2012年8月16日木曜日

霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)

霧山城・その3
 伊勢北畠氏と出雲葛西氏
(いせきたばたけし と いずもかっさいし)

◆解説
ところで、管理人の地元である出雲国には、葛西氏という一族が、戦国時代末期、伊勢の北畠氏を頼って、当地に赴いたという伝承が残っている。
今稿はこのことについて、資料はあまりないものの検証してみたい。
【写真左】出雲・城平山城遠望
 所在地 島根県出雲市斐川町上阿宮~雲南市加茂町大竹
 南麓を流れる斐伊川から見たもの。





出雲・葛西氏

出雲・葛西氏については、当ブログを立ち上げて間もない2009年に、出雲国の葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1で紹介している。
改めて概要を示すと、この中で、出雲・城平山城落城後、城主だった葛西兼正は、かつて属していた伊勢国の北畠家を頼った、と記している(池田敏雄著「出雲の現郷『斐川の地名散歩』」)。

 葛西氏が出雲国に来住してきた時期は、南北朝動乱期であることはほぼ間違いないと思われる。そして、同氏は北畠氏のみならず、足利氏にも属していたと記している。
【写真左】城平山城の南麓中腹部に建立されている古刹・光明寺
大嶽山光明寺
 出雲観音霊場第7番札所
 創建時期は不明ながら、奈良~平安時代といわれている。戦国期も含め度重なる火災によって文書史料はほとんど消失しているが、山岳仏教寺院として大いに栄えたといわれている。

 城平山城のある城平山と尾根続きとなる大嶽山(大竹山H322m)の8合目付近に建っている。
 葛西氏最盛期には当院も城砦施設の一つとして使用された可能性が高い。


このことは、やはり以前にも紹介した「太平記」にも登場する地元の塩冶判官高貞塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)など)と同じ動きであったと推察される。すなわち、北条執権の鎌倉幕府倒幕にむかった後醍醐天皇に与した一族ながら、その後建武の新政の瓦解によって、足利尊氏(北朝)に属していったという流れである。

葛西氏はその後、小規模な所領ながら戦国期に至るまで18代を数え、元亀年間以降に至って、伊勢の北畠氏を頼り、のちに北畠氏の家臣となったという。
【写真左】葛西氏累代の墓・その1
 光明寺境内の西端部に建立されている。宝篋印塔形式のものや、当院住職の墓と思われるものも混在している。
【写真左】】葛西氏累代の墓・その2



しかし、5代後兼延のとき(江戸時代初期とされる)、一族とともに北畠氏から離れ、再び祖先の居た出雲国の城平山城麓(斐川町阿宮)にもどり、武士を捨て百姓となって祖先の墓を作り、代々祖先の菩提を供養してきたとされている。

以上が出雲・葛西氏の流れである。

今回、伊勢の北畠氏関係の史跡を訪れた目的の一つには、実はこの出雲葛西氏が伊勢北畠氏を頼ったということから、一度はこの地を探訪したいという思いがあったからである。
【写真左】葛西氏の屋敷跡といわれている箇所
 光明寺の東側から北方の高瀬山城にむかって中国自然歩道という道が設置されているが、その中途には同氏の屋敷跡といわれる箇所がある。

 石積み基礎とされた建物跡などがあったようだが、現在は散在しほとんど現形をとどめていない。ただ、この中腹部の平坦地には平時の生活がおこなわれていたであろう小規模なため池や、複数の建物の区画とみられる凹凸状の遺構らしきものもある。

 屋敷跡としてはかなり高い位置にあるにも関わらず、常に湧水が流出しているようで、この水が確保できることからこの場所を屋敷跡として構えたのだろう。

 また、この屋敷跡から西の尾根筋に向かって本丸に繋がる道があったといわれているが、現在は朽ち果ててほとんど痕跡をとどめない。


戦国期の葛西氏の動向

そこで、出雲葛西氏が伊勢の北畠氏を頼って行った時期についてだが、元亀年間以降(1570~)といわれている。元亀年間における出雲国の動きは、これまで度々紹介したように山中鹿助が尼子再興を願って蜂起するも、毛利方によって駆逐された頃である。

出雲葛西氏の末裔として、現在も当地に住んでおられる葛西家には、系図の他に毛利輝元から、よく戦ったと褒められた書状(感状と思われる)が残っているといわれる。
このことから、葛西氏は毛利方に与していたと考えられ、尼子再興軍と戦った可能性が高い。

同氏の居城である城平山城(出雲市斐川町阿宮)から北方1.5キロに、尼子再興軍の一人、米原綱寛が籠城した居城・高瀬山城(出雲市斐川町学頭)がある。当城が落城したのは、元亀2年(1571)3月19日である。
【写真左】城平山城側から北方に高瀬山城を遠望する。
 城平山城の東方中腹部から北に向かって「中国自然歩道」としてのハイキングコースが設定されている。この途中から高瀬城の本丸が眺望できる。


高瀬山城の落城については記録が残るが、葛西氏の居城・城平山城もまた「落城」したといわれている。

想像だが、米原氏が高瀬山城に拠った際、南方の城平山城がこのとき同氏らによって落とされた可能性もある。そして、落城したものの、葛西氏は毛利方に属し戦功を挙げたのではないか、そして、その軍功に対し、輝元が感状を与えたということではないだろうか。


伊勢国移住の時期と動機

では、輝元から感状まで拝受しながら、その後同氏はなぜ当地を離れなければならなかったのだろうか。もっとも考えられるものとしては、関ヶ原の戦いがその要因と思われる。毛利方、すなわち西軍に与したであろう葛西氏も、毛利方の敗戦によって領地を没収された可能性は高い。

関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600)9月15日である。天下分け目の大合戦として有名なこの戦いは、わずか一日で雌雄が決した。4日後の9月19日、勝者となった家康は、早くも遠州浜松にあった堀尾吉晴を、出雲・隠岐24万石として移封させた。翌慶長6年8月、吉晴は隠居し長子・忠氏が跡を継いだ。忠氏はこの年から領内の巡視を開始、そして翌7年には本格的な「検地」を行っている。おそらく、このとき葛西氏の領地であった斐川阿宮の領地も検地対象となり、止む無く葛西一族は当地を離れることになったのではないかと思われる。

さて、伊勢国に向かった出雲葛西氏ではあるが、同氏が順調に当地伊勢の北畠氏にコンタクトをとれたのだろうか。

「かつて北畠氏に属していた」という代々受け継がれていった先祖からの言い伝え、若しくはそれを証する文書(巻物か)を持参し、葛西氏は伊勢に向かったのだろう。
【写真左】伊勢田丸城・天守跡付近












南北朝期における北畠氏は、「田丸城」(2012年7月27日投稿)でも紹介したように、親房を筆頭に顕家など南朝方の錚々たる重鎮公卿を輩出した。

しかし、それから230余年の歳月が流れ、伊勢国の姿はすでに昔日の面影はなく、天正8年(1580)1月、京都で伊勢国司北畠氏第9代の具房(ともふさ)が、亡くなり、8代具教の実弟・具親は同12年(1584)、蒲生氏郷の客臣となったがその2年後病没。名門伊勢北畠氏の本流はここに途絶えた。

出雲葛西氏の最後の当主兼正らは、事実上北畠氏が途絶えてからおよそ16年後に伊勢国に入ったわけである。上述したように、出雲葛西氏の伝承では、伊勢に入国し、「北畠氏の家臣」となり、兼正から5代まで数えたという。これでいくと、滅亡したはずの北畠氏に再び仕えたということになる。
【写真左】霧山城遠望
 出雲葛西氏が伊勢国に向かったルートは不明だが、伊勢本街道を使った可能性が高いと思われる。

 霧山城が織田氏に滅ぼされたという情報をこのときすでに知っていたか不明だが、麓の多気の館(旧北畠氏館)は、訪ねたたことと思われる。



おそらくこれは、前稿でも記したように、同氏庶流として生き延びたといわれる木造・田丸・神戸の諸氏に仕えたということだろう。そしてこれら庶流の元にあったものの、再び出雲国に帰るきっかけとなったのは、もちろん先祖の菩提供養をしなければならないという義務感もあったのだろうが、以下に示すように伊勢国における葛西氏の立場が安定しなかったことも考えられる。

江戸期の伊勢国

江戸期に入って伊勢国では、津藩・桑名藩・伊勢亀山藩・伊勢上野潘など、大小15の藩制が敷かれた。新しい藩主のほとんどは他国から入封し、伊勢国の縮図は根底から変わった。北畠庶流もおそらくこれらの中に仕えただろうが、詳細ははっきりしない。

戦国期北畠氏がもっとも関係のあった度会郡の玉城は、田丸藩として伊予河野氏を始祖とする稲葉氏が入り、後に久野家が紀伊和歌山藩御付家老として入った。また隣の松坂潘は初期に古田家が入府するも、のちに同家は石見浜田藩に移封され、最終的に領地はこれもまた紀州藩領となった。

出雲国に再び戻る

 こうして、中世伊勢国に蟠踞した国司北畠氏は、次第に近世という歴史の中に埋没していった。おそらくこうした流れの中で、出雲国から縁を頼ってきた小国人領主葛西氏にとって、もはや依るべき名族は霧散したとの思いがよぎったのであろう。

そして、伊勢国に入国してから5代目の兼延に至り、再び先祖の地出雲・城平山城の麓に戻ってきた。伊勢国にあって5代を数えていることから、おそらくその期間は100~150年を経ていたと思われる。

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