宇陀松山城(うだまつやまじょう)・その2
●所在地 奈良県宇陀市大宇陀町
●探訪日 2012年4月18日
◆解説
本稿では城下町としての宇陀の町並みや、その他史跡関係を取り上げたい。
【写真左】宇陀松山地区 案内図
この図にある「織田藩上屋敷跡」「織田藩向屋敷跡」は、残念ながら探訪していない。
現地の説明板より
“城下町「松山」の成立と発展
「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた豊臣家配下の大名の城下町として成立しました。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島孝治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。
元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わいました。
【写真左】松山の町並み・その1
【写真左】松山の町並み・その2
元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。
城下町としての機能を失っても、「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。
現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物や歴史的街並みを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。”
【写真左】松山西口関門
現地の説明板より
“史跡
旧松山城西口門
ここは旧松山城大手筋にあたる西口関門である。建築は徳川初期のものと認められ正面の柱間13尺5寸両内開きになっていて、左右に袖垣をつけた高麗門の形である。
門を含む地域は枡形になり旧位置に現存する城下町の門としては珍しいものである。
松山城は旧名秋山城と呼び、秋山氏の築城に始まる。天正元和の間次第にその形を整え、福島掃部頭の居城とした。慶長年間城郭ならびにその城下町の完成を見るに至った。
この西門もその頃の構築にかかるものである。
大宇陀町教育委員会”
【写真左】西口門付近を流れる宇田川
松山の町並みの西側を流れる川で、趣のある川である。
織田信雄
説明板にもあるように、元和元年(1615)、宇陀は織田信雄が所領した。信雄については、田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)でも紹介しているが、信長子息の中では、江戸時代まで大名として生き残ったのは信雄だけである。
信雄は信長の次男とされ、母は生駒吉乃(きつの)といわれている。信長の正室は知られているように濃姫であるが、一般的には信長と濃姫の間には子がいなかったといわれている。このため、信長には吉乃をはじめ約10人の側室がおり、吉乃は事実上の正室でもあったといわれている。
【写真左】徳源寺
所在地 宇陀市大宇陀岩室
宇陀松山城の北西1.5キロの丘陵に建立されている。
宇陀を治めた信雄から以降、4代織田氏が続くことになるが、当院は織田松山藩が歴代藩主の菩提寺として建立した寺である。
この寺の奥に藩主であった信雄・高長・長頼・信武の五輪塔が建立されている(下段の写真参照)。
永禄年間、信長の南伊勢侵攻に伴い、北畠氏の養子となって、具房の妹雪姫を娶り、名を北畠具豊と改めた。その3年後家督を相続、信意(のぶおき)と名乗った。この改名にある「信」を名乗ったことからも想像されるが、翌年の天正4年(1576)、父信長の命によって、北畠氏一門を誅滅させた。
【写真左】織田松山藩主歴代五輪塔
始祖・信雄は寛永7年(1630)京都で亡くなっているので、供養塔と思われる。
本能寺の変によって信長が亡くなると、知られるように秀吉と柴田勝家の対立が生じ、信雄(このころはすでに信雄と名乗っていた)は、秀吉に一旦属した。
しかし、その後秀吉とは関係が悪くなり、小田原攻めの際、武功を挙げたものの、東海地方への移封命令を拒否、このため秀吉から改易された。流罪先は下野国烏山といわれ、出家して常真と号した。
その後、出羽国、伊予国へと転罪されたものの、家康の口利きによって赦免され、再び還俗、このとき大和国へ18,000石を領した。文禄元年(1592)のことで、これが信雄が大和国と関わる最初のきっかけとなった。
【写真左】徳源寺側から宇陀松山城を遠望する。
関ヶ原の戦いでは、明確な態度を示していない。しかし、大阪冬の陣においては、直前になって徳川方についた。翌元和元年(1615)、家康から大和宇陀郡、及び上野国甘楽郡などを5万石を与えられた。
●所在地 奈良県宇陀市大宇陀町
●探訪日 2012年4月18日
◆解説
本稿では城下町としての宇陀の町並みや、その他史跡関係を取り上げたい。
この図にある「織田藩上屋敷跡」「織田藩向屋敷跡」は、残念ながら探訪していない。
現地の説明板より
“城下町「松山」の成立と発展
「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた豊臣家配下の大名の城下町として成立しました。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島孝治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。
元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わいました。
【写真左】松山の町並み・その1
【写真左】松山の町並み・その2
元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。
城下町としての機能を失っても、「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。
現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物や歴史的街並みを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。”
【写真左】松山西口関門
現地の説明板より
“史跡
旧松山城西口門
ここは旧松山城大手筋にあたる西口関門である。建築は徳川初期のものと認められ正面の柱間13尺5寸両内開きになっていて、左右に袖垣をつけた高麗門の形である。
門を含む地域は枡形になり旧位置に現存する城下町の門としては珍しいものである。
松山城は旧名秋山城と呼び、秋山氏の築城に始まる。天正元和の間次第にその形を整え、福島掃部頭の居城とした。慶長年間城郭ならびにその城下町の完成を見るに至った。
この西門もその頃の構築にかかるものである。
大宇陀町教育委員会”
【写真左】西口門付近を流れる宇田川
松山の町並みの西側を流れる川で、趣のある川である。
織田信雄
説明板にもあるように、元和元年(1615)、宇陀は織田信雄が所領した。信雄については、田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)でも紹介しているが、信長子息の中では、江戸時代まで大名として生き残ったのは信雄だけである。
信雄は信長の次男とされ、母は生駒吉乃(きつの)といわれている。信長の正室は知られているように濃姫であるが、一般的には信長と濃姫の間には子がいなかったといわれている。このため、信長には吉乃をはじめ約10人の側室がおり、吉乃は事実上の正室でもあったといわれている。
【写真左】徳源寺
所在地 宇陀市大宇陀岩室
宇陀松山城の北西1.5キロの丘陵に建立されている。
宇陀を治めた信雄から以降、4代織田氏が続くことになるが、当院は織田松山藩が歴代藩主の菩提寺として建立した寺である。
この寺の奥に藩主であった信雄・高長・長頼・信武の五輪塔が建立されている(下段の写真参照)。
永禄年間、信長の南伊勢侵攻に伴い、北畠氏の養子となって、具房の妹雪姫を娶り、名を北畠具豊と改めた。その3年後家督を相続、信意(のぶおき)と名乗った。この改名にある「信」を名乗ったことからも想像されるが、翌年の天正4年(1576)、父信長の命によって、北畠氏一門を誅滅させた。
【写真左】織田松山藩主歴代五輪塔
始祖・信雄は寛永7年(1630)京都で亡くなっているので、供養塔と思われる。
本能寺の変によって信長が亡くなると、知られるように秀吉と柴田勝家の対立が生じ、信雄(このころはすでに信雄と名乗っていた)は、秀吉に一旦属した。
しかし、その後秀吉とは関係が悪くなり、小田原攻めの際、武功を挙げたものの、東海地方への移封命令を拒否、このため秀吉から改易された。流罪先は下野国烏山といわれ、出家して常真と号した。
その後、出羽国、伊予国へと転罪されたものの、家康の口利きによって赦免され、再び還俗、このとき大和国へ18,000石を領した。文禄元年(1592)のことで、これが信雄が大和国と関わる最初のきっかけとなった。
【写真左】徳源寺側から宇陀松山城を遠望する。
関ヶ原の戦いでは、明確な態度を示していない。しかし、大阪冬の陣においては、直前になって徳川方についた。翌元和元年(1615)、家康から大和宇陀郡、及び上野国甘楽郡などを5万石を与えられた。
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