菊間城(きくまじょう)
●所在地 愛媛県今治市菊間町浜
●備考 菊間八幡神社
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 神野左馬助
●形態 海城
●遺構 腰郭(殆ど消滅)
●高さ 39m
●登城日 2011年9月14日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
旧越智郡菊間町の菊間川河口から約300m北東部にある八幡山に築かれた海城である。
城主は来島城主であった村上通康の家臣・神野左馬助といわれている。
【写真左】登城口付近
現地には「菊間城」関係の表示は一切ないが、登城口(八幡神社入口)には、写真にあるように「八幡大神」の石碑が立つ。
主郭跡に建つ八幡神社は、宝徳2年(1450)に高仙山城(菊間町種にあったH:250mの山城)の時の城主・得居通敦が宇佐八幡宮から勧請したといわれている。
現在は菊間の市街地と陸続きになっているが、当時は海に浮かぶ孤島だったと思われる。
【写真左】登り階段
標高が40m弱とはいうものの、以外とこの階段はきつかった。
途中で踊り場のような箇所があったが、その箇所は帯郭状の遺構があったかもしれない。
【写真左】頂上部境内
階段を登りきって、振り返って撮ったもので、境内は想像以上に広い。
【写真左】八幡神社本殿
本殿のある個所は境内からさらに奥に進んだところにあり、すこし高い位置に祀られている。
前記したように、宝徳年間に当社が勧請されていることから、戦国期に当城主郭付近に既にこの建物があったということになる。
【写真左】境内東下の郭
帰りのコースは東側に設置された道路を使用したが、その始点に写真にみえる壇が確認できた。
幅5m、長さ20m程度か。恐らく腰郭の一部だろう。
【写真左】境内東端部から斎灘(瀬戸内)を見る。
この位置から下にかけては切崖状が認められる。
【写真左】菊間城から東に伸びる尾根
この尾根部分や、手前の平坦地付近には屋敷跡などがあったかもしれない。
そして上述したように、当時はこの八幡山は孤島であり、この写真麓に軍船などが停泊していたものと思われる。
●所在地 愛媛県今治市菊間町浜
●備考 菊間八幡神社
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 神野左馬助
●形態 海城
●遺構 腰郭(殆ど消滅)
●高さ 39m
●登城日 2011年9月14日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
旧越智郡菊間町の菊間川河口から約300m北東部にある八幡山に築かれた海城である。
城主は来島城主であった村上通康の家臣・神野左馬助といわれている。
【写真左】登城口付近
現地には「菊間城」関係の表示は一切ないが、登城口(八幡神社入口)には、写真にあるように「八幡大神」の石碑が立つ。
主郭跡に建つ八幡神社は、宝徳2年(1450)に高仙山城(菊間町種にあったH:250mの山城)の時の城主・得居通敦が宇佐八幡宮から勧請したといわれている。
現在は菊間の市街地と陸続きになっているが、当時は海に浮かぶ孤島だったと思われる。
【写真左】登り階段
標高が40m弱とはいうものの、以外とこの階段はきつかった。
途中で踊り場のような箇所があったが、その箇所は帯郭状の遺構があったかもしれない。
【写真左】頂上部境内
階段を登りきって、振り返って撮ったもので、境内は想像以上に広い。
【写真左】八幡神社本殿
本殿のある個所は境内からさらに奥に進んだところにあり、すこし高い位置に祀られている。
前記したように、宝徳年間に当社が勧請されていることから、戦国期に当城主郭付近に既にこの建物があったということになる。
【写真左】境内東下の郭
帰りのコースは東側に設置された道路を使用したが、その始点に写真にみえる壇が確認できた。
幅5m、長さ20m程度か。恐らく腰郭の一部だろう。
【写真左】境内東端部から斎灘(瀬戸内)を見る。
この位置から下にかけては切崖状が認められる。
【写真左】菊間城から東に伸びる尾根
この尾根部分や、手前の平坦地付近には屋敷跡などがあったかもしれない。
そして上述したように、当時はこの八幡山は孤島であり、この写真麓に軍船などが停泊していたものと思われる。
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