2021年11月28日日曜日

備前・日笠青山城(岡山県和気郡和気町日笠上)

 備前・日笠青山城(びぜん・ひがさあおやまじょう)

●所在地 岡山県和気郡和気町日笠上
●高さ 216m(比高140m)
●築城期 平安末期
●築城者 日笠将監親政
●城主 日笠氏、頼房、藤田甚左衛門
●遺構 郭、土塁、堀切、畝状竪堀
●指定 町史跡
●備考 長泉寺
●登城日 2017年4月13日

解説(参考資料 日笠朝子著「日笠物語」、日笠賢著「日笠荘」等)
 備前・日笠青山城(以下「青山城」とする。)は、以前紹介した浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)から東へおよそ3キロほど向かった日笠上にある水精山に築かれた城郭である。
【写真左】青山城遠望
 南側から見たもので、中央の山が青山城。なお、この写真では天神山城は左方向になる。





現地の説明板より

❝日笠青山城跡
  和気町指定史跡(昭和54年11月26日指定)

 日笠青山城は、戦国時代に築かれた山城で、天神山城主・浦上宗景の宿老であった日笠頼房の居城でした。天神山城から南東へと続く丘陵上、日笠盆地を一望できる場所に築かれており、その重要性をうかがわせています。
 丘陵の頂部に主郭、その北側に北郭、東側の尾根に二の郭が位置し、郭が連なる形式(連郭式)を持った山城でした。また、郭からは竪堀が要所に多く掘られており、防御を意識した構造になっています。

 天神山城は、宇喜多直家により天正5年(1577)に攻略されました。日笠青山城も激しい合戦の末に落城したと伝えられます。
                  和気町”
【写真左】登城途中の道。
 長泉寺側の駐車場に止め、そこからきれいな道が上の方にあったので、勘を頼りに向かったが全く違う道だった。幸い、当院の御住職に御親切に登城口を教えていただいた。お礼申し上げます。

 写真は登城途中の箇所で倒木・竹などが少し道を塞いでいた箇所。荒れた箇所はこの部分のみであとはさほど難儀でない。
【写真左】青山城縄張図
 東側の尾根に二の郭を置き、その南側には畝状竪堀群が設置され、西に向かって一旦細くなり、虎口を設けて主郭に至る。

 ここから軸は南北に変わり、主郭北端で堀切を介し、北郭に繋ぐ。北郭及び主郭の西及び北斜面には執拗なまで畝状竪堀群を配置している。



日笠氏

 日笠城の由来は、平安末期に日笠将監親政が水精山に城を築き、当地を本拠としたことに始まる。因みに日笠氏は坂上田村麻呂の子・若狭国日里宇まで遡るという。
 初代から数えて9代目の頼房の時、戦国時代を迎える。このころすでに日笠氏は浦上氏の家臣として仕えていた。当時の浦上氏の居城は三石城(岡山県備前市三石)である。
【写真左】左二の郭、右主郭に向かう分岐点
 登城道は上記のように、二の郭と主郭に向かう分岐点に繋がっている。
 このあと先ず左の二の郭に向かう。


 ところで、浦上氏は室町期に備前国守護となった赤松氏(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)の重臣で、三石城を拠点として同国守護代となっていた。

 嘉吉の変で赤松満祐が将軍足利義政を暗殺し、その後幕府軍によって満祐が討伐された際、浦上氏も主家に殉じたが、その後浦上則宗が再び赤松家を再興する。しかし、則宗の孫・村宗の代になると、村宗は赤松氏と対立、主家の赤松義村は大永元年(1521)村宗の刺客によって殺害された。こののち浦上氏は播磨国支配へと動き始める。
【写真左】二の郭・その1
【写真左】二の郭・その2
 二の郭には電波塔のような施設が建っている。
【写真左】二の郭、東の郭段
 このあと主郭に向かう。









 この後浦上氏は村宗の子であった政宗と宗景兄弟は不仲となり、弟・宗景は日笠頼房の勧めで吉井川の東岸に天神山城を築いた。時に享禄5年(天文元年・1532)のことである。
 宗景は、その後吉井川沿いに繋がる東備前から北方の美作地方まで治めていくことになる。
【写真左】虎口郭
 縄張図にある虎口郭とされている箇所で、虎口そのものは大分埋まっているが、当時は左右に土塁の高まりがあったものと思われる。
【写真左】主郭南端部
 少し左に回り込むと、主郭入口と思われる個所に二つ目の虎口と思われる入口が現れる。
 上段が主郭となる。



 天文12年(1543)に浦上氏の被官となった宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)は、浦上氏の命により多くの戦功を立てていたが、世は次第に下剋上の時代となっていく。

 天正5年(1577)直家は主君浦上氏に牙を向いた。直家による天神山城落城の時期は、天正5年(1577)8月10日とされ、日笠氏の青山城は天神山城の落城前の4月12日といわれている。青山城も直家らの攻防に対し、数か月間籠城したものの、下から火を放たれ落城したといわれる。
【写真左】主郭の南端部
 虎口を上がると標柱が建ち、奥に小社が見える。
【写真左】小社
 主郭のほぼ中央に御覧の小社が祀られている。

 記憶がはっきりしないが妙見社といわれている。日笠氏を祀るものだろう。
【写真左】主郭北側の切岸
 主郭から北の方へ向かった位置から見た右側(東)の切岸。

 なお、縄張図にある西側の畝状竪堀群は整備されていないため、残念ながら写真に収めていない。
【写真左】堀切
 主郭と北側にある北郭の間に構築されているもので、この堀切を過ぎると北郭は少し高度を下げる。
【写真左】北郭
 北郭は御覧のように主郭ほど整備されていないが、十分に踏査できる状態。
 長径50m×短径10~15mの規模
【写真左】北郭の北端部
 急傾斜となっており、この下まで行くと、東面及び西面に畝状竪堀群があるはずだが、御覧の藪コギのため断念。



長泉寺

 ところで、青山城の北麓には古刹・長泉寺が建立されている。当寺は地元日笠、及び青山城と深い関係があるので触れておきたい。
【写真左】日蓮宗長泉寺
 青山城の北東側中腹に建立されている。








 備前国には法華宗(日蓮宗)の寺院が極めて多い。これには南北朝時代に大覚妙実僧正(1297~1342)によって大々的に布教が行われ、多くの寺院が改宗していった背景がある。

 備前・船山城(岡山県岡山市北区原)の稿でも触れたが、金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の城主松田氏が、天台宗を宗派としていた金山寺に日蓮宗(法華宗)に改宗するよう迫ったのは、松田氏が南北朝時代に妙実僧正に帰依し、地元の福輪寺を蓮昌寺と改め、ここを伝道活動の拠点としたことから備前国に布教が拡大していった。
【写真左】長泉寺境内
 訪れた時期がよかったのか、境内の樹木には多くの花が咲いていた。






 こうした背景もあって青山城主・日笠頼房は熱心な法華経の信者で、当時青山城の東麓にあたる日笠川の東岸に日笠山乗蓮寺という寺院を建立している。

 しかしこの寺は江戸時代の寛文5年(1666)、備前岡山藩の初代藩主池田光政により不受不施派の禁制施策によって翌6年に破却された。光政は儒教への傾倒が強く、備前法華に対する敵愾心があったからだといわれている。
【写真左】長泉寺側から青山城方面を見る。
 桜が境内に色を添える。








 ところで、先述した宇喜多直家による天正5年(1577)の青山城落城から9年後の天正14年(1586)、宇喜多家家臣藤田甚左衛門は、邑久郡久々井村に常立山長泉寺を建立した。

 藤田甚左衛門は、青山城落城後、天王久保山城に入城し日笠を治めた武将である。天王久保山城というのは、青山城の北東1キロ余りの入尾の地区に所在する城郭である(下の写真参照)。
【写真左】長泉寺から天王久保山城を遠望する。
 









 江戸期に入ると、池田光政による乗蓮寺廃寺から32年後の元禄12年(1699)、青山城(水精山)中腹に長泉寺を移転建立した。そして、300年後の平成9年(1997)檀信徒により4年の歳月をかけて新築された。開山上人は本行院日宥上人、現生上人は22世である。

2021年11月22日月曜日

伊予・宇多城(愛媛県越智郡上島町弓削久司浦)

 伊予・宇多城(いよ・うたじょう)

●所在地 愛媛県越智郡上島町弓削久司浦
●高さ 50m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭等
●築城期 不明(鎌倉初期か)
●築城者 宇田源次兵衛明利
●城主 宇多氏
●登城日 2017年4月5日

解説(参考資料 『日本城郭体系』第16巻等)
 伊予・宇多城(以下「宇多城」とする。)は、前稿の備後・長崎城(広島県尾道市因島土生町)がある因島の南東に浮かぶ弓削島に所在する丘城で、同島の最北端部久司浦に築かれた城郭である。
【写真左】宇多城遠望
 西側から見たもの。なお、写真に見える道路は弓削島循環線で、同島の外周部を巡回できるルートとなっている。



現地の説明板より

❝宇多城跡(城山)と火山
 中世の頃、伊予国壬生川(現在の西条市)から来島した宇田源次兵衛源明利という武将が、弓削島北端の久司浦に宇多城(宇田城)を築いたと伝えられています。

 宇多城のあった山は城山といわれ、城を中心に東には駒ヶ鼻、北には馬立ノ鼻、西には後(うしろ)、南には腹城(ふくしろ)と四方に要害を持っていました。
【写真左】弓削島・佐島のガイドマップ
 因島から直接弓削島に向かうフェリーがあるようだが、この日は前稿の長崎城のある因島からフェリーで生名島に渡り、そこからそのまま車で生名橋を渡り佐島に入り、さらに弓削大島を使って弓削島に着いた。

 このガイドマップは弓削島のフェリー乗り場駐車場付近にあったものと記憶しているが、左方向が北を示す。


 江戸時代になると、城山の北に並んだ火山には烽火台がありました。
 鯨池の東、宇多城跡の西南麓には田頭屋敷と呼ばれる場所があり、宇田氏(後の田頭氏)の居館があったと伝えられています。
 そこには、田頭井戸といわれる水場や供養塔である板碑がみられます。
    上島町教育委員会❞
【写真左】宇多城の位置を示す。
 なお、この図には示されていないが、宇多城の位置から下方(西)にある大森神社の後背の丘には久司浦城という砦形態の城郭もあった。




宇田源次兵衛源明利

 宇多城の築城者は宇田源次兵衛源明利といわれる。宇多城の東麓に東泉寺という寺院が建立されているが、この寺院には「東泉寺温知録」という史料が残されている。これにによれば、承元年間(1207~1211)に、河野家武将宇田源次兵衛源明利という武将が当地に来島したといわれる。

 東泉寺温知録では、宇多源ヱ門源ノ明利と記され、持仏薬師如来像を奉持、この地に堂宇を建立し、明利山宗参寺と命名した、とある。
【写真左】鯨池公園
 宇多城方向に歩いていくと、途中で右手に公園が見える。きれいな花をつけた木々が池を囲んでいる。
 宇多城時代からあった池(堤)かもしれない。


 この時代(承元年間)は土御門・順徳天皇の代で、後鳥羽上皇の院政期となり、鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時であったが、このころから次第に不穏な動きが始まる。
 特に地方に在っては、諸国の国衙・守護人の怠慢により群盗が各地で蜂起したため、幕府は守護職補任の下文などを提出させ守護を戒めている。

 おそらくこのことから伊予守護職を与えられなかったものの、同国の御家人を統括する強大な権限を持っていた河野氏などもこの幕府の命に従い、群盗防衛のため、明利を弓削島に差し向けたのだろう。
【写真左】宇多城が見えてきた。
 周辺部にはミカン畑が広がる。
 奥には左手に宇多城の説明板が設置されている。(下の写真参照)



 その後の宇多氏の動きは不明だが、主君であった河野氏(通信)は、承久の乱の際、後鳥羽上皇に与し、敗れたのち奥州に配流され出家している。

 しかし、河野氏のうち幕府方に与した通信の子・通久がかろうじて河野家を継いでいるので、宇多氏も弓削島に宇多一族の命脈を繋いでいったものと思われる。

 このため、江戸期に至ると宇多氏の後裔とされる田頭家の三代目源助の次男慶達が、法身して禅僧となり、臨済宗東福寺派に帰依し東泉寺を創建している。おそらくこの東泉寺の場所は、宇多明利が最初に建立した宗参寺だったと思われる。
写真左】説明板
 以前にも説明板があったようだが、劣化したため新しく取り付けられた。







遺構

 以前には宇多城の北側に簡単な要図(縄張図)を付した説明板があったらしいが、新しくした説明板にはその図はなく、冒頭の内容を記した説明板しか立っていない。

 『日本城郭体系 第16巻』によれば、「直線連郭式で、その中央部に六角形の半面を持つ本丸があり、最近まで直径1mに及ぶ老松が競い茂っていた。約1キロの海を隔てて、対岸に因島美加崎城を望見する。本丸から少し離れた二の丸らしい所に古い石垣の一部が残っている」
 と書かれている。
【写真左】奥に入った道
 弓削島循環線から途中で左手に分かれる道があり、そこからしばらく進んだ箇所。
【写真左】北側の道
 既に城域に入っていると思われるが、宇多城を示す標柱などはない。
 左手の斜面を上がると本丸にたどり着くと思われるが、それらしき道が見つからない。
【写真左】段になっている。
 おそらくこの辺りが本丸直下と思われ、帯郭状の遺構が確認できる。

 なお、登城前に地元の御婦人に宇多城周りの山には、鳥獣対策として猪捕獲用のワナなどがしかけてあると聞いていたので、安全のためこれ以上踏み込まないことにした。
【写真左】石垣・その1
 宇多城時代のものか、近世のものか判然としないが、全体に竹林など繁茂し藪化しているので、おそらく宇多城時代のものと思われる。
【写真左】石垣・その2
 さらに右方向のもの。
【写真左】海岸部に出た。
 ぐるぐる回っているうちに、北側の海岸部に出た。
【写真左】振り返って見る。
 再び元の道に戻る途中から見たもので、中央からやや左の部分が宇多城。
【写真左】下城途中から久司浦の集落を見る。
 奥に見える海は弓削瀬戸で、対岸には因島が見える。
【写真左】大森神社
 久司浦の北側に祀られているもので、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を主祭神とし、貞享4年に建立された。
 写真の奥に見える小丘が冒頭で紹介した宇多城の支城とされる久司浦城。


 なお、宇多城及び宇多氏と所縁の深い東泉寺は残念ながら探訪していない。


2021年11月20日土曜日

備後・長崎城(広島県尾道市因島土生町)

備後・長崎城(びんご・ながさきじょう)

●所在地 広島県尾道市因島土生町2254-6
●高さ 15m(比高15m)
●形態 海城
●築城期 室町前期(15世紀初頭)
●築城者 村上新左衛門か
●城主 因島村上氏
●史跡 広島県史跡
●遺構 船繋留用杭等
●備考 ナティーク城山
●登城日 2017年4月5日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第13巻」等)
 備後・長崎城(以下「長崎城」とする。)は瀬戸内の因島南西側に所在する水軍城(海城)で、三島村上氏の一つ、因島村上水軍の初期の居城といわれている。
【写真左】長崎城
 中央奥の建物がホテル「ナティーク城山」で、ホテルの右側が少し海側に突き出している。




現地の説明板より・その1

“広島県史跡
因島村上氏の城跡(長崎城跡)

 因島村上氏の重要な拠点として重なり合った島々と、潮流の天然の条件で燧灘方面に活躍する典型的水軍基地である。
 海岸に面した岸盤には往時船を繋留するのに用いた杭の跡が認められる。
【写真左】下から見上げる。
 側面はコンクリート壁となっており、現地に立つとほぼ垂直に見える。上にホテルがある。



 現地の説明板より・その2

“村上水軍

 村上水軍には「因島村上」「能島村上」「来島村上」の三島村上家がある。
 室町時代から戦国時代にかけて、布刈瀬戸と尾道水道をおさえ、ここを通る船から通行税を徴収し、水先案内をするなど海の猛者として威勢を振るった。
 八幡大菩薩の旗をかかげ朝鮮中国から遠く東南アジアまで押し渡り「倭冠」の名を海外に轟かせた。また、中国地方の雄“毛利元就”を助け「厳島の合戦」で毛利軍に勝利させた。
因島島内には多くの城跡があり、往時の活躍が偲ばれる。
 当ホテル「ナティーク城山」は因島村上水軍の本城「長崎城」跡(広島県史跡)に建っている。
                            ナティーク城山“
【写真左】説明板
 この長崎城(ホテル)周辺は通りが狭く、多くの建物が密集していて長崎城の遠望写真が撮りづらい。





因島村上水軍

 長崎城の城主因島村上水軍については、既に千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)余崎城(広島県尾道市向島町立花)などでも紹介しているが、長崎城は因島村上水軍が初期に築城したものではないかとしている(「日本城郭体系 第13巻」)。

 そしてその時期は15世紀前半ごろであったとしている。その理由は、それまでの因島、弓削島などの島々は小早川氏(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の勢力が強く、一時は伊予側の島嶼までもが同氏(小早川氏)が扶植していたといわれ、15世紀に入ると、小早川氏に代わって三島村上氏の勢力が拡大していったことが種々の文書で明らかになっている。
【写真左】ホテルの方へ向かう。
 下から階段を使ってホテル・ナティーク城山の方へ登って行く。






 具体的には応永27年(1420)、それまでの小早川氏庶家・小泉氏に代わり、来島村上氏(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の流れを持つ者が弓削荘(現在の弓削島)の所務代官職を得ており、さらに因島村上氏の菩提寺・金蓮寺(下の写真参照)に残る宝徳元年(1449)の棟札には同所の領主として因島村上吉資の名が記されている。
【写真左】金蓮寺墓地にある村上水軍の墓石群
 現在水軍史料館や模擬天守などが建つ「因島水軍城」(尾道市因島中庄町3228)エリアに金蓮寺があり、その境内に建立されている。

 金蓮寺は元々中庄町東南・外浦町の谷間にあって、この地に移転した際、それまで分散していた墓石・石塔類をこちらに移したという。


 そして、同年(宝徳元年)小早川惣領家、すなわち沼田小早川家の煕平(ひろひら)米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)参照)は、東寺からの申し出により幕府から因島地頭職を明け渡すよう再三にわたって命ぜられている。

 この理由ははっきりしないが、この当時、東寺の荘園であった弓削島(「塩の荘園」と呼ばれた)が小早川氏領内に近接しており、このため小早川氏が横妨してしてきた背景があると思われ、それを荘園領主であった東寺が幕府に訴えていったものと思われる。
 またちょうどこの年に室町幕府は8代将軍に足利義成(のちの義政)が任命されているので、このタイミングに合わせて、東寺が訴えたものと思われる。
【写真左】先端部周辺・その1
 少し海側に突き出した形が残っているので、この付近は物見櫓的な場所だったのだろう。
 対岸は愛媛県側の生名島。

遺構

 写真でも分かるように現在は「ナティーク城山」というホテルが建っており、長崎城の城域だったと思われる大部分をホテルが占有している。件のホテルが建つ前はその隣にある日立造船因島工場の敷地となっていた。このためこの造船工場ができた段階で主だった遺構は消滅していた可能性が高い。
【写真左】先端部周辺・その2
 上の写真よりさらに北方方面を見たもので、中央に見える小さな島は鶴島、左側が生名島。




 しかし、ホテルが建っているものの、その小高い小丘部分は当時の面影を残すもので、小規模ながらこの場所が、備後(因島)と伊予(生名島・弓削島)といった島嶼に挟まれた水道の国境を監視する上でも重要な場所であったことは間違いないだろう。
【写真左】長崎城(ナティーク城山)からフェリー乗り場を見る。
 この場所はフェリー乗り場となっており、生名島・弓削島・佐島方面に運航する船が発着する。
【写真左】下を見る。
 赤いデッキは、フェリー乗り場で、ここから生名島などに向かって運航されている。
【写真左】南側から遠望する。
【写真左】下から見上げる。
 高さは15m前後とされるが、ほぼ垂直の傾斜なので、威圧感がある。
【写真左】長崎城側から対岸の生名島を見る。
 左側に立石港が見える。
 その奥に霞んで見える山は、生名島の西隣にある岩城島の山で、近年桜の名所として有名になった積善山。

2021年11月16日火曜日

石見・赤城(島根県邑智郡川本町大字川本(城山)

 石見・赤城(いわみ・せきじょう)

●所在地 島根県邑智郡川本町大字川本(城山)
●別名 赤城山城
●高さ 391m(比高90m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 小笠原長胤
●城主 小笠原長氏
●遺構 郭・堀
●登城日 2017年4月3日

◆解説(参考資料 「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」井上寛司編集責任・倉恒康一編集協力、川本町・川本町教育委員会発行。「石見町誌上巻」等)
 
 石見・赤城(以下「赤城」とする。)は、島根県川本町にあって、以前紹介した温湯城から北東方向へおよそ1.5キロほど向かった標高391mの城山山頂部に築かれている。 
   赤城は、温湯城の城主小笠原氏が温湯城を築く前に築いたといわれる。
【写真左】石見・赤城遠望
 川本町の西を流れる江の川が支流・三谷川と合流する地点から見たもので、右側の谷を隔てた会下川沿いには温湯城が控える。
  

「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」

 ところで、本年(2021年)の2月、石見(島根県)の川本周辺部を治めていた石見小笠原氏関連について、古文書・古記録などを蒐集・整理し、要約した史料集「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」が発刊された。
 編者責任者は島根大学名誉教授の井上寛司氏、協力者は島根県古代文化センターの倉恒康一氏で、発行は川本町及び同町教育委員会である。
 同集では元暦元年(1184)から慶長5年(1600)の期間における記録を主としているが、江戸期に残るものも含まれている。
【写真左】中世川本・石見小笠原氏関係史料集
令和3年2月26日発行
編集 川本町教育委員会
発行 川本町・川本町教育委員会
定価 5,000円(税込)
印刷 佐々木印刷株式会社



 発刊のきっかけとなったのは、2015年当地(川本町)で行われた「小笠原サミット」で講師として招かれた井上氏が、同町教育委員会に対し小笠原氏の史料集刊行を懇願されたことに始まる。これを受けて同町行政当局でも積極的に取り組むこととなり、今回の運びとなった。
【写真左】石見・赤城遠望
 この写真は、江の川の東岸木地原地区から見上げたもので、南方に聳える。




 
 石見小笠原氏については、すでに温湯城で紹介しているが、管理人の手元にある小笠原氏関係の資料は極めて少なく、限定したものしかなかった。これまでアップしてきた城郭(山城)も、本来はこうした史料集などに依拠したものを基にして披瀝しなければならないが、実際には二次史料や、伝承などによった形式となることが多い。
【写真左】石見・赤城遠望
 麓から狭く曲がりくねった農道を登って行くと畑野地区というところに出る。この辺りで標高300m前後となる。

 現在でも数軒の家が点在し、田畠が維持されている。高所の割には田畠の規模が大きい。小笠原氏がこの地に赤城を築こうとした際、麓の狭隘な谷間よりこの地が住みやすいと思ったのかもしれない。
 写真は畑野地区から南西方向に見たもの。


 同史料は、発刊にこぎつけるまで足掛け6年かかっている。調査研究の対象が中世史の中では大族でもなく、戦国期にはほとんど没落していったような石見小笠原氏は、史料の収集からして困難を極めたものであったと思われる。このことから、筆舌に尽くしがたい地道な根気と探求心がなければできない作業であったことは想像に難くない。あらためて上梓に携われた井上氏はじめ関係者に敬意を表したい。
【写真左】登城口付近
 民家の脇の狭い道を車で登って行くと、右側に電波塔の施設があり、左側に「城山・赤城山」と記された標柱が建っている。


石見小笠原氏系図

 さて、本稿ではこの史料集を基本にしながら、石見小笠原氏の系図・系譜について少し触れておきたい。ここでは同氏の系図として下記の4点のものが載っている。
  • №507 小笠原家系図1(志賀槙太郎氏所蔵文書・東大影写
  • №508 小笠原家系図2(閥閲録81 小笠原友之進)
  • №509 石見小笠原氏系図(内荻英一氏所蔵文書・県図謄写
  • №510 清和源氏小笠原系図(物部神社文書・県図謄写
 同集ではこのほかにも小笠原氏系図関連のものがあるとしているが、おそらく4点とさほど大きな違いがないため割愛されているかもしれない。
 この4点の中で最も分かりやすいと思われるのが、№509と№510のもので、継嗣を繋ぎ線で結んだ一般的な形式となっている。

【左図】石見小笠原氏系図より
 同系図の一部から抜粋転記したもの。


 先ず№509で見ると、阿波国三好郡池田ニ移封された小笠原長房の子・長親が、石見小笠原氏の始祖としているが、添書きに「阿波国麻生荘ヲ領ス、細川氏四国ヲ領スルニ及ビ石見国村の郷ニ移ルト記録ニ在レトモ甚疑ヲ存ス」とある。

 また、長親を継いだのは家長とし、その跡を長胤が継ぐが、これにも添書きで「誤テ石見ニ移封セラレシ祖ナルヘシ、南北朝ノ戦足利氏ニ属ス、温湯城ヲ築キ桧下ニ移ル、法名ヲ円通院ト号ス」と記されている。

【左図】清和源氏小笠原系図
 同系図の一部から抜粋転記したもの。


 これに対し、№510は、小笠原氏元祖(加賀美小次郎)である小笠原長義の子が長親としている。
 
 そして、この長親が石見小笠原氏始祖であることは№509と同じである。
 添書きには「始石見国住屋敷村之郷、又太郎、法名普照院殿」とある。

 長親の継嗣も№509と同じで家長とし、添書きに「四郎次郎、法名禅林院殿」とある。

 そしてその跡を継ぐのも同じく長胤となっているが、添書きで「初而河本赤山城温湯築之、兼領迩摩郡、次郎太郎、或又太郎、或有次郎、法名円通院」とある。

赤城・温湯城の築城

 温湯城の稿でもすでに触れているが、上掲した二つの小笠原氏系図からも石見小笠原氏の始祖は「長親」であり、石見に下向したときに最初に入ったのが村之郷(山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)参照)であり、2代目家長(長家)の代までこの地を本拠としていく。

 そして3代目の長胤に至ると、村之郷から西へおよそ20キロ余り向かった江の川の支流・会下川北方に赤城、しばらくして南岸に温湯城を築いた。なお、温湯城の築城者を長胤の跡を継いだ長氏とするものもあるが、おそらくこれは親子2代にわたって築城していった流れであったと考えられる。その後、赤城は温湯城の支城としての役割を果たしていった。
【写真左】出丸か
 登城口から坂道を登って行くと、先ほどの施設と関連するものが右側にある。
 敷設された際周囲が削平されているようだが、もともとこの位置に出丸のようなものがあったのではないかと思わせる。


縄張り

 赤城は標高391mの高さを持つ独立峰の頂部に築かれ、主だった遺構としては、南北線を軸とする長径30m前後、短径10m前後の郭を主郭とし、その北東部に弓型の竪堀、西側には3条の堀切を連続させ、更に西に向かって腰郭が2段ほど続く。その周囲には現在無線中継所などが建っているため、同施設敷設の際、残った遺構は改変された可能性が高い。
【写真左】切岸
 本丸方面に向かう途中の位置から見たもので、急峻な崖となった箇所が見える。
【写真左】本丸方面に向かう。
【写真左】堀切
 本丸に向かう途中の道で2,3か所の鞍部が認められる。おそらく何状かの堀切の跡と思われる。

【写真左】傾斜が一段と厳しくなる。
 途中から急傾斜となり、本丸が近いことを予感させる。
【写真左】本丸にたどり着く。
 息が荒くなり出したころ、本丸に着いた。
【写真左】本丸北側
 北側というより北西側といった方がよいかもしれないが、本丸のうち北側が少し低い。
【写真左】休憩小屋
 本丸のほぼ中央部に御覧の建物が建っている。奥が南方向となる。
【写真左】さらに南に進む。
 予想以上に奥行があり、長径25m前後、幅は8m前後の規模。
【写真左】赤城東麓の畑野地区が見える。
 奥の山並を越えると、小笠原氏始祖の長親、長家などが最初に下向した村之郷(現:美郷町)に繋がる。
【写真左】三角点
【写真左】川本の街並み
 この日は少し霞んでいたせいか、北西方向を俯瞰すると江の川沿いに川本の街並みがうっすらと見える。
 なお、この視界には温湯城は入っていないが、画面の左側になる。
【写真左】南側
 南端部近くまで行くと、次第に下がり始めている。
【写真左】切岸
【写真左】堀切
 本丸から下山する途中に確認できた堀切で、少し埋まっている。
【写真左】本丸直下
 本丸を折りて登り口に向かわず、北西方向に向かうと御覧の施設があるが、この辺りは出丸があったのではないかと思われる。
【写真左】鉄塔側から本丸を遠望
 さらに先に進むと御覧のような鉄塔があり、そこから振り返って本丸を見る。