高麻城跡(たかさじょうあと)
●所在地 島根県雲南市加茂町大西・大東町仁和寺
●登城日 2008年10月28日
●標高 196m
●比高 130m
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 鞍掛近江守次郎四郎源久光
●別名 大西城・高佐城
●遺構 郭、腰郭、帯郭、堀切、虎口、井戸等
◆解説(参考文献「加茂町誌」「尼子盛衰人物記」「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系14巻」等)
前稿「佐世城」で取り上げたように、高麻城は佐世城のある下佐世地区より北方へ向い、斐伊川の支流・赤川を越えた加茂町と大東町にまたがる高麻山に築かれた山城である。
また、この高麻城の北方には昨年11月に取り上げた丸倉山城跡(島根県松江市宍道町・雲南市大東町)がある。
高麻城は、戦国期尼子氏の居城・月山富田城を支える「尼子十旗」の一つで、10番目の支城として位置づけられた。
【写真左】高麻城の位置図
現地の登城口に設置されている。登城道は現在のところ、南側から向かうコースのみとなっているが、南西部に長く伸びた砦群とも繋がっているので、当時はこの経路もあったと思われる。
築城されたのは天文年間となっているが、もともとこの地域は大西荘として地頭職である飯沼氏が治めていたところである。
加茂町誌によると、隣の大東一部地頭を治めていた飯沼四郎の子が、この大西荘を領し、当地名を名乗って大西を姓としたものであろう、としている。
では、冒頭に示した築城者・鞍掛氏とはどういう関係なのか、という疑問が出てくる。加茂町誌によると、鞍掛氏の名が見えるのは、天文3年(1534)加茂神社に「高佐城主・鞍掛近江守源久光再建」とある寄進(状)と、「備前国住横山左近将監友成」在銘の刀一刀が奉納されている。
また永禄9年(1566)11月28日、富田下城届出衆に、「鞍掛三郎右衛門尉、伯州にて馬より落死」とある。
【写真左】高麻城縄張図
(出典:島根県教育委員会『出雲・隠岐の城館跡』1998年より)
高麻山は独立系の山で、主郭を中心に5本の尾根が伸び、幾何学的にはバランスのとれた城域を構成している。
ただ、全体に比高が低いことや、小ぶりな郭や主郭であるため、長期の籠城戦には適していなかったと思われる。
なお、水の手は以前紹介した北方の丸倉山から導いていたといわれているが、遺構ははっきりしない。
「鞍掛」の名は現在の仁多郡大字三沢(現奥出雲町)の通称で、上・下鞍掛として残り、明治初年まで鞍掛村があった。そのことから、鞍掛氏は元々三沢城の一族で、高麻城を領し、後に「転封された」と記している。
このことから、高麻城の城主は鞍掛氏から大西氏へと変わったということなのだろう。また、妹尾豊三郎編書「尼子盛衰人物記」では、「結局この山に拠った城主は、はじめ鞍掛氏を名乗り、それが後に大西氏と変わったものだと考えられる」と記している。
【写真左】高麻城登城口
管理人の自宅から近い場所にあるにもかかわらず、この位置を突き止めるまで大分時間がかかった。
たまたま、このころ「城格放浪記」さんが登城され、紹介していただいたので、やっとわかった次第。改めてお礼申し上げます。
ただ、同記で紹介している「出雲私史」では、
“元亀元年(1570)4月17日、三笠城主牛尾弾正忠は、妻子と共に火に投じて死に、18日元春(吉川)は、軍を神門郡十倉山(戸倉山)に移し、高瀬城を攻めようと六千騎を率いてこれに赴かんとした。
その時、大西城主・大西十兵衛と、高麻城主・鞍掛治部兵衛は、敵の威風を望み(ママ)城を捨てて高瀬城に入った…”
と記され、このことから「大西城」と「高麻城」が同一のものでなく、別々の城であったことを示している。しかし、高麻城以外に近辺にそれらしき城郭は見当たらないことや、「出雲私史」そのものが江戸期に入ってから著されたものであることを考えると、なんとも判断しかねる。
【写真左】登城途中に見えた赤川南麓の大東町近松付近
この写真の方向には、山中鹿助の伯父といわれている立原氏の近松城などがある。
なお、鞍掛氏が大西氏へと姓を変えたような記述が「尼子盛衰人物記」に見られるが、管理人としては、両氏ともそのまま変わることなく、世襲していると考えたい。
特に鞍掛氏については、現在当地加茂町から北西に隣接する斐川町に、福間家があり、同氏は鞍掛氏の末孫といわれている。
【写真左】本丸下の郭
遺構の数は多いものの、ほとんどが小規模なもので、この郭も数メートルの長径のもの。
「高麻の城主・鞍掛次郎四郎源久勝なる者、落城の際、当地に流浪したる…」と伝え、さらに隣接の宍道町(松江市)の多根家では、その祖・多根惣右衛門は、鞍掛近江守の家老で、惣右衛門は佐々布(さそ)川の川尻湖水の辺りに住み、その地を加茂分けといい、守護神として加茂大明神を屋敷の南に祀ったといわれている。
【写真左】本丸跡
中央部に地蔵が祭ってある。本丸の大きさは長径20m、短径10m程度のものだったと思われる。眺望は残念ながらほとんどなく、南方がかろうじて見える程度だったと記憶している。
ところで当城が落城した時期については、はっきりとした記録はないものの、上掲の出雲私史が述べているように、元亀元年4月17日には城兵は自ら堕ちて行ったものと思われる。
【写真左】高麻城遠望
南側の赤川を越え近松付近からみたもの。
●所在地 島根県雲南市加茂町大西・大東町仁和寺
●登城日 2008年10月28日
●標高 196m
●比高 130m
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 鞍掛近江守次郎四郎源久光
●別名 大西城・高佐城
●遺構 郭、腰郭、帯郭、堀切、虎口、井戸等
◆解説(参考文献「加茂町誌」「尼子盛衰人物記」「島根県遺跡データベース」「日本城郭大系14巻」等)
前稿「佐世城」で取り上げたように、高麻城は佐世城のある下佐世地区より北方へ向い、斐伊川の支流・赤川を越えた加茂町と大東町にまたがる高麻山に築かれた山城である。
また、この高麻城の北方には昨年11月に取り上げた丸倉山城跡(島根県松江市宍道町・雲南市大東町)がある。
高麻城は、戦国期尼子氏の居城・月山富田城を支える「尼子十旗」の一つで、10番目の支城として位置づけられた。
【写真左】高麻城の位置図
現地の登城口に設置されている。登城道は現在のところ、南側から向かうコースのみとなっているが、南西部に長く伸びた砦群とも繋がっているので、当時はこの経路もあったと思われる。
築城されたのは天文年間となっているが、もともとこの地域は大西荘として地頭職である飯沼氏が治めていたところである。
加茂町誌によると、隣の大東一部地頭を治めていた飯沼四郎の子が、この大西荘を領し、当地名を名乗って大西を姓としたものであろう、としている。
では、冒頭に示した築城者・鞍掛氏とはどういう関係なのか、という疑問が出てくる。加茂町誌によると、鞍掛氏の名が見えるのは、天文3年(1534)加茂神社に「高佐城主・鞍掛近江守源久光再建」とある寄進(状)と、「備前国住横山左近将監友成」在銘の刀一刀が奉納されている。
また永禄9年(1566)11月28日、富田下城届出衆に、「鞍掛三郎右衛門尉、伯州にて馬より落死」とある。
【写真左】高麻城縄張図
(出典:島根県教育委員会『出雲・隠岐の城館跡』1998年より)
高麻山は独立系の山で、主郭を中心に5本の尾根が伸び、幾何学的にはバランスのとれた城域を構成している。
ただ、全体に比高が低いことや、小ぶりな郭や主郭であるため、長期の籠城戦には適していなかったと思われる。
なお、水の手は以前紹介した北方の丸倉山から導いていたといわれているが、遺構ははっきりしない。
「鞍掛」の名は現在の仁多郡大字三沢(現奥出雲町)の通称で、上・下鞍掛として残り、明治初年まで鞍掛村があった。そのことから、鞍掛氏は元々三沢城の一族で、高麻城を領し、後に「転封された」と記している。
このことから、高麻城の城主は鞍掛氏から大西氏へと変わったということなのだろう。また、妹尾豊三郎編書「尼子盛衰人物記」では、「結局この山に拠った城主は、はじめ鞍掛氏を名乗り、それが後に大西氏と変わったものだと考えられる」と記している。
【写真左】高麻城登城口
管理人の自宅から近い場所にあるにもかかわらず、この位置を突き止めるまで大分時間がかかった。
たまたま、このころ「城格放浪記」さんが登城され、紹介していただいたので、やっとわかった次第。改めてお礼申し上げます。
ただ、同記で紹介している「出雲私史」では、
“元亀元年(1570)4月17日、三笠城主牛尾弾正忠は、妻子と共に火に投じて死に、18日元春(吉川)は、軍を神門郡十倉山(戸倉山)に移し、高瀬城を攻めようと六千騎を率いてこれに赴かんとした。
その時、大西城主・大西十兵衛と、高麻城主・鞍掛治部兵衛は、敵の威風を望み(ママ)城を捨てて高瀬城に入った…”
と記され、このことから「大西城」と「高麻城」が同一のものでなく、別々の城であったことを示している。しかし、高麻城以外に近辺にそれらしき城郭は見当たらないことや、「出雲私史」そのものが江戸期に入ってから著されたものであることを考えると、なんとも判断しかねる。
【写真左】登城途中に見えた赤川南麓の大東町近松付近
この写真の方向には、山中鹿助の伯父といわれている立原氏の近松城などがある。
なお、鞍掛氏が大西氏へと姓を変えたような記述が「尼子盛衰人物記」に見られるが、管理人としては、両氏ともそのまま変わることなく、世襲していると考えたい。
特に鞍掛氏については、現在当地加茂町から北西に隣接する斐川町に、福間家があり、同氏は鞍掛氏の末孫といわれている。
【写真左】本丸下の郭
遺構の数は多いものの、ほとんどが小規模なもので、この郭も数メートルの長径のもの。
「高麻の城主・鞍掛次郎四郎源久勝なる者、落城の際、当地に流浪したる…」と伝え、さらに隣接の宍道町(松江市)の多根家では、その祖・多根惣右衛門は、鞍掛近江守の家老で、惣右衛門は佐々布(さそ)川の川尻湖水の辺りに住み、その地を加茂分けといい、守護神として加茂大明神を屋敷の南に祀ったといわれている。
【写真左】本丸跡
中央部に地蔵が祭ってある。本丸の大きさは長径20m、短径10m程度のものだったと思われる。眺望は残念ながらほとんどなく、南方がかろうじて見える程度だったと記憶している。
ところで当城が落城した時期については、はっきりとした記録はないものの、上掲の出雲私史が述べているように、元亀元年4月17日には城兵は自ら堕ちて行ったものと思われる。
【写真左】高麻城遠望
南側の赤川を越え近松付近からみたもの。
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