稲村山城(いなむらやまじょう)
●所在地 広島県三原市小坂町
●高さ 152m(比高127m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 田坂義忠か
●城主 田坂氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日
◆解説(参考文献『日本城郭体系』第13巻等)
稲村山城は、前稿安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)から東北東へ4.7キロ、また高山城(広島県三原市高坂町)からは、東方約3キロ余り隔てた小坂町に築かれた城砦である。
【写真左】稲村山城遠望・その1
南側から見たもので、手前の道路は南北に走る県道344号線。
現地の説明板より
“稲村城の由来
田坂右馬允義忠公この地に築城5万石の城主となる。応永元年(1394)
その後喜範 喜政 善親 善詮(善慶)と小早川家の執権職となる。
5代 田坂摂津守善慶公高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ非業の死を遂げる。天文16年正月16日(1547)
5代150年余り続いた稲村城も落城す。
歴代城主家臣を偲び鎮魂の祈りをこめてこの碑を建立す。
稲村城址顕彰会 平成18年11月吉日”
【写真左】稲村山城遠望・その2
北側からみたもので、手前の道路は同じく県道344号線。
なお、当城の北西麓で344号線と東西に走る県道155号線(三原本郷線)が交差している。
田坂氏
城主といわれる田坂氏は、『芸藩通志』によれば下野国から来住して小早川氏に属したと記されている。現地の説明板では始祖と思われる義忠が応永元年(1394)、当城を築城したとされている。
【写真左】登城口
北麓を走る県道155号線側にあって、入口付近にはロープのようなもがかけてあるが、この手前に1台分の駐車スペースがある。
応永元年の頃の沼田小早川氏は、仏通寺を創建した春平(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)、梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)参照)の時代である。
春平の父は、貞平である。長子が春平で、次男に土倉(はぐら)夏平がいたとされる。田坂氏はその土倉氏の分流と推察され、小早川惣領家の家政及び奉行人を統轄する政所を勤め、さらに高山在城奉行をも勤めた重要な一族であったといわれる。
土倉氏については、雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも少し触れているが、雲雀城にあった土倉氏はその後当城周辺の支配が長く続かなかったとされている。
【写真左】登城道
後段で紹介する若宮神社が本丸跡に設置された際、作業道が併せて施工されたらしく、この道は新たに設置されたもの。
重機などで幅員も広げられ、歩きやすくなっている。ただ、遺構部分も一分消滅した可能性もある。
沼田小早川家の継嗣と竹原小早川家との合一
さて、安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2で既に述べているが、毛利元就が三男・徳寿丸(のちの隆景)を最初に養子縁組させたのは、惣領家沼田から分かれた竹原小早川家(木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)参照)である。ときに、天文13年(1544)、徳寿丸11歳の頃である。もっともこの縁組は、元就自身はあまり乗り気でなく、当時元就の主君であった大内家(義隆)が推し進めたものであった。
【写真左】尾根にたどり着く。
登城した時期が早すぎたため、周辺の樹木に覆われて視界は良くない。
これと相前後して、惣領家沼田の小早川家第14代正平は、天文12年(1543)出雲の月山富田城攻めにおいて、殿(しんがり)をつとめ討死した(小早川正平の墓(島根県出雲市美談町) 参照)。このため、正平の子又鶴丸が家督を継ぎ、繁平と名乗った。しかし、彼は3歳の時眼病を患い失明していた。
盲目の当主が小早川惣領家を受け継ぐという異例な処置に対し、当然ながら家臣達には不安と動揺が走った。おそらく大内氏は当初からそれを想定していたのと思われ、結局繁平は高山城から下城させ隔離する処置をとった。そして、竹原小早川家の養子となっていた隆景を繁平の妹と結婚させ、併せて沼田小早川家と竹原小早川家の両家合一を計ることにした。
【写真左】本丸が近くなってきた。
作業道として改修されたようで、右側の方も大分削られたようだ。ただ、登城する分には楽になるが…
これに対し、沼田惣領家の家臣の間に争論が生じた。両家合一に異を唱えていた者の一人が稲村山城主・田坂摂津守善慶である。
彼はこの縁組が小早川惣領家としての威信にかかわるとし、またそれまで対立していた竹原小早川家に対する反駁があり、さらには大内・毛利氏らによる干渉にも同意できないものがあったとされる。
“高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ…と説明板に書かれているが、この縁組を強力に推し進めていたのは、当事者の一人である毛利氏は勿論だが、小早川両家合一をさらに後押していた大内氏の力もあったのだろう。そして、具体的に動いたのは、沼田小早川家一族であった乃美隆興(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照) である。
【写真左】本丸にたどり着く。
右側が登ってきた道で、右下に見えるのは簡易便所。
ところで、これに先立つ天文14年(1545)11月、元就の正室妙玖が47歳で亡くなった。そして後妻として入ったのが、この乃美隆興の娘である。
隆興の置かれた立場を考えると、彼がもっとも両家合一を推進する役目を担ったものだろう。従って「日名内某の奸計」は、隆興による指示が背景にあったものと思われる。
【写真左】稲村城址の石碑
本丸跡にはご覧の石碑が建立されている。
【写真左】稲村城址顕彰会会員名簿
石碑の脇に設置されているもので、この中には「田坂」姓の方が、4名見える。田坂氏の末裔と思われる。
【写真左】若宮社
本丸の奥には平成15年から18年にかけて再建された若宮社拝殿が建立されている。
おそらく以前からあったものが朽ち果てたため再建されたものだろう。
【写真左】拝殿側から石碑方向を見る。
当城の遺構としてはめぼしいものはあまり残っていない。主郭と思われる最高所が、北側にあり、ここから南にかけて少し下がった位置にも2段の郭が残る。
これらを合わせた長軸は70m程で、この場所から東方200mの位置にもピーク(H:140m)もあり、物見櫓的な遺構もあったものと思われる。
【写真左】2段目の郭
奥に主郭(本丸)が見える。
【写真左】3段目の郭
雑木などがあって分かりにくいが、3m前後低くなった段である。
【写真左】高山城遠望
西方には小早川氏の居城高山城が見える。
なお、後に移ることになる新高山城は高山城の裏側にあたるが、この位置からでは高山城に隠れて見えない。
●所在地 広島県三原市小坂町
●高さ 152m(比高127m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 田坂義忠か
●城主 田坂氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日
◆解説(参考文献『日本城郭体系』第13巻等)
稲村山城は、前稿安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)から東北東へ4.7キロ、また高山城(広島県三原市高坂町)からは、東方約3キロ余り隔てた小坂町に築かれた城砦である。
【写真左】稲村山城遠望・その1
南側から見たもので、手前の道路は南北に走る県道344号線。
現地の説明板より
“稲村城の由来
田坂右馬允義忠公この地に築城5万石の城主となる。応永元年(1394)
その後喜範 喜政 善親 善詮(善慶)と小早川家の執権職となる。
5代 田坂摂津守善慶公高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ非業の死を遂げる。天文16年正月16日(1547)
5代150年余り続いた稲村城も落城す。
歴代城主家臣を偲び鎮魂の祈りをこめてこの碑を建立す。
稲村城址顕彰会 平成18年11月吉日”
【写真左】稲村山城遠望・その2
北側からみたもので、手前の道路は同じく県道344号線。
なお、当城の北西麓で344号線と東西に走る県道155号線(三原本郷線)が交差している。
田坂氏
城主といわれる田坂氏は、『芸藩通志』によれば下野国から来住して小早川氏に属したと記されている。現地の説明板では始祖と思われる義忠が応永元年(1394)、当城を築城したとされている。
【写真左】登城口
北麓を走る県道155号線側にあって、入口付近にはロープのようなもがかけてあるが、この手前に1台分の駐車スペースがある。
応永元年の頃の沼田小早川氏は、仏通寺を創建した春平(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)、梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)参照)の時代である。
春平の父は、貞平である。長子が春平で、次男に土倉(はぐら)夏平がいたとされる。田坂氏はその土倉氏の分流と推察され、小早川惣領家の家政及び奉行人を統轄する政所を勤め、さらに高山在城奉行をも勤めた重要な一族であったといわれる。
土倉氏については、雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも少し触れているが、雲雀城にあった土倉氏はその後当城周辺の支配が長く続かなかったとされている。
【写真左】登城道
後段で紹介する若宮神社が本丸跡に設置された際、作業道が併せて施工されたらしく、この道は新たに設置されたもの。
重機などで幅員も広げられ、歩きやすくなっている。ただ、遺構部分も一分消滅した可能性もある。
沼田小早川家の継嗣と竹原小早川家との合一
さて、安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2で既に述べているが、毛利元就が三男・徳寿丸(のちの隆景)を最初に養子縁組させたのは、惣領家沼田から分かれた竹原小早川家(木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)参照)である。ときに、天文13年(1544)、徳寿丸11歳の頃である。もっともこの縁組は、元就自身はあまり乗り気でなく、当時元就の主君であった大内家(義隆)が推し進めたものであった。
【写真左】尾根にたどり着く。
登城した時期が早すぎたため、周辺の樹木に覆われて視界は良くない。
これと相前後して、惣領家沼田の小早川家第14代正平は、天文12年(1543)出雲の月山富田城攻めにおいて、殿(しんがり)をつとめ討死した(小早川正平の墓(島根県出雲市美談町) 参照)。このため、正平の子又鶴丸が家督を継ぎ、繁平と名乗った。しかし、彼は3歳の時眼病を患い失明していた。
盲目の当主が小早川惣領家を受け継ぐという異例な処置に対し、当然ながら家臣達には不安と動揺が走った。おそらく大内氏は当初からそれを想定していたのと思われ、結局繁平は高山城から下城させ隔離する処置をとった。そして、竹原小早川家の養子となっていた隆景を繁平の妹と結婚させ、併せて沼田小早川家と竹原小早川家の両家合一を計ることにした。
【写真左】本丸が近くなってきた。
作業道として改修されたようで、右側の方も大分削られたようだ。ただ、登城する分には楽になるが…
これに対し、沼田惣領家の家臣の間に争論が生じた。両家合一に異を唱えていた者の一人が稲村山城主・田坂摂津守善慶である。
彼はこの縁組が小早川惣領家としての威信にかかわるとし、またそれまで対立していた竹原小早川家に対する反駁があり、さらには大内・毛利氏らによる干渉にも同意できないものがあったとされる。
“高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ…と説明板に書かれているが、この縁組を強力に推し進めていたのは、当事者の一人である毛利氏は勿論だが、小早川両家合一をさらに後押していた大内氏の力もあったのだろう。そして、具体的に動いたのは、沼田小早川家一族であった乃美隆興(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照) である。
【写真左】本丸にたどり着く。
右側が登ってきた道で、右下に見えるのは簡易便所。
ところで、これに先立つ天文14年(1545)11月、元就の正室妙玖が47歳で亡くなった。そして後妻として入ったのが、この乃美隆興の娘である。
隆興の置かれた立場を考えると、彼がもっとも両家合一を推進する役目を担ったものだろう。従って「日名内某の奸計」は、隆興による指示が背景にあったものと思われる。
【写真左】稲村城址の石碑
本丸跡にはご覧の石碑が建立されている。
【写真左】稲村城址顕彰会会員名簿
石碑の脇に設置されているもので、この中には「田坂」姓の方が、4名見える。田坂氏の末裔と思われる。
【写真左】若宮社
本丸の奥には平成15年から18年にかけて再建された若宮社拝殿が建立されている。
おそらく以前からあったものが朽ち果てたため再建されたものだろう。
【写真左】拝殿側から石碑方向を見る。
当城の遺構としてはめぼしいものはあまり残っていない。主郭と思われる最高所が、北側にあり、ここから南にかけて少し下がった位置にも2段の郭が残る。
これらを合わせた長軸は70m程で、この場所から東方200mの位置にもピーク(H:140m)もあり、物見櫓的な遺構もあったものと思われる。
【写真左】2段目の郭
奥に主郭(本丸)が見える。
【写真左】3段目の郭
雑木などがあって分かりにくいが、3m前後低くなった段である。
【写真左】高山城遠望
西方には小早川氏の居城高山城が見える。
なお、後に移ることになる新高山城は高山城の裏側にあたるが、この位置からでは高山城に隠れて見えない。
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