備中・鬼ノ身城(びっちゅう・きのみじょう)
●所在地 岡山県総社市山田
●別名 鬼身城
●高さ 284m
●指定 総社市指定重要文化財(史跡)
●築城期 至徳2年・元中2年(1385)以前
●築城者 不明
●城主 今川上総介泰範、上田氏(実親など)、宍戸氏
●遺構 郭段・井戸なと
●登城日 2014年5月1日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
鬼ノ身城は、岡山三大河川の一つ・高梁川の西方に築かれた城砦である。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その1
南側から見たもの。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その2
同じく南側から見たもので、撮影日は2015年2月21日。
現地の説明板より
“鬼ノ身城跡
昭和55年(1980)1月14日指定
鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていませんが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことが分かっています。
5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していました。その三村氏は、毛利方に所属していましたが、天正2(1574)に謀叛を起こしたことで、同年11月に毛利方の大軍が備中国へ出陣してきました。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある出場の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3,000騎を配置しました。
【写真左】登城道・その1
鬼ノ身城に向かう道は南側からは2コースあるようだが、いずれも途中から幅員は狭くなり、さらにワダチが深くなるところも多いため、この日管理人は一番西側の亀甲池手前の空き地に車を停め、そこから1キロ余りの道を歩いて向かった。
左の池は亀甲池と呼ばれる溜池で、池の西岸の先には、後段で紹介する当城主であった今川氏の位牌残る華光寺がある。
しかし、三村方の諸城はことごとく落城し、鬼ノ身城も天正3年1月16日より包囲され籠城戦となり、23日からは数万の兵による総攻撃を受けました。城は昼夜の戦いにも耐え続けましたが、ついに開城するしか方法がなくなりました。城内の兵を救うために城主上田実親は命をかけました。1月29日辰の刻に切腹。この時、実親は20歳でした。
上田氏滅亡のあとは、毛利方の武将である宍戸安芸守陸家が城主に命ぜられて、城代が置かれましたが、関ヶ原の合戦の後に廃城となりました。
【写真左】切通しされた道
登城道の前半部であるが、この手前から大分登り坂になり、この箇所で鬼ノ身城の尾根下にたどり着く。
軽自動車の四駆ならここまで来れるかもしれない。
城が築かれた場所は、瀬戸内から陸路で松山城へと通じる街道に面しており、また瀬戸内への前線拠点としても重要な城でした。岡山県下では珍しい「扇の縄」といわれる堅固な山城を築いています。
山頂の主郭(一ノ壇)から扇を広げた形に壇を連続し、人頭大の石や一抱えもある角礫を使った石垣なども築きながら3段で構成されています。
中世から戦国期の山城の形状がよく残されており、防御性にすぐれた山城であったと評価されています。
平成22(2010)10月 総社市教育委員会”
【写真左】分岐点
矢印で示した線がこの日向かった道だが、この写真の手前左側にも登る道がある。
この道はさらに東側の谷から向かった道で、どちらからでも登れるようだ。
上田氏
『日本城郭体系第13巻』によれば、少なくとも源平合戦の頃までさかのぼることができるが、当時の城主は不明とされている。
その後、南北朝時代には説明板にもあるように、今川上総介泰範となっている。これは鬼ノ身城の西麓にある華光寺の位牌に記されているという。今川氏が在城した時期は具体的には至徳2年・元中2年(1385)ごろとされている。この時期は室町幕府第3代将軍・足利義満がもっとも権力を誇示したころで、特に西国の領主らに対する公式な土地の安堵状発行が目立っている。
【写真左】両側にブロックが敷かれている箇所
途中から道の両側にはコンクリート製のブロックが敷設されている。おそらくこれは管理のため、軽トラックでも登れるよう地元の関係者のためのものだろう。
連れ合いが一見楽しそうに杖を振っているが、道中には桜の木が植えてあり、その枝から尺取虫が垂れ下がり、常に顔などに当たるため、杖で前以て振り落している。尺取虫が異常に多い。
翌元中3年7月10日、義満は京都・鎌倉の五山の順位を定め、京都においては南禅寺を五山の上とし、禅寺の最高位としている。また、さらに翌元中4年には南北朝動乱期、尊氏・直義らとあらそった足利直冬が7月、ひっそりと石見の山中で没した(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)。
【写真左】もう一つの登り口がある谷
この日、最初にトライした谷で、道があり、簡易舗装されていたが、とても車で登れるほどの幅員でなかったため、取りやめた場所。
鬼ノ身城の城主がその後、上田氏に代わっていくが、その経緯ははっきりしない。上田氏がその名を初めて見せるのは、文亀元年(1501)である。
初代上田勘解由左衛門は、備中国水内荘の管理運営に優れた手腕を発揮したとされている。この水内荘というのは、鬼ノ身城の東麓を流れる高梁川を遡った現在の総社市の原という地区で、山間部でありながら規模の大きな棚田が広がっている所である。
その後、大永2年(1522)には上田近江守光宝、永禄9年(1566)には上田近江守家実と続き、天正年間の初めには、上田入道阿西が城主であったという。そして、阿西は、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の三村元親の弟を養子に迎え、上田孫次郎実親と名乗らせた。
【写真左】石積が見える。
この箇所はすでに城域の入り口付近だが、ここからぐるっと旋回する道となる。
石積跡らしき大きな石が不揃いに残っている。
小規模な出丸跡もしくは、櫓台かもしれない。
毛利勢の猛攻
当城が毛利氏の手によって陥落したのは、天正3年(1575)の正月だとされている。城内には3,000余の兵が詰めていた。
当初、上田勢は地の利を生かし、大木や大石などを落とし毛利勢の寄せ手を阻んでいたが、七重八重と取り囲んだ毛利氏がやがてじわじわと侵攻してきたため、城主実親は、残った城内の者たちの命を助けるために、自害したという。
実親が養子として入ったのは、天正年間の初めとされるから、その2,3年後に落城したことになる。城主とはいえ、僅か20歳という若さで命を絶った。
【写真左】鬼ノ身城の略測図
当城は、典型的な「扇の縄」といわれる連郭式の山城といわれている。
この図でいえば、登城コースは北東部から回り込んで、東側の十二ノ壇あたりから向かう道が残るが、写真でも分かるように、登城した時期が5月でもあったため、草丈が伸びて遺構の詳細なものは撮れなかった。
落城後、宍戸隆家(安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)参照)が城主となり、城代として佐々部美作守(面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)参照)が在番したが、その後隆家の嫡子左衛門佐元秀の子・備前守基継が城主となり、8万石を領した。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、廃城となった。
【写真左】東側の低い郭段
上図でいえば、十二ノ壇・十一ノ壇付近で、この辺りから踏み跡があったため、そのまま進む。
【写真左】上の段に向かう。
轍がある所を見ると、この上まで軽トラで向かうように道が造られているようだ。
遺構の管理より、樹木などの管理が主体となっているようだ。
この箇所なども切崖若しくは虎口などがあったのかもしれない。
【写真左】三ノ壇付近
坂を登ると、おそらく三ノ壇付近と思われるが、削平地がある。
写真正面方向に二ノ壇、そして主郭となる一ノ壇が控える。
【写真左】一ノ壇に向かう。
一ノ壇に向かう道は二ノ壇の左側(東側)にある坂道(犬走りか)を登る。
【写真左】一ノ壇・その1
いわゆる主郭に当たる所だが、長径36m×短径22m前後の規模を持つもので、北辺の端部には列石で固められた部分があるとされている。
【写真左】一ノ壇・その2 諏訪神社
現地には南側から鳥居が建立され、奥には祠が祀られている。その間には礎石が残るが、おそらく当社の本殿が建てられていたのだろう。
【写真左】三角点
一ノ壇の南端部にあり、この先は切崖となっている。
【写真左】休憩所
一ノ壇にはご覧のような建物が建っている。「瀬戸内大橋開通記念」という看板が飾られている。
1988年に瀬戸内大橋が完成しているので、この建物もそれに併せて建てられたのだろう。
中には、鬼ノ身城から眺望できる瀬戸内方面の絵図や、当山に咲く色々な花などを写した写真なども飾られている。
【写真左】南麓を見る。
鬼ノ身城の南麓には西から新本川が流れ、広い平坦地が広がる。奥に見える東西の丘陵地を超えると、倉敷市真備町に至る。
【写真左】鬼ノ身城から夕部山城を遠望する。
毛利氏(小早川隆景)が陣を構えた夕部山城(岡山県総社市下原)で、この他、西方には市場古城などがある。
【写真左】東南方向に児島半島を遠望する。
現地の絵図には、天気が良いと常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)が見えるようだが、この日は靄がかかり見えない。
●所在地 岡山県総社市山田
●別名 鬼身城
●高さ 284m
●指定 総社市指定重要文化財(史跡)
●築城期 至徳2年・元中2年(1385)以前
●築城者 不明
●城主 今川上総介泰範、上田氏(実親など)、宍戸氏
●遺構 郭段・井戸なと
●登城日 2014年5月1日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
鬼ノ身城は、岡山三大河川の一つ・高梁川の西方に築かれた城砦である。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その1
南側から見たもの。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その2
同じく南側から見たもので、撮影日は2015年2月21日。
現地の説明板より
“鬼ノ身城跡
昭和55年(1980)1月14日指定
鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていませんが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことが分かっています。
5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していました。その三村氏は、毛利方に所属していましたが、天正2(1574)に謀叛を起こしたことで、同年11月に毛利方の大軍が備中国へ出陣してきました。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある出場の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3,000騎を配置しました。
【写真左】登城道・その1
鬼ノ身城に向かう道は南側からは2コースあるようだが、いずれも途中から幅員は狭くなり、さらにワダチが深くなるところも多いため、この日管理人は一番西側の亀甲池手前の空き地に車を停め、そこから1キロ余りの道を歩いて向かった。
左の池は亀甲池と呼ばれる溜池で、池の西岸の先には、後段で紹介する当城主であった今川氏の位牌残る華光寺がある。
しかし、三村方の諸城はことごとく落城し、鬼ノ身城も天正3年1月16日より包囲され籠城戦となり、23日からは数万の兵による総攻撃を受けました。城は昼夜の戦いにも耐え続けましたが、ついに開城するしか方法がなくなりました。城内の兵を救うために城主上田実親は命をかけました。1月29日辰の刻に切腹。この時、実親は20歳でした。
上田氏滅亡のあとは、毛利方の武将である宍戸安芸守陸家が城主に命ぜられて、城代が置かれましたが、関ヶ原の合戦の後に廃城となりました。
【写真左】切通しされた道
登城道の前半部であるが、この手前から大分登り坂になり、この箇所で鬼ノ身城の尾根下にたどり着く。
軽自動車の四駆ならここまで来れるかもしれない。
城が築かれた場所は、瀬戸内から陸路で松山城へと通じる街道に面しており、また瀬戸内への前線拠点としても重要な城でした。岡山県下では珍しい「扇の縄」といわれる堅固な山城を築いています。
山頂の主郭(一ノ壇)から扇を広げた形に壇を連続し、人頭大の石や一抱えもある角礫を使った石垣なども築きながら3段で構成されています。
中世から戦国期の山城の形状がよく残されており、防御性にすぐれた山城であったと評価されています。
平成22(2010)10月 総社市教育委員会”
【写真左】分岐点
矢印で示した線がこの日向かった道だが、この写真の手前左側にも登る道がある。
この道はさらに東側の谷から向かった道で、どちらからでも登れるようだ。
上田氏
『日本城郭体系第13巻』によれば、少なくとも源平合戦の頃までさかのぼることができるが、当時の城主は不明とされている。
その後、南北朝時代には説明板にもあるように、今川上総介泰範となっている。これは鬼ノ身城の西麓にある華光寺の位牌に記されているという。今川氏が在城した時期は具体的には至徳2年・元中2年(1385)ごろとされている。この時期は室町幕府第3代将軍・足利義満がもっとも権力を誇示したころで、特に西国の領主らに対する公式な土地の安堵状発行が目立っている。
【写真左】両側にブロックが敷かれている箇所
途中から道の両側にはコンクリート製のブロックが敷設されている。おそらくこれは管理のため、軽トラックでも登れるよう地元の関係者のためのものだろう。
連れ合いが一見楽しそうに杖を振っているが、道中には桜の木が植えてあり、その枝から尺取虫が垂れ下がり、常に顔などに当たるため、杖で前以て振り落している。尺取虫が異常に多い。
翌元中3年7月10日、義満は京都・鎌倉の五山の順位を定め、京都においては南禅寺を五山の上とし、禅寺の最高位としている。また、さらに翌元中4年には南北朝動乱期、尊氏・直義らとあらそった足利直冬が7月、ひっそりと石見の山中で没した(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)。
【写真左】もう一つの登り口がある谷
この日、最初にトライした谷で、道があり、簡易舗装されていたが、とても車で登れるほどの幅員でなかったため、取りやめた場所。
鬼ノ身城の城主がその後、上田氏に代わっていくが、その経緯ははっきりしない。上田氏がその名を初めて見せるのは、文亀元年(1501)である。
初代上田勘解由左衛門は、備中国水内荘の管理運営に優れた手腕を発揮したとされている。この水内荘というのは、鬼ノ身城の東麓を流れる高梁川を遡った現在の総社市の原という地区で、山間部でありながら規模の大きな棚田が広がっている所である。
その後、大永2年(1522)には上田近江守光宝、永禄9年(1566)には上田近江守家実と続き、天正年間の初めには、上田入道阿西が城主であったという。そして、阿西は、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の三村元親の弟を養子に迎え、上田孫次郎実親と名乗らせた。
【写真左】石積が見える。
この箇所はすでに城域の入り口付近だが、ここからぐるっと旋回する道となる。
石積跡らしき大きな石が不揃いに残っている。
小規模な出丸跡もしくは、櫓台かもしれない。
毛利勢の猛攻
当城が毛利氏の手によって陥落したのは、天正3年(1575)の正月だとされている。城内には3,000余の兵が詰めていた。
当初、上田勢は地の利を生かし、大木や大石などを落とし毛利勢の寄せ手を阻んでいたが、七重八重と取り囲んだ毛利氏がやがてじわじわと侵攻してきたため、城主実親は、残った城内の者たちの命を助けるために、自害したという。
実親が養子として入ったのは、天正年間の初めとされるから、その2,3年後に落城したことになる。城主とはいえ、僅か20歳という若さで命を絶った。
【写真左】鬼ノ身城の略測図
当城は、典型的な「扇の縄」といわれる連郭式の山城といわれている。
この図でいえば、登城コースは北東部から回り込んで、東側の十二ノ壇あたりから向かう道が残るが、写真でも分かるように、登城した時期が5月でもあったため、草丈が伸びて遺構の詳細なものは撮れなかった。
落城後、宍戸隆家(安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)参照)が城主となり、城代として佐々部美作守(面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)参照)が在番したが、その後隆家の嫡子左衛門佐元秀の子・備前守基継が城主となり、8万石を領した。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、廃城となった。
【写真左】東側の低い郭段
上図でいえば、十二ノ壇・十一ノ壇付近で、この辺りから踏み跡があったため、そのまま進む。
【写真左】上の段に向かう。
轍がある所を見ると、この上まで軽トラで向かうように道が造られているようだ。
遺構の管理より、樹木などの管理が主体となっているようだ。
この箇所なども切崖若しくは虎口などがあったのかもしれない。
【写真左】三ノ壇付近
坂を登ると、おそらく三ノ壇付近と思われるが、削平地がある。
写真正面方向に二ノ壇、そして主郭となる一ノ壇が控える。
【写真左】一ノ壇に向かう。
一ノ壇に向かう道は二ノ壇の左側(東側)にある坂道(犬走りか)を登る。
【写真左】一ノ壇・その1
いわゆる主郭に当たる所だが、長径36m×短径22m前後の規模を持つもので、北辺の端部には列石で固められた部分があるとされている。
【写真左】一ノ壇・その2 諏訪神社
現地には南側から鳥居が建立され、奥には祠が祀られている。その間には礎石が残るが、おそらく当社の本殿が建てられていたのだろう。
【写真左】三角点
一ノ壇の南端部にあり、この先は切崖となっている。
【写真左】休憩所
一ノ壇にはご覧のような建物が建っている。「瀬戸内大橋開通記念」という看板が飾られている。
1988年に瀬戸内大橋が完成しているので、この建物もそれに併せて建てられたのだろう。
中には、鬼ノ身城から眺望できる瀬戸内方面の絵図や、当山に咲く色々な花などを写した写真なども飾られている。
鬼ノ身城の南麓には西から新本川が流れ、広い平坦地が広がる。奥に見える東西の丘陵地を超えると、倉敷市真備町に至る。
【写真左】鬼ノ身城から夕部山城を遠望する。
毛利氏(小早川隆景)が陣を構えた夕部山城(岡山県総社市下原)で、この他、西方には市場古城などがある。
【写真左】東南方向に児島半島を遠望する。
現地の絵図には、天気が良いと常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)が見えるようだが、この日は靄がかかり見えない。
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