川之江城(かわのえじょう)
●所在地 愛媛県四国中央市川之江町大門字城山
●高さ 標高62m
●別名 仏殿城・河江城・土肥城
●築城期 暦応元年(延元3年:1338)
●築城者 河野通政・土居義昌
●城主 妻鳥采女・光家、河上安勝
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣等
●指定 四国中央市指定史跡
●登城日 2008年3月8日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
川之江城は、愛媛県の東方四国中央市東端部にある城砦である。川之江城は別名仏殿(ぶつでん)城といわれている。
現地の説明板より
“川之江城史
南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の湊で戦死している。
細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻めに入ったが撃退している。
土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。そのとき、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明のとき最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江城が地理的に重要な位置にあったための悲劇ともいえる。
戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没、領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。” 【写真左】川之江城模擬天守・その1
1984年ごろから川之江市制施行30周年記念事業の一環として城山公園整備事業が開始され、本丸跡に天守・涼櫓・櫓門・隅櫓などが設置された。
鉄筋コンクリート製の建物で模擬天守であるが、眺望はまずまずである。
形態としては平山城としているが、築城期とされる南北朝初期は、恐らく現在の東麓部(川之江駅周辺)も遠浅の海であり、当城は海城の形態をもったものだったと思われる。
また、川之江城から南に金生川まで伸びた低丘陵部も、当時川之江城の出城のような役割をしていたものと思われる。
【写真左】模擬天守・その2
土肥義昌
川之江は伊予国東部に当たるが、この地も鎌倉期にあって河野氏の領地とされている。ただ東・南方の讃岐・土佐と接する境目でもあったことから、特に讃岐国を治めていた細川氏からの侵略を防ぐため、暦応元年(延元3年:1338)、河野通政が家臣であった土肥義昌に鷲尾山といわれたこの山に仏殿城(川之江城)を築くよう命じた。
築城して間もない康永元年(1342)7月、脇屋義助(脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)参照)、すなわち新田義貞の弟は、朝廷側(南朝方)の調整役として当地に赴任してきたが、突然死去した。
【写真左】本丸跡北端部から瀬戸内方面を見る。
写真にあるように城下北西部の麓には工場などが建っているが、当時は海(燧灘)だったことから、この周囲に多くの軍船が係留されていたと思われる。
これを知った足利方(北朝方)の細川頼春は、その機に乗じて伊予・讃岐・阿波・淡路から7千余騎を率いて攻撃を開始した。
最初の攻撃目標とされたのが、この仏殿城(川之江城)であった。城主・土肥義昌の軍勢はわずか数百のため、金谷経氏らの水軍の援助があったものの、10日余りの末落城したという。
その後、細川氏が伊予を引き上げたため、再び河野氏の支配になった。以後、当城は河野氏と細川氏によって度々争奪戦を繰り返して戦国期に至る。
【写真左】城山公園観光案内図
斜めから撮ったため見難いが、東から三の丸、二の丸、本丸と続く。
戦国期
戦国期の城主としては、妻鳥采女(うねめ)が記録されている。城主になった経緯は不明であるが、現在同市寒川町に妻鳥という地名が残っていることから、おそらく采女は当地の出身と思われる。
元亀3年(1572)、宇摩の細野城主薦田大和守が攻撃したが、これを防いだ。このころ、城主・妻鳥采女は、西方の新居郡の金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の城主・金子備後守元宅(もといえ)とともに、それまで河野氏に属していたが、長宗我部元親の懐柔策によって河野氏を離れ、長宗我部に与した。
河上安勝の娘であった「年姫」の悲話が、掲げてあり、後段には与謝野晶子の句が添えられている。
“姫ヶ嶽
天正10年(1582)6月10日、川之江城主河上但馬守が三島宮に詣でての帰途、村松字崩の松原において、謀臣秋山嘉兵衛のために誘殺され、城は秋山の内通により轟城主大西備中守の急襲をうけて、落城するに至った。
このとき、但馬守の息女・年姫は横死の父のあとを追って、この断崖より燧灘に身を躍らして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。
春風秋雨三百八十余年、落城の悲話として、今に伝えて、ここを姫が嶽と呼ぶ。
姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果とも
うまして入りぬ 大名の娘は
与謝野晶子”
その3年後の天正13年になると、豊臣秀吉による四国討伐が始まり、小早川隆景によって落城、しばらくは秀吉の部将が入れ替わりながら城主となったが、加藤嘉明の代になって廃城となった。
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●所在地 愛媛県四国中央市川之江町大門字城山
●高さ 標高62m
●別名 仏殿城・河江城・土肥城
●築城期 暦応元年(延元3年:1338)
●築城者 河野通政・土居義昌
●城主 妻鳥采女・光家、河上安勝
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣等
●指定 四国中央市指定史跡
●登城日 2008年3月8日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
川之江城は、愛媛県の東方四国中央市東端部にある城砦である。川之江城は別名仏殿(ぶつでん)城といわれている。
現地の説明板より
“川之江城史
南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の湊で戦死している。
細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻めに入ったが撃退している。
土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。そのとき、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明のとき最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江城が地理的に重要な位置にあったための悲劇ともいえる。
戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没、領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。” 【写真左】川之江城模擬天守・その1
1984年ごろから川之江市制施行30周年記念事業の一環として城山公園整備事業が開始され、本丸跡に天守・涼櫓・櫓門・隅櫓などが設置された。
鉄筋コンクリート製の建物で模擬天守であるが、眺望はまずまずである。
形態としては平山城としているが、築城期とされる南北朝初期は、恐らく現在の東麓部(川之江駅周辺)も遠浅の海であり、当城は海城の形態をもったものだったと思われる。
また、川之江城から南に金生川まで伸びた低丘陵部も、当時川之江城の出城のような役割をしていたものと思われる。
【写真左】模擬天守・その2
土肥義昌
川之江は伊予国東部に当たるが、この地も鎌倉期にあって河野氏の領地とされている。ただ東・南方の讃岐・土佐と接する境目でもあったことから、特に讃岐国を治めていた細川氏からの侵略を防ぐため、暦応元年(延元3年:1338)、河野通政が家臣であった土肥義昌に鷲尾山といわれたこの山に仏殿城(川之江城)を築くよう命じた。
築城して間もない康永元年(1342)7月、脇屋義助(脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)参照)、すなわち新田義貞の弟は、朝廷側(南朝方)の調整役として当地に赴任してきたが、突然死去した。
【写真左】本丸跡北端部から瀬戸内方面を見る。
写真にあるように城下北西部の麓には工場などが建っているが、当時は海(燧灘)だったことから、この周囲に多くの軍船が係留されていたと思われる。
これを知った足利方(北朝方)の細川頼春は、その機に乗じて伊予・讃岐・阿波・淡路から7千余騎を率いて攻撃を開始した。
最初の攻撃目標とされたのが、この仏殿城(川之江城)であった。城主・土肥義昌の軍勢はわずか数百のため、金谷経氏らの水軍の援助があったものの、10日余りの末落城したという。
その後、細川氏が伊予を引き上げたため、再び河野氏の支配になった。以後、当城は河野氏と細川氏によって度々争奪戦を繰り返して戦国期に至る。
斜めから撮ったため見難いが、東から三の丸、二の丸、本丸と続く。
戦国期
戦国期の城主としては、妻鳥采女(うねめ)が記録されている。城主になった経緯は不明であるが、現在同市寒川町に妻鳥という地名が残っていることから、おそらく采女は当地の出身と思われる。
元亀3年(1572)、宇摩の細野城主薦田大和守が攻撃したが、これを防いだ。このころ、城主・妻鳥采女は、西方の新居郡の金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の城主・金子備後守元宅(もといえ)とともに、それまで河野氏に属していたが、長宗我部元親の懐柔策によって河野氏を離れ、長宗我部に与した。
その後、阿波国の三好長治による攻撃を受け、天正2年(1574)には、当時の城主妻鳥光家が、河野通直の命によった河上安勝に攻められたが、容易に落城しなかった。このため新居・宇摩郡からの加勢を得て落城させた。そして、当城は河上安勝が城主となった。
しかし、四国の情勢は土佐の長宗我部元親による勢いが日増しに高まり、天正10年(1582)当城は大軍を率いた長宗我部氏の前に防戦むなしく落城、河上安勝は当城に火を放ち、自害した。
なお、河上安勝の死については、下記に示すように謀殺された説も残されてる。
【写真左】「姫ヶ嶽」の説明版河上安勝の娘であった「年姫」の悲話が、掲げてあり、後段には与謝野晶子の句が添えられている。
“姫ヶ嶽
天正10年(1582)6月10日、川之江城主河上但馬守が三島宮に詣でての帰途、村松字崩の松原において、謀臣秋山嘉兵衛のために誘殺され、城は秋山の内通により轟城主大西備中守の急襲をうけて、落城するに至った。
このとき、但馬守の息女・年姫は横死の父のあとを追って、この断崖より燧灘に身を躍らして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。
春風秋雨三百八十余年、落城の悲話として、今に伝えて、ここを姫が嶽と呼ぶ。
姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果とも
うまして入りぬ 大名の娘は
与謝野晶子”
その3年後の天正13年になると、豊臣秀吉による四国討伐が始まり、小早川隆景によって落城、しばらくは秀吉の部将が入れ替わりながら城主となったが、加藤嘉明の代になって廃城となった。
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