立てていたが、世は次第に下剋上の時代となっていく。
天正5年(1577)直家は主君浦上氏に牙を向いた。直家による天神山城落城の時期は、天正5年(1577)8月10日とされ、日笠氏の青山城は天神山城の落城前の4月12日といわれている。青山城も直家らの攻防に対し、数か月間籠城したものの、下から火を放たれ落城したといわれる。
【写真左】主郭の南端部 虎口を上がると標柱が建ち、奥に小社が見える。
【写真左】小社 主郭のほぼ中央に御覧の小社が祀られている。
記憶がはっきりしないが妙見社といわれている。日笠氏を祀るものだろう。
主郭から北の方へ向かった位置から見た右側(東)の切岸。
主郭と北側にある北郭の間に構築されているもので、この堀切を過ぎると北郭は少し高度を下げる。
【写真左】北郭 北郭は御覧のように主郭ほど整備されていないが、十分に踏査できる状態。
長径50m×短径10~15mの規模
【写真左】北郭の北端部 急傾斜となっており、この下まで行くと、東面及び西面に畝状竪堀群があるはずだが、御覧の藪コギのため断念。
青山城の北東側中腹に建立されている。
備前国には法華宗(日蓮宗)の寺院が極めて多い。これには南北朝時代に大覚妙実僧正(1297~1342)によって大々的に布教が行われ、多くの寺院が改宗していった背景がある。
備前・船山城(岡山県岡山市北区原)の稿でも触れたが、金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の城主松田氏が、天台宗を宗派としていた金山寺に日蓮宗(法華宗)に改宗するよう迫ったのは、松田氏が南北朝時代に妙実僧正に帰依し、地元の福輪寺を蓮昌寺と改め、ここを伝道活動の拠点としたことから備前国に布教が拡大していった。
【写真左】長泉寺境内 訪れた時期がよかったのか、境内の樹木には多くの花が咲いていた。
こうした背景もあって青山城主・日笠頼房は熱心な法華経の信者で、当時青山城の東麓にあたる日笠川の東岸に日笠山乗蓮寺という寺院を建立している。
しかしこの寺は江戸時代の寛文5年(1666)、備前岡山藩の初代藩主池田光政により不受不施派の禁制施策によって翌6年に破却された。光政は儒教への傾倒が強く、備前法華に対する敵愾心があったからだといわれている。
【写真左】長泉寺側から青山城方面を見る。 桜が境内に色を添える。
ところで、先述した宇喜多直家による天正5年(1577)の青山城落城から9年後の天正14年(1586)、宇喜多家家臣藤田甚左衛門は、邑久郡久々井村に常立山長泉寺を建立した。
藤田甚左衛門は、青山城落城後、天王久保山城に入城し日笠を治めた武将である。天王久保山城というのは、青山城の北東1キロ余りの入尾の地区に所在する城郭である(下の写真参照)。
【写真左】長泉寺から天王久保山城を遠望する。 江戸期に入ると、池田光政による乗蓮寺廃寺から32年後の元禄12年(1699)、青山城(水精山)中腹に長泉寺を移転建立した。そして、300年後の平成9年(1997)檀信徒により4年の歳月をかけて新築された。開山上人は本行院日宥上人、現生上人は22世である。