2020年1月1日水曜日

伊豆・山中城(静岡県三島市山中新田)

伊豆・山中城(いず・やまなかじょう)

●所在地 静岡県三島市山中新田
●指定 国指定史跡
●形態 平山城
●高さ H:570m(比高 40m)
●築城期 不明(永禄年間・1560年代か)
●築城者 小田原北条氏
●城主 北条氏勝
●遺構 障子堀・郭・空堀・馬出し・土塁等
●登城日 2016年11月5日

解説
 2016年11月5日、前稿の高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)登城を終え、次に向かったのが伊豆と相模の国境に築かれた山中城である。
 現地に着いたのが午後の4時前であったこともあり、余裕をもって登城できなかったのが残念だったが、それでもなんとか主だった遺構を見ることができた。
【写真左】山中城の障子堀
 当城の代名詞ともいわれる障子堀。
 あまりに整然と整備されているので、まるで庭園を散策している気分になる。



現地の説明板より

‟国指定史跡 山中城跡
   (昭和9年1月22日指定)

 史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築したものである。
 やがて天正17年(1579)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は、今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。

 三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。

 特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋(かけはし)や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

   平成11年3月
   文化庁
   静岡県教育委員会
   三島市教育委員会”
【上図】山中城の配置図
 入口付近に設置されているもので、右方向が北を示す。



北条氏

 伊豆・山中城(以下「山中城」とする。)は、小田原城を居城とする北条氏の支城で、箱根10城の一つとされる。国指定史跡となったのが戦前の昭和9年というから当時から山中城の名前はよく知れ渡っていたのだろう。

 秀吉が攻めた小田原征伐の際、最前線の基地としてその役目を担ったが、秀吉の大軍の前に瞬く間に落城、築いてから滅びるまでの期間は極めて短い。概ねこうした短命な城郭はその後の遺構なども劣化や消失することが多いが、当城は逆に遺構も復活し、代名詞でもある「障子堀」などは見事な景観を醸し出している。
 現地は写真でも分かるように大変きれいに整備され、また重要な遺構についても詳しい説明板がそれぞれ設置され、訪れる者にとってもわかりやすくなっている。

 このため、本稿では現地の説明板を中心に紹介していきたい。

【写真左】三の丸付近
 国道1号線沿いに駐車場があり、そこに停めてしばらく北の方へ向かうと、「障子堀・畝堀探訪コース」の案内標識があり、標識に従って進む。

 写真はその始点付近で、左側に三の丸があったが、下段の三の丸堀の方へ向かうルートがあったため、そのままそのコースを選択した。このため、三ノ丸そのものは探訪していない。

上掲した説明板と重複するが、こちらのは平成8年に設置されたもの。

現地の説明板より

‟国指定史跡 山中城跡

 山中城は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~70)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
 箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。

 三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎(だいさき)出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻の池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
 出土遺物には、槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三ノ丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。

 平成8年
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”

現地の説明板より

‟三の丸堀
 三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。
 城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を堀り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して、中央に縦の畝を設けて二重堀としている。
 中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
 この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは8mを測る。
 平成8年12月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"

【写真左】三の丸堀
 この堀の長さは180mもあり長大な規模を持つ。
 東側には宗閑寺や豊臣及び北条方の武将の墓などがあるようだが、この日は探訪していない。


現地の説明板より

 ”田尻の池
 東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。
 山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎(うまや)」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。
 築城時の池の面積は、約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。
 平成11年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"
【写真左】田尻の池
 田尻の池の隣に箱井戸が隣接してあったようだが、案内標識を見つけることはできなかった。

 このあと二の丸方面に向かう。

現地の説明板より

”二ノ丸虎口と架橋

 二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は造られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。
【写真左】二の丸に向かう途中の道
 右側の切岸の上が二ノ丸に当たる。








 二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上がってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当たり、右折して曲輪に入るようになっていた。

 また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30㎝であった。復元した橋は、遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。
 平成13年3月
  文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"
【写真左】架橋
 二ノ丸(別名 北条丸)と元西櫓の間に架けられているもので、別名二ノ丸橋ともいう。
【写真左】堀障子・その1
 架橋付近から見えたもので、二ノ丸と元西櫓の間に設置されたもの。






現地の説明板より

‟元西櫓(もとにしやぐら)


 この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた640平方メートルの小曲輪である。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。
 曲輪内は堀を掘った土を1メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。

 この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を抑え、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかもロームブロック層は、溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。
 平成12年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会"
【写真左】元西櫓
 記憶ははっきりしないが、手前が元西櫓で奥が西ノ丸だったと思う。








現地の説明板より

”溜池
 ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を造って深い堀としたものである。
 この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ4メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。

 山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。
 平成12年3月
  文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】溜池
 元西櫓の隣にあるもので、現在は水が溜まっていないが、面積はさほどないが、当時は相当深かったものと思われる。

 このあと本丸方面に向かう。



現地の説明板より

 ‟本丸堀

 山中城の堀の特色の一つに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下がりの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。城の防備上からは、堀の中の水が深く、堀も深いのが堀としては最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、用水地をも兼ねることができるわけである。
 平成9年11月
  文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会″
【写真左】本丸堀













現地の説明板より

‟北の丸堀

 山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。
 北の丸を囲むこの堀は豪快である。400年の歳月は堀底を2m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。
 石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。
 平成9年11月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会″


現地の説明板より

‟北の丸跡

 標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡とりっぱな曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。
 調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を造り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいることが判明した。
 また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。
 平成13年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会″

【写真左】架橋と北の丸
 奥に見えるのが北の丸と記憶しているが、ひょっとして本丸かもしれない。







現地の説明板より

‟架橋

 発掘調査の結果、本丸と北の丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。

 山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。

 木製の橋は土橋と比べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。
 平成13年3月
  文化庁  静岡県教育委員会  三島市教育委員会″


現地の説明板より

‟本丸跡
 標高578m、面積1740㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。
 周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段を造り、2段の平坦面で築かれている。
 虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
 江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は、上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
 平成9年11月 
  文化庁  静岡県教育委員会  三島市教育委員会″
【写真左】本丸
 奥に藤棚が見えるが、当時この場所に広間があったという。








現地の説明板より

‟西ノ丸
 西ノ丸は3,400㎡の広大な面積を持つ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。
西端の高い見張台はすべて盛土を積み上げたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
【写真左】堀障子・その2
 本丸から再び二ノ丸に向かう途中にあるもので、畝の一部に切り込みがある。
 防御上意図したものかもしれない。



 曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。
 自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端を見ることができる。
 平成9年11月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”

現地の説明板より

‟西の丸見張台
 西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。
 発掘調査の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。
 標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。
 平成8年12月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】西ノ丸見張台付近
 後背には富士山の姿がうっすらと見える。









現地の説明板より

‟土橋

 土橋は城(曲輪)の虎口(入口)の前を通路だけ残して、その左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。
 この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、さらにこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。
 この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。
 平成11年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】西ノ丸
 当城の中でも二ノ丸とおなじく規模の大きな曲輪で、すこし傾斜がついている。





現地の説明板より

‟西ノ丸畝堀

 西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。
 この堀の中は、5本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2m、さらに西ノ丸の曲輪へ入るには9m近くもよじ登らなければならない。
 遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。
 平成12年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】西ノ丸畝堀
 西ノ丸周囲には山中城の特徴である障子堀や畝堀が密集している。
 夕方に訪れていたため、逆光が多くあまりいい写真は撮れていないが、それでも十分堪能できた。


現地の説明板より

”障子堀

 後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。
 西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪に向かって畝を出し、障子の桟のように区画されている。
 また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。このように水堀と用水地を兼ねた堀が山城に造られていることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。
 平成12年3月
   文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会”
【写真左】障子堀・その1
【写真左】障子堀・その2
【写真左】障子堀・その3




0 件のコメント:

コメントを投稿