2013年10月31日木曜日

撫養城(徳島県鳴門市撫養町林崎)

撫養城(むやじょう)

●所在地 徳島県鳴門市撫養町林崎
●別名 岡崎城・林崎城
●形態 平山城
●築城期 不明(鎌倉後期~南北朝期か)
●築城者 小笠原氏
●城主 小笠原氏・四宮氏(三好氏)・真下飛騨守(長宗我部氏)・蜂須賀氏
●高さ 62m
●遺構 郭・石垣その他
●備考 阿波九城の一つ。妙見山公園
●指定 鳴門市指定史跡
●登城日 2013年10月27日

◆解説
 撫養城は、徳島県の東端部鳴門市に築かれた城砦である。当城については、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)の稿でも紹介したように、天正13年(1585)に入国した蜂須賀家政のとき、阿波九城の一つとされた。
【写真左】撫養城遠望
 北側から見たもので、右に見える天守は模擬天守で、旧博物館だった建物。
 奥には紀伊水道が見える。




 現地の説明板より

“史蹟 撫養城址
 
 天正13年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国し、国内九ヵ所に城塞を設けた。阿波の九城という。
 撫養城は淡路渡海の押さえとして異母兄弟の益田内膳正忠を城番にし、手勢300名をもって守らせた。
 寛永15年(1638)一国一城の令により阿波九城は破却された。
 社殿後方の城石は当時の面影を残している。
【写真左】なると観光マップ
 駐車場付近に設置された地図版で、撫養城(妙見山)は、この図中央部に記されている。





撫養付近の地勢

 当城のある現在の妙見山(H61.6m)も含め、その東方に隣接する「いわし山」を含めた箇所は、丁度北西部にある大桑島(現在神戸淡路鳴門自動車道が横断)と同じく、中世には紀伊水道に浮かぶ島嶼であったと思われる。
【写真左】妙見神社
 模擬天守の北側に祀れているもので、天保元年(1830)、旧城主・四宮加賀守の子孫と、撫養町林崎郷の近藤利兵衛氏がこの城址に当社を再建した、とされる。


 従って、当城の形態を「平山城」としているが、実態は水軍城の機能をもった城砦であったと考えられる。
 西麓を流れる撫養川は、北に小鳴門海峡を臨み、南には旧吉野川河口と紀伊水道を連絡する粟津漁港の間で感潮現象を起こす河川となっている。

 実際、登城を終えて、撫養川に架かる文明橋を通った時、海抜2m程度しかなく、川の水位が道路面の際まで来ていたことに驚いたものである。
【写真左】石垣・その1
 当城で唯一遺構として確認できるもので、妙見神社本殿の奥にコの字状に石積みされたもの。
 この写真は右側のもの。




 こうしたことから、中世にはこの水路は、備後の尾道水道のような状況をつくりだしていたものと思わる。
 そして、徳島城を本城とし、これを支える目的とされた阿波九城の中でも特に当城の果たす役割は、淡路島及び紀伊水道を監視する重要な城塞としての位置づけがあったものと推察される。
【写真左】石垣・その2
 左側のもの。
【写真左】妙見神社から模擬天守を見る。
【写真左】模擬天守
 この建物は「鳥居記念博物館」という施設だったらしいが、平成22年3月末をもって閉館している。
 このため、入口は閉鎖され入館することはできない。
【写真左】模擬天守付近から西方を見る。
 下の街並みは鳴門市街地で、左側の奥には
勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)などが位置する。
【写真左】模擬天守付近から北方を見る。
 奥に見えるのは小鳴門海峡で、神戸淡路鳴門自動車道の撫養橋が見える。

2013年10月30日水曜日

阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)

阿波・秋月城(あわ・あきづきじょう)

●所在地 徳島県阿波市土成町秋月
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 細川和氏
●城主 細川和氏・頼春・頼之、秋月氏
●形態 平城
●遺構 殆ど消滅(墓地)など
●指定 市指定史跡
●登城日 2013年10月27日

◆解説
 阿波・秋月城は勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)で紹介したように、阿波細川氏が勝瑞城に移る前に在城していた城館である。
 所在地は、勝瑞城のある藍住町から吉野川を約20キロほど遡った北岸の阿波市土成町に築かれている。
【写真左】阿波・秋月城
 現地には秋月城と刻銘された石碑などが建立されているが、整備されている箇所はこの付近のみで、周囲には墓地が点在している。



 現地の説明板より

“秋月城跡

 この地は古代秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏がここに居館を構えた文永年間守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられている。

 細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。
 秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩を占めていた。
 その後、細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられている。

 天正7年(1579)、土佐の長宗我部軍の兵火にあって落城したといわれている。
 この城跡の周辺には、秋月城の名残りとして御原の泉・的場の跡・竈(かまど)跡等が残っている。
  平成元年12月
      土成町”
【写真左】説明板














阿波小笠原氏と秋月氏

 この地に最初に構えた土豪秋月氏については詳細は分からないが、説明板によると文永年間(1264~74)に当時の守護であった小笠原氏から世継ぎを迎えているという。
 文永年間とは、鎌倉幕府において北条時宗が執権となったころで、対外的には蒙古襲来(文永の役)に対応している時期である。
【写真左】もう一つの石碑
 かなりの漢字が刻まれているが、篆書体のような刻銘のため殆ど読解不能。
 ただ、後半の文章には戦国期、すなわち長宗我部軍との戦いの様子を記したと思われるような文字が並んでいる。




 小笠原氏については、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でも述べたように、承久の乱(承久3年・1221年)の功績によって信濃国から小笠原長房が当地阿波に下向したことに始まる。おそらく、在地領主であった秋月氏は、下向してきた小笠原氏に対する服従的な意味もあって養子を迎えたのではないかと思われる。

 阿波・小笠原氏が秋月郷に養子を送り込んで間もない弘安4年(1281)、高麗の東路軍が対馬・博多に来襲した(弘安の役)。このとき、幕府は北九州から山陰(石見海岸まで)防衛上の砦を造らせている。

石見小笠原氏

 その際、阿波小笠原氏は石見の警固を担当したが、12年後の永仁元年(1293)3月、幕府は改めて鎮西探題として北条兼時らを九州に任じたように、石見では長房の子・長親が翌々年の永仁3年(1295)、石見国邑智郡村之郷に入った(山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)参照)。これが石見小笠原氏の祖となる。
【写真左】石見の山南城
 山深い石見国にあって、東方の険しい峠を越えると江の川が北進している。
 この村之郷は四周を山々が囲み、阿波国の広大な吉野川流域から来た小笠原氏にとって、まったくの辺境の地と思えたことだろう。
 恩賞としての土地とはいえ、当初は荒れ原野の開墾・開拓の伴う苦難の日々が続いたと想像される。

 左側の小丘が山南城の遺構だが、おそらく向背の本城に対する前城の役目があったものだろう。

阿波細川氏と小笠原氏

 延元元年・建武3年(1336)小笠原氏のあとに入ったのが細川和氏白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)である。この年の1月、足利尊氏は京都賀茂河原で新田義貞に敗れ、一旦鎮西(九州)へ奔った。このとき、細川氏は尊氏の命を受けて四国の統率を担うことになる。おそらくその時期は、尊氏が西下途中、備後の鞆の浦で光厳上皇の院宣を受けた2月29日の直後と思われる。
【写真左】五輪塔
 当地は城館としての定義づけがなされているが、現地には「的場跡」とされた石碑も建っている。
 ただ、点在する墓地以外は葛など雑草が繁茂し、遺構の確認は殆ど不可能だが、削平地が数段で構成されているので、館跡としての可能性が高い。
 この五輪塔は片隅にまとめて祀られいる。



 和氏の兄弟には、弟の頼春及び師氏がおり、さらには従兄の細川顕氏らがいた。彼らは四国・瀬戸内東部を治めた細川氏の主だった面々である。

 頼春についてはこれまで、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)でも度々紹介しているが、鎌倉時代後期から南北朝動乱期にかけて足利尊氏を主君として仕えた。彼は文和元年(1352)京都において宮方軍と戦い討死した。(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)

 師氏については、星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)でも紹介したように、淡路国を本拠とし、小豆島において宮方の飽浦信胤と一戦を交えた武将である。
【写真左】北側から見る。
 ご覧の通り墓地以外の箇所は草が繁茂している。
 なお、この入口前を通る道路は、遍路道で、西方には第10番札所(得度山切幡寺)があるため、登城中にも多くのお遍路さんが往来していた。


 ところで、細川氏が四国を治める前の小笠原氏との経緯はどうなっていただろうか。前記したように、阿波小笠原氏の嫡流であったはずの長房の子・長親を遠国である石見に移したため、当然ながら阿波国には庶流が残った。

 もっとも史料では、長親の弟として長種の名がみえるが、彼のその後の動向が明らかでない。むしろこのころ既に同氏庶流としての三好氏や、一宮氏・大西氏・安宅氏などの記録が多い。かれらは以前にも述べたように、阿波国各地に分散し国人化していった。そして、細川和氏が四国を平定した際、同氏に属していったという。
【写真左】秋月歴史公園・その1
 秋月城から北東部へ数百メートル山側に向かったところにある場所で、当城関連史跡として「安国寺経蔵跡」が比定されている。
 ここから階段を登っていくと、眺望のよい展望台などがある(下段の写真参照)



細川詮春と頼之

 さて、秋月城の城主となった和氏であるが、尊氏を支援し、室町幕府の引付頭人、侍所頭人など京都でしばらく活躍することになる。晩年は隠居し阿波秋月で余生を過ごし康永元年(1342)当地において47歳の生涯を終えた。

 和氏には嫡男の清氏がいたが、清氏は佐々木道誉勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)らによる謀略によって武家方(幕府軍)から追放され、結果南朝に属し、讃岐において同族の従弟である細川頼之らと戦う羽目になった。そして、最期は坂出市において無念の討死となった。
【写真左】秋月歴史公園・その2
 この日は夕暮れでもあったため、この先にある展望台までしか向かわなかったが、さらに上に進むと、「秋月城跡」とされたもう一つの頂部があるようだ。

 前段で紹介している秋月城が「的場」若しくは「館跡」とすれば、城砦としての秋月城はこの山に築かれていたかもしれない。


 このため、和氏あとの秋月城の城主は細川詮春、すなわち、和氏の実弟頼春の子が跡を継ぐこととなる。

 なお、詮春の兄すなわち、上掲した細川氏本流である吉兆家の嫡男頼之土居構(愛媛県西条市中野日明、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)参照)は、その後細川氏を再興し、幕府内で管領として強固な地位を固め、室町期には幼い足利義満を育成した。
 そして、讃岐・阿波・土佐・淡路・摂津・丹波・備中など、この時期もっとも重要な地域の守護職を手中に収め強大な権力を誇示していくことになる。
【写真左】秋月歴公園(秋月城)から南麓を見る。
 旧秋月郷といわれた場所で、前段で紹介した「秋月城(館跡)」はこの写真の右にあるが、ここからは見えない。

 秋月郷から吉野川までの間には市場町伊月という地名があるが、南北朝期から室町期にかけて、このあたりにも吉野川を交易の足として利用した市などが開かれていたものと思われる。

 また、対岸の吉野川市には以前紹介した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)がほぼ真南に見える。

2013年10月25日金曜日

勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)

勝瑞館(しょうずいやかた)

●所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地
●築城期 室町期(1550年代)
●築城者 三好氏
●遺構 会所・庭園等
●指定 国指定史跡
●備考 勝瑞城址公園
●登城日 2013年6月4日

解説(参考文献「サイト『勝瑞遺跡デジタル博物館』」等)
 勝瑞館は、前稿の「勝瑞城」に隣接した場所にあって、これらをまとめて「勝瑞城館」とし、国の指定史跡にされた場所である。

 なお、この場所から北西約700m程むかったところには、阿波守護職であった細川氏の守護館が想定されている。
【写真左】勝瑞館跡
 現在も発掘調査されているようで、隅の方に事務所らしき建物が建っていた。
 現在更地となっているが、以前は工場のようなものがあったようだ。




三好之長没後

 之長が亡くなった後継いだのは、孫の元長である。管領細川家(晴元)を支えつつも、自らの支配力を高め、幕府内でも発言力を高めた。しかし、このころ本願寺との争いが生じ、本願寺一揆勢との戦いで敗れ、堺顕本寺にて自刃した。享年32歳。

 元長が亡くなった跡を継いだのが、子の三好長慶である。元長の子には、長子・長慶をはじめ、二男・義賢、そしてのちに淡路島の水軍領主・安宅(あだぎ)氏へ養子となった三男の冬康、さらにこれも後に讃岐十河城の十河氏へ養子となった四男の十河一存(かずまさ)、そして五男・野口冬長がいる。
【写真左】勝瑞城及び館跡配置図
 右上の箇所が前稿でとりあげた勝瑞城跡で、左下が今稿の館跡である。

 この図でも分かるように、発掘調査された箇所は二か所であるが、当時は点線で囲んだ範囲にも遺構があったものと思われる。
 残念ながら他の箇所は既に改変され住宅などが建っている。



三好長慶

 このうちもっとも有名なのが長男の三好長慶である。大永2年(1522)2月に現在の三好市三野町芝生(しぼう)にあった芝生城で生まれている。

 越前の「智謀無双」といわれた朝倉教景(宗滴)(1477~1555)(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)が残した「朝倉宗滴話記」に、「日本に国持、人使いの上手、よき手本と申すべき人物」として、武田信玄や上杉謙信など7人の武将を挙げているが、この中に三好修理大夫殿(長慶)を入れている。

 宗滴が直接長慶に遭ったかどうかわからないが、一時的にせよ衰退していた室町幕府にとって代わり、畿内を勢力下に置いた武将である。
【写真左】復元された枯山水の庭園
 発掘調査では、庭に使用されたと思われる景石が12個見つかった。









 長慶が中央において頭角を現し、山城・摂津・丹波を軸に、和泉から本拠地側である淡路・阿波・讃岐を支配下に置いたのは、天文22年(1553)の5月ごろである。その3か月後長慶は幕府の将軍を担がず、また幕府内の事実上の権力役職であった管領にもならず、まったく自立した権力者としての支配を目指していた。

 彼がそうした選択をとったのは、すでに室町幕府の組織・機能が有名無実のものであったことも一つの理由と思われる。
 
 しかし、長慶が畿内において裁判権や検断権を掌握した形の政権を得たものの、他国の実力者から見れば、まったく認知されたものではなく、極めて不安定なものであった。このころ、信濃川中島では、武田信玄と上杉謙信が第1回目の戦いを行い、弘治元年(1555)には、織田信長が織田信広を破って尾張清州城に移り、また西国では毛利元就が厳島において陶晴賢を破るなどきわめて混沌とした情勢であった。
【写真左】現地の説明板













 長慶が畿内を制圧したその5年後の永禄元年(1558)、13代将軍となった足利義輝は六角義賢(よしかた)の軍勢をもって京都に侵入した。

 これに対し、長慶側の三好長逸(ながゆき)・松永久秀らが迎え撃ったが、衆寡敵せず長慶側は義輝と和議を結び、同年11月27日、義輝の入京を許した。事実上の室町幕府復活である。
 この後長慶は、将軍の重臣相伴衆となり、幕府のもとで働くことになる。しかし、その後の長慶には不運が続き、兄弟を戦で失い、さらには嫡子義興にも先立たれ、失意のうちに河内飯盛山城にて永禄7年(1564)7月4日、42歳の生涯を終えた。
【写真左】区画溝・その1










【写真左】区画溝・その2









 現地の説明板より・その1

“館内の区画溝(やかたないのくかくみぞ)
 枯山水庭園と礎石建物跡の東側に、この建物跡と軸を同じくした溝が検出されました。この溝から東側は生活面が一段低くなっており、また出土する遺物も鍋・釜などの煮炊具や壺・甕などの貯蔵具が多くなるなど、様相が異なります。
 庭園のある空間がハレの空間であるのに対して、この溝から東側は恐らく日常生活の空間、つまりケの空間であったのであろうと考えています。”


【写真左】復元された建物












 現地の説明板より・その2


“礎石建物跡(そせきたてものあと)

 この建物は、最大で南北七間×東西四間半で、約120㎡の広さがあります。(一間=約197cm)
礎石には30~50cmの砂岩が使われています。
 建物の構造として、礎石の大きさから五間半×四間半の身屋(もや)と庭園に面したおよそ一間半×四間半の付属部に大別されます。付属部の端から検出された庭の景石までの距離は約3mで、庭園を眺めるには格好の位置です。そうした建てられた位置や周辺から出土する遺物の性格などから、この建物は勝瑞城館内でサロン的な役割を果たす「会所」の跡であることが推定されています。
身屋の礎石は焼けた壁土と大量の炭化物を含んだ層に覆われており、この建物は焼失したことがうかがわれます。
 廃絶年代は出土遺物から16世紀末頃であることが推定されます。”


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2013年10月10日木曜日

勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)

勝瑞城(しょうずいじょう)

●所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞
●別名 阿波屋形、勝瑞城館、下屋形
●築城期 鎌倉時代か
●築城者 小笠原長清
●城主 細川氏、三好氏
●廃城年 天正10年(1582)
●形態 平城
●指定 国指定史跡
●備考 勝瑞城址公園
●登城日 2013年6月4日

◆解説(参考文献「サイト『勝瑞遺跡デジタル博物館』」等)
 勝瑞城は徳島県の吉野川河口付近に築城された城館跡である。
【写真左】勝瑞城跡・その1
 濠跡とみられる川だが、ほとんど流れていない。









 現地の説明板より

“国指定史跡 「勝瑞城館跡」
   勝瑞城跡

 勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。

 15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子春元党の拠点となった。
【写真左】勝瑞城跡・その2
 同じく南側を流れる壕跡の川









 天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を握った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。

 勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。
【写真左】見性寺
 本丸跡地に建つ寺院で、三好氏の菩提寺である。








 本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。

 天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。

 その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
【写真左】三好氏累代の墓











 当地は16世紀末に築かれた詰めの城、館跡と共に平成13年1月29日に国史跡に指定された。

 城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。

 境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は、徳島県の有形文化財に指定されている。
   藍住町教育委員会”
【写真左】勝瑞義家の碑

 現地の説明板より

“藍住町指定有形文化財
  見性寺境内
勝瑞義家 碑

 四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂(1727~89)の撰、戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録で、すぐれた筆蹟は注目されている。
   藍住町教育委員会”


吉野川

 勝瑞城は、別名四国三郎とよばれた日本三大暴れ川の一つである吉野川の本流、及び支流の間に囲まれた藍住町の中にある。高松自動車道の板野ICを降りて、南に進むと最初に渡る板野大橋を流れるのが旧吉野川である。この川は現在の吉野川の上坂町当たりで、北に分岐して大きな蛇行を数回繰り返しながら東進し、松茂町の河口で紀伊水道へ注ぐ。

 これに対し、現在の吉野川は板野町付近から川幅を広げつつ、徳島市の北側を悠然と東に進み、紀伊水道に注ぐときは、その河口幅は1キロ前後にも及ぶ。文字通り大河である。前記した三大暴れ川がそうであったように、これらは中世から近世にかけて周辺に住む人々によって度々治水や利水のための河川工事が行われてきた。

 このような歴史を持つ旧吉野川と現吉野川の両川に挟まれた勝瑞城の所在する藍住町や、東方の北島町・松茂町といった板野郡のエリアには、いわゆる山といわれる高所がなく、海抜は最高所でも3m弱という場所である。つまり巨大な中洲でなりたつ町並である。
【写真左】土塁
 竹林が繁茂しているため、分かりづらいが、見性寺(本丸跡)の西側に一部残っている。
 高さは現在は1m弱のものだが、当時は2m程度はあったものと推測される。
 


阿波細川氏
 
 延元元年・建武3年(1336)1月、新田義貞は賀茂河原で足利尊氏を破り、尊氏は一旦丹波に奔った。しかしその後尊氏は、形勢が次第に不利と見るや、さらに西下し九州で陣を立て直し、菊池・阿蘇両氏を破った。

 同年4月3日、再起を図るべく、尊氏は、筑前博多の港から帆を揚げ東上を開始した。このとき、尊氏は事前に西国の主だった諸将に対し、与同する準備を企てている。これに呼応した中の一人が阿波細川氏である。

 阿波細川氏は、以前鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)で紹介した同氏野洲家と同じく、分流の阿波讃岐細川家、または阿波屋形と呼ばれている。

 15世紀中ごろ、この守護職細川氏が勝瑞城に移る前に拠ったといわれる土成の秋月(城)は、勝瑞城から吉野川を約20キロほどさかのぼった現在の阿波市土成町秋月にある(阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)参照)。
【写真左】見性寺境内
 現在は境内として整地されているため、明確な遺構は確認しがたいが、北側から東にかけても土塁のような高まりが20m程度にわたって認められる。




三好氏

 三好氏については、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でも述べたように、元は小笠原氏といわれ、南北朝後期に阿波三好郡に入った義長の代に至って、小笠原氏から当地名の三好をとって、三好氏と改称したといわれている。

  室町期に至ると、幕府内で権力を誇示した細川氏に被官していく。三好氏が大きく飛躍していくきっかけを作ったのが三好之長である。当時管領だった細川政元の跡継ぎとして入った養子の阿波細川家から澄元が迎えられると、之長はこれに随従し、各地で転戦奮闘し武功を挙げた。

 こうしたことが政元の目に留まり、之長はそれまで分流であった阿波細川家から、嫡流である吉兆家細川氏の重鎮として重きをなした。
【写真左】矢竹の説明板
 上の写真にある土塁跡にこのような竹が生えており、弓矢として用いる矢を館周辺に植生させていたとされる。

 





 この後については以前にも述べたように、政元のもう一人の養子であった細川高国との確執から、永正6年(1509)6月17日、之長は山城国(京都)如意嶽において戦い、大内義興の支援を受けた高国に敗れた。

  因みに出雲国の守護代に返り咲いていた尼子経久は、この前年の永正5年(1508)5月、大内義興・足利義稙を援護して入京している。経久が細川高国と接点を持ったのはおそらくこの時と思われ、後の永正17年(1520)、京極政経時代から支援をしていた尼子経久に対し、高国は養子高清の支援を要請している。
 そしてこの年(永正17年)5月5日、細川高国は入京後、三好之長を再び破り、之長は自刃、細川澄元は阿波に逃れるも、6月10日無念の死を遂げた。


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十河城(香川県高松市十川東町)

2013年10月3日木曜日

出石城(兵庫県豊岡市出石町内町)

出石城(いずしじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市出石町内町
●築城期 慶長9年(1604)
●築城者 小出吉英
●城主 小出氏、松平氏、仙石氏
●形態 平山城
●高さ 56m(比高40m)
●遺構 稲荷郭、本丸、二の丸、三の丸など
●指定 豊岡市指定文化財
●備考 重要伝統的建造物群保存地区
●登城日 2006年9月16日及び、2013年6月13日

◆解説
 今稿は前稿有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)の麓に築かれた近世城郭である出石城をとりあげる。

 出石城を最初に訪れたのは2006年で、もう7年も前である。出石城の向背に聳える有子山城については把握していたが、この時の探訪は一般の観光客と変わらない出石の観光名所巡りだった。
【写真左】出石城
 西の郭付近から見たもので、向背の山が有子山城になる。








 
 現地の説明板より

“出石城跡

 出石城は慶長9年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので、一国一城制による但馬唯一の城です。
 平山城に分類され、梯郭式といわれるように有子山の麓に、上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭三の丸と梯子を立て掛けたように城を築いています。
【写真左】登城橋
 西側に設置されている橋で、下の川が堀の役目をしている。
 橋を渡ると登城門があり、二の丸下の郭に繋がる。




 また東には、山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から堀切で水を引き、内堀をめぐらせ、北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築きませんでしたが、隅やぐらや多門を設けて要害としました。

 城主は小出氏が9代(100年)、松平氏1代(10年)、仙石氏7代(160年)と続き、明治の版籍奉還まで270年間58,000石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。

 最上段の稲荷郭には城の鎮守稲荷神社を祀り、本丸・二の丸には広壮な御殿を建て、渡り廊下で連結させていました。また本丸には仙石公の藩祖・仙石権兵衛秀久を祀る感応殿や、昭和43年に復元した東西隅やぐらがあり、往時の面影を偲ばせてくれます。
    出石町観光協会”
【写真左】二の丸
 二の丸は上下二段の構成となっており、下の郭の上をあがると、「上の部」といわれる郭がある。






出石の蕎麦

 全国にある城下町は、中世・近世の歩みをたどりながらそれぞれ特徴のある文化を引き継いでいる。その中でも出石の食文化としては「出石そば」が挙げられる。

 味覚オンチながら管理人にとって好きな食べ物の一つに蕎麦がある。初めて訪れたこの出石で食したのが「出石そば」である。当地のそばは、「三たて」製法による通称「出石皿そば」という。

【写真左】本丸・その1

 











 出石のそばは、江戸時代のお国替えによって誕生したとされる。上掲の説明板にもあるように、松平氏が宝永3年(1706)転封され、信州上田城主・仙石氏が入封した際、そば職人を伴なってきた。
 それまでも出石でそばは食されていたが、信州蕎麦の技法がそこに加わり、さらには陶芸の出石焼きも盛んになり、現在の白地の小皿に盛る形式が確立されたという。
【写真左】本丸東隅櫓













 一般的な「ざるソバ」や、管理人の地元にある「出雲そば」などの食べ方に対し、出石ソバは小皿に概ね一人5皿となっている。生前、ソバ通でも知られた噺家の五代目柳家小さん師匠が、汁(つゆ)にちょっとつけて、ソバをズルッと一気に吸い込み、ほとんど噛まずに食べていたが、管理人もこれに近い食べ方である。

 出石蕎麦は大変品の良いソバなのだが、普段から件の食べ方をしている者にとってはいささか間怠いかもしれない。しかし、品の良いソバだからじっくりと食してほしいという目的もあるかもしれない。
【写真左】隅やぐら
 昭和43年に復元されたもので、本丸西隅櫓である。
 手前の赤い鳥居は稲荷参道に設置されたもの。






仙石氏

 さて、この出石そばのきっかけをつくった仙石氏だが、もとは信濃上田の藩主である。宝永3年(1706)、幕府の命によって上田藩第3代藩主であった仙石政明(まさあきら)が但馬出石藩に移封された。

 この政明の系譜をたどると、秀久に至る。すなわち、以前紹介した長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)で、自らの無謀な作戦によって、長宗我部信親、十河存保(まさやす)を討死させた九州島津征伐の軍艦・仙石秀久である。この時の秀久の行動には敗戦後の対応にも批判が集まり、秀吉は一時所領没収や高野山追放など厳しい処分を下している。
 その後、小田原征伐が始まるころになると、家康からの執り成しもあって復帰し、戦功を挙げた。
【写真左】稲荷参道
 この上を登っていくと、前稿有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)の登城口に繋がるが、その反対側には下段の稲荷神社がある。



 出石藩祖である政明は、この秀久から数えて5代目に当たる。 

 仙石秀久以降の系譜
    1. 仙石秀久  1552~1614  信濃小諸藩初代藩主
    2. 仙石忠政  1578~1628  信濃小諸藩第2代藩主⇒上田藩初代藩主
    3. 仙石政俊  1617~1674  信濃上田藩第2代藩主
    4. 仙石忠政  1640~1667  家督を継げず28歳で夭逝
    5. 仙石政明  1659~1717  信濃上田藩主⇒但馬出石藩主
【写真左】稲荷神社
【写真左】出石町観光マップ