賀儀城(かぎじょう)
●所在地 広島県竹原市忠海町床浦
●別名 鍵城
●築城期 永禄8年(1565)
●築城者 浦(乃美)宗勝
●形態 水軍城
●高さ 標高20m
●遺構 郭等
●登城日 2012年6月20日
◆解説
竹原市の東部で三原市と接する港町忠海の海岸に築かれた水軍城である。
【写真左】賀儀城遠望
水軍城であるため、先端部は海や浜辺が迫っている。
現地の説明板より
“賀儀城跡(鍵城跡)
標高約20mの丘陵上にあり、沼田小早川氏の一族・浦宗勝の水軍城跡である。「四方なめら、山嶮にして高凡16間、山上は平地、上の段の広さ、凡500坪、次の段の広さ凡160坪」(国郡志)に記される。
本丸の下には帯曲輪を設け、2の丸にあたる曲輪の北端にわずかに土塁が残る。井戸もあったが現在は埋められている。今市や末友、烏ヶ城などの地名も残っている。
竹原市観光協会”
【写真左】登城口付近
登城といっても丘に登るような高さである。当城全体がこうした巨岩で構成されている。
右の建物は、市立忠海西小学校の体育館。
なお、この辺りの道路は大変に狭く、駐車スペースは殆どない。
このため、東側南端の海端に停めた。
浦(乃美)宗勝
説明板にもあるように、築城者である浦氏の元祖は、相模国土肥郷から出た土肥氏の一族で、土肥実平の子・遠平が安芸国沼田荘(現在の三原市)に地頭職として補任し、その後景平が家督を継ぎ、小早川氏を名乗った。その後、小早川宣平の七男・氏実が豊田郡浦郷(現在の忠海)を分け与えられ、浦氏を称した。従って、浦氏の始祖は浦(小早川)氏実である。
戦国に至って5代元安に嗣子がなく、小早川氏の庶流乃美氏から、家氏の次男・賢勝を養子として迎え、その子宗勝は小早川隆景の水軍司令官となって、厳島の戦いから朝鮮の役まで戦い続けた。
【写真左】登城道
当城はほとんど公園化された城砦跡で、遺構も判然としない箇所が多い。
【写真左】北側の郭
不定形ながら平坦地が北に延びる。一部土塁のような形の箇所も見られたが、近代の施工かもしれない。
地元では浦宗勝という呼称で親しまれているが、一般的には乃美宗勝として知られる。
宗勝の側室には村上吉充の女が嫁いでいるように、村上氏とは縁戚関係であった(鎮海山城(広島県竹原市竹原町貞光)参照)。
このことから、厳島の戦いにおいて、小早川(毛利氏の名代)として、村上水軍に与同するよう努めている。
雷神又は鬼道雪として勇名をはせた豊後の戦国武将・戸次鑑連(通称・立花道雪)は、文禄13年(1570)、奪い取られた立花山城を再び取り戻す際、劣勢に陥った毛利氏として、僅かな手兵を率いて籠っていた宗勝を討取ることをせず、平和裏に開城の手続きをとり、毛利軍は無事に安芸に帰ることができた。道雪も宗勝の態度を見て、武士として共感するものがあったのだろう。
常山合戦
天正3年(1575)6月、備中の常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)において、城主上野隆徳の妻・鶴姫(又は舞姫とも)は、侍女34人と共に槍を持って落城寸前、城内から討って出た。
【写真左】備中・常山城の二の丸付近にある鶴姫ら40基の墓
現地の説明板では、侍女らは城外で最後の戦いを挑み、全員が討取られたのち、鶴姫だけが最期に城内に入り自刃した、と記されている。
このとき、宗勝は鶴姫と遭遇、姫から「相手に不足無し」と戦いを挑まれたが、「女とは戦えぬ」と拒否したところ、鶴姫は宗勝に上野家の宝刀「国平の太刀」を渡して、再び城内に入り侍女34人共々自刃したという。
【写真左】南側(海)に向かう。
天正20年(1592)文禄の役において、朝鮮に出兵するも当地で病に罹り、帰国後同年9月23日、立花山城近くの糟屋郡秋屋において死去した。享年65歳。
【写真左】南側の郭
当城の中で最も規模の大きい郭だが、公園化されたせいか、遺構はほとんど確認できない。
【写真左】忠魂碑が建つ
この場所が最も高い箇所で、物見台・櫓などがあったと思われる。
【写真左】竪堀か
比高が低いこともあり、当城はこうした遺構が数多く設置されていたものと思われる。
【写真左】賀儀城から南方に瀬戸内を見る。
真南方向には、小久野島を介して、しまなみ海道の一つ大三島が見える。
翫月山(かんげつざん)
勝雲寺(曹洞宗)
賀儀城の北の丘陵地には、宗勝が創建したといわれる勝運寺がある。
また、この墓所に宗勝の墓が建立されている。
【写真左】勝運寺本堂
現地の説明板より
“翫月山 勝雲寺(曹洞宗)
小早川水軍の将・浦宗勝が元亀元年(1570)から天正9年(1581)にかけて完成し、寺領300貫を寄進、新興寺の僧以天圭穆(いてんけいぼく)を招いて開山した寺院である。
寺宝として宗勝の画像2幅と軍用櫃(市重文)ならびに、以天圭穆の駕籠(市重文)がある。画像は烏帽子直垂の正装の像と、軍装の像である。軍用櫃(弾薬輸送庫)は、小早川隆景が弾薬を入れて宗勝に送ってきたものと伝える。
竹原市観光協会”
【写真左】墓地の傍らに立つ大きな看板
【写真左】浦宗勝の墓・その1
宝篋印塔形式のもので、周囲には一族のものと思われる墓も鎮座している。
【写真左】浦宗勝の墓・その2
この場所から宗勝の居城・賀儀城や、瀬戸内の海が眺められる。
●所在地 広島県竹原市忠海町床浦
●別名 鍵城
●築城期 永禄8年(1565)
●築城者 浦(乃美)宗勝
●形態 水軍城
●高さ 標高20m
●遺構 郭等
●登城日 2012年6月20日
◆解説
竹原市の東部で三原市と接する港町忠海の海岸に築かれた水軍城である。
水軍城であるため、先端部は海や浜辺が迫っている。
現地の説明板より
“賀儀城跡(鍵城跡)
標高約20mの丘陵上にあり、沼田小早川氏の一族・浦宗勝の水軍城跡である。「四方なめら、山嶮にして高凡16間、山上は平地、上の段の広さ、凡500坪、次の段の広さ凡160坪」(国郡志)に記される。
本丸の下には帯曲輪を設け、2の丸にあたる曲輪の北端にわずかに土塁が残る。井戸もあったが現在は埋められている。今市や末友、烏ヶ城などの地名も残っている。
竹原市観光協会”
【写真左】登城口付近
登城といっても丘に登るような高さである。当城全体がこうした巨岩で構成されている。
右の建物は、市立忠海西小学校の体育館。
なお、この辺りの道路は大変に狭く、駐車スペースは殆どない。
このため、東側南端の海端に停めた。
浦(乃美)宗勝
説明板にもあるように、築城者である浦氏の元祖は、相模国土肥郷から出た土肥氏の一族で、土肥実平の子・遠平が安芸国沼田荘(現在の三原市)に地頭職として補任し、その後景平が家督を継ぎ、小早川氏を名乗った。その後、小早川宣平の七男・氏実が豊田郡浦郷(現在の忠海)を分け与えられ、浦氏を称した。従って、浦氏の始祖は浦(小早川)氏実である。
戦国に至って5代元安に嗣子がなく、小早川氏の庶流乃美氏から、家氏の次男・賢勝を養子として迎え、その子宗勝は小早川隆景の水軍司令官となって、厳島の戦いから朝鮮の役まで戦い続けた。
【写真左】登城道
当城はほとんど公園化された城砦跡で、遺構も判然としない箇所が多い。
【写真左】北側の郭
不定形ながら平坦地が北に延びる。一部土塁のような形の箇所も見られたが、近代の施工かもしれない。
地元では浦宗勝という呼称で親しまれているが、一般的には乃美宗勝として知られる。
宗勝の側室には村上吉充の女が嫁いでいるように、村上氏とは縁戚関係であった(鎮海山城(広島県竹原市竹原町貞光)参照)。
このことから、厳島の戦いにおいて、小早川(毛利氏の名代)として、村上水軍に与同するよう努めている。
雷神又は鬼道雪として勇名をはせた豊後の戦国武将・戸次鑑連(通称・立花道雪)は、文禄13年(1570)、奪い取られた立花山城を再び取り戻す際、劣勢に陥った毛利氏として、僅かな手兵を率いて籠っていた宗勝を討取ることをせず、平和裏に開城の手続きをとり、毛利軍は無事に安芸に帰ることができた。道雪も宗勝の態度を見て、武士として共感するものがあったのだろう。
常山合戦
天正3年(1575)6月、備中の常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)において、城主上野隆徳の妻・鶴姫(又は舞姫とも)は、侍女34人と共に槍を持って落城寸前、城内から討って出た。
【写真左】備中・常山城の二の丸付近にある鶴姫ら40基の墓
現地の説明板では、侍女らは城外で最後の戦いを挑み、全員が討取られたのち、鶴姫だけが最期に城内に入り自刃した、と記されている。
このとき、宗勝は鶴姫と遭遇、姫から「相手に不足無し」と戦いを挑まれたが、「女とは戦えぬ」と拒否したところ、鶴姫は宗勝に上野家の宝刀「国平の太刀」を渡して、再び城内に入り侍女34人共々自刃したという。
【写真左】南側(海)に向かう。
天正20年(1592)文禄の役において、朝鮮に出兵するも当地で病に罹り、帰国後同年9月23日、立花山城近くの糟屋郡秋屋において死去した。享年65歳。
【写真左】南側の郭
当城の中で最も規模の大きい郭だが、公園化されたせいか、遺構はほとんど確認できない。
【写真左】忠魂碑が建つ
この場所が最も高い箇所で、物見台・櫓などがあったと思われる。
【写真左】竪堀か
比高が低いこともあり、当城はこうした遺構が数多く設置されていたものと思われる。
【写真左】賀儀城から南方に瀬戸内を見る。
真南方向には、小久野島を介して、しまなみ海道の一つ大三島が見える。
翫月山(かんげつざん)
勝雲寺(曹洞宗)
賀儀城の北の丘陵地には、宗勝が創建したといわれる勝運寺がある。
また、この墓所に宗勝の墓が建立されている。
【写真左】勝運寺本堂
現地の説明板より
“翫月山 勝雲寺(曹洞宗)
小早川水軍の将・浦宗勝が元亀元年(1570)から天正9年(1581)にかけて完成し、寺領300貫を寄進、新興寺の僧以天圭穆(いてんけいぼく)を招いて開山した寺院である。
寺宝として宗勝の画像2幅と軍用櫃(市重文)ならびに、以天圭穆の駕籠(市重文)がある。画像は烏帽子直垂の正装の像と、軍装の像である。軍用櫃(弾薬輸送庫)は、小早川隆景が弾薬を入れて宗勝に送ってきたものと伝える。
竹原市観光協会”
【写真左】墓地の傍らに立つ大きな看板
【写真左】浦宗勝の墓・その1
宝篋印塔形式のもので、周囲には一族のものと思われる墓も鎮座している。
【写真左】浦宗勝の墓・その2
この場所から宗勝の居城・賀儀城や、瀬戸内の海が眺められる。
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