2011年6月16日木曜日

小菅城(岡山県井原市西江原)

小菅城(こすがじょう)

●所在地 岡山県井原市西江原
●築城期 鎌倉初期(1192~1251)
●築城者 那須朝資(荏原三郎)
●形態 連郭式山城
●遺構 本丸・井戸
●高さ 標高230m
●登城日 2009年6月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 源平合戦の屋島の戦いで、扇の的を射止めその名を知らしめた那須与一の一族が築城した山城である。

 所在地は、井原市の東方を流れる小田川支流の雄神川上流にあって、さほど険峻な山城ではなく、むしろ館跡といったような位置にある。
【写真左】進入口付近
 登城口は南西側から向かうコースに設定されている。
 






現地の説明板より

小菅城址 案内

 小菅城は、今から約790年ほど前に築かれた城で、西江原町才児を北から南に流れる雄神川の西方にそびえる小菅山頂(海抜約140m)にあった。しかし、今は礎石などなく、東西約60m、南北約40mの城域に老松など生茂っている。

 那須与一宗隆は、源平屋島の合戦(今から約800年前)に、扇の的を射止め、空前の恩賞によって丹波国五賀庄(兵庫県)、信濃角豆庄(長野県)、若狭国東庄(福井県)、武蔵国太田庄(埼玉県)、備中国桧原・荏原庄(岡山県)の地頭職を拝命した。
【写真左】「小菅城址」と刻銘された石碑
 当城の規模は、東西に延びる尾根を利用した連郭式山城で、総延長190m、12の郭を持つ、とされているが、現地は城域全体の管理はされておらず、僅かに本丸側がある西方の区分が整備されている。



 この城を築いたのは、宗隆の弟・那須小太郎宗晴であるが、間もなく彼は下野国(栃木県)に帰り、代わってその三男朝資が城主になり、それ以後子孫代々城主になった。

 南北朝の末期嘉慶元年(1387)、那須頼資は、嗣子織部正弘能登国(石川県)から、高僧実峰禅師を招請して、開山一世として才児に禅洞山永祥寺を建立した。

 弘高の長子資泰は、小菅城主となったが、次子光隆中堀城(西江原町今市)を築いたので、ここに移り住み、那須氏の居城としたので、小菅城は廃城となった。

 時を経て永享12年(1441)に那須長隆は、新たに土蔵城(西江原戸倉)を築いて、ここに移り住んだ。長隆より5代の孫清資は、毛利氏に属し、天正12年(1584)備中高松に出陣し、羽柴秀吉の大軍を迎え撃ち、慶長5年(1600)には、関ヶ原合戦に徳川家康勢と戦ったが、どちらも敗れ関ヶ原合戦後、毛利氏が領地を削られ、那須氏は土蔵城を閉
城して野に下った。

平成14年8月  西江原史跡顕彰会”
【写真左】本丸側へ登る階段
 本丸及び二の丸直下の郭段のところのみが、幅が狭く5m程度だが、全体に約20~30m程度の幅をもち、東西に長い城域構成となっている。

 この写真も樹木を伐採すれば、切崖など山城の特徴が確認できるかもしれないが、全体にこうした個所が多い。

 那須氏

 那須氏については、これまで前稿「国吉城」、及び「名和長年(5)船上山周辺の動き」(2009年1月12日投稿)でも少し紹介しているが、南北朝期、後醍醐天皇が伯耆船上山に拠って近国の武士を集めた際、備中国から馳せ参じた一族の一人として同氏が記録されている。

 説明板にもあるように、那須与一はその恩賞にあずかり、全国に5カ所の所領を賜ったが、与一自身が当地(荏原庄)に補任・入部したわけではない(もっとも、近くに与一の墓が祀られてはいるが…)。
【写真左】二の丸跡
 20m×30m程度の規模で、西隣の本丸とは1~2m程度の段差しかない。







 事実上の築城者とされている朝資、すなわち与一の甥は、その後、姓を那須から、当地の名をとって、「荏原三郎」と改称し、土着していくことになる。

 朝資の後、頼隆・資道と続き、その子弘隆(当初資英)に至り、弘隆の長男は、肥前三郎資泰と名乗り、頂見山頂見寺を建長3年(1251)再建している。

中堀城

 二男・光隆は、小田川北岸に中堀城(八ツ面城)(西江原小学校近く)という平城を築いた。ちなみに中堀城は、『城格放浪記』さんが探訪紹介しているが、現在は田圃や住宅となっており、遺構はほとんど残っていないようだ。
【写真左】祠
 二の丸付近に建立されているもので、那須氏を祀ったものだろう。







 この中堀城の城主は、光隆から重隆・資明と続き、政隆(政高)となり、建武3年(1336)、足利尊氏が九州へ奔るさい、大雨のためこの中堀城で一週間も滞在したといわれている。

 その後、政隆自身も尊氏と同行して九州まで随行し、再び尊氏が数万の軍を率いて上洛した際、兄尊氏は海路を、弟直義は陸路を行軍したが、このとき直義は、中堀城に駐屯し、石見・出雲の諸将をここで待ったという。

 ところで、当城にて多数国の将兵を陣所として集め、陣幕を張ったことから、この地を「千幕」と命名した。

 同年(建武3年)5月5日すぎ、尊氏の率いる海軍は、児島の吹上に陣を張り、弟直義の陸軍は、中堀城から、東進し矢掛町横谷(猿掛城の西麓)に進んだ。
【写真左】二の丸から本丸へ向かう
 二の丸と本丸跡については除草がされていて、歩きやすい。






 そして、同日直義軍はさらに小田川を渡り、妹山(勢山:せやま)を越え、官軍の立てこもる福山城の山麓全周囲に数百の陣所を取り巻いた。そして、ここに備中国における最大の天下分け目の戦いが、同月16日から始まった。

 戦いは3日間に及び、尊氏・直義の圧倒的勝利に終わった。首実検は1,353を数えたというから、激しい合戦であった。

 いずれ、「備中・福山城」については、別稿で取り上げる予定だが、現在の井原市・矢掛町・総社市地域に残る中世山城は、南北朝期の重要なものとして多数点在している。
【写真左】本丸跡・その1
 規模は30m四方の大きさで、平坦な状態である。

 なお、二の丸・本丸の全周囲には険しい切崖は認められず、むしろ東方側にそれらが認められる。
【写真左】本丸跡・その2











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