木之宗山城(きのむねやまじょう)
●所在地 広島県広島市安佐北区上深川町
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 吉川興経、奥西綱仲
●高さ 413m(比高390m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2013年11月11日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
木之宗山城は、現在の山陽自動車道広島東インターの北方に聳える木ノ宗山に築かれた城砦である。
【写真左】木之宗山城遠望
西麓の木の宗山憩いの森公園側から見たもの。
西麓には細い道ながら南北に走る道路があり、その道路の西側にはご覧の公園がある。車はここに停め、そこから歩いて道路を横断し、登城口から向かった。
なお、この道路はせまく急カーブが多いが、地元では近道として利用度が高いのか、頻繁に車が往来する。
現地の案内板より
“ 木の宗山城は、木の宗山の山頂を中心に東西に伸びる尾根の上に築かれていました。
城兵がたてこもったり建物を建てたりする平らな地面を「郭」といいますが、城内にはそれが25か所あります。また敵の動きを封じるため、尾根を切った「堀切」と呼ばれる空堀も数か所設けられ、しっかりと守りを固めていたことがわかります。
このように山頂や尾根を利用して築かれた城を「山城」といい、戦国時代ころまでに多くみられた城の形です。
なお、この城の城主として戦国武将・吉川興経や奥西綱仲の名が古記録にみえますが、詳細については明らかでありません。
広島市”
【写真左】木の宗山ハイキングコース案内板
登城ルートは左図のように3通りある。この図は下方が北を示し、この日は同図の右(現在地)という所から向かった。
【写真左】登城口始点付近
整備されているのは前半の登城道だけで、後半は結構体力を消耗する。
この位置から本丸まで約1キロの表示がある。
吉川興経
木之宗山城の城主として吉川興経の名が残る。
吉川興経については、以前小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)や、吉川元春館跡(広島県山県郡北広島町海応寺)、日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)などでも紹介したように、安芸吉川氏の10代当主であったが、毛利氏と尼子氏の間をめぐって度々鞍替えしたため、最期は元就の手によって打果された武将である。
【写真左】展望広場(郭)
登城途中には展望広場という箇所が2か所あるが、この写真はそのうち最初の場所。
おそらく当城の西を扼する物見櫓などがあった郭だろう。
奥には木之宗山城の頂部が見える。なお、この写真の右を降ると、銅鐸・銅剣が出土した箇所に至るが、この日は省略した。
天文19年(1550)、興経が殺害される前に幽閉されたのが、この木之宗山城の麓・深川である。興経の母は元就の異母妹であり、おそらく当初元就は殺害までは考えていなかったのであろう。代々続いた安芸吉川氏の最後の居城・日野山城には、本来ならば興経が入る予定であった。
【写真左】直登の急坂道
展望台後半の道はご覧の通り、急坂で岩が多くなる。一気に登ると息が切れるので、何度も休憩をとりながら進む。
しかし、元就は興経のこれまでの行状を考慮し、これ以上本拠地である安芸山縣に据え置くことは得策ではないと考えたのであろう。
併せて、西の守りを固めるためには、次男・元春が吉川氏を継ぐべきと考えたものと思われる。
【写真左】広島市街地・広島湾を見る。
キツイ坂道だが、途中でこうした光景が眼下に拡がる。
南西方向を見たもので、奥に見える海は広島湾で、中央には似島・江田島などが見える。
【写真左】さらに険しい急坂が続く。
登城した最近の山城の中ではもっとも傾斜がきつい。
麓から見ると、なだらかな山に見えていたが、実際は全く違う山である。
管理人は体質的に大汗をかくため、最低でもペットボトル3本は常備しているが、この日はすべて飲み干した。
【写真左】主郭・その1
やっとたどり着く。西側一画には7,8m四方の規模を持つものがあり、東側一画にも、一段下がった郭がある。
【写真左】説明板
モノが当たったのか、2か所に穴が開いているため、分かりづらいが、この図でいえば、左側から登ってきたことになる。
遺構としては、めぼしいものはないが、主郭から東に向かうと、まとまった郭が配置されている。
【写真左】主郭・その2
東側にあるもので、西側との境にはご覧の大きな石が不揃いに残る。
当時これらは石積されていたものかもしれない。
【写真左】主郭・その3
東側からみたもの。
【写真左】主郭東端部から東に向かう犬走り
主郭から東にはまとまった郭があるが、そこへ向かうには主郭南東部から犬走り状の道がある。
【写真左】主郭東面の切崖
振り返ってみたもので、この位置から主郭までの比高差は約8m前後ある。
さらに東に向かう。
【写真左】堀切
遺構としてはこの堀切がもっとも明確に残る。
【写真左】郭群
東に伸びる尾根に配置されている。多少の起伏はあるが、奥行は大分長く150m前後はあろうか。
【写真左】北西方面を俯瞰する。
再び主郭にもどって広島市街地を見たもので、北西方面を見たもの。
中央を流れる川は太田川で、右側の小丘は安芸・八木城、左側の丘には安芸・恵下山城が見える。
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吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)
●所在地 広島県広島市安佐北区上深川町
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 吉川興経、奥西綱仲
●高さ 413m(比高390m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2013年11月11日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
木之宗山城は、現在の山陽自動車道広島東インターの北方に聳える木ノ宗山に築かれた城砦である。
【写真左】木之宗山城遠望
西麓の木の宗山憩いの森公園側から見たもの。
西麓には細い道ながら南北に走る道路があり、その道路の西側にはご覧の公園がある。車はここに停め、そこから歩いて道路を横断し、登城口から向かった。
なお、この道路はせまく急カーブが多いが、地元では近道として利用度が高いのか、頻繁に車が往来する。
現地の案内板より
“ 木の宗山城は、木の宗山の山頂を中心に東西に伸びる尾根の上に築かれていました。
城兵がたてこもったり建物を建てたりする平らな地面を「郭」といいますが、城内にはそれが25か所あります。また敵の動きを封じるため、尾根を切った「堀切」と呼ばれる空堀も数か所設けられ、しっかりと守りを固めていたことがわかります。
このように山頂や尾根を利用して築かれた城を「山城」といい、戦国時代ころまでに多くみられた城の形です。
なお、この城の城主として戦国武将・吉川興経や奥西綱仲の名が古記録にみえますが、詳細については明らかでありません。
広島市”
【写真左】木の宗山ハイキングコース案内板
登城ルートは左図のように3通りある。この図は下方が北を示し、この日は同図の右(現在地)という所から向かった。
【写真左】登城口始点付近
整備されているのは前半の登城道だけで、後半は結構体力を消耗する。
この位置から本丸まで約1キロの表示がある。
吉川興経
木之宗山城の城主として吉川興経の名が残る。
吉川興経については、以前小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)や、吉川元春館跡(広島県山県郡北広島町海応寺)、日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)などでも紹介したように、安芸吉川氏の10代当主であったが、毛利氏と尼子氏の間をめぐって度々鞍替えしたため、最期は元就の手によって打果された武将である。
【写真左】展望広場(郭)
登城途中には展望広場という箇所が2か所あるが、この写真はそのうち最初の場所。
おそらく当城の西を扼する物見櫓などがあった郭だろう。
奥には木之宗山城の頂部が見える。なお、この写真の右を降ると、銅鐸・銅剣が出土した箇所に至るが、この日は省略した。
天文19年(1550)、興経が殺害される前に幽閉されたのが、この木之宗山城の麓・深川である。興経の母は元就の異母妹であり、おそらく当初元就は殺害までは考えていなかったのであろう。代々続いた安芸吉川氏の最後の居城・日野山城には、本来ならば興経が入る予定であった。
【写真左】直登の急坂道
展望台後半の道はご覧の通り、急坂で岩が多くなる。一気に登ると息が切れるので、何度も休憩をとりながら進む。
しかし、元就は興経のこれまでの行状を考慮し、これ以上本拠地である安芸山縣に据え置くことは得策ではないと考えたのであろう。
併せて、西の守りを固めるためには、次男・元春が吉川氏を継ぐべきと考えたものと思われる。
【写真左】広島市街地・広島湾を見る。
キツイ坂道だが、途中でこうした光景が眼下に拡がる。
南西方向を見たもので、奥に見える海は広島湾で、中央には似島・江田島などが見える。
【写真左】さらに険しい急坂が続く。
登城した最近の山城の中ではもっとも傾斜がきつい。
麓から見ると、なだらかな山に見えていたが、実際は全く違う山である。
管理人は体質的に大汗をかくため、最低でもペットボトル3本は常備しているが、この日はすべて飲み干した。
【写真左】主郭・その1
やっとたどり着く。西側一画には7,8m四方の規模を持つものがあり、東側一画にも、一段下がった郭がある。
【写真左】説明板
モノが当たったのか、2か所に穴が開いているため、分かりづらいが、この図でいえば、左側から登ってきたことになる。
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東側にあるもので、西側との境にはご覧の大きな石が不揃いに残る。
当時これらは石積されていたものかもしれない。
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【写真左】主郭東端部から東に向かう犬走り
主郭から東にはまとまった郭があるが、そこへ向かうには主郭南東部から犬走り状の道がある。
【写真左】主郭東面の切崖
振り返ってみたもので、この位置から主郭までの比高差は約8m前後ある。
さらに東に向かう。
【写真左】堀切
遺構としてはこの堀切がもっとも明確に残る。
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東に伸びる尾根に配置されている。多少の起伏はあるが、奥行は大分長く150m前後はあろうか。
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