2013年4月22日月曜日

砥石城・その2(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

砥石城(といしじょう)その2

●所在地 岡山県瀬戸内市邑久町豊原
●高さ 標高120~130mか
●築城者 宇喜多氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2013年2月23日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『宇喜多秀家 備前物語・津本陽著』等)
 前稿に引き続いて砥石城をとりあげるが、今稿は本城から南西にある尾根先端部に築城された出丸をとりあげたい。
【写真左】砥石城出丸遠望
 出丸は本城より20~30mほど少し高いようだ。








 前稿でも紹介したように、出丸に向かうには本丸のある尾根を南に進み、その尾根筋から西に枝別れしたもう一つの尾根筋を辿っていく。
【写真左】砥石城出丸の縄張図







概要

 長さ20m×幅13mの長方形の土壇築城の中心郭を設け、その尾根先側に比高3m下って幅広い腰郭を設け、その下に細長い帯郭と小さな腰郭を上段に構え、尾根続き側を幅6.5m、深さ3mの堀切で遮断している。
 本城とは距離的にも離れ、独立した城砦として配置されていたため、これまでこの城砦が高取山城に比定されていたという。
【写真左】出丸に向かう分岐点
 手前が砥石城本城に向かう道で、その奥は社に繋がる。この写真では右側の傾斜面から出丸に向かう道がある。

 なお、途中までこの通は、高圧電線の鉄塔管理用となっている。
【写真左】最初のピーク
 しばらく急坂の道が続いた後、このピークに出る。高圧電線が設置されその脇を抜け、北西の方向に尾根筋を進む。

 隅の方に手造りの標識が枝に飾ってあるが、小さいので見過ごすかもしれない。
【写真左】ここから城域
 砥石本城のような整備はされていないせいか、若干の踏面があるものの、注意して歩かないと、コースを外れそうだ。
【写真左】堀切
 底部が長い形式の堀切で、当時はもう少し鋭角に抉ってあったものと思われる。
【写真左】主郭
 雑木があるため、形状が分かりにくいが、長方形の形をしている。また、外周部には若干の土塁状の跡も見られる。
【写真左】出丸から砥石本城を見る。
 枝木の間から北東方向に砥石城の本城を一部確認できる。
 
 

2013年4月21日日曜日

砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

砥石城(といしじょう)その1

●所在地 岡山県瀬戸内市邑久町豊原
●築城期 大永年間(1521~28)
●築城者 宇喜多和泉守能家
●高さ 100m(比高95m)
●指定 瀬戸内市指定史跡
●城主 宇喜多能家・浮田大和守・島村氏・浮田春家
●遺構 5連郭式・曲輪等
●登城日 2013年2月23日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『宇喜多秀家 備前物語・津本陽著』等)
 砥石城は岡山県の三大河川の一つ吉井川河口東部に位置する山城で、直家をはじめとする宇喜多氏ゆかりの城館である。
【写真左】砥石城本丸
 砥石城付近には、東隣の尾根には出丸が配置され、更に東の谷を挟んで後述する高取山城が連座している。

 



現地の説明板より

“邑久町指定重要文化財
  砥石城跡
     昭和61年12月24日指定

 砥石城は、戦国時代の宇喜多氏ゆかりの山城です。
 城の経緯や築城期は定かでありませんが、江戸時代の記録『備前軍記』には、大永年間(1521~28)、浦上村宗の家臣宇喜多和泉守能家が築城したと書かれています。宇喜多久家の子能家は、邑久郡に住み、備前守護代浦上村宗に、のちに二男浦上宗景につかえました。

 天文3年(1534)6月、高取山城主島村豊後守の夜討ちによって城主能家は自害し落城しました。主君浦上宗景はこの城を島村氏には与えず、浮田大和守に与えました。
【写真左】登城口付近
 登城口は、本丸に直接向かう北口側と、東側の谷を少し上ったところから向かう箇所及び、その奥のキャンプ場側の3か所がある。
 今回はそのうち東側の最初の登城口から向かった。
 この箇所にはご覧のような「宇喜多直家生誕之地」と刻銘された石碑が建立されている。


 天文16年(1547)乙子城主となった能家の孫宇喜多直家は、主君宗景の軍勢と合して、備中三村氏に内通した砥石城主浮田大和守を攻め落とし、城主に舎弟の浮田春家を任じました。その後、直家は主君浦上氏を倒し戦国大名として岡山城主になります。春家は、直家の居城であった亀山城(沼城)の城主となり、部将に砥石城を守らせました。

 平成9年3月
    砥石城環境整備実行委員会”
【写真左】尾根の分岐点
 尾根斜面を九十九登りすると、ピークに達するが、ここで分岐する。

 右側(北)に向かうと、砥石城の本丸に向かい、左側に向かうと、笠松明現宮という社があるが、このルートの途中に出丸方面の入口があり、さらに奥に進んで西に旋回して向かうと高取山城方面まで繋がる。

 先ずは、右側の尾根を北に進み、本丸に向かう。


宇喜多能家(よしいえ)

 宇喜多氏については以前にも述べたように、南北朝期活躍した児島高徳と同じく、児島三宅氏の系譜に連なる。宇喜多氏の名が初見されるのは、文明元年(1469)5月16日付『備前西大寺文書』である。これによると、宇喜多五郎左衛門入道・沙弥宝昌なる人物が、金岡東庄の成光寺に名主職を寄進したとある。つまり、当地を治めていた土豪であったことが推測される。
【写真左】砥石城本丸が見えてくる。
 先ほどの分岐点から尾根筋を暫く北に進んで行くと、やがて本丸の南側の姿が見えてくる。
 なお、この尾根はほとんど直線に近く、アップダウンの少ない平坦道である。



 また沙弥宝昌から少し下った文明2年5月22日付の同文書には宇喜多修理進宗家が署名した下知状があり、この宗家の子が久家とされ、同じく明応4年(1495)7月25日付の『西大寺文書』に寄進状が残されている。

 宇喜多氏が守護代浦上氏に仕え始めた時期ははっきりしないが、おそらく久家の代からだろう。そして久家は、子の能家に幼い頃から文武を厳しく授け、能家は後に浦上氏家臣の中でも武名はつとに高まった。
【写真左】砥石城出丸を遠望する。
 本丸に向かう途中で、左側の南西部に出丸の頂部が確認できる。

 写真の右側の高くなったところで、本丸側頂部より少し高いようだ。
 出丸については次稿で紹介したい。



 成人した能家が最初に仕えたのは、三石城主浦上宗助(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2及び三石城(岡山県備前市三石)参照)である。

 明応6年(1497)3月、宗助は土豪松田元勝が支配していた西備前の伊福郷の富山城を攻めた。しかし、この戦いで、宗助らの浦上勢は挟み撃ちにあい、龍の口山へ逃れたが、ここも追ってきた松田勢に包囲され、逃げ場を失った。このとき、当時三石城にあった能家は、宗助を救出するため松田勢に夜討ちをしかけ、包囲を破り龍の口山の宗助を救出し、三石城に帰還した。このときの働きが播磨・備前国に知れ渡り、名を挙げた。
【写真左】出曲輪
 本丸の南側にあるもので、この辺りには岩塊が多い。

 鞍部となったところで、大分緩やかな勾配となっている。
【写真左】本丸直下
 本丸が近くなると、次第に上り勾配となって、ご覧の階段が出てくる。








 その後、宗助が没すると、子であった村宗が跡を継ぐことになったが、以前にも述べたように、浦上氏のその後は一族内において内訌が起こり、分裂の危機を迎えることになる。能家は終始村宗に従い、一族の危機を救った。

 能家はそれ以来大永3年(1523)まで26年にわたって浦上氏の重鎮として活躍していく。特に、守護職であった赤松氏を備前・美作・西播磨から一掃した働きは大きい。
【写真左】砥石城本丸と出丸の縄張図
 上段が出丸で、下段が本丸を示す。
南北に延びる尾根を利用して構築されたもので、東西両側の斜面は天険の要害だが、南北にはさほどの要害性は認められない。



 さて、その能家が砥石城に入り隠居した理由は、この大永3年の春、守護職赤松氏が浦上の同族浦上村国と連合して三石城を攻めた時、当城に拠っていた能家の次男・四郎が討死したことからである。
【写真左】三石城
 所在地 岡山県備前市三石









 能家の長男すなわち後の直家の父となる興家は、生まれながらに憶病・軟弱であったことから能家は興家よりも、豪胆で武将として優れていた次男・四郎に跡を継がせる予定だった。しかし、その最も期待をかけていた四郎が、三石城で討死したことが能家にとっては余りにも大きな痛手となり、このため出家(入道)し砥石城に引きこもり、余生を過ごすことになった。
【写真左】本丸・その1
 長さ40m×最大幅14mで、現在はほぼフラットな面を保っている。








 砥石城において隠居してから約11年後、当城から西南に約1キロ余りへだったところにある高取城の城主・島村豊後守盛実は、同じ浦上氏に属していたが、先代から宇喜多氏への嫉妬があり、このころ家督を継いで間もない若い主君浦上宗景に謀議を持ちかけた。

 懐柔にも近い同意を取り付けた豊後守は、手兵を引連れ夜陰に乗じて砥石城に侵入した。当時手薄だった砥石城は抗する術もなく、能家は自刃した。天文3年(1534)6月晦日の夜の事である。
【写真左】本丸・その2
 この箇所は西側の中央部で、野図積み石垣が残る。








 この夜、当城に居合わせたのは、長男興家とその子・八郎(のちの直家)らであった。

 豊後守は謀殺する相手は能家ただ一人と決めていたこともあり、興家父子は辛うじて地元の漁師の漕ぐ船で脱出、縁者を頼って鞆の浦に向かった。
【写真左】本丸・その2
 西側には祠が祀られている。なお、この箇所には礎石跡らしきものが残るが、当時の宇喜多氏館跡なのか、近世のものかわからない。
【写真左】無数に残る瓦片
 本丸の西側に見えたもので、当時の館建物のものか、あるいは近世のものかわからないが、かなりの量にのぼる。
【写真左】北麓部からの登城道
 冒頭で紹介したもう一つの登城道から本丸に向かう箇所で、左側には本丸下にある3段の郭があるが、ご覧の通り整備されていない。
【写真左】本丸から西南方向に高取山城を遠望する。
 能家を討った島村豊後守の拠る高取山城だが、この位置からははっきりとは見えないようだ。
【写真左】本丸から西麓の千町川を見る。
 旧豊原荘の穀倉地帯千町平野で、戦国期はこの辺りも遠浅の海だったものと思われる。
 なお、この川を下っていくと、吉井川と合流する地点に、直家10代の頃居城とした乙子城がある。
 乙子城については近日投稿する予定である。
【写真左】本丸から谷を隔てて南東に大雄山を見る。
 大雄山には大賀島寺という天台宗の古刹がある。
 宇喜多能家の庇護を受け、同氏の菩提寺となった。
 この日は参拝していないが、機会があれあ訪れたい。

2013年4月13日土曜日

筑前・岩屋城・その2(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)

筑前・岩屋城(ちくぜん・いわやじょう)・その2

●所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
●登城日 2013年2月3日

◆解説(参考文献『戦国九州三国志・学研編』等)
 前稿に続いて、筑前・岩屋城を取り上げるが、今稿では二の丸跡といわれる箇所にある高橋紹運の墓(胴塚)を中心に紹介したい。
【写真左】高橋紹運の墓
 約15m四方の規模を持つ墓所で、紹運並びに殉死した家臣の供養塔も建立されている。





 墓所は道路を挟んで、南側には二の丸があったいわれ、その箇所には現在高橋紹運並びに、共に討死した家臣の供養塔が祀られている。

 現地の説明板より

“高橋紹運公並びに勇士の墓
 戦国の武将高橋紹運は23歳で岩屋城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い、城兵763名と共に玉砕した。時に39歳であった。紹運以下勇士たちここ二の丸址に眠る。

辞世歌
 流れての 末の世遠く 埋もれぬ
        名をや 岩屋の苔の下水

       太宰府市”
【写真左】紹運の墓
 この墓石は厳密にいえば墓石でなく碑銘で、写真の左に胴塚として祀られている石積の壇ががそれと思われる。

 ただ、岩屋城の戦いのあと、勝利した島津軍は当然ながら首実検を行っているはずなので、紹運の頸は納められていないと思われる。



吉弘氏

 ところで、前稿でも述べたように、紹運は元は吉弘鑑理(あきまさ・あきただ)の次男として、天文17年(1548)に生まれた。吉弘氏は大友氏庶流の一族である田原氏の分家である。実は、この田原氏を含めた大友氏庶流家は、大友氏嫡流家(宗麟までの系譜)より一代古い。豊後大友氏を起こした初代・能直(中原親能の養子・猶子)のとき、次の庶流家を輩出している。
  1. 能秀  詫摩家
  2. 時景  一万田家(鑑種⇒養子として高橋家へ)
  3. 能郷  志賀家
  4. 泰広  田原家
 また、2代・頼泰の代になると、さらに新たな庶流が生まれる。
  1. 重秀  戸次家(戸次鑑連、後の立花道雪を輩出)
  2. 頼宗  野津家
  3. 親奏  田北家
  4. 能泰  野津原家
  5. 親重  木附(杵築)家 杵築城(大分県杵築市杵築)参照
 ちなみに、大友嫡流家第21代の義鎮(よししげ)即ち、宗麟の系譜に至るまでは実に紆余曲折した流れで、基本的に長子による継嗣を基本としながら、実際には兄弟間による継嗣や、南北朝期における同氏一族の対立もあり一様でない。
【写真左】紹運と共に殉死した侍従者の慰霊碑
 大正5年に建立された旨が記銘されている。

なお、この他後ろの方にも「岩屋城 戦没者之碑」と刻銘された石碑がある。



 さて、その吉弘家だが、以前にも紹介したように「豊州三老」の一人として、大友家忠臣として誉れ高く、特に紹運の祖父・氏直は、天文3年(1534)の勢場ヶ原の戦い(大村山合戦ともいう)において壮絶な討死をとげ、紹運の実兄鎮信は天正6年(1578)の日向耳川の戦いで、同じく玉砕している。

 吉弘家にはこのように、代々主君である大友家に対し、命を賭して戦う「忠臣」の思想・信念が受け継がれている。
【写真左】二の丸跡及び紹運の墓所
 岩屋城本丸の南に走る道路からさらに下った位置にある。

 墓所を含め手前の平坦地も二の丸跡になるが、写真右側は切崖状の斜面で、水城に繋がる。また左手前には一段低くなった二の丸の郭跡らしき平坦地が確認できる。



紹運の妻(宋雲尼)

 紹運の妻は同国海部(あまべ)郡丹生荘を本拠としていた斉藤鎮実(しげざね)の妹である。丹生荘というのは、現在の大分市東部から臼杵市にかけての地域である。

 紹運の妻(宋雲尼)とは、相当前から許嫁(いいなずけ)として約束があったが、途中で彼女は天然痘に罹り、それまでの端正な顔立ちが一変してしまい、兄鎮実は紹運に対し、とても嫁がせることはできないと申し出た。

 しかし、紹運は「容姿や顔で心を引かれたのではなく、彼女の温和な気立てに引かれたのであって、どのような姿であろうと、妻に迎えたい」と返答した。この結果、約束通り紹運は宋雲尼を娶ったという(『常山記談』)。紹運の誠実な人柄が偲ばれる。
【写真左】墓所(二の丸)から本丸を見上げる。
 本丸は写真の右側の高くなったところにあり、墓所から約200m程度の距離がある。





立花宗茂

 そして二人の間にできた嫡男が、統虎(むねとら)で後の立花宗茂である。

 以前にも述べたように、宗茂は父と同じく武功の誉れ高い武将として成長し、その器量にほれ込んだ立花道雪が、高橋家の嫡男であることを承知の上で、再三にわたり紹運に対し、立花家へ養嗣子として請うたため、紹運もしぶしぶ承諾し、立花家に入り、道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚した。
【写真左】岩屋城から大宰府を俯瞰する。
 島津氏が最初に占有した大宰府の町並み。
 中央左は大宰府政庁跡。





 秀吉が九州島津征伐を行う際は、先鋒を務め、秀吉から「九州の一物」と評され、関ヶ原合戦では西軍に属していたことから改易され、一時浪人となるが、大阪夏の陣では徳川秀忠麾下として活躍、その後幕府から旧領であった筑後柳川に10万9000石を与えられ、柳川藩主として再封された。

2013年4月11日木曜日

筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)

筑前・岩屋城(ちくぜん・いわやじょう)・その1

●所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
●築城期 不明(天文年間 1532~55ごろか)
●築城者 高橋鑑種
●城主 高橋氏
●高さ 標高281m(比高230m)
●遺構 郭・堀切等
●備考 大野城
●登城日 2013年2月3日

◆解説(参考文献『戦国九州三国志・学研』等)
 岩屋城は、前稿まで紹介してきた古代朝鮮式山城・筑前大野城の城域南端部に築城された戦国期の山城で、九州における島津VS大友両軍における有名な「岩屋城の戦い」の激戦地となったところである。
【写真左】本丸跡に建つ岩屋城の石碑
 この石碑は昭和30年に建立された。

 







現地の説明板より

“岩屋城跡(本丸跡)
 岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。
 同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ、代って吉弘鎮理(しげまさ)(後の名将高橋紹運(じょううん))が城主となった。
 紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦10余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕した。
    太宰府市”
【写真左】岩屋城及び高橋紹運の墓の位置
 この図は前稿まで紹介した大野城のものだが、岩屋城は大野城の南方大宰府口城門跡よりさらに南に下った位置にあり、さらにその下には高橋紹運の墓がある。









高橋紹運

 天正15年(1587)に秀吉が九州を制圧する直前までの当地における版図は、概ね次の三将で支配されていた。
  1. 島津氏 勢力範囲 薩摩を本拠とする南地域
  2. 大友氏 勢力範囲 豊後を本拠とする北東部
  3. 龍造寺氏 勢力範囲 肥前を本拠とする北西部
 このうち、今稿で取り上げる岩屋城の城主・高橋氏は当初大友氏の忠臣で、戸次(立花)氏とともに同氏を支えた一族である。
【写真左】岩屋城遠望
 大野城(四王寺山)に登る車道があり、その途中から岩屋城に登る道がある。ただ、車で行くと、この道路付近には余り駐車スペースはないので、注意が必要。

 駐車ができない場合は、もう少し上まで行った大宰府口城門に駐車場があるので、そこから歩いて下っていくとたどり着ける。
 なお、大野城内の専用駐車場は時間制限があるようなので事前に時間を確認しておいた方がいい。



 ところで、本ブログのサブタイトルにも載せている辞世の句、

“かばねをば 岩屋の苔に埋てぞ 雲井の空に 名をとどむべき”

 は、この岩屋城で3~5万余の大軍で攻撃してきた島津軍に対し、わずか700余名の守備兵とともに、壮絶な戦いの末討死した城主・高橋紹運のものといわれている。

 紹運は、当時「豊州三老」と呼ばれた大友義鎮の三家老の一人・吉弘鑑理(あきただ)を父として、天文17年(1548)に生まれた。幼名は千寿丸で、後に吉弘鎮理(しげまさ)と名乗った。紹運は晩年の出家後名乗った法名である。混乱を避けるため本稿では紹運で統一して紹介する。
【写真左】道路側にある登城口
 ここから歩いて2,3分で本丸にたどり着ける。なお、この付近は本丸から南に下ると、のちほど紹介する紹運の墓地がある。この墓地も元は二の丸と伝えられている。



 紹運が高橋を名乗ったのは、高橋家に養嗣子として入ったことによる。その前の高橋家当主は、高橋鑑種(あきたね)であったが、彼は主君であった大友氏に叛いて毛利氏や秋月氏に属し、反旗を翻したため、最後は大友氏に攻められ、降伏後豊前小倉に移された。そして、そのあと代わって、高橋家に入ったのが紹運である。

 なお、鑑種自身も、もとは大友家一族であった一万田家の親敦の子で、のちに高橋家に養子に入っている。結果として、2代続けて高橋家は、養嗣子でつないだことになる。これは同家が筑前では名家であったことから、鑑種が小倉に移される際、家臣らは鑑種に随従することを拒み、高橋家の再興を熱心に大友宗麟に懇願した結果、宗麟が紹運を高橋家に養子の形として入ったためである。
【写真左】本丸跡・その1
 本丸の東側の箇所で、奥には櫓台跡が残る。
本丸の規模はおよそ20m四方の大きさで、この下には腰郭が取付く。



 さて、紹運はこの結果、岩屋・宝満両城の城督となり、もう一人の猛将で鬼道雪といわれた立花道雪立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)とともに大友宗麟を支えていくことになる。宗麟はこうして最盛期には豊前・豊後を含め九州北部の6カ国まで版図を拡大していった。

 しかし、天正6年(1578)11月、宗麟が日向高城川において、島津軍と激突した「耳川の戦い」で敗れると、次第に勢威は衰え、北上してきた島津軍の攻撃を受けることになる。
【写真左】本丸跡・その2 櫓台付近
 上述したように、奥には高さ約2m程度高くなった櫓台が残り、そのまま尾根筋を北に進むと、登城口付近にある堀切に至る。
 また、さらにそのまま進むと大野城の大宰府口城門跡にたどり着く。
 島津氏が攻めたてた時、北方からも侵入したといわれているので、戦国期はこの大野城の城域も、いわば再利用されたと思われる。


岩屋城の戦い

 九州制圧にむけて島津軍は北上していくが、同軍の編隊は概ね二つのグループに分けられていた。
  1. 西側ルート 島津忠長・伊集院忠棟隊  肥後八代で豊後と筑後へと分かれる
  2. 東側ルート 島津家久隊 日向から豊後へ北上し、一部は豊後・岡城で合流
 このうち、岩屋城攻めに向かったのは、1、の西側ルートを北上してきた島津忠長・伊集院忠棟らである。
【写真左】本丸下の郭・その1
 南から西にかけて本丸の下には腰郭が残る。
最大幅10m×長さ30m程度の規模で、さらにこの下にも郭があるかもしれないが、整備されていないため不明。



島津忠長らが筑前に侵入してきたのは、天正14年(1586)7月11日である。この時の兵力は約3万で、岩屋城南麓にあった大宰府は数日で占領された。

 しかし、島津軍は一気に岩屋城攻撃はしなかった。というのも、僅か700余騎であった岩屋城を指揮していた紹運の武名の高さは島津方にも知られていたからである。しかも、その前段では、筑紫広門攻めにおいて、大軍を擁していた島津軍は、勝利したものの、当初の予想を大幅に超える負傷者を出していた。
【写真左】本丸下の郭・その1
 東側から見たもので、右上の段が本丸に当たる。



 岩屋城麓に着陣してから3日後の14日、島津軍は最初の攻撃を開始した。予想通り、紹運らの守備は堅牢で、緒戦において島津軍は多くの負傷者を出した。

 その後何度か攻撃を繰り返しながら、22日になると、島津軍の援軍である宮崎衆が到来すると、岩屋城の外堀を埋め、また塀も崩し岩屋城攻めの体制を構築していった。そしてその頃、島津軍は総勢5万の大軍を整え、27日、ついに最後の総攻撃を開始した。

 この結果、700余騎を従え驚異的な籠城戦を戦い抜いてきた名将・紹運も、最期は本丸にて討死した。
【写真左】岩屋城から宝満山城を遠望する。
 紹運が岩屋城と併せて城督となった山城で、島津軍による岩屋城攻めの際、この城には紹運の嫡男・統虎(むねとら・のちの立花宗茂が拠っていた。

 島津軍の動きや勢力を周知していた紹運に対し、宗茂は再三宝満城に退くよう父・紹運に説得していたが、紹運はこれを拒否し、最期まで岩屋城で戦った。

2013年4月6日土曜日

筑前・大野城・その2(福岡県大野城市・宇美町)

筑前・大野城(ちくぜん・おおのじょう)・その2

●所在地 福岡県大野城市・宇美町・太宰府市
●登城日 2013年2月3日

◆解説
 前稿に引き続いて筑前・大野城をとりあげるが、今稿は多くある遺構のうち、北方にある「百間石垣」を中心に取り上げたい。
【写真左】百間石垣・その1
 上流部始点にある石垣で、比較的良好に残っている。








現地の説明板より・その1

“特別史跡 大野城跡 百間石垣(ひゃっけんいしがき)

 大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲まれているが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。

 この「百間石垣」の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名づけられたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。

 この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる。”
【写真左】百間石垣の位置を示した地図
 大野城の北端部にあり、当時はこの位置が尤も海岸部(玄界灘)に近いため、重要な場所だったと思われる。
 このためか、この区域では外周部の土塁とは別に、百間石垣を含めて東西にもう一つの土塁が配置されている。

 また、南側も大宰府政庁があることから、二重の土塁が構築されている。






現地の説明板より・その2

“百間石垣

 百間石垣は大野城の北の要(宇美口)に位置し、石垣の全長は150m以上あり城内最大の規模を誇ります。

 石垣の大半は頑強な岩盤の上に構築され、裏込めに栗石を使用した透水性の高い断面構造をなし、石垣の南側には地下水を排出するための吐水口が設置されるなど、水に配慮した当時の技術の高さを窺い知ることができます。
【写真左】下流部から見たもの。
 百間石垣は、この写真の右側にあるが、四王寺川の西(左)に道路が走り、さらにその左にはもう一つ別の「北石垣」もある。ただ、この日は雨が降っていたため滑りやすく、こちらの方は踏査していない。


 昭和48年の水害によって、百間石垣の前を流れる川が氾濫、土砂崩れも重なり石垣は大きな被害を受けました。

 復旧工事に併せ発掘調査を行ったところ、石垣の基礎や川の中から城門の礎石と考えられる石材が発見されました。平成13年度からは石垣の保存のために修理が始められ、この時行われた工事で中央の石垣の裏から版築状の盛土が発見されるなど新たな知見を得ることが出来ました。

 ところが、平成15年7月の集中豪雨によって山林が崩壊、この土砂災害によって百間石垣は甚大な被害を受けます。工事は一時中断しましたが、復旧に取り組んだ結果、現在のような姿によみがえりました。
【写真左】中央部付近を下から見上げる。
 切り立った崖に構築されている。登り口は上下両方から向かうことができるが、先ず上の方から向かう。
【写真左】上から見たもの
 上手側から登り坂となっていくが、整備されているのは途中までとなっている。
【写真左】上部
 右側側面に百間石垣が積み上げられている。
この付近は、中世城郭的定義でいえば、郭段に当たる個所で、平坦に仕上げられている。
【写真左】埋もれていた石垣
 上部の方に設置されているもの
【写真左】さらに上に向かう
 この辺りの石積みは施工が困難だったと思われる。
【写真左】上から側面部の石積みを見る。
 あえてこうした急傾斜に石積みを施すことによって、より要害性を高めたのだろう。
【写真左】再び道路側から見る
【写真左】北石垣へ向かう階段
 道路を挟んだ反対側にも石垣があるが、この日は向かっていない。
【写真左】羅沙門堂へ向かう分岐点
 この付近は、大野城の西方にあたり、この先には「八ッ波建物群」と呼ばれる跡が残る。
 前稿で紹介した高床式倉庫跡といわれる建物14棟の礎石が残っているというが、この日は時間がないため向かっていない。